続いて「一大率」と「博多湾」防衛についてです。
「倭人伝」の記述によれば「郡使」あるいは「勅使」は「いつも」「一大国(壱岐)」から「末廬国」へ行くコースを使っていたと理解されます。
「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
…自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」
これによれば「一大国」から「末廬国」へというコースは「郡使」の往来などに常用されていたものではないかと考えられることとなるでしょう。つまりこのような往来には「博多湾」は使用されていなかったと推定されることとなります。
たとえば「郡使」などが「一大国」まで来ると、「末廬国」へと意識的に「誘導」されたものと見られ、そのことは「一大国」に「一大率」から派遣された担当官がおり、彼によって「末廬国」へと誘導されたものと見られることとなるでしょう。つまり「一大率」の支配下に「一大国」があったことを示すものと思われるわけです。
また入港するに当たって「博多湾」を避け「末廬国」へと誘導した理由としても、「古田氏」が言うようにそこ(博多湾)が「重要地点」に至近であったからと思われ、この「湾」からほど遠くない場所に王都である「邪馬壹国」があったらしいことが推定されるでしょう。(このことは「邪馬壹国」が「近畿」にあったという解釈に対する反証ともいえるものです。もし「近畿」にあったのならば「魏使」が「博多湾」へ直接入港したとしてもそれほど支障があったはずがないからです。)
この「卑弥呼」の時代である「三世紀」には「博多湾」はもっと現在より海岸線が内陸側にあったと見られ、その分余計に「邪馬壹国」に接近していたと言えるでしょう。
これは逆に言うと「敵」が海から侵入してくるとすると、当然「博多湾」に向かうこととなることを意味します。当然これに対する防衛システムも博多湾を中心に展開しているはずということとなるでしょう。つまり「一大率」は北方の防衛の拠点とされているわけですから、この「一大率」は「博多湾」に面してその拠点を持っていたと考えるのが相当です。
ところで、「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」という文章からは「一大率」が「津」において「不得差錯」というように、いわば「税関」のような業務を行っていたと理解されますので、最初の上陸地である「末廬国」に「一大率」が出張っていたのではないかと考えられることとなります。
そこで注意されるのは「末廬国」だけが「官」について言及されていないことであり、その理由として他の諸国のように「邪馬壹国」から官僚が派遣されていたわけではないことが窺え、この国が「一大率」の支配下にあり、「外交」の担当官として(後の「鴻臚寺」のような役職か)「一大率」により「直轄」が行われていたのではないかと考えられ、彼の配下の人員が任命され、赴任していたという可能性が考えられるでしょう。
つまり「一大率」は「博多湾」の防衛と共に「末廬国」の「津」(これは場所不明)で外交使節の受け入れと送り出しを行っていたものであり、「博多湾」はそのような用途としては使用していなかったこととなります。
「博多湾」には「首都」あるいは「首都圏」防衛のために水軍の基地があったものではないかと思われ「軍艦」が常時停泊していたものと思われます。「博多湾」の防衛を考えると、そこに水軍の基地と「一大率」の拠点としての「城」がなければならないのは当然と思われます。そのような場所に直接入港することを避けるのは当然であると思われますが、そう考えると、博多湾に面した場所に「伊都国」の領域があったということとなります。
後の「鴻臚館」のあった場所(これは後に「博多警固所」となり、また「福岡城」となります。)には「大津城」という「城」があったことが推定されており、また「主船司」も至近にあったらしいことが推察されています。
これは当時の「新羅」などの侵入に対する「博多」防衛のためのシステムですが、その趣旨は「一大率」という存在と酷似するものではないでしょうか。このことから「伊都国」に「治する」とされている「一大率」もこの「鴻臚館跡」付近にその拠点を持っていたという可能性が考えられ、この場所が元々「伊都国」の領域の中にあったのではないかと考えられることを示すものです。(この場所が地形的にも「博多湾」に突き出るような形になっているのも「博多湾」の防衛拠点としては理想的であり、この地の利点を生かさなかったはずがないとも言えます)
また「伊都国」には郡使などの往来に際して「郡使往來常所駐」、つまり常に駐まるところとありますから、「伊都国」には「外国使者」の宿泊施設や「迎賓館」のようなものもあったと思われます。これはまさに後の「鴻臚館」につながるものであり、その「鴻臚館」が「軍事拠点」としての「大津城」などと同じ場所にあったことが推定されているわけですから、「卑弥呼」の時代においても「一大率」の拠点と至近の場所にあったと考えるのは不自然ではないこととなるでしょう。
そして、そこが「伊都国」とされていることは基本的に「博多湾岸」そのものが本来「伊都国」の支配下にあったことを意味すると思われます。つまり「伊都国」はかなり東西に長い形状(領域)を持っていたのではないでしょうか。
この「鴻臚館跡」の場所は現在の常識では「奴国」の領域とされていますが、「奴国」の領域はもっと内陸側にその中心があったと思われ、「須久・岡本遺跡」のある場所付近がいわゆる「奴国」ではなかったでしょうか。
「博多湾岸」が「奴国」の領域となったのは、「伊都国」の権力が衰微し、その後「奴国」側がその領域を自家のものとしたという経緯があったことが推察されます。
何か明証があるわけではありませんが、「伊都国」の権力が衰えたのは「卑弥呼」の死後のことではないかと思われ、代わりに立ったという男王が「伊都国」関連の人物であった可能性があり、それが受け入れられなかったと云うことから「伊都国」の権威の失墜と云うことにつながったのではないかと考えられます。それ以降「一大率」の拠する場所は「奴国」の支配下に入ったと云うことではないでしょうか。
以上「正木氏」の論考とは比べるべくもありませんが、私なりの論を記してみました。ホームページも追って改訂します。
「倭人伝」の記述によれば「郡使」あるいは「勅使」は「いつも」「一大国(壱岐)」から「末廬国」へ行くコースを使っていたと理解されます。
「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
…自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」
これによれば「一大国」から「末廬国」へというコースは「郡使」の往来などに常用されていたものではないかと考えられることとなるでしょう。つまりこのような往来には「博多湾」は使用されていなかったと推定されることとなります。
たとえば「郡使」などが「一大国」まで来ると、「末廬国」へと意識的に「誘導」されたものと見られ、そのことは「一大国」に「一大率」から派遣された担当官がおり、彼によって「末廬国」へと誘導されたものと見られることとなるでしょう。つまり「一大率」の支配下に「一大国」があったことを示すものと思われるわけです。
また入港するに当たって「博多湾」を避け「末廬国」へと誘導した理由としても、「古田氏」が言うようにそこ(博多湾)が「重要地点」に至近であったからと思われ、この「湾」からほど遠くない場所に王都である「邪馬壹国」があったらしいことが推定されるでしょう。(このことは「邪馬壹国」が「近畿」にあったという解釈に対する反証ともいえるものです。もし「近畿」にあったのならば「魏使」が「博多湾」へ直接入港したとしてもそれほど支障があったはずがないからです。)
この「卑弥呼」の時代である「三世紀」には「博多湾」はもっと現在より海岸線が内陸側にあったと見られ、その分余計に「邪馬壹国」に接近していたと言えるでしょう。
これは逆に言うと「敵」が海から侵入してくるとすると、当然「博多湾」に向かうこととなることを意味します。当然これに対する防衛システムも博多湾を中心に展開しているはずということとなるでしょう。つまり「一大率」は北方の防衛の拠点とされているわけですから、この「一大率」は「博多湾」に面してその拠点を持っていたと考えるのが相当です。
ところで、「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」という文章からは「一大率」が「津」において「不得差錯」というように、いわば「税関」のような業務を行っていたと理解されますので、最初の上陸地である「末廬国」に「一大率」が出張っていたのではないかと考えられることとなります。
そこで注意されるのは「末廬国」だけが「官」について言及されていないことであり、その理由として他の諸国のように「邪馬壹国」から官僚が派遣されていたわけではないことが窺え、この国が「一大率」の支配下にあり、「外交」の担当官として(後の「鴻臚寺」のような役職か)「一大率」により「直轄」が行われていたのではないかと考えられ、彼の配下の人員が任命され、赴任していたという可能性が考えられるでしょう。
つまり「一大率」は「博多湾」の防衛と共に「末廬国」の「津」(これは場所不明)で外交使節の受け入れと送り出しを行っていたものであり、「博多湾」はそのような用途としては使用していなかったこととなります。
「博多湾」には「首都」あるいは「首都圏」防衛のために水軍の基地があったものではないかと思われ「軍艦」が常時停泊していたものと思われます。「博多湾」の防衛を考えると、そこに水軍の基地と「一大率」の拠点としての「城」がなければならないのは当然と思われます。そのような場所に直接入港することを避けるのは当然であると思われますが、そう考えると、博多湾に面した場所に「伊都国」の領域があったということとなります。
後の「鴻臚館」のあった場所(これは後に「博多警固所」となり、また「福岡城」となります。)には「大津城」という「城」があったことが推定されており、また「主船司」も至近にあったらしいことが推察されています。
これは当時の「新羅」などの侵入に対する「博多」防衛のためのシステムですが、その趣旨は「一大率」という存在と酷似するものではないでしょうか。このことから「伊都国」に「治する」とされている「一大率」もこの「鴻臚館跡」付近にその拠点を持っていたという可能性が考えられ、この場所が元々「伊都国」の領域の中にあったのではないかと考えられることを示すものです。(この場所が地形的にも「博多湾」に突き出るような形になっているのも「博多湾」の防衛拠点としては理想的であり、この地の利点を生かさなかったはずがないとも言えます)
また「伊都国」には郡使などの往来に際して「郡使往來常所駐」、つまり常に駐まるところとありますから、「伊都国」には「外国使者」の宿泊施設や「迎賓館」のようなものもあったと思われます。これはまさに後の「鴻臚館」につながるものであり、その「鴻臚館」が「軍事拠点」としての「大津城」などと同じ場所にあったことが推定されているわけですから、「卑弥呼」の時代においても「一大率」の拠点と至近の場所にあったと考えるのは不自然ではないこととなるでしょう。
そして、そこが「伊都国」とされていることは基本的に「博多湾岸」そのものが本来「伊都国」の支配下にあったことを意味すると思われます。つまり「伊都国」はかなり東西に長い形状(領域)を持っていたのではないでしょうか。
この「鴻臚館跡」の場所は現在の常識では「奴国」の領域とされていますが、「奴国」の領域はもっと内陸側にその中心があったと思われ、「須久・岡本遺跡」のある場所付近がいわゆる「奴国」ではなかったでしょうか。
「博多湾岸」が「奴国」の領域となったのは、「伊都国」の権力が衰微し、その後「奴国」側がその領域を自家のものとしたという経緯があったことが推察されます。
何か明証があるわけではありませんが、「伊都国」の権力が衰えたのは「卑弥呼」の死後のことではないかと思われ、代わりに立ったという男王が「伊都国」関連の人物であった可能性があり、それが受け入れられなかったと云うことから「伊都国」の権威の失墜と云うことにつながったのではないかと考えられます。それ以降「一大率」の拠する場所は「奴国」の支配下に入ったと云うことではないでしょうか。
以上「正木氏」の論考とは比べるべくもありませんが、私なりの論を記してみました。ホームページも追って改訂します。