「大業三年記事」についてその真の年次から移動されている可能性を考えたわけですが、その疑いはそのまま「開皇二十年記事」にもつながるものと思われます。
この「開皇二十年」記事を正視すると、ここでは「隋皇帝」が「所司」に「倭国王」の「治世方針」を問わせると同時に「国内統治の実際」や「倭国」の「風俗」についても問わせるなど、一般民衆がどのような生活をしているのかを聴き取らせています。これらのことは「国交」が始められた時点における情報収集の一環であったと思われ、それは「国書」などを相手国に送る際の下準備とでも言うべきものではなかったでしょうか。
このような事項を聴取した上で書かれたものが、「推古紀」に書かれた「唐帝」からのものという「国書」として現れているのではないかと思われます。そこでは「使人大禮蘓因高等至『具懷』」とあり、「倭国」と「倭国王」に関する詳細な情報を入手した意味の言葉があります。この情報こそが「開皇二十年」記事として「隋書」に書かれているものではないかと考えられるわけですが、そう考えると「推古紀」記事と対応しているのは実は「開皇二十年記事」の方ではないかと考えられることとなります。
この「開皇二十年記事」の中身の大半は「所司」に問われた「遣隋使」が口頭で倭国の風物について答えたものであり、それを中心として「所司」が改めてまとめたものを史料として残したと言うことであったろうと推察されます。 すでに「推古紀」記事が「隋初」のものという可能性を考察したわけですが、その内容と合致する「開皇二十年」記事も基本的には「隋初」のものが移動されてここに置かれていると考えなくてならないということになると思われます。つまり「鴻臚寺掌客裴世清」は(この「開皇二十年記事」の元となった原資料において)「国交開始」のための「倭国」からの「遣隋使」派遣という事態を承けて、「返答使」として「倭国」に遣わされたという可能性があることとなるでしょう。その際に「国書」を持参したというわけです。
似たような例としては「唐」の「太宗」の時に「天竺國」からの使者が来たのに応え、「表報使」が遣わされたことが書かれています。
(舊唐書/列傳第一百四十八/西戎/天竺國)
「…貞觀十五年,尸羅逸多自稱摩伽陀王,遣使朝貢,太宗降璽書慰問,尸羅逸多大驚,問諸國人曰 自古曾有摩訶震旦使人至吾國乎。皆曰 未之有也。乃膜拜而受詔書,因遣使朝貢。太宗以其地遠,禮之甚厚,復遣衞尉丞李義表報使。尸羅逸多遣大臣郊迎,傾城邑以縱觀,焚香夾道,逸多率其臣下東面拜受敕書,復遣使獻火珠及鬱金香、菩提樹。…」
つまり「表」(国書)を携えてきた「天竺」からの使者の「朝貢」に応え、その「返答使」としてやはり「表」を持参した「使者」を派遣したとされているのです。
この例からは「倭国」からの「遣隋使」に対しても同様に「表報使」が派遣されたのではないかと思われ、それが「鴻臚寺掌客」としての「裴世清」であったのではないかと考えられるわけです。
(この「天竺」へ使者が派遣されるに際して「摩訶陀王」(尸羅逸多)は、「道」に「香」を焚くなどして清めたとされます。また「大臣」を派遣して「郊迎」しています。これらの行為は「裴世清」を受け入れる際の「倭国」側が行った行動とよく似ているといえるでしょう。そこでも「小徳」という高位の官人を派遣し「郊迎」していますし、「今故清道飾館以待大使」つまり館を飾り、道を清めるなどしていたと書かれているなど、「天竺国」と同様の行為がなされており、夷蛮の国が「隋」や「唐」の使者を受け入れる際の手続きは共通していたと考えられることにも注目されます。)
さらに、「所司」に問わせたという「所司」とは「裴世清」その人であったという可能性もあるでしょう。なぜなら「蕃客」との接客対応は「鴻臚寺掌客」の本来の役目ですから、この場合のように「外国」から使者が来た場合、「上司」からの意を含んで尋問・聴取するというのは彼らの職掌そのものであったと見られるからです。
「後漢書」にも「大鴻廬」(当時は「大」がついた)の職掌として、夷蛮の国が「封じられる」際などには、「臺下」つまり「皇帝」の近くにいて、その使者が皇帝に面会する際に立ち会う」とされています。
(後漢書/志第二十五 百官二/大鴻臚)
「大鴻臚,…及拜諸侯、諸侯嗣子及四方夷狄封者,臺下鴻臚召拜之。…」
これらのことから、「裴世清」が「隋使」として「倭国」に送られる経緯として「倭国」との記念すべき国交樹立に際して「皇帝」に面会にきた「遣隋使」に対して「聴聞」などの対応を行ったのが「裴世清」本人であったことが重要視されたという可能性があると思われます。
この「開皇二十年」記事を正視すると、ここでは「隋皇帝」が「所司」に「倭国王」の「治世方針」を問わせると同時に「国内統治の実際」や「倭国」の「風俗」についても問わせるなど、一般民衆がどのような生活をしているのかを聴き取らせています。これらのことは「国交」が始められた時点における情報収集の一環であったと思われ、それは「国書」などを相手国に送る際の下準備とでも言うべきものではなかったでしょうか。
このような事項を聴取した上で書かれたものが、「推古紀」に書かれた「唐帝」からのものという「国書」として現れているのではないかと思われます。そこでは「使人大禮蘓因高等至『具懷』」とあり、「倭国」と「倭国王」に関する詳細な情報を入手した意味の言葉があります。この情報こそが「開皇二十年」記事として「隋書」に書かれているものではないかと考えられるわけですが、そう考えると「推古紀」記事と対応しているのは実は「開皇二十年記事」の方ではないかと考えられることとなります。
この「開皇二十年記事」の中身の大半は「所司」に問われた「遣隋使」が口頭で倭国の風物について答えたものであり、それを中心として「所司」が改めてまとめたものを史料として残したと言うことであったろうと推察されます。 すでに「推古紀」記事が「隋初」のものという可能性を考察したわけですが、その内容と合致する「開皇二十年」記事も基本的には「隋初」のものが移動されてここに置かれていると考えなくてならないということになると思われます。つまり「鴻臚寺掌客裴世清」は(この「開皇二十年記事」の元となった原資料において)「国交開始」のための「倭国」からの「遣隋使」派遣という事態を承けて、「返答使」として「倭国」に遣わされたという可能性があることとなるでしょう。その際に「国書」を持参したというわけです。
似たような例としては「唐」の「太宗」の時に「天竺國」からの使者が来たのに応え、「表報使」が遣わされたことが書かれています。
(舊唐書/列傳第一百四十八/西戎/天竺國)
「…貞觀十五年,尸羅逸多自稱摩伽陀王,遣使朝貢,太宗降璽書慰問,尸羅逸多大驚,問諸國人曰 自古曾有摩訶震旦使人至吾國乎。皆曰 未之有也。乃膜拜而受詔書,因遣使朝貢。太宗以其地遠,禮之甚厚,復遣衞尉丞李義表報使。尸羅逸多遣大臣郊迎,傾城邑以縱觀,焚香夾道,逸多率其臣下東面拜受敕書,復遣使獻火珠及鬱金香、菩提樹。…」
つまり「表」(国書)を携えてきた「天竺」からの使者の「朝貢」に応え、その「返答使」としてやはり「表」を持参した「使者」を派遣したとされているのです。
この例からは「倭国」からの「遣隋使」に対しても同様に「表報使」が派遣されたのではないかと思われ、それが「鴻臚寺掌客」としての「裴世清」であったのではないかと考えられるわけです。
(この「天竺」へ使者が派遣されるに際して「摩訶陀王」(尸羅逸多)は、「道」に「香」を焚くなどして清めたとされます。また「大臣」を派遣して「郊迎」しています。これらの行為は「裴世清」を受け入れる際の「倭国」側が行った行動とよく似ているといえるでしょう。そこでも「小徳」という高位の官人を派遣し「郊迎」していますし、「今故清道飾館以待大使」つまり館を飾り、道を清めるなどしていたと書かれているなど、「天竺国」と同様の行為がなされており、夷蛮の国が「隋」や「唐」の使者を受け入れる際の手続きは共通していたと考えられることにも注目されます。)
さらに、「所司」に問わせたという「所司」とは「裴世清」その人であったという可能性もあるでしょう。なぜなら「蕃客」との接客対応は「鴻臚寺掌客」の本来の役目ですから、この場合のように「外国」から使者が来た場合、「上司」からの意を含んで尋問・聴取するというのは彼らの職掌そのものであったと見られるからです。
「後漢書」にも「大鴻廬」(当時は「大」がついた)の職掌として、夷蛮の国が「封じられる」際などには、「臺下」つまり「皇帝」の近くにいて、その使者が皇帝に面会する際に立ち会う」とされています。
(後漢書/志第二十五 百官二/大鴻臚)
「大鴻臚,…及拜諸侯、諸侯嗣子及四方夷狄封者,臺下鴻臚召拜之。…」
これらのことから、「裴世清」が「隋使」として「倭国」に送られる経緯として「倭国」との記念すべき国交樹立に際して「皇帝」に面会にきた「遣隋使」に対して「聴聞」などの対応を行ったのが「裴世清」本人であったことが重要視されたという可能性があると思われます。