古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

遣隋使と遣唐使(11)

2014年09月28日 | 古代史
 以上見てきた見地については「新唐書日本伝」にある「王代紀」部分の記述とも矛盾しないものです。
 「新唐書」日本伝には「倭国」以来の各代の倭国王の「諡号」が累々と書き連ねてある部分があります。この部分は「北宋」の時代に「日本」から訪れた「東大寺」の僧「凋然」が持参した「王代紀」を参考にしているとされています。そこでは、各代の天皇名の合間に「隋」や「唐」側で保有していた「倭国」との交渉の記録が挟み込まれるように書かれています。
 この「挿入」される位置は、常識的に考えるとその「交渉」が行われた時期の「倭国王」の記事中であると考えられます。(「編年体」の史書類は基本的にそのような体裁で書かれているはずですから。)
 しかし、記事を見るとその位置が「書紀」に書かれた天皇の代と食い違っているように見えるのが多くあるのが確認できます。

(新唐書日本伝)
「…次欽明。欽明之十一年,直梁承聖元年。次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古,次舒明,次皇極。其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦;婦人衣純色裙,長腰襦,結髮于後。至煬帝,賜其民錦綫冠,飾以金玉,文布為衣,左右佩銀蘤,長八寸,以多少明貴賤。…』

 先ずここでは「用明」の時代が「阿毎多利思北孤」の時代であるというような主張が見られます。そして彼の時代が「開皇末」であり、その時点で「初めて」中国と「通じた」というわけです。この主張は「隋書」を下敷きにしたものと見られますが、「書紀」とは大きく齟齬します。
 そして、その後「崇峻」へと続くわけですから、その食い違いは大きく「二十年近く」の年時差となると思われます。「隋の開皇末」云々とは「隋書俀国伝」の「開皇二十年」(六〇〇年)記事を指しているのは間違いないと思われるのに対して、「書紀」では「崇峻」はその十年近く前の「五九二年」に死去してしまっているわけですから、その違いはかなり大きいものです。(しかも「書紀」ではあくまでも「推古十六年」(六〇七年)の遣隋使が最初のこととして書かれています。)
 これについてはこの「隋開皇末,始與中國通」という記事が依拠した「隋書」にすでに「誤謬」があると考えれば理解できるものです。つまり、「隋書」の年紀に疑いがあるということは既に述べたわけですが、それに基づけば本来の「遣隋使」派遣は「隋初」のことと考えられ、「二十年」程度の遡上を措定する必要が出てくることとなります。そうであれば、「崇峻」の前(「用命」の時代とされますから「五八六年」と「五八七年」のいずれか)に「中国と通じる」と書かれているのは一概に「間違い」とはいえないこととなるでしょう。また、「中国側」の資料には「用命」の別名が「阿毎多利思北孤」であったとされていたこととなるわけですから、彼の遣使が(これが「用明」の時代であるのが正しいとすると)、「開皇始」のことであったことの傍証となるものと思われます。
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遣隋使と遣唐使(10)

2014年09月28日 | 古代史
 「隋書俀国伝」の「開皇二十年」記事の中に「倭国」の「国楽」について書かれた部分があります。

「…其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂。…」

 この「国楽」との関連が考えられるのが、「隋代七部楽」の制定です。

(隋書卷十五 志第十/音樂下/隋二/皇后房内歌辭)「…始開皇初定令置七部樂。一曰國伎、二曰商伎、三曰高麗伎、四曰天竺伎、五曰安國伎、六曰龜茲伎、七曰文康伎。又雜有疏勒・扶南・康國・百濟・突厥・新羅・『倭國』等伎。…。」

 この「七部楽」はここに見るように「開皇の始め」に初めて制定されたというわけですが、その中には「雑楽」の中の一部として「倭国」の楽も入っていることが注目されます。これが「倭国」からの使者がもたらしたものと考えれば、その使者が派遣されたのは「開皇の始め」つまり「隋初」と考えざるを得なくなります。(前王朝である「北周」や「北斉」の史料には「倭国」が現れませんから、それが「隋代」以前に伝わっていたとはいえないでしょう。)
 さらに「隋書」を見ると「開皇九年」に以下の記事があるのが確認できます。

「十二月甲子,詔曰:「朕祗承天命,清蕩萬方。百王衰敝之後,兆庶澆浮之日,聖人遺訓,掃地?盡,制禮作樂,今也其時。朕情存古樂,深思雅道。鄭、衞淫聲,魚龍雜戲,樂府之?,盡以除之。今欲更調律呂,改張琴瑟。且妙術精微,非因教習,工人代掌,止傳糟粕,不足達神明之,論天地之和。區域之間,奇才異藝,天知神授,何代無哉!蓋晦迹於非時,俟昌言於所好,宜可搜訪,速以奏聞,庶覩一藝之能,共就九成之業。」仍詔太常牛弘、通直散騎常侍許善心、祕書丞姚察、通直郎虞世基等議定作樂。…」

 ここでは「文帝」が「制禮作樂,今也其時。」と語っていることからもわかるように「楽」を定めるとしています。この時点は「南朝」を滅ぼし「中国」を統一した時点であり、ここで南朝の「楽」が「隋」にもたらされたものです。(この「南朝」の「楽」が「七部楽」の「二」にいう「商伎」と考えられているようです。)
 これを契機に「七部楽」を「儀礼」に使用する正式なものとして制定したものと見られます。これら「七部楽」に採用された各「伎楽」は「勢力下」に置かれた地域の「楽」であり、それは「南朝」の楽のように「征服」によってもたらされるケースや、「高麗」などの楽の場合は「北魏」による「燕」などの東方勢力を征服したこととの関連が考えられる場合などがあります。「倭国」の「楽」が「雑楽」として組み込まれているのは、明らかに「外交」による成果であったと思われ、「倭国」が「隋」の成立以降「朝貢」を行うという(「隋」にとって)「画期的」出来事が反映したものと思われます。
 これが、民間伝承のような形で伝わったとか、「百済」や「新羅」など半島の国を経由して伝わった、いわば「間接的」なものというような解釈は困難でしょう。「制度」として定められたと言うことは、いわば「フォーマル」なものであり、正式な「外交」の成果としてもたらされたものと考えるべきでしょう。それは「倭国」に限らず、他の楽も各国からの「正式」な(公式な)ものとして「隋」にもたらされたことを推定させるものであり、そうであれば少なくともこの「開皇九年」という「隋初」段階(あるいはそれ以前)に「遣隋使」が送られていたことの証左とも言えるものではないでしょうか。
 またそれは「大業三年記事」に「鼓角を鳴らして」の「歓迎」の儀式が書かれている事と関連していると思われます。つまり、この「鼓角を鳴らす」という「楽」は逆に「隋」から「倭国」へ取り込まれたものと考えられるわけです。
 そもそも「鼓『吹』」あるいは「鼓『角」を鳴らす」というものは「戦い」に関するものであり「日本」の戦国時代に「ホラ貝」を鳴らすことで自陣に対する指示などを伝達していたらしいことが知られていますが、その原型は「鼓吹」にあったと考えられ、「旧唐書」などにも「鼓吹」が「軍楽」であるという内容の記事が見られます。

(舊唐書 志第八/音樂一)『…景龍二年,皇后上言:「自妃主及五品以上母妻,并不因夫子封者,請自今遷葬之日,特給鼓吹,宮官亦準此。」侍御史唐紹上諫曰:「竊聞鼓吹之作,本為軍容,昔黃帝涿鹿有功,以為警衞。故掆鼓曲有靈夔吼、鶚爭、石墜崖、壯士怒之類。自昔功臣備禮,適得用之。丈夫有四方之功,所以恩加寵錫。假如郊祀天地,誠是重儀,惟有宮懸,本無案架。故知軍樂所備,尚不洽於神祇;鉦鼓之音,豈得接於閨閫。準式,公主王妃已下葬禮,惟有團扇、方扇、綵帷、錦障之色,加至鼓吹,歷代未聞。…』

(舊唐書/列傳第八/柴紹 平陽公主 馬三寶)『…(武徳)六年,薨。及將葬,詔加前後部羽葆鼓吹、大輅、麾幢、班劍四十人、虎賁甲卒。太常奏議,以禮,婦人無鼓吹。高祖曰:「鼓吹,軍樂也。往者公主於司竹舉兵以應義旗,親執金鼓,有克定之勳。周之文母,列於十亂,公主功參佐命,非常婦人之所匹也。何得無鼓吹。…」』

 この二つの例ではいずれも周囲から「鼓吹」は「軍楽」であるから「婦人」の葬儀には使用できないとしており、また後の例では「高祖」はそれを承知している発言(高祖曰:「鼓吹,軍樂也。…」)をしています。このことから「裴世清」を迎えた「鼓吹」も「軍楽」としてのものであった、つまり「裴世清」を「軍」が出迎えたと考えられることとなるでしょう。
 これに関しては「隋書」に「楽制」が定められたことが書かれています。

(隋書/卷十五 志第十/音樂下/隋)「(開皇)十四年三月,樂定。」

 これによればこの「開皇十四年」(五九四年)という時点で「楽制」が定められたというわけですが、この中で「鼓角」による「楽」についても定められたものと考えられます。
 「渡辺信一郎氏」によれば(※)「隋書俀国伝」に「倭王遣小阿輩臺從數百人設儀仗『鳴鼓角』來迎」と書かれている部分については「軍楽隊」を意味するものであり、「隋」においてこの「角」(つのぶえ)が加わった形で「楽制」が整備されたのがこの「五九四年」であるとされ、これについては傾聴に値すると思われるものですが、それを踏まえると「大業三年」記事に書かれた「倭国」の歓迎の様子はこの新しく造られた「楽制」が早速「倭国」に伝えられ、それを実地に応用したものではなかったかと考えられることとなります。
 そのような「楽制」の伝来があった時期は少なくとも「開皇二十年記事」の「俗」に関する記事として揚げられているものの中に「楽器」があり、そこには「…樂有五弦琴笛。…」とあるだけで「鼓」も「角(つのぶえ)」も書かれていない事からもこの年次以降であることが窺えます。つまり「鼓角」という「楽器」はこの「開皇二十年記事」以降に「倭国内」に流入したものと考えられること、またそれは「隋皇帝」からの「下賜」としてのものであったという可能性が高いことを示すものです。
 そう考えた場合この「鼓角」が下賜された時点というのは「国交開始」時点の「遣隋使」ではなく(その時点は「隋初」でありまだ「楽制」が定められていないと考えられるため)、その後「楽制」(楽隊)が制定された後に再び「遣隋使」が派遣され、彼らに対して下賜されたと考えなければならないこととなります。つまり「開皇年間」に「遣隋使」は「楽制」制定以前と以後の少なくとも二回派遣されていたと考える必要があるでしょう。


(※)渡辺信一郎「中国古代の楽制と国家 日本雅楽の源流」文理閣 二〇一三年)
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