古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

遣隋使と遣唐使(13)あるいは「隋」の改元と「九州年号」

2014年09月30日 | 古代史
 「隋」の「改元」と「倭国」の「改元」の年次が一致していることが従来から言われています。

(隋) -(倭国「九州年号」)
「開皇」-「鏡當」
「仁寿」-「光元」
「大業」-「願轉」
「義寧」-「なし」
「皇泰」-「倭京」(ただし「皇泰」は「唐」の「武徳」と重なっており、国家権力が実質的に「唐」に移っていたことを考えると、「九州年号」の「倭京」改元は「武徳」と整合しているというべきでしょう。)

 これは「倭国」の「隋」への「傾倒」を示すものと理解できると思われます。「隋」と同じ年次に改元されているのはその情報が倭国にもたらされ、しかもそれに反応し追随したことを示すものと思われるわけであり、それは当時の「倭国」が「隋」を「皇帝」の国として尊崇する立場になっていたことを示すと同時に、そのような情報伝達ルートが存在していたこととなります。

 「開皇」改元時点では前年十月と十二月及び明けて正月に「百済」と「高句麗」が「朝貢」しています。また「仁寿」改元時点では「史書」には見えませんが「大正大蔵経」の中に納められた「慶舍利感應表」には「高麗」「百済」「新羅」と揃って朝貢し、「舎利」を分けてもらうよう請うていることが記されています。
 記事内容から見てそれは「仁寿元年」の「十月十五日」以前ではなかったかと考えられ、「六月十五日」の「詔」を出した日付近でこの三国の使者が「長安」に来ていたことが窺えます。この時の彼らの(しかも三国揃っての)訪問は偶然だったのでしょうか。

 たとえば「開皇」改元の時点は「隋」成立という重大な局面でもあります。この時当然周辺諸国へ「使者」あるいは「伝令」とでも言うべきものが遣わされたものと思われます。
 「隋書」(帝紀)によれば、すぐ近くの「高麗」よりも遠距離の「百済」が先に来ています。また「契丹」や「突厥」などの遠距離の国も同様に「高麗」より先に来ています。これは遠距離あるいは絶域の国には優先的に伝え、近隣諸国には後から伝えたことをしめすものではないでしょうか。
 また、「仁寿」改元は「仏舎利」の頒布により「仏塔」(卒塔婆)を建てるという事業を国内外に行おうとしたものであり、関係諸国に事前に伝えられて当然と言えるでしょう。
 これは「文帝」の誕生日である「六月十三日」を期して行われたものであり、その日を期して参集すべきという通達があって不思議はないと思われます。それを示すのが以下の記事です。

(「慶舍利感應表並答」)「…覽王公等表悚敬彌深。朕與王公等及一切民庶。宜更加剋勵興隆三寶。今舍利眞形猶有五十。所司可依前式分送海内。…」

 これを見ると「王公」が「朕」の前にいることが推定され、「文帝」の主催した儀式に「海内」の諸国が参列している様が窺えます。
 このように関係諸国(冊立された封国)には「建国」あるいは「皇帝」の代替わり、さらには重要な事業の発議という時点で関係情報が伝えられていたのではないかと思われ、特に「百済」は「帯方郡公」という地位を「北斉」時代から与えられており、半島では「高句麗」と「百済」には優先して情報が伝達されていたと見られますが、「新羅」や「倭国」は「百済」を通じて「隋」などの改元情報などを聞き知っていたと言う事はそれほど想定困難なことではないのではないかと推量します。
 「隋」が行う各種イベントには上に見るように「海内」つまり「国内各諸国」と「国外」の「封国」には招集がかかったと思われるものの、「倭国」のような「域外慕国」には声がかからなかったという可能性もあるでしょう。この「仁寿」の舎利頒布の際に「倭」が登場しない理由もそこにあるのではないかと考えられます。

 「倭国」は確かに「半島」の三国のように「封」じられることはなかったものであり、そのことから「自主独立」的立場であったと理解されることが多いようですが、それは単に「絶域」であることを理由に「隋」から「封国」となることの必要性を重視されなかったからというのが真相ではなかったでしょうか。
 もし「封国」となると、「倭国」に変事があった場合(例えば蝦夷などとの関係が悪化し戦争等が起きるなど)、「隋」は「魏」時代の「張政」のように「告諭」するなどの軍事的影響力を行使する必要性が出て来ますが、この「隋初」という時点ではまだ「南朝」が征服されておらず、「隋」の支配力には限界があったものであり、「倭国」などへの軍事力展開を想定すると、現実的ではないと判断されたのではないでしょうか。
 やはりあまりに遠方の「国」は「封国」とするより「域外慕國」として緩い支配に置く方が賢明であると考えた可能性が強いと思われます。
 それは「倭国」においても特に意志に反したものではなかったと思われ、ある種双方の合意の元であったと思われます。
 「倭の五王」の場合は特に半島における統治実績の追認を求めたものであり、かなりその意味で「強気」の部分があったものと思われます。しかしこの時の「倭国」は「半島」に対する権益はすでにかなり失われていたと思われ、わずかに「半島南側」の一部程度が彼らの影響範囲であったと見られますから、このような状態で「統治事績」を誇るようなことはやはり出来ず、統治の範囲として「新羅」や「秦韓慕韓」などを標榜するというようなわけにはいかなかったと思われます。
 そもそも「隋」への遣使自体が「倭国」側からのかなり積極的なアプローチを示すものであり、当時の渡海の困難さなどを考えると、「対等外交」などを標榜するためというより、もっと「切実」な事情を想定させます。つまり、「遣隋使」の目的や意義はあくまでも「倭国内」の支配強化のためのツールを入手するためのものと思われ、それを「隋」に求めたということであり、「隋」を先進国であり大国としてそこから文物制度等を摂取・吸収するためのものであったと考えられますから、「隋」の制度変更などに敏感でなかったとすると一種の矛盾といえるでしょう。
 もし「倭国」が「隋」から「封」じられたとすると「隋」の暦や年号を使用することは当然ですが、「封じられなかった」ことで、自国年号の使用を継続することとなったものと思われます。しかし、「改元」のタイミングは合わせることとなったと思われ、それは「隋」においては「改元」が政策の変更等を伴うことであったためと思われます。これに「倭国」側の「改元」を合わせることで「倭国」においても「隋」と政策等を整合させる意義があったのではないでしょうか。

 その「隋」の改元は「仁寿」をのぞけば皇帝の代変わりの時点です。皇帝の代が変わるということは「国家」にとって画期であり、種々の制度や政策の変更を伴う場合がほとんどです。当時の「倭国」が「隋」をいわば「宗主国」として考えていたとすると、同様に「制度」「政策」等に変化・変更があってしかるべきこととなり、その場合「改元」することで国内にその趣旨を知らしめることができると思われますから、そのような方法は当然選択したと想定できることとなります。
 また「仁寿」改元についていえば、その理由となった「仏塔」建立事業の全国展開は「仏教国家」としての「文帝」の政治の頂点ともいうべき事業であり、「阿育(アショカ)王」あるいは彼に自らを擬した「梁の武帝」に自らをなぞらえたものと思われます。「封国」となっていた周辺諸国は当然それに対応することとなったでしょう。
 「封国」ではなかったものの「倭国」においてもその情報が(特に「百済」から)もたらされたものと思われ、当然同様に国内に同様な仏教政策の展開を試みることとなったであろうことが推察されます。
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