この「隋初」の遣使記事は「隋書」にも「書紀」にも(明確には)書かれてはいないわけですが、「倭国」からの使者が朝貢したとすると、それまで「北朝」には全く遣使していなかったという歴史的経緯を考えても、「倭国」からの使者が単独で「隋」に朝貢したとは考えにくいと思われます。その場合「倭国」からの使者は(当然)「百済」に同行した可能性が遥かに高いと思料します。そう考える根拠の一つは「百済王」が「隋」から「帯方郡公」を授かったという事実があることです。
(「隋書/帝紀/巻一 高祖 楊堅」より)「(開皇元年)冬十月乙酉,百濟王扶餘昌遣使來賀,授昌上開府、儀同三司、帶方郡公。…」
また、これを遡る「北斉」の時代にも同様に「帯方郡公」の爵号を受けています。
(「北齊書/帝紀第八/後主 高緯/武平元年」より) 「(武平元年)二月癸亥,以百濟王餘昌為使持節、侍中、驃騎大將軍、帶方郡公,王如故。…」
ご存じのように「帯方郡」とは「後漢」の末に「公孫氏」により設置されそれを「魏」が承認したという経緯があり、その後「朝鮮半島」(特に「南半分」)に対する統治の役割を持った出先機関として機能していました。
当時の「倭国」は「魏」に対して朝貢したりあるいは「狗奴国」との「戦い」の仲裁を求めたりする際には「帯方郡」を経由していたものです。このような「歴史的事実」を踏まえた形で「隋」あるいは「北斉」の出先機関としての「帯方郡治」という機能を「百済王」が代行しているという「形式」をとっていたと推察されます。
この時点で「倭国」が「隋」と国交を開始することを図ろうとするならば「隋」の大義名分を認めるしかなく、「帯方郡」としての機能を「百済」が代行しているという「建前」を無視することはできなかったでしょう。
そう考えると、「倭国」からの「隋」に対する国交が「魏」の時代同様「帯方郡治」(に擬された「百済国」)を経由したものとなるであろうことは容易に考えられるところです。つまり「百済」からの使者が「倭国」の使者を同行(というより「引率」と言うべきか)していたとするという可能性は充分考えられるものと思われます。
「隋書」など正史には「開皇二年」以降は「煬帝」の時代まで「百済」が遣使した記録がありませんが、実際には「仁寿年間」に「文帝」が「舎利塔」を各地に建てるという、後の「倭国」の「国分寺」につながるような事業を企図した際に、「高句麗」と「百済」「新羅」が揃って「舎利」を分けてくれるよう「請うた」という記事が「記録」(※)にあります。このときは「文帝」の誕生日に併せて行われたものであり、そうであれば「予定」が事前に立てられていたこととなりますから、「隋」から「伝令」のような形で出席指示ないしは要請があったと見るべきこととなります。このとき「百済」からつまり彼らはこの時点では確実に「文帝」の元にいたわけであり、正史にはないものの確かに使者は送られていたこととがわかります。このことから、これ以外にも「遣使」の事実があったと推定することが可能と思われます。
これについては「貞観修史」という事業遂行において「大業起居注」が欠落した中で「史書」を書かざるを得ないという状況となったわけであり、やむをえず「開皇起居注」から記事を移動して「穴埋め」をしたという可能性(疑惑)が考えられるでしょう。その結果「開皇年間」に書かれるはずの記事が「大業年間」にみられるという「事象」が発生していると思われるわけです。
つまり記録にはないものの「倭国」からは確かに使者が派遣され、それは「百済」の使者に同行したとみられるわけですが、それは「小野妹子」が帰国途中に「百済国内」で「国書」を盗まれたと主張していることにも現れています。
これは「隋初」における初めての遣使ではないものの、「隋」からの帰国が「百済」経由であったことを示すものであり、それは「往路」においても同様に「百済」を経由したことを示唆するものですが、「隋書」の「裴世清」派遣記事にも「…上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、…」と書かれており、そこには「百済」を経由したことが明確に書かれています。このことは「倭国」と「隋」の間の往復には「百済」を経由するのが通常であった事を示すものであり、特に初めての使者の際には「百済」に同行と仲介役を依頼したという可能性が強いと考えられるわけです。
「三国史記」には「百済武王」の「九年」に「春三月 遣使入隋朝貢 隋文林裴奉使倭國 經我國南路」とあり、この記事では「百済」の使者が「隋」に送られたという記事と、「裴世清」の「倭国」への使者派遣が同年次で書かれており、(但し年次そのものは「隋書」に従ったものと思われますが)、「經我國南路」という記述とも併せ、「倭国」からの使者(これは「小野妹子」か)が「百済経由」で「隋」との間を往復したことを示唆するものであり、その際には「百済」の使者を伴っていた可能性を補強するものでもあります。またそれは「隋」の改元と「倭国」の改元が同年として行われているらしいことにもつながると思われます。
(※)大正新脩大藏經 法苑珠林百卷/卷四十/舍利篇第三十七/慶舍利感應表
「…高麗百濟新羅三國使者將還。各請一舍利於本國起塔供養。詔並許之。…」
(「隋書/帝紀/巻一 高祖 楊堅」より)「(開皇元年)冬十月乙酉,百濟王扶餘昌遣使來賀,授昌上開府、儀同三司、帶方郡公。…」
また、これを遡る「北斉」の時代にも同様に「帯方郡公」の爵号を受けています。
(「北齊書/帝紀第八/後主 高緯/武平元年」より) 「(武平元年)二月癸亥,以百濟王餘昌為使持節、侍中、驃騎大將軍、帶方郡公,王如故。…」
ご存じのように「帯方郡」とは「後漢」の末に「公孫氏」により設置されそれを「魏」が承認したという経緯があり、その後「朝鮮半島」(特に「南半分」)に対する統治の役割を持った出先機関として機能していました。
当時の「倭国」は「魏」に対して朝貢したりあるいは「狗奴国」との「戦い」の仲裁を求めたりする際には「帯方郡」を経由していたものです。このような「歴史的事実」を踏まえた形で「隋」あるいは「北斉」の出先機関としての「帯方郡治」という機能を「百済王」が代行しているという「形式」をとっていたと推察されます。
この時点で「倭国」が「隋」と国交を開始することを図ろうとするならば「隋」の大義名分を認めるしかなく、「帯方郡」としての機能を「百済」が代行しているという「建前」を無視することはできなかったでしょう。
そう考えると、「倭国」からの「隋」に対する国交が「魏」の時代同様「帯方郡治」(に擬された「百済国」)を経由したものとなるであろうことは容易に考えられるところです。つまり「百済」からの使者が「倭国」の使者を同行(というより「引率」と言うべきか)していたとするという可能性は充分考えられるものと思われます。
「隋書」など正史には「開皇二年」以降は「煬帝」の時代まで「百済」が遣使した記録がありませんが、実際には「仁寿年間」に「文帝」が「舎利塔」を各地に建てるという、後の「倭国」の「国分寺」につながるような事業を企図した際に、「高句麗」と「百済」「新羅」が揃って「舎利」を分けてくれるよう「請うた」という記事が「記録」(※)にあります。このときは「文帝」の誕生日に併せて行われたものであり、そうであれば「予定」が事前に立てられていたこととなりますから、「隋」から「伝令」のような形で出席指示ないしは要請があったと見るべきこととなります。このとき「百済」からつまり彼らはこの時点では確実に「文帝」の元にいたわけであり、正史にはないものの確かに使者は送られていたこととがわかります。このことから、これ以外にも「遣使」の事実があったと推定することが可能と思われます。
これについては「貞観修史」という事業遂行において「大業起居注」が欠落した中で「史書」を書かざるを得ないという状況となったわけであり、やむをえず「開皇起居注」から記事を移動して「穴埋め」をしたという可能性(疑惑)が考えられるでしょう。その結果「開皇年間」に書かれるはずの記事が「大業年間」にみられるという「事象」が発生していると思われるわけです。
つまり記録にはないものの「倭国」からは確かに使者が派遣され、それは「百済」の使者に同行したとみられるわけですが、それは「小野妹子」が帰国途中に「百済国内」で「国書」を盗まれたと主張していることにも現れています。
これは「隋初」における初めての遣使ではないものの、「隋」からの帰国が「百済」経由であったことを示すものであり、それは「往路」においても同様に「百済」を経由したことを示唆するものですが、「隋書」の「裴世清」派遣記事にも「…上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、…」と書かれており、そこには「百済」を経由したことが明確に書かれています。このことは「倭国」と「隋」の間の往復には「百済」を経由するのが通常であった事を示すものであり、特に初めての使者の際には「百済」に同行と仲介役を依頼したという可能性が強いと考えられるわけです。
「三国史記」には「百済武王」の「九年」に「春三月 遣使入隋朝貢 隋文林裴奉使倭國 經我國南路」とあり、この記事では「百済」の使者が「隋」に送られたという記事と、「裴世清」の「倭国」への使者派遣が同年次で書かれており、(但し年次そのものは「隋書」に従ったものと思われますが)、「經我國南路」という記述とも併せ、「倭国」からの使者(これは「小野妹子」か)が「百済経由」で「隋」との間を往復したことを示唆するものであり、その際には「百済」の使者を伴っていた可能性を補強するものでもあります。またそれは「隋」の改元と「倭国」の改元が同年として行われているらしいことにもつながると思われます。
(※)大正新脩大藏經 法苑珠林百卷/卷四十/舍利篇第三十七/慶舍利感應表
「…高麗百濟新羅三國使者將還。各請一舍利於本國起塔供養。詔並許之。…」