古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

卑弥呼の鬼道と銅鐸

2015年12月06日 | 古代史

 弥生時代の祭器と思われる「銅鐸」は墓域(古墳など)には決して埋納されず、出土する場合は単体であり、遺骨などと共伴することはありません。それはいわゆる葬送儀礼には用いられないものであったことを示しています。これはいわゆる「ハレ」の儀式だけに使用されたものと考えられる訳です。
 それに対し銅鏡は弥生時代の王墓である「平原」や「須玖岡本」などの遺跡や後の「古墳時代」にも(「三角縁神獣鏡」など)「古墳」から出土します。それらは「石室」や「棺」の中にさえ入れられていることがあります。逆に単独で埋納されている例が見られません。また「漢鏡」は「弥生中期」ぐらいまでの「甕棺」などからさえも出土する例があります。しかも当初の鏡は全て「外国製」です。自分たちの生活に直結していたであろう「祭祀儀礼」に使用される「祭器」が「外国製」であったとはあり得ないことと思われます。
 つまり「銅鏡」は「葬送儀礼」に使用されることがあることとなり、それは「銅鐸」と違い「神聖性」という点においては欠如していることとなるでしょう。

 どの世界においても「タブー」には二種類有り、「神聖」ゆえのタブーと、「穢れ」があることによる別のタブーです。
 つまり、「神聖」なものは同時に「穢れ」を嫌うわけであり、「死」が「神聖性」とは遠く隔たっていたことは「イザナギ」「イザナミ」の神話を見ても推定できるものです。そこでは人が亡くなった後「腐敗」していく過程の姿が描かれており、「死」に対する「穢れ」の認識を反映していると思われます。そうであれば「銅鐸」がそうであったように「祭祀」に使用され、「神」と近い距離にあるものは「死」につながるものからは忌避されていたと思われます。しかし「銅鏡」は「墓」から出ますし、それも「高い権力」を持っていたであろう貴人の「墓」からしか出ません。これは「銅鏡」というものには「神聖性」がなく、自らの「権威」の根源を示すものではあっても、所詮俗世界のものであったということを示すものと考えられます。

 「魏」の皇帝は鏡を「卑弥呼」に対して「下賜」したわけですが、「広く皆に見せるように」という指示が「皇帝」の「詔」の中にあり、そうであれば「埋納」してしまったならばその役は果たせないこととなってしまいます。つまり「卑弥呼」がもらった「鏡」は各諸国に「頒布」されたものと思われ、特に「王」の「夫人」などに「化粧用」に渡されたものと思われるわけです。
 この「銅鏡」はこのように「卑弥呼」の「邪馬壹国」が率いる「諸国」の一体関係の醸成には役立ったと思われますが、それは逆に「卑弥呼」の行っていた祭祀に「鏡」(銅鏡)が使用されたと見ることはできないことを示します。「魏」の皇帝からの下賜品というだけでは「神聖性」の保持や確保という面では物足りないからです。(さらには「倭王」としての「卑弥呼」にというだけではなく「卑弥呼」の私的な使用品としても下賜されており、これも「鏡」の「神聖性」を否定するものでしょう)
 あくまでも「鏡」の存在が周知であること、それは「卑弥呼」の「倭王」としての「権威の根源」が「魏」の皇帝にあることを知らしめる意義があったと見るべきこととなります。

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