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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

民部省と大蔵省の地位の差(再度)

2015年12月19日 | 古代史

9月5日付で書いた論が中途半端になっていました。以下に続きを書くこととします。

 「婦女子」の髪型に関する「詔」の分析から「慶雲二年」記事はその本来の年次が「六四八年」であり、「57年」移動されているらしいことが推察されることとなったわけですが、同様に移動が考えられるのが「大蔵」へ「庸」の一部が納入されるようになったという「慶雲三年」の記事です。
 ここでは「庸」の一部である「布・綿」について「大蔵省」で保管されるようになったことがわかります。これはそれまで「民部省」で収集保管していたものですが、この時点以降「大蔵」へと移管されたというわけです。このことは「大蔵」の重要性が高まり、「民部」を凌駕するようになったことを示すといえますが、しかし、それに遥かに先立つ『書紀』の「朱鳥元年」の「天武」の葬儀の記事では「大蔵」の方が先に「誄」を奏しています。
 「養老令」を見てみると、民部省とその所管の官庁の職掌としては以下に見るようにかなり広範な機能が割り当てられているのが判ります。

「職員令 民部省条(途中省略)「掌。諸国戸口名籍。賦役。孝義。優復。■免。家人。。橋道。津済。渠池。山川。藪沢。諸国田事。」
「職員令 主計寮条(途中省略)「掌。計納調及雑物支度国用勘勾用度事。」
「職員令 主税寮条(途中省略)「掌。倉廩出納。諸国田租。舂米。碾磑事。」

そのうち「庸」についていえば一部である「布・綿」は後に「大蔵省」で保管されるようになります。
(以下関係記事)

「…又收貯民部諸國庸中輕物■絲綿等類。自今以後。收於大藏。而支度年料。分充民部也。」「(七〇六年)三年春正月丙子朔戊午条」

 これ以降「庸中輕物」については「大蔵」へ収めることとなった訳ですが、それ以前は全て「民部」へ収めていた訳です。「民部」に広範な機能があったこと、このようにその機能の一部が後年「大蔵」へ移管されることなどを考えると、「朱鳥」時点で「大蔵」の方が重要視されていたというのは疑問とするべきでしょう。
 本来「庸」「調」などの徴集の基礎は「戸籍」であり、「人民を如何に把握するか」が焦点であったはずです。その意味からいうと「民部」が先に活躍し「人民」に関するデータベース作りを行なう必要があった訳であり、その後そのデータベースを元にした各国各人からの「税」の徴集が開始されるようになるわけですから、「民部」の重要度は当初の方が高いのは当然であると思われます。その後「税」としての徴収物が増大するとその管理をめぐって官庁間で「綱引き」があったという可能性もあり、「大蔵」が力を付けていったのもそのような流れの中かも知れません。しかし、そう考えると、「朱鳥段階」つまり「大宝令」にかなり先行する時期において「大蔵」がそれほど力を付けていたとは考えにくいこととなります。

 また「大宝令」段階で「戸籍・計帳」に関する人員が配置されているように見えることは、「七世紀代」で既に大量の「庸」等の「税」としての物品が送られてきていたと考えられることが、「藤原京」や「石神遺跡」などから出土している「木簡」の解析などから判明していることと矛盾します。つまりそれらは「戸籍・計帳」が十分に整備されていることが必須の条件だからです。これらのことは『書紀』と『続日本紀』の「税」に関する記事の時系列が本当に正しいのか疑わしいと言わざるを得ないものです。
 これらについても他の記事同様『続日本紀』記事と『書紀』記事とはその年次配列が逆転しているのではないかという疑いが生じるものです。
 この「七〇六年」の「庸」の一部が「大蔵」へ納められることとなったという記事が「婦女子の髪型」に関する記事と同様「五十七年遡上」すると仮定した場合、「六五一年」のこととなりますが、「誄」が奏された「朱鳥元年記事」は「三十五年遡上」の対象と考えられますから「六五一年」のこととなって、同年のこととなり、時系列としては確かに整合することとなります。つまり「大蔵」が力を付けてきたことを背景として葬儀の際の「誄」を述べる順に反映したと言えるのではないでしょうか。

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