そもそも「疫」とは多くの人がその病気に悩まされていたことを示し、さらに「癘」はその中でも「悪性の病気」を指す語ですから、その正体としては各種考えられるものの、その症状等が書かれていないため推測でしかないわけですが、たとえば「天然痘」などもその候補の中に入るでしょう。
「天然痘」の感染力の強さと致死率の高さは比類がありませんから、この「疫癘」という致死率の高い悪性の流行病が「天然痘」を示すと考えてもそれほど不自然ではないこととなります。
記録上は「南北朝期」に「南朝」側の記録として「天然痘」と思われる記事が見られるのが最初とされますが、それが「北朝」からもたらされたとみられるわけで、「牧畜」の習慣を持っていた「鮮卑族」など匈奴の出身者が多かった「北朝」との交戦経験が「天然痘」の流行をもたらしたものと思われているようです。
たとえば「一六五年」から十五年間にわたってローマ帝国の領域で多くの死者を出した疫病(アントニウスの疫病あるいはアントニウスのペストと呼ばれるもの)と同じものが当時東方へ伝染していたと言うこともありうると思われます。当時「ローマ帝国」は「パルティア」(現在の「イラン」「イラク」付近にその中心があったと見られます)との戦争のため多くの人員を中近東付近に派遣しており、彼等が疫病をローマ領内へと運んだものと見られます。この疫病は天然痘と見られており、少なくとも350万人(一部には500万人という説もある)が死亡したとされますが、当時「ローマ」は「漢」との間に使者を交換しており、通交があったものです。これらの交流の結果が漢帝国内の疫病となったという可能性もあるでしょう。 ただし、「黄巾の乱」が当初発生した「河南地区」は当時の首都である「洛陽」を含んでおり、「夏」「殷」王朝やそれ以前の石器時代においても文化中心であったとみられており、その当時から「豚」などを家畜として利用していたことが判明しています。この地域から最初に「黄巾の乱」が発生したわけですから、ここでいう「疫癘」は「家畜」との共通伝染病であった可能性も考えられ、その意味では「豚インフルエンザ」などもその候補として考えられるでしょう。
たとえ「疫癘」の正体がどの伝染病であっても「黄巾の乱」の発生した「河南」地区は「大農業地帯」であり、天候に恵まれていれば農民が生活に困ることはそうなかったはずです。それが「新興宗教」に頼らざるを得なくなったわけですが、そのようになった理由の一つは強い社会不安の存在であり、その根底に「病気」(「疫癘」)に対する恐れがあるとともに、生活そのものが破壊されていることに対する不安があったものと思われます。
「黄巾の乱」を起こした教団である「太平道」では罪を懺悔告白し、「符水」(お札と霊水)を飲み、神に許しを乞う呪文(願文)を唱えると「病が治る」とされ、支持を集めたとされるなど、いわゆる「現世利益」を目的としているとされますが、この「病を治す」というところが主眼であったものであり、それが特に「疫癘」に対してのものであったことが推定出来ると思われるわけです。
このような「疫病」の蔓延とそれに対処できない「後漢」の混乱及びそれに伴って発生した「宗教結社」の存在とが「卑弥呼」の前代の混乱及び「卑弥呼」の即位という事情に重なっていると思われるのです。