古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

卑弥呼の身体の状況と霊的能力

2015年12月08日 | 古代史

 この時点で「卑弥呼」の鬼道が熱烈な支持を得た背景としては、当時大きな「社会不安」があり、それに対して宗教がそれを担うことを求める民衆の強烈な欲求が大きかったものと見られます。そのような欲求はその時点まではそれほどのものではなかったものが、急激に社会の中で大きなウェイトを占めることとなったものと思われ、そのことと新たに立った「男王」を民衆は支持しないということとは強く関係していると思われます。
 
その「社会不安」については後ほど触れますが、その時点で「祭祀」が重要な要素を占めることとなったわけであり、そこでは「卑弥呼」でなければならないという民衆の支持あるいは意思が示されたものと見られるわけです。その理由はいくつかあると思われますが、当然ですがその時点で彼女の「霊的能力」が突出して優れていたと大衆が認めていたからという理由が最も大きいと思われ、それは「能く衆を惑わす」という『倭人伝』の表現に表れています。
 
このように古代において「霊的能力」の高い存在は現実世界ではえてして「役に立たない」存在であったという可能性があり、「卑弥呼」も例外ではなかったものではないでしょうか。
 
古代においては「不具」であったり「身体能力」の一部が欠如しているような人物はその共同体の中での実生活の役にはほぼ立たないわけですが、その代わり(というよりそれだからこそ)霊的能力に長けた存在として一定の尊敬を集めていたという可能性があります。「左手第四指」に対する霊的信仰はそのことを暗示しているのではないでしょうか。

 世界中で「左手第四指」に対して「無名指」という意味の呼称がされている事実があります。現在日本では「薬指」と呼称されますが、これは「薬」を調合する際にこの指を使用する(かき混ぜる)からというのがその理由とされますが、それはその指でなければ薬が効かないからであり、「左手第四指」に「霊的能力」があるからとされます。それが「無名指」とされるのは「名前」を「鬼神」に知られると「霊的能力」がなくなってしまうからとされ、「名前」と「鬼神」という超現実的存在との間に強いつながりがあることに対する信仰が世界各国であったことが知られるものです。 

 このように「左手第四指」が重要視される最大の理由はそれが「役に立たない」からであり、「不器用」の象徴だからです。

 「第四指」は「第五子」(小指)と「腱」の一部がつながっており、(通常は)単独で動かすことができません。特にそれが「左手」である場合は特にその指を主体的に使用することはないといって支障ないでしょう。つまり「左手第四指」は典型的な「役に立たない」存在であるわけですが、それだからこそ、この指に対する「畏怖」と「敬意」があったものではないかと思われ、それは「古代」における「共同体(集落)」の中においても、同様の意味がその存在に対して与えられたものではないでしょうか。(「蛭子」に対する信仰もそれに良く似たものといえるでしょう)

 

 「縄文」遺跡からは明らかに「不具」と思われる「人骨」が出ており、それは「成人」に達していることが確認されていますから、その人物は少なくとも周囲の助けを受けて生活していたことを示しており、「縄文」の社会が弱者に寛容であった証拠というような理解がされる場合がありますが、それについてもその人物が「祈祷師」など当時の共同体に必要な存在となっていたという可能性について考慮されるべきではないかということを示唆するものでもあります。つまりそのような人物は「シャーマン」的位置にいたものではないかと考えられ、逆に重要視されていたものとも考えられるわけです。

 「卑弥呼」もどこかに(身体的あるいは精神的かは不明ではあるものの)不具合を抱えていたものであり、それ故に強い「霊的能力」を有していた(少なくとも周囲はそう理解していた)可能性があると思えます。それは「男弟」が現実の政治を補佐していたという中にも現れているものと思われ、「卑弥呼」の能力が「霊的」な部分に特化していたことを示すものであり、当時の実生活ではほとんど「役立たず」というべき状態ではなかったかと推察されることとななります。

 

 彼女という存在は『書紀』では「神功皇后」に投影されているわけですが、「神功皇后」の治績は政治的軍事的領域に亘っており、単なる「霊的能力」を持った人物という範疇を超えています。これは明らかに「卑弥呼」とは異なるものです。「卑弥呼」の能力は実生活や実際の政治には関与しなかった、というよりできなかったことを示唆するものですが、それは彼女の身体的能力に何らかの欠陥があったという可能性につながるものと思われます。またそれだからこそ「佐治國」しているという「男弟」の存在が大きかったものと推量されるわけです。

 

 この「鬼道」はその後「宗女」である「壹與」に受け継がれますが、この「壹與」も「13歳」(二倍年暦とすると6歳強)と「幼少」であり、「共同体」の実生活上ではほとんど「役に立たない」人物ですから、その意味でも「霊的存在」として畏敬の念を持たれていたとも思われます。

 このことは「実生活」において有用な仕事のできるような人物は「霊的能力」については周囲からその能力を認められていなかったという可能性が考えられ、そのことと「卑弥呼」の死後「男王」が立ったものの周囲の賛同が得られず争乱となったということの間には関係があると思えます。
 その人物は(その時点では必須であった)「霊的能力」を認められず、「祭祀」の主宰者としての地位に疑問符が付けられたものと思われます。そのため「壹與」が選ばれたというわけでしょう。

 このことはまた「男弟」の存在の理由にもつながります。「卑弥呼」や「壹與」が「霊的能力」に突出して統治の実務能力が欠如していたとすると誰かが補佐しなければならなくなるのは必然ですから、「男弟」がそれをカバーしていたというのはそのような推察が正しいことを示すと共に、逆に「男弟」が自分の思うような統治を行おうとすると「実務能力」に欠ける人物が前面に立っていた方がやりやすいというのもまた当時の事情からは考えられるところです。つまり「男弟」の側の事情から「実務能力」のない人物があえて選ばれているともいえるかもしれないわけです。(それは当然民衆の支持に沿っている形であるところがミソであるわけですが)
 

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卑弥呼と鬼神信仰

2015年12月08日 | 古代史

 「卑弥呼」の行っていた祭祀については『倭人伝』の中では「鬼道」と呼ばれており、このことから「卑弥呼」は「鬼神」を祀る祭祀を行なっていたのではないかと考えられます。
 『三国志』の中で同様に「鬼道」という名称が使用されているものに、「道教」の一派である「五斗米道」があります。(以下の記事)

「張魯字公祺,沛國豐人也。祖父陵,客蜀,學道鵠鳴山中,造作道書以惑百姓,從受道者出五斗米,故世號米賊。陵死,子衡行其道。衡死,魯復行之。益州牧劉焉以魯為督義司馬,與別部司馬張脩將兵?漢中太守蘇固,魯遂襲脩殺之,奪其?。焉死,子璋代立,以魯不順,盡殺魯母家室。魯遂據漢中,以『鬼道』 教民,自號「師君」。其來學道者,初皆名「鬼卒」。受本道已信,號「祭酒」。各領部?,多者為治頭大祭酒。皆教以誠信不欺詐,有病自首其過,大都與?巾相似。諸祭酒皆作義舍,如今之亭傳。又置義米肉,縣於義舍,行路者量腹取足;若過多, 『鬼道』輒病之。…」(『三國志/魏書八 二公孫陶四張傳第八/張魯』より)

 「五斗米道」とは「後漢」の順帝のころ(一四二年)四川省成都の郊外(蜀の国)で「張陵」という人物が「太上老君」よりお告げを受けた、と言い出したことに始まり、その後「張衡」「張魯」と計親子三代にわたり教団を組織し、強大な軍事力を保持するようになったものであり、これがいわゆる「三張」道教と呼ばれているものです。その後彼らは「魏」の「曹操」に軍事力を剥奪され無力化されたものです。(二一五年)
 この時代に「魏」などでは「儒教」が正統と考えられていました。そのため「道教」やその一派である「五斗米道」などは基本的には「魏」や「西晋」から見ると「異端」的なものであり、そのため「鬼道」という用語を使用する動機となっているものと考えられます。そういう意味において卑弥呼の「鬼道」というものが、「原始道教的」意味合いを持っていた可能性は高いでしょう。

 この「五斗米道」や「太平道」などに共通なことは「鬼神」信仰であり、その「鬼神」特に「鬼」とは「死者」を指すものでした。このような「土俗的信仰」は「江南地方」に淵源を持つものと思われ、南方的であることが推察されます。
 また、「倭」の各国は朝鮮半島に勢力を張っていた「公孫氏」が「後漢」に非協力的(「公孫淵」に至って反旗を翻した)であったため多年にわたり朝鮮半島を経由しての「漢」(魏)との交流は閉ざされていて、南方の「蜀」や「呉」との交流に偏っていたものと考えられ、「五斗米道」についてもその方面から直接情報が伝わっていた可能性があるものと考えられています。
 ただし、「卑弥呼」の「鬼道」はより原始的であり、祭儀には「血食祭祀」を行っていたと思われ、「五斗米道」とも違うそれ以前の世界に類するものであったとみられます。それは古田氏が指摘したように「卑弥呼」の「呼」が「生け贄に傷をつける行為」を指す語であるとすることからも言え、そのことから「卑弥呼」の儀式の内容が示唆されます。それに対し後に「五斗米道」を継承した「天師道」では動物を犠牲とすることを強く批判している事実があります。

 また、ここで言う「鬼」とは基本的には「死者」のこととされるわけですが、その意味では「卑弥呼」は「巫覡」と呼ばれる立場であったと思われ、彼女は「倭王権」の長として「鬼」や「神」と意志を交通させていたものであり、それは単なる「祖先祭祀」とは異なり、数多くの「先人達」が対象であったと思われ、彼らの「意志」をその時点の「邪馬壹国」以下の諸国の置かれた厳しい状況(具体的には「疫病」の蔓延であったと思われます)に反映させることを目的として儀式を執り行っていたものでしょう。そのような重要で古典的な儀礼には「神聖性」が欠けている「鏡」が使用されることはなかったものであり、そのような場では「玉」が使用されていたものと思われます。
 「玉」は「周代」以来「中国」で重要な儀礼にしか使用されない「神聖」な祭器であったものであり、「周」の官職(大夫)を名乗っていたと思われる「卑弥呼」の「倭」でも当然「玉」が祭器として使用されていたと考えられることとなります。
 これに対し「五斗米道」などでは「鏡」が「祭祀」の際に用いられたという意見もありますが、それが正しいとしても、「魏」の皇帝からの下賜品が「鬼道」の「祭祀用」としてのものではないことは自明でしょう。
 「卑弥呼」の「鬼道」が「五斗米道」の流れを汲むものであるとすると、それは「魏」では「邪教」と考えられていたわけであり、その様なものを「卑弥呼」が信仰していたとしても、それに対しその「祭祀」のために「皇帝」が器物を贈るということが行われたとは考えられないからです。
 あくまでも「卑弥呼」の私的な好物としての「鏡」を下賜したものであり、それは「化粧」材料と思しき「眞珠、鉛丹各五十斤」が同時に下賜されていることでもわかると思われます。

 また、この当時中国では「銅鏡」はいわば「縁起物」であり、その特徴として「銘文」の存在があります。そこでは「現世利益」「不老長寿」あるいは「神仙世界」への誘いというような文が選ばれ、「鏡」としての実用性の他「実生活」を豊かにする呪術として室内の要所に飾られていたものと思われます。つまり「卑弥呼」への「鏡」にも必ず「銘文」が書かれていたと思われますが、最も可能性のあるものは「不老長寿」を言祝ぐものであり、「延年益寿」「受長命寿萬年」というようなもの(これらは実例があります)が「銘文」として書かれていたと言うことが考えられます。それは「卑弥呼」がこの時点でかなりの高齢ではなかったかと考えられる事からもいえるでしょう。

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