古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「倭国乱」と「後漢」の状況

2015年12月16日 | 古代史

 すでに見たように「卑弥呼」の即位の前夜とでも言うべき時期は「後漢末」が措定され、この時点付近で争乱が発生したというわけですが、「帥升」を「男王」の一人と仮定した場合には「卑弥呼」の即位年次として「後漢」で発生した「黄巾の乱」の時期とほぼ等しい(「一八四年」)というところに注目すべきこととなります。もしそれがもっと遅れるとしても事態は余り変らないと思われ、「後漢」王朝の衰微とそれに対応して争乱が発生したことと、この「倭国乱」との時期及び内容が近似していることに注目すべきこととなるでしょう。
 一般には「後漢」が衰微していく過程は「梁冀」氏のような強力な人物が外戚となり「幼帝」を誕生させそれを陰で操る体制が生まれたことや、彼等を「宦官」と協力して排除したため今度はその「宦官」による専横を止められなくなったなどの理由により「皇帝」の持つ「権威」が大幅に低下したことが衰微の重要な要因とされます。しかし、実際にはそれらはさほど重要な要素ではないと思われます。なぜならそれらは「一般の人々」に直接関係したこととは思われないからです。
 この「後漢」のような強力な王権が倒れるには「民衆」の苦しみが極大に達する状況があったとしなければならず、それに対して王権の側から適切な対応ができなかったことがそこに原因として横たわっていると思われます。
 この時期「太平道」や「五斗米道」など道教系の新興宗教が発生し、多くの民衆の支持を集めそれが「黄巾の乱」など争乱に結びつくということとなったわけですが、その過程には天候不順による農業への被害が大きかったということが重要な要因としてあったものと考えられます。
 『後漢書』など当時の記録を見ると、「旱害」あるいは「大水」「地震」というような自然災害も多かったとみられますが、そのような食糧事情の悪化は当時の衛生状態とも関連して「伝染病」の発生にもつながったものと思われます。
 実際に『後漢書』の中には「疫」「大疫」「疫癘」と称されるような「伝染病」とおぼしきものが蔓延していた事を示す記事が数多く見えます。
 以下「順帝」年間の『疫癘』と「考桓帝」と「考霊帝」の治世の中での『疫』『大疫』の例を挙げます。
 まず、「順帝」の治世期間に現れる『疫癘』の例です。)
「永建元年(一二六年)春正月甲寅,詔曰:先帝聖,享祚未永,早弃鴻烈。姦慝緣,人庶怨讟,上干和氣,『疫癘』為災。…
冬十月…甲辰,詔以『疫癘』水潦,令人半輸今年田租;傷害什四以上,勿收責;不滿者,以實除之。」

(以降「桓帝」の『疫』『大疫』の例)
「元嘉元年春正月,京師疾疫,使光祿大夫將醫藥案行。癸酉,大赦天下,改元元嘉。
二月,九江、廬江『大疫。』」「後漢書/本紀 凡十卷/卷七 孝桓帝 劉志 紀第七/元嘉元年」
「四年春正月辛酉,南宮嘉殿火。戊子,丙署火。『大疫。』…」「同上/延熹四年」
「九年春正月…己酉,詔曰:『比歲不登,民多飢窮,又有水旱『疾疫之困』。盜賊徵發,南州尤甚。灾異 日食,譴告累至。政亂在予,仍獲咎徵。其令大司農絕今歲調度徵求,及前年所調未畢者, 勿復收責。其灾旱盜賊之郡,勿收租,餘郡悉半入』」「同上/延熹九年」

(以降同様に「霊帝」の治世期間の『疫』『大疫』の例)
「四年…二月癸卯,地震,海水溢,河水清。
三月辛酉朔,日有食之。太尉聞人襲免,太僕李咸為太尉。詔公卿至六百石各上封事。『大疫』,使中謁者巡行致醫藥。司徒許訓免,司空橋玄為司徒
詔公卿至六百石各上封事。『大疫』,使中謁者巡行致醫藥。」「後漢書/本紀 凡十卷/卷八 孝靈帝 劉宏 紀第八/建寧四年(一七一年)」
「二年春正月,『大疫』,使使者巡行致醫藥。」「同上/熹平二年(一七四年)」
「二年春,『大疫』,使常侍、中謁者巡行致醫藥。」「同上/光和二年(一七九年)」
「五年春正月辛未,大赦天下。
二月,『大疫。』」「同上/光和五年(一八二年)」
「二年春正月,『大疫。』」「同上/中平二年(一八五年)」

 このように頻繁に「大疫」と記され、何か強い感染力あるいは伝染力のある病気が蔓延していたことが示唆されますが、さらに「桓帝」の「延喜九年」の「詔」では天候不順により食糧不足となっていることが記されており、その他「疫」以外にも「水害」や「旱害」を示す記録や地震あるいは「津波」と思われる記事などが再三にわたり書かれているなど、天変地異がうち続いたことで多くの人々が悩まされていた実態が明らかとなっています。

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