古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現について

2019年01月03日 | 古代史

 以前に書いたこと( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/0feee359f389173107af6f8307b488c8 『隋書俀国伝』にある「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現)について、追加の論を下に記します。

 ここでいう「附庸」とは「宗主国」(言い換えれば「直接統治領域」)に対する対語であり、「従属国」であることを示します。またここでは「竹斯国」が「附庸国」とされているように見えます。これについて以前「直轄領域」として「壱岐」「対馬」があると見たわけですが、それは外交上・国防上の問題から国境を接している場所は直轄地域のはずという意味でした。
 この場合中心領域について「肥の国」という推測をしたわけですが(もちろん「以東」という表現から考えて「近畿」に中心権力があるとは見なせないわけですが)、逆に言うと「近畿」に中心王権があるとしたら「筑紫(竹斯国)」が「直轄領域」からはずれていることの説明が困難ではないでしょうか。
「近畿」王権がもし「倭国」の中心王権であったとすると、彼らにとっても「国境」の管理は重要であったはずであり、その場合後にそうしたように「筑紫」に出先をおいて拠点とするのがもっとも目的を達成しやすいわけですが、その場合「筑紫」は直轄領域でなければならないでしょう。「壱岐」「対馬」だけを直轄領域として事足りるとするのは「外交上」非常に問題があると思われます。
 仮に「筑紫」に拠点を作ったとしても、それが置かれた「筑紫」が単なる「附庸国」であるとすると、「王権」の意図が徹底しないばかりか、時には意図と反する行動もありうることとなります。そのようなことにならないようにするには「筑紫」そのものを直轄領域にする必要があるはずですから、この『隋書俀国伝』にそのような記述がないのは「近畿」に中心王権がないことの傍証ともいえると思います。
 そもそも「儀典」などを「九州島」上陸地点で行う必要があるのは明らかであり(後の「鴻廬館」のような施設)、これらを行う施設があるのが「附庸国」の国内であるとすると大いに問題でしょう。大使館のようにそこだけを直轄にするというアイデアもありますが、そのような手の込んだことをするくらいであれば「筑紫」全体を直轄とすればよいはずですが、そうはなっていないのは「近畿」の王権にとって「外交」が彼らの必須の業務ではなかったことを示します。
 これについては以前触れたように「従属国」には基本的には自治があるものの、外交は「宗主国」の専権事項であったとされますから、この時点で「近畿」の王権にはそのような権能が与えられていなかったものであり「従属国」の一つであったと見るしかないことを示すと思われます。

 

コメント

山田様のブログ記事へのコメントに対するご批判について

2019年01月03日 | 古代史

 山田様のブログ記事( http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/01/2019-5704.html )について当方が「コメント」として記したこと(「志賀島の金印」と『後漢書』『倭人伝』等に書かれた「倭」等に対する考察( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/f4ea963d0ceb1ab8a00b3ac63168e230 につづく一連のもの、是非皆様にも読み返していただければ幸いです)について、首肯できることできない事を具体的に挙げてご批判いただきました。ありがとうございます。

 以下にご批判のうち一部ですが気になる点について回答のようなものを書いてみます。といっても論として同じことを繰り返し書くこととなりそうですが。

「帥升」と「倭国王」について

 「帥升」に「印」が授与されていないのは「理由」があったからと考えたわけであり、論の中にも書きましたが「単なる書き忘れ」という見方は成立しないと考えました。それは以前の「委奴国王」と「帥升」の統治範囲及び統治の内容等に大きな変化がないからであったと見たわけですが、その場合改めて「金印」(一定の広い地域を統治しているということを認める意で下賜される)が授与されなくて当然ですが、そうであれば『後漢書』がいうような「倭国王」ではなかったこととなるという論理進行です。
 「委奴国王」の時代と異なり「帥升」について「倭国王」と認められる実績があったとすると「金印」が授与されて当然であり、それは『後漢書』や『三國志』という史書に書かれて当然だと考えます。それが書かれていないのは実際には「倭国王」ではなかったからではないかというのが「要旨」です。そう考えた場合「倭国王」という表現をしている『後漢書』に疑いの目が向くのは自然だと思うのですが、いかがでしょうか。「倭国王」という称号を認められるようになっても金印が授与されないこともあるというのであればこの疑問は意味ないこととなりますが、そうでしょうか。
 そもそもこの段階ではまだ「倭国」という「概念」が成立していなかったと思われ、それが成立するのは「倭の五王」の時代と見たわけです。なぜなら「倭の五王」は以前よりも広大な国土を制圧したと自称しまたそれを南朝が認めたわけですから、この段階で「倭国」と「倭国王」が成立したと見ることができるでしょう。(ご指摘のように「倭国」という存在の起点はこの時点という可能性がありそうです)
 この「倭国」と「倭国王」の成立に程近い時点である「南朝劉宋」の時代に「笵耀」は生きていたものであり、そのことが彼の書いたものに反映していると見たものです。
 確かに『後漢書』にしか書かれていない事象もあり、独自資料があったという可能性は高いものの、他方「笵耀」の時代の知識あるいは常識で『三國志』の記述を書き改めているという可能性が高いのもまた既に指摘されていることです。「倭国王」という表現もその類と見たものです。


「ダンワラ古墳」の「鉄鏡」について

 「委奴国王」として「帥升」が奉献して(「金印」は貰わなかったであろうけれど)他に何の下賜品もないというのは不審ですから、何かそのような徴証はないと考え調べた結果であったものです。その意味でさほど重要な論点ではありませんが、「古墳」の時代として五世紀という比定が正しいとして、そこから出土したという「鉄鏡」がその時代に入手可能かというとそうではない可能性が高いと判断したものであり、この時代にそぐわないとすれば、その「鉄鏡」とこの古墳が造られた年代とは異なる年代のものであると見るよりないと考えたものです。それはそれほど「恣意」に類するものと考えません。
 「恣意的」という場合は「任意」に年代を決められるという意味ですが、この場合は「鉄鏡」が作られ下賜されることがあり得た年代がそれほど動かせるものではないのですから、自動的に年代は定まることとなりますので、「恣意」の介入する余地がないように思われます。
 ただし「発掘」の詳細が不明ですので確定的には言えないわけであり、それを「真」として論を構成したわけではないものの不注意であったかもしれません。


「親魏倭王」について

「親魏倭王」という称号の中の「倭」については「倭人の代表」としての表現としての「倭王」とは考えません。「倭」単体では「地域名」の意義しかないと見るからです。
『魏志』の中では「倭人伝」の他に「韓伝」においても「倭」単体では「地域名」としてしか登場しません。これらを踏まえると「親魏倭王」の「倭」は「地域名」として使用されていると考えます。
 そもそも「親魏倭王」というのは「制詔」と表現されているように「魏」の正式な制度の中で「卑弥呼」に対して授与された称号です。金印にも「親魏倭王」とあったというのですから、この「倭王」というのは重要な意味があると考えたわけです。そうであればこの「倭」はそれまでの歴史の中で使用されてきた「倭」という地域名、地方名であったと見るべきではないかと考えたものです。
 「魏」が「倭」と認識した領域の主要な部分は「邪馬壹国」がその中心にあるものであり(論の繰り返しになりますが)「倭」の中に「魏」が「親魏」とは認められない勢力がいたとしても「帥升」の頃よりも多くの地域をその影響下(制度下)においていたことから「倭王」という表現が使用されたと見ています。仮に全てを統治の対象としていた場合には「倭国王」という称号が使用されただろうと見るものです。

 ちなみに半島に「倭人」がいたとしてもそこをただちに「倭」とは表現するわけにはいかないというのは以前考察しました。
( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/441b6def7288dce95aaae8595198f4f7 )
そこでは「韓伝」などで使用されている「「倭」と接する」という表現が「陸続き」をただちに意味しないと考察したものであり(それは半島に「倭人」がいなかったという意味ではなく)、『倭人伝』当時「半島」に「倭地」はなかったということを述べたものです。

 ちなみに、先に提出した「出雲王権」と「筑紫」の関係を推察した際に「伊都国」と「奴国」に使用されている「官職名」について言及しました。そこでは「伊都国王」と「出雲王権」について「思いつき」を書いたわけであり、「国譲り」以降「筑紫」では「伊都国」の権威が低下し、そのため「一大率」に乗っ取られたような形となっているのではないかと見たものですが、この段階(国譲りの時点)以降「奴国」に権力が移っていたと考えています。それを示すのが「委奴国王」の金印と考えたものです。
 この「委奴国」が『倭人伝』の中に出てくる国のどれかであるという可能性は高いと思いますが、そうであればそれを示すもの(「権威」の象徴であり「周王朝」との関係を示すもの)が、「倭人伝」段階で「伊都国」「奴国」以外に見られなければならないと思われますが、実際にはこの両国以外には確認できません。このことは「委奴国」の後継は「伊都国」「奴国」のどちらかではないかと考える余地があるということでしょう。しかしすでに述べたように「国譲り」までは「伊都国」とみており、その後は「奴国」が九州北部に勢力を持っていたと見ていますので、必然的に「委奴国」は「奴国」であるという推論をしています。そうであれば「委奴国」は「倭の奴国」であろうと見たものです。
 「倭」が「地域名」にしか過ぎないとすれば「漢委奴国王」という表現も「倭」の「奴国」に対するものと理解する余地があると見たものです。少なくとも「倭」を挟んだことで「漢」と「奴国」の関係が直接的ではないということにはならないだろうと考えるものです。

「漢廉斯邑君」という称号の例について

 この称号についての指摘は首肯できません。山田様の理解に不審があるように思います。こちらの趣旨はそれ(「漢廉斯邑君」という称号の例)が「二段表記」なのは「三段表記」を避けている例として挙げたのであってそれ以上ではありませんから、そのことから直接の結論として当方に三段表記例を挙げる「挙証責任」があるとは考えません。

 また、ご批判を頂いた中に以下の文章がありました。
「上に見たように「倭」はこの時点では「国名」ではなくあくまでも一地方名であって、その地方に「奴国王」の上に位置する権力者は存在しない」、とされているのは、初めから「倭奴國」を「倭」の「奴國」とされているからとしか思えません。金印を授かったのは、なんと呼ぶべきか私はわかりませんが、「倭奴國」です。」
 この文章は両刃の剣であり、「初めから「倭奴國」を「倭」の「奴国」とは読めないとされているからとしか思えません。」と書き換える事ができてしまいそうです。さらに「金印を授かったのは、なんと呼ぶべきか私はわかりませんが、「倭奴國」です。」としており、それは「倭」と「奴」の間に線は引けないということをアプリオリに述べているように見えますが、しかし私たちは(少なくとも私は)「委奴」と一語で表記するのが妥当なのか「倭」「奴」の間に線を引く余地はないのかを議論しているのですから、このような物言いでは議論の意味がなくなります。

 この「倭」「倭王」等の論は古田氏以来多元史論者の間では「二段読み」が当然としてある意味「疑われていない」のではないかと考えて記事としたものです。私見が正しいかどうかは別として、今一度先入観を捨てて考えていただきたいと思っています。

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