山田様のブログ( http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/01/post-af54.html、http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/01/post-aa39.html など )で引き続き「瀚海」についての議論が行われています。その議論を見ていて考えたことを以下に書きます。
「瀚海」は(想定によれば)「邪馬壹国」からの使者がその帰途「魏」の使者を同行した際に説明を受けた中にあったと見られ、そう考えた場合「瀚海」は「邪馬壹国」という内陸にあった王権に属する人達の命名であり、九州島から見た視点で述べられていると思います。これを「対馬」に住む人達から聞いたとするなら彼らの感覚では「壱岐」との間も「半島」との間もさほど広さに変わりはないわけであり、特に「壱岐」との間だけに「翰海」という命名をする必然性に欠けるといえるでしょう。つまり「壱岐」を含んだ「九州島」側から見た視点での命名と思えるわけです。たとえば「壱岐」に「一大率」の本拠があったとすると、明らかに「広い」のは「対馬」の方向ですから、彼らが命名したとして不自然ではありませんが、より自然なのは「九州島」の内部にある地域の人達による命名というケースです。彼らにとって「壱岐」から向こう側に広がる海は「広い海」といえるのではないでしょうか。そもそも現代と船の構造や性能が全く異なりますから、私たちが現代の感覚で「海峡」が「広いはずはない」あるいは当時の人がこの海峡を「広いと感じていたはずがない」と考えるのは「単なる思い込み」ではないかと思います。
そもそも「瀚海」ではなく「翰海」と理解すべきならそう表記するはずではないでしょうか。「卑弥呼」の場合は「表音」として使用されていますから、「卑」でも「俾」でも良いと言うこと思われ、基本的には「人偏」を取って意味が変わっても問題があるわけではなかったと言うことでしょう。また「渡る」と「度」では既にこの時代で「度」で「渡」として通用していたと言う事情があったものです。もし「瀚海」を「翰海」として理解しようとするなら「翰」という文字が「瀚」として通用していたと言うことを示す必要があると思われます。「瀚」と「翰」は全く意味が異なるものであり、「瀚海」が「表音」ではなく「表意」であったと見るなら、「さんずい偏」を取って理解しようとするのは無理だと思われます。
但し「瀚海」の「瀚」は「呉音」が「ガン」のようですから、当時の「魏晋音」が「呉音」に近いとみれば後代の「玄海」の「玄」と近い発音となります。これを偶然ではないと考えるならば(呼称の対象となる海域は「玄海」の方が広いようですが)、そのまま現代に継承されているという可能性が考えられ、その場合「翰海」はそもそも「表音」であったかもしれません。しかしそうであっても「ガン」あるいは「ゲン」という発音を聞いて「瀚」の字を充てたのは「魏」側となりますから、その字面の撰定には意味があったこととなると思われ、やはりこの当時「瀚」と「翰」が通用していたということが証明されない限り「広い」という意味で「魏」側が使用したと理解せざるを得なくなります。
またそう考えた場合「翰海」はあくまでも「倭人」からの聴き取りの結果であることとなりますから、「倭王権」がこの海峡にだけ「名称」をつけていたという推測はますます可能性が高くなることにもなります。
ちなみに「其北岸」については( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/441b6def7288dce95aaae8595198f4f7 )で論じましたが、「North」なのか「Northern」なのか前後関係で判断するよりないと考えますが、「狗邪韓国」はその語尾に「韓国」という表記がされていることや、「官名」「風土の紹介」等の詳細情報が書かれていないことからも「倭王権」の統治下にはないと判断したものであり、その場合「北」は「Northern」つまり「北方の」という意味として理解すべき事となります。つまりここまで来ると対岸に「倭地」つまり「対馬」が見えるというわけです。そう考えた場合「朝鮮水道」に「倭王権」側から「海域名」(海流名としても)命名がなかったとしても納得できることとなるのではないでしょうか。