古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「瀚海」について

2019年01月20日 | 古代史

 山田氏のブログで『倭人伝』の中に出てくる「瀚海」について書かれています。そこでは「半島」と「対馬」の間ではなく「対馬」と「壱岐」の間に「瀚海」という名称が書かれている事について述べられています。( http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/01/post-6cf2.html )
 そこで述べられていることについて肥沼氏から「古田氏」の解釈にもとづく意見があり、それに対して山田氏が反論をしています。
 私見では山田氏の考え方が正しいと思われ、基本的に同意します。「瀚海」は確かに指摘されているように「対海国」(対馬)と「一大国」(壱岐)の間の海峡の名称と考えるのが相当でしょう。またこの「名称」(漢語)は「倭人側」の命名とみるのもまた正しいと思います。またそれらを含めて古田氏の言説をそのまま受けとらず理性的に判断しようとする姿勢にも賛意を表します。

 このように私が山田様のご意見に賛意を表するのは、ここだけに特に名称がついている理由として「対馬」までが「邪馬壹国」率いる「倭王権」の範囲であろうという当方の考えに一致していたからです。「対馬」以降に官名等詳細が記されるようになることからそう考えたものであり、もし「半島」にも「倭王権」の統治が及んでいるのなら「半島」と「対馬」間の「朝鮮水道」にも名前がついていて当然と思うからです。「対馬」に至って初めて「倭王権」の統治範囲に入ったと考えれば、その向こう側の海域には「倭王権」による命名がないのは当然といえます。そして「対馬」から「壱岐」までの間の海峡に名称がついているのは、そこが「倭王権」の領域内で通行・移動するための航海として「陸地」と「陸地」の間が最も距離があった海域だからと思います。
 当時は「沿岸航法」が一般的であったと思いますが、「半島」へ行くためには「一海を渡る」必要があったものであり、その中で特に「広い海峡」であるということから「広い」という意を含んだ「瀚海」と命名されたと考える余地もありそうに思えます。(この点は山田氏とは異なりますが、…)
 『倭人伝』ではこの二つの「一海」は共に「千余里」とされていますが(朝鮮水道も含めると三つの海峡が全て「千余里」となっている)、実際には九州と壱岐の間の距離に比べかなり壱岐と対馬の間の方が広いように思われ、実距離とはやや異なるようです。(これらの「千余里」は「魏」の使者の判断と思います。)

 いずれにせよ山田様の視点の多彩さに敬意を表するものです。

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