古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

太陽系外から飛来する小惑星(あるいは彗星)について

2019年01月05日 | 宇宙・天体

 かなり以前にも記事として書きましたが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/ad1b3e623e590d937a24d52d3c36f3ba)、6500万年前に大絶滅をもたらしたとされる小惑星との衝突という破滅的イベントは「木星」と「火星」の間にある小惑星帯にあった小惑星同士の衝突によって発生した多数の破片がその飛来源として推測されています。この場合はその多くが現在も黄道平面の近くに収まっており、その意味で観測には都合がよいと思われますが、他方黄道からかなり離れた平面を軌道とするものも存在しており、この場合観測がかなり困難となります。それは即座にその軌道予測も困難となることとなり、対策が後手に回ることとなります。
 現在はそこも観測対象として全地球的に観測網が整備されつつありますが、中には太陽系内にその起源を持たないようなものも含まれる可能性もあり、このような場合は速度が高くしかも太陽めがけて加速しまたスイングバイされるため、遠ざかる際の速度は飛来時を上回ることとなります。
 既に一昨年となりましたが、まさにそのようなものとして「オウムアムア」(Oumuamua)と呼称されるようになった天体の接近が観測されました。これはその形状が極端に球形からはずれた形状をしていたため(ほぼ棒状であった)ことから「葉巻型のUFO」などと噂もされましたが、結果的には太陽系の外部から飛来した「彗星」と判定されています。この「オウムアムア」は「こと座」のα星「ベガ」の方向からやってきて、発見時は秒速30Km弱であったようですが、その後太陽の至近で方向を変えた後加速し秒速40km程度となったことが観測されています。その後どんどんと太陽から離れていっており、現時点では土星軌道の距離程度まで離れていったようです。
 このようなものが地球など惑星の至近を通過することも考えられるため、実際には地球近傍を通過する可能性のある天体は私たちが思う以上に多いと言わざるを得ません。今回は「たまたま」地球軌道からかなり離れた軌道となりましたが、地球とニアミスあるいは衝突する場合かなりサイズの小さなものであっても被害が大きなものとなる可能性があります。

 また以前にも地球に700万キロメートルまで接近した小惑星があったという報道がされています。その大きさは4.5kmあったとされ、しかも衛星2個を伴っていたという情報までありますが、これはかなり「大きい」といえるサイズであり、さらに「700万キロメートル」というのは宇宙的には「すぐそば」というイメージであり、ちょっと驚愕です。またその「4.5キロメートル」という大きさも瞠目すべきであり、以前ロシアで観測された「隕石」(というより「微小小惑星」というべきでしょうか)の大気圏突入の際にはその衝撃波で多くの被害があったことが報告されていますが、このケースはかなり上空で本体の破壊があったため、被害もまだしも少なかったというべきでしょう。それは本体の大きさが数十メートルというレベルだったからであり、当然これより大きい「キロメートル」というオーダーの場合は(その入射角にもよりますが)、衝撃波によって破壊が進行するにも時間がかかることとなり、その分地表近くまで落ちてきてしまっているという可能性が高く、その場合衝撃波も閃光もより強烈なものが地表に届くこととなりますから、その威力として核爆弾と何ら異ならないものとなるため、甚大な被害が発生する可能性が高いと思われます。まさに「青天の霹靂」というべきものですが、地球における生物の進化にとって最も重要な不安定要因はこのような地球外から飛来する天体による衝突であるという研究もあるようであり、このような天体衝突による「大絶滅」は現在までも地球を何回か襲っていると考えられています。
 ただ問題はその「間隔」なのでしょう。生物の進化には数千万年から数億年という時間オーダーが必要であり、その途中で大絶滅が起きてしまうとその時点で進化がリセットされてしまい、なかなか高等生物の登場に至らないと思われる訳です。その意味で「木星」という巨大な惑星が太陽系の中程に存在しているというのは、地球にとって「露払い」の意味があり(木星がその引力で微少小惑星群が太陽方向に行かないよういわば「引っ張っている」ため)、この存在があったからこそ現在「人間」が生きていられるというわけです。

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古代オリンピックについて

2019年01月05日 | 古代史

 日本において「縄文」から「弥生」へという時代の変化の根底に一大気候変動があったという論を以前投稿していますが、それは当然全世界的な現象であり、全地球的に時代の転換を迫られたものとみられるわけです。それは文化や制度などにも表れているものであり、この時代に起源を持つものがいくつか見られます。その一つが「オリンピック」です。
 
 雪の降る日々が続きますが、昨年の冬「韓国」の「平昌」で冬季オリンピックが行われたのはまだ記憶に新しいところであり、私の住んでいる北海道からも多くの選手が出場し、彼ら、彼女らの日頃の鍛錬の成果により多くの感動的シーンが見られたものです。
 この「オリンピック」という「競技会」はその始原が「古代ギリシャ」にあり、「ヘラクレス」が「紀元前八世紀半ば」に始めたとする伝承があります。(これはほぼ無批判に「事実ではない」とされているようですが)
 このような「体力」や「筋力」の増強という「オリンピック」の持つ原初的な意味が「戦い」を前提としているのは明白といえるでしょう。「神」に奉納する意義があるとされていますが、だからといってそれが「前八世紀付近」で始まる理由とはならないのは確かです。

 その始源として「前八世紀」(紀元前776年に第1回大会が開かれたとされる)という時代が伝承されているのには当然理由があり、それは当時起きていた「気候変動」による民族移動、またそれによる域外勢力の侵入という事態が関係しているとみるのは当然です。当然のこととしてそれが非平和的なものであった可能性は充分あり、それに対抗して武器を持ち、振るい、投げまた走るというようなことが必須のこととなったものであり、そのためには「体力」、「筋力」が優れていなければならないわけですから、「ヘラクレス」がそのような戦いの場において活躍した多くの勇者の「投影」として存在していたものとみることができるわけです。その意味で「八世紀半ば」という時期を始源として伝えられているのは、それが決して「作り話」ではないことを示していると思われます。

 この当時ギリシャでもスパルタでも同様の動きがあり、そのようなポリスの人々がマッスル化を市民の必須の義務(あるべき姿)と考えていたものです。その後100年ほど経つと「競技」としてのスポーツが成立したとみられるわけですが、それは気候変動も一段落し人々の生活に若干落ち着きと余裕が出てきた段階であり、「戦い」を前提としたものではなくなったということではなかったでしょうか。この時期以降「健康」志向という点から体を鍛え、その成果を競うというようなことになったものと思われるわけです。

 アッシリアの「アッシュールバニパル王」のレリーフ(前八世紀)でも自らが直接手を下して「ライオン狩り」をしているのが描写されています。それもギリシャにおいて「ヘラクレス」がそうであったように「勇猛さ」が美とされていた時代に対応する動きであり、アッシリアにおいても「ライオンと戦えるほどに身体を鍛える」ということの示す意味として「戦闘」がその背景にあったとみるのが相当と思われます。それを「王」が行う事でアッシリア全体の人々を鼓舞する意味があったと考えられるでしょう。

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