古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「荒神」信仰と「津波」

2019年01月27日 | 古代史

 「出雲」で「銅剣」が大量に発見された「荒神谷」という地名は近くに「荒神」の社があったことから命名されたといいます。その「荒神」信仰は神道や仏教というような区分とは異なり、かなり「土着」的信仰であったと思われています。その「荒神社」はほとんど「瀬戸内沿岸」に集中しており、「岡山」を筆頭に「広島」「島根」「兵庫」「愛媛」「香川」「徳島」「山口」などの他「島根」など日本海側にも一部数えられます。その祭神としては「道祖神」の他「奥津彦命」「奥津姫命」「軻遇突智神」といういわゆる「火の神」に類する神が選ばれており、「竈神」として俗間の信仰が深かったものです。また、その他「牛頭天王」との関係も深いとされています。

 これらを見て感じることはそもそもその信仰されている地域として「弥生中期」に発生したと思われる「大地震」「大津波」の被害が特に大きかった地域と重なっているように思われることです。それはまたこの時代に形成されたと思われる「高地性集落」の地域とも重なっていると考えられるものです。
 この事から「推測」として「荒神社」という信仰が発生する要因となったものは「大地震」と「津波」ではなかったでしょうか。それを示唆するのが「牛頭天皇」と関連があるとされていることです。「牛頭天皇」は「素戔嗚尊」が道教的信仰に変化したものであり、「祇園社」の祭神となっていますが、この「祇園社」と「祇園祭」の起源に関係しているとされているのが「貞観地震」と呼ばれている今からおよそ千百年前に起きた東北を襲った大地震とそれによる大津波です。

 これについては以前( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/2c625fee02e83df6b33a954595a744b7 )などで簡単な考察をしましたが、『三大実録』や八坂神社の社伝である『祇園社本縁録』などによると「貞観地震」の十二日後に「清和天皇」は「御霊会」を行うこととしたものであり、「逆鉾巡行」の儀式を行っています。それは「素戔嗚尊」に対する鎮魂の儀式であったものです。
 当時「素戔嗚尊」は「高天原」にいるとされ、また「高天原」は関東(東の地の果て)にいるとされていたものです。地震はちょうどその場所で起きたものであり、「素戔嗚尊」の「祟り」がその原因と考えられたもののようです。「荒神社」の祭神として「素戔嗚尊」に関連する「牛頭天皇」が関係しているとされているのも「大地震」等の天変地異がその背後にあるのではないでしょうか。それを示すのが「民間」において「荒神」に対する信仰として「あやつこ」と呼ばれる風習があったことです。これは子供の「お宮参り」の際に、鍋墨(なべずみ)や紅などで、額に「×」印や「犬」という字を書くというものです。これは「悪魔よけ」とされていますが、これは「祇園社」から発行される「お守り」に「宇迦之御魂之神」という名前と共に「×印」が書かれている事に通じるものであり、更に「荒神谷」の銅剣に記された「×印」につながっているのではないかと考えます。

 「荒神谷遺跡」からは「三五八本」という多数の「銅剣」が出土しましたが、その大半に「×」印と思われるものが付けられていました。これらの「銅剣」は「武器庫」から出されたままの状態であったと推測したわけですが、「未使用」であったというわけではありません。それは「刃こぼれ」としか見えない傷が多くついていることから判断できます。これは「鋳造」の際に付着する「バリ」であるとする見解もあるようですが、そうではないと思われます。なぜならそのような「バリ」状のものは「刃」の部分にしか確認できないからです。「刃」以外には「バリ」らしいものが見えないようであり、握る部分だけバリをとったと理解するしかありませんが、それは合理的な理解とはいえないと思われます。 そう考えればこれは「刃こぼれ」と判断するべきであり、実際に使用されたと見ることができそうですが、そうであれば「×印」の意味も「荒神」信仰と同様「魔物よけ」であり、「戦い」の中で自分に対する危険を振り払う「呪術」として作用したと見ることができるでしょう。

 これらのことはこの「荒神」あるいは「荒神社」という存在と「魔除け」という一種の信仰がつながっていることを示しますが、それはこの「荒神」という存在が「祟り神」であることの裏返しではないかと思われるのです。
 「シリウス」に対する信仰の所でも触れましたが、本来の信仰は自然に対する「畏怖」に発するものであり、人間にはどうにもならないことが起きたときに、これを「祟り」つまり人間の何かの行いがその結果を招いたとする考え方となった可能性が高いと思われます。これを深く敬い、祭りを欠かさないことで「祟り」から逃れようとすることが原初的な信仰ではなかったかと思われるものであり(「太陽神信仰」もマウンダー極小期のように太陽活動に起因すると思われる気候変動がその契機と思われる)、この「荒神」も同様のものではなかったかと思われます。その「荒神」の集中している地域はすでに見たように明らかに瀬戸内周辺であり、この地域に何らかの「天変地異」が起きたことを推測させます。そして瀬戸内の「本州側」と「四国側」の両岸で同様に猛威をふるったとすると可能性が高いのは「大地震」とそれにともなう「大津波」ではなかったかと思われますが、それを示すのがこの地域で見られる「高地性集落」ではないかと考えます。
 既に述べたように「二〇〇〇年前」の地震と大津波に先立ち紀元前二五〇年付近でもかなりの規模の地震と津波があったと思われる訳であり、この「津波」発生時点で「銅鐸」が破棄されることとなったと見ているわけですが、それは「荒神信仰」と裏返しであったように思われる訳です。
 「銅鐸」という「祭器」が持っていた「神聖性」が「天変地異」の前に崩れ去ったときそれは「廃棄」されたものであり、改めて「祟り神」としての「荒神」が信仰されるようになったものであり、それは「出雲王権」の弱体化を示すものであったと思われるのです。それに対し「筑紫」の勢力はこの時の地震と津波の影響をそれほど受けなかったものではないでしょうか。それは「荒神社」が「筑紫」に見られないという事に現れているように思われます。「肥後」に僅かにあるようですが、そこより北には見られません。
 この時の大地震が「紀伊半島沖」に震源があったとすると九州島の内部ではそれほどの被害ではなかったという可能性が強いでしょう。(「龍神池」にも津波は侵入していないわけです)
 このように「荒神」に対する信仰が起きていたとすると「荒神社」の近くに「銅鐸」「銅剣」が廃棄されていたのは「偶然」ではないこととなるでしょう。

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「松帆銅鐸」の埋納時期と「津波」の関係

2019年01月27日 | 古代史

 今回通りすがりの素人様より「銅鐸」の埋納と大津波及び「高地性集落」の形成等に関連して考察した拙論に対し「松帆銅鐸」の存在の指摘があり、埋納時期と津波の関係にやや見直しが必要と考えられる事となりました。

 以前の記事で「弥生中期」あるいは「弥生後期」というような表現がありましたが、これについて(今更のようですが)検討してみます。
 「弥生時代」の実年代については以前は「弥生早期~前期初」が紀元前四〇〇~三〇〇年ごろ/弥生前期末が紀元前二〇〇~一七〇年ごろ/弥生中期末は紀元後一~五十年ごろ/弥生後期末は紀元後二五〇年ごろとされていましたが、「歴博」の「弥生時代」の始まりを五百年早めるという説の登場以来、大方の理解は「弥生早期と前期」を「紀元前七五〇年頃から紀元前四〇〇年付近、弥生中期をそれ以降紀元前後付近まで、それ以降二五〇年付近までを後期」と見るようになったと理解しています。それは「高知大学」の津波痕跡の調査からもいえるものであり、この地震が発生したと思われる約二〇〇〇年前である「紀元前後」に「弥生中期」と「後期」を分ける分岐点があると考えられることを示しており、それは即座に「近畿」で高地性集落が多く見られる時期に相当することとなり、また銅鐸が一斉に廃棄されるタイミングでもあったと見たわけです。ところがその理解を覆すものが淡路島から発見された「松帆銅鐸」と言われるものです。
 この銅鐸の「内部」の土中から「有機物」(樹皮など植物片)が出土し、その炭素年代測定の結果「紀元前四世紀中頃~前二世紀中頃」までの間にそれが土中に埋められたと推定できることとなりました。そのことはこれら「松帆銅鐸」そのものも同様の時期に埋められたと考えるべきことを示します。このことから銅鐸の埋められた時期として従来理解していた上記年代には疑いが生じることとなったものであり、実はもっと以前のことであったということになる可能性が高くなったものです。
 これに関して「通りすがりの素人」様は二〇〇〇年前という津波時期の推定に実際にはかなりの幅(誤差範囲)があることから、大津波の時期をもっと遡上して考え紀元前一五〇年付近と考えれば「松帆銅鐸」の埋納時期と重なるとされましたが、その推定と誤差の範囲でも重ならないサンプルがあることから、この提案は無理なのではないかと考えました。
 しかし「ただす池」(高知県須崎市)には二〇〇〇年前とは別に「前二五〇年」付近の津波堆積イベントも記録されており、このことは「二〇〇〇年前」の津波の時期の推定を遡上させるよりも、別の津波があったと見る方が合理的であることを示しているように思われます。これを基に更に検討した結果以下の推論が可能ではないかということとなりました。

 今回高知大学の津波痕跡の探索対象の池のうち痕跡が確認されたものとして「大分県佐伯市米水津の龍神池」「徳島県阿南市の蒲生田大池」「高知県須崎市のただす池」「高知県土佐市の蟹が池」「高知県南国市の石土池」「徳島県海部郡の田井ノ浜の池」「高知県高知市の住吉池」の計六箇所があり、このうち九州東岸の「龍神池」だけが紀元前二五〇年付近の津波痕跡が認められていないように見えます。他のより東方の池ではこの時にも津波痕跡が確認されているようであり、この時の地震の震源域として南海(紀伊半島沖)が想定できそうです。この場合であれば津波が来たとしても九州東部では陸域にある池まで及ぶことはなかったと見られます。しかしより震源域に近い「淡路島」においてはかなりの被害があったと見る事ができそうですから「松帆銅鐸」の土中廃棄と関連を考えることができるのではないでしょうか。そして更にそこから二〇〇年ほど経過後いわゆる「南海トラフ」の同時多発地震が起き、より広い範囲に被害があったと見ることも可能と思います。

 前二五〇年付近の最初の地震による津波が紀淡海峡から侵入し、瀬戸内周辺に被害を及ぼしたと見られ、この時点でこの地域を中心として「高地性集落」が形成されたと見られ、また「淡路島」と同様古い銅鐸の埋納が行われたという可能性があるでしょう。
 また「紀伊半島」においてもこの時点で「高地性集落」が形成されると共にかなりの銅鐸が「埋納」されたと見られます。(ただし一部はまだ低地に残留したものではなかったかと思われます)そしてそこから二〇〇年ほど経過してより規模の大きい地震があり、それに伴う大津波により各地に壊滅的被害があったと見られ(この時点で既に高地に移動していた勢力は生き残ったものとみられる)、この時点では「龍神池」にも津波の流入があったものであり、被害が九州北部にも及んだという可能性があります。このため各地でより多くの高地性集落が形成されたと見られ、多くの地域で「古い銅鐸」の土中廃棄が行われたと見ています。

 この一連の流れの中で最初の津波により被害が生じた瀬戸内の人々の「出雲」の祭祀(これが「銅鐸」を祭器とするもの)に対する「権威」が低下した結果「銅鐸」の土中廃棄が行われたものと思われますが、そこに「筑紫」の勢力が機に乗じて王権の移動を迫ったことで、この時点で「出雲」王権は完全に失墜したものであり、この時「銅剣」「銅矛」などの兵器も同時に埋納され、いわゆる武装解除が行われたと見ています。「淡路島」の「松帆銅鐸」も出雲の銅鐸と同笵関係が確認されており、「出雲」の影響下にあったことは確実と思われ、その意味で「出雲」を「祭祀」とし重要視していたものが行われなくなったことを示すと思われます。
 そしてその後の大津波により全国で被害があった時点以降被害がそれら他地域に比べ軽微であったとと思われる「筑紫」の勢力は一気にその影響範囲を拡大したものであり、ここに広い地域を統治する「王権」が移動したことを中国に報告し、それを認めて貰うため遣使したと思われ、それが『後漢書』にいう「漢委奴国王」の金印を授与された王権と思います。(私見ではこれはその後『倭人伝』にも出てくる「倭の奴国王」であったと思っています。)
 これ以降近畿中心に「見る銅鐸」が盛行し「出雲」とも「筑紫」とも重ならない別の勢力により地域的権力者が発生したものと思います。こちらは『倭人伝』にいう「狗奴国」ではないかと考えます。

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