「卑弥呼」についての分析を続けます。
既にみたように「後漢」の末期には天変地異の他、「大疫」(疫癘)と称される強い伝染病の蔓延があった可能性が高く、そのため一般の人々(特に農民)にとっては彼等を取り巻く環境が大きく悪化したものと思われるわけですが、その時「後漢王朝」とそれを支えていた人達は自己の権益を優先したため、事態の悪化を招いたものです。
「王権」を支えていた将軍達は自家の領域における権益の確保を優先したため「王権」を支える意識が低下したものであり、それは即座に「民衆」に対する視点の欠落となったため、「反乱」を起こすものや、他国領域へ「難民」となる人々が多数に上ったものです。「黄巾の乱」も彼等に対する救済が遂に「太平道」しかなくなったと思われたからこそ、「後漢王朝」に対して打倒の意識が集まったものと思われます。
そのような中で「難民」(流民)となって「故郷」を捨てて流浪する人々が増加し、彼等のうちかなりの数が半島へ移動したとみられ、更にその一部は倭国へ流入するという事態となったと思われます。(『新撰姓氏録』にも「後漢」の末裔と称する人々が数多くみられることが、そのことを物語っています。)
このような人の動きは「列島」の中に少なからず波紋を広げたものであり、居住地をめぐる争いというレベルの問題から、彼等によって持ち込まれることとなった「伝染病」も重大な影響を列島内にもたらすこととなったものと思われ、「後漢」と同様な天候不順や地震などという天変地異と重なって社会に混乱をもたらしたものと推測されます。
「新大陸」にヨーロッパから「天然痘」が持ち込まれた際には多くの原住民が亡くなったことがあるなど、「伝染病」は特にその「病気」に対する「抗体」を持っていない地域では破滅的な結果になる場合があります。「卑弥呼」の当時の日本列島にも同様のことが起きた可能性があるでしょう。特に列島内には家畜の習慣(特に牛)がなく、当時の人々は「牛痘」や「天然痘」に対する「抗体」は全く持っていなかった可能性が強いと思われます。(「弥生時代」に豚家畜の痕跡があるとされますが、それは渡来人によるものではなかったかと思われ、列島に元々いた人々については「家畜」を起源とする伝染病に対して抗体を全く持たなかった可能性が高いと推量します)
このため、かなりの感染者が出た可能性が高く、致死率も高かったでしょうから、各地で混乱が発生したものと考えられます。
このような「エピデミック」は現代でもなかなか沈静化させることは難しく、当時の「王権」には至難の事業であったと思われます。このようなときに「後漢」に「太平道」や「五斗米道」が起きたように「倭国」でも新しい宗教に救済を求める雰囲気ができあがった結果、「鬼道」に事える人物である「卑弥呼」に対する依存と信頼が民衆の間で発生したものと思われるわけです。
「宗教」にはいくつかの発展段階があり、「キリスト教」や「浄土教」など「来世」における救済を説くものは発展の後期段階のものであるのに対して、それ以前の宗教は「現世利益」あるいは「現世救済」を説くことが特徴です。社会の構造などが「強力」で不正が改善される気配や徴候が全く見られない時点において、現世ではそれらが決して解決されず救済もされないと多くの人々が考える(いわば「諦める」)時点において「来世救済」という考え方が発生するものです。つまり「来世救済」が説かれるまでは人生は「死」で終わるのであって「来世」という概念そのものがなかったというわけです。(あの世も天国もない)それらは後に仏教によって列島に持ち込まれた概念であり、それ以前には「救済」とはすなわち「命」が助かることを意味していたものです。(死とは救済されなかった状態を意味するものともいえます)
この「後漢」あるいは「倭」において「宗教」が求められたというのも、それは当然「現世利益」つまり「命」が助かることを多くの人々が望んでいたことを示しますが、それは言い換えると多くの人々の「命」が失われつつある現状があったことを示すものです。
それまでの男王にはそれほど「宗教的」な能力は必要とされず、俗務(実務)の占めるウェイトの方が大きかったものと見られますが、社会不安を鎮めるための能力は「男王」や彼を含む「王権」の当事者達にはなかったものであり、そのため「王権」の権威は大きく低下したものと思われます。このため、当時としては宗教的部分に偏る統治が求められたということではないでしょうか。
時代も地域も異なりますが、「新大陸」に「清教徒」が移民した際にも「天然痘」が繰り返し発生し多くの被害を出したとされますが、その時点でも「清教徒」の「聖職者」による「伝統的」というべき「宗教的救済」として「数日に及ぶ祈りと断食」がもっぱら行われたとされます。
「卑弥呼」もこれら「清教徒」集団における「聖職者」とほぼ似たような「使命」を帯びることとなったものと思われ、彼女も「宗教的救済」としての「祭祀」を行っていたものであり、それにより「神意」を読み取り、それを「民衆」に伝えるということにより「能く衆を惑わす」ということとなったものと見られます。
この「卑弥呼」の行為を「王」として行っていたことから、その行動は「国家行為」という高い次元のものとなったわけであり、「神勅」という形で民衆にそれが伝えられ、彼等にとるべき行動を限定させ、「暴発」が押さえられた民衆を「男弟」が「実務」、つまり実際の統治機構を機能させる役割の中で、彼が「コントロール」するという「兄(姉)弟統治」の体制が構築されたものと思われるわけです。
ところで『書紀』の『孝徳紀』をみると「薄葬令」の後に旧習を止めるようにと言う「詔」が続いています。そこでは「祓除(祓え)」がキーワードとなっています。
「…復有被役邊畔之民。事了還郷之日。忽然得疾臥死路頭。於是路頭之家。乃謂之曰。何故使人死余路。因留死者友伴。強使祓除。由是。兄雖臥死於路其弟不收者多。
復有百姓溺死於河逢者。乃謂之曰。何故於我使遇溺人。因留溺者友伴強使祓除。由是。兄雖溺死於河。其弟不救者衆。
復有被役之民。路頭炊飯。於是路頭之家。乃謂之曰。何故任情炊飯余路。強使祓除。
復有百姓就他借甑炊飯。其甑觸物而覆。於是。甑主乃使祓除。如是等類。愚俗所染。今悉除斷。勿使復爲。…」
以上のように「路頭」で亡くなったもの、「溺死」したもの、「路頭で炊飯」したもの、借りた「甑」(鍋のようなもの)などについて触れたものなどに対して「祓除」を強要しています。これらは「死」やそれにつながるもの及び「移動する人々」に対する警戒が根底にあると思われます。つまり、このような考え方は「旧習」であり、「愚俗」はこれに染まっているというわけですから、かなり以前からこのような風習が続いていたことを示唆しますが、それをたどると「卑弥呼」の「鬼道」にまで行くのではないでしょうか。
「卑弥呼」(および男弟)は「疫病」(「天然痘」など)を視野に入れて「死者」や「移動する人々」に対する警戒を「祓除」という形で防衛しようとしていたものと思われるわけです。(『倭人伝』中にも「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。」とする記事があり、「死」の持つ「穢れ」を「禊ぎ」により払い落とす意義を持つ行為であると思われますが、特にそれが「天然痘」などの「伝染病」への対策としてのものであったという可能性も考えられるところです。)
それが効果があるかは微妙ですが、このように「病原菌」が人の移動にともなうものという見識は持っていたものと思われることとなり、それに対する警戒であると理解できるでしょう。そう考えると「男弟」の仕事の中には「移動する人々」に対する「制限」や「禁止」あるいは「隔離」などの施策があったという可能性が出てくると思われます。つまり、「姉」である「卑弥呼」の「託宣」と表裏一体のものとして「実務」が行われたと見ることができると思われるわけです。これらを実施すれば「エピデミック」に多少の歯止めがかかりますから、「終息」が早まったという可能性もあるでしょう。
この考え方に近いものが「祓」となり、さらに後の時代(平安時代など)には自然国境である「川」「淵」「峠」などで「神」に「幣」(「木綿」など)を手向ける風習として残ったものと思われます。
たとえば『延喜式』には「六処界川共御禊」があり(『延喜式齋官式』)「山城」「近江勢多川」「甲賀川」「伊勢鈴鹿川」「下樋小川」「多気川」では「幣」を手向けるなど境界祭祀を行うこととされており、「伊勢神宮」の「齋官」の往還の際にも同様のことが行われていました。これらはそこに「境界神」がおり、そこを通過する人々に対し「清浄さ」を要求する意思の表れであり、「旅」の安全を祈る意義と共に「他」の領域からの「汚穢」で自らの領域が汚されることのないよう身を浄める事があったものです。これらは一見「宗教的」な部分にとどまるものと思われがちですが、実態としては「伝染病」に対する方策の一つであり、それを「宗教的」に具現化したものであることが了解できるでしょう。
この時「卑弥呼」が「王」となったこと、その後「壹與」もまた「王」となって政情が安定したことが伝えられていますが、このように「女性」あるいは「幼少」の人間が「祭祀」の主宰者として選ばれたということには二つの理由があったものと思われます。
一つは「王」の陰から実力者(この場合「男弟」)が実務をやりやすくするためですが、さらに一つは「実務」の能力が高いものは「霊的能力」が低いと思われ民衆の支持を受けられないと判断されたためではなかったでしょうか。
すでに述べたようにこの時代には成人した五体満足な人には「霊的能力」がない(欠けている)と考えられていたものと推測され、「祭祀」の主宰者には不適格とされていたものと思われます。その意味で「女性」(特に「幼少」あるいは「老齢」の女性)が「巫覡」として尊敬を集めていたものと思われるわけです。
「卑弥呼」以前には社会不安が少なかったため「王」には霊的能力の多寡は問われなかったものと思われるものの、「疫病」が流行り、天候不順などがあると実務能力が高いというだけでは民衆を律しきれなくなったものではないでしょうか。そのため複数年に亘って紛争が続くこととなったとみられるわけです。
「王権」を支えていた将軍達は自家の領域における権益の確保を優先したため「王権」を支える意識が低下したものであり、それは即座に「民衆」に対する視点の欠落となったため、「反乱」を起こすものや、他国領域へ「難民」となる人々が多数に上ったものです。「黄巾の乱」も彼等に対する救済が遂に「太平道」しかなくなったと思われたからこそ、「後漢王朝」に対して打倒の意識が集まったものと思われます。
そのような中で「難民」(流民)となって「故郷」を捨てて流浪する人々が増加し、彼等のうちかなりの数が半島へ移動したとみられ、更にその一部は倭国へ流入するという事態となったと思われます。(『新撰姓氏録』にも「後漢」の末裔と称する人々が数多くみられることが、そのことを物語っています。)
このような人の動きは「列島」の中に少なからず波紋を広げたものであり、居住地をめぐる争いというレベルの問題から、彼等によって持ち込まれることとなった「伝染病」も重大な影響を列島内にもたらすこととなったものと思われ、「後漢」と同様な天候不順や地震などという天変地異と重なって社会に混乱をもたらしたものと推測されます。
「新大陸」にヨーロッパから「天然痘」が持ち込まれた際には多くの原住民が亡くなったことがあるなど、「伝染病」は特にその「病気」に対する「抗体」を持っていない地域では破滅的な結果になる場合があります。「卑弥呼」の当時の日本列島にも同様のことが起きた可能性があるでしょう。特に列島内には家畜の習慣(特に牛)がなく、当時の人々は「牛痘」や「天然痘」に対する「抗体」は全く持っていなかった可能性が強いと思われます。(「弥生時代」に豚家畜の痕跡があるとされますが、それは渡来人によるものではなかったかと思われ、列島に元々いた人々については「家畜」を起源とする伝染病に対して抗体を全く持たなかった可能性が高いと推量します)
このため、かなりの感染者が出た可能性が高く、致死率も高かったでしょうから、各地で混乱が発生したものと考えられます。
このような「エピデミック」は現代でもなかなか沈静化させることは難しく、当時の「王権」には至難の事業であったと思われます。このようなときに「後漢」に「太平道」や「五斗米道」が起きたように「倭国」でも新しい宗教に救済を求める雰囲気ができあがった結果、「鬼道」に事える人物である「卑弥呼」に対する依存と信頼が民衆の間で発生したものと思われるわけです。
「宗教」にはいくつかの発展段階があり、「キリスト教」や「浄土教」など「来世」における救済を説くものは発展の後期段階のものであるのに対して、それ以前の宗教は「現世利益」あるいは「現世救済」を説くことが特徴です。社会の構造などが「強力」で不正が改善される気配や徴候が全く見られない時点において、現世ではそれらが決して解決されず救済もされないと多くの人々が考える(いわば「諦める」)時点において「来世救済」という考え方が発生するものです。つまり「来世救済」が説かれるまでは人生は「死」で終わるのであって「来世」という概念そのものがなかったというわけです。(あの世も天国もない)それらは後に仏教によって列島に持ち込まれた概念であり、それ以前には「救済」とはすなわち「命」が助かることを意味していたものです。(死とは救済されなかった状態を意味するものともいえます)
この「後漢」あるいは「倭」において「宗教」が求められたというのも、それは当然「現世利益」つまり「命」が助かることを多くの人々が望んでいたことを示しますが、それは言い換えると多くの人々の「命」が失われつつある現状があったことを示すものです。
それまでの男王にはそれほど「宗教的」な能力は必要とされず、俗務(実務)の占めるウェイトの方が大きかったものと見られますが、社会不安を鎮めるための能力は「男王」や彼を含む「王権」の当事者達にはなかったものであり、そのため「王権」の権威は大きく低下したものと思われます。このため、当時としては宗教的部分に偏る統治が求められたということではないでしょうか。
時代も地域も異なりますが、「新大陸」に「清教徒」が移民した際にも「天然痘」が繰り返し発生し多くの被害を出したとされますが、その時点でも「清教徒」の「聖職者」による「伝統的」というべき「宗教的救済」として「数日に及ぶ祈りと断食」がもっぱら行われたとされます。
「卑弥呼」もこれら「清教徒」集団における「聖職者」とほぼ似たような「使命」を帯びることとなったものと思われ、彼女も「宗教的救済」としての「祭祀」を行っていたものであり、それにより「神意」を読み取り、それを「民衆」に伝えるということにより「能く衆を惑わす」ということとなったものと見られます。
この「卑弥呼」の行為を「王」として行っていたことから、その行動は「国家行為」という高い次元のものとなったわけであり、「神勅」という形で民衆にそれが伝えられ、彼等にとるべき行動を限定させ、「暴発」が押さえられた民衆を「男弟」が「実務」、つまり実際の統治機構を機能させる役割の中で、彼が「コントロール」するという「兄(姉)弟統治」の体制が構築されたものと思われるわけです。
ところで『書紀』の『孝徳紀』をみると「薄葬令」の後に旧習を止めるようにと言う「詔」が続いています。そこでは「祓除(祓え)」がキーワードとなっています。
「…復有被役邊畔之民。事了還郷之日。忽然得疾臥死路頭。於是路頭之家。乃謂之曰。何故使人死余路。因留死者友伴。強使祓除。由是。兄雖臥死於路其弟不收者多。
復有百姓溺死於河逢者。乃謂之曰。何故於我使遇溺人。因留溺者友伴強使祓除。由是。兄雖溺死於河。其弟不救者衆。
復有被役之民。路頭炊飯。於是路頭之家。乃謂之曰。何故任情炊飯余路。強使祓除。
復有百姓就他借甑炊飯。其甑觸物而覆。於是。甑主乃使祓除。如是等類。愚俗所染。今悉除斷。勿使復爲。…」
以上のように「路頭」で亡くなったもの、「溺死」したもの、「路頭で炊飯」したもの、借りた「甑」(鍋のようなもの)などについて触れたものなどに対して「祓除」を強要しています。これらは「死」やそれにつながるもの及び「移動する人々」に対する警戒が根底にあると思われます。つまり、このような考え方は「旧習」であり、「愚俗」はこれに染まっているというわけですから、かなり以前からこのような風習が続いていたことを示唆しますが、それをたどると「卑弥呼」の「鬼道」にまで行くのではないでしょうか。
「卑弥呼」(および男弟)は「疫病」(「天然痘」など)を視野に入れて「死者」や「移動する人々」に対する警戒を「祓除」という形で防衛しようとしていたものと思われるわけです。(『倭人伝』中にも「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。」とする記事があり、「死」の持つ「穢れ」を「禊ぎ」により払い落とす意義を持つ行為であると思われますが、特にそれが「天然痘」などの「伝染病」への対策としてのものであったという可能性も考えられるところです。)
それが効果があるかは微妙ですが、このように「病原菌」が人の移動にともなうものという見識は持っていたものと思われることとなり、それに対する警戒であると理解できるでしょう。そう考えると「男弟」の仕事の中には「移動する人々」に対する「制限」や「禁止」あるいは「隔離」などの施策があったという可能性が出てくると思われます。つまり、「姉」である「卑弥呼」の「託宣」と表裏一体のものとして「実務」が行われたと見ることができると思われるわけです。これらを実施すれば「エピデミック」に多少の歯止めがかかりますから、「終息」が早まったという可能性もあるでしょう。
この考え方に近いものが「祓」となり、さらに後の時代(平安時代など)には自然国境である「川」「淵」「峠」などで「神」に「幣」(「木綿」など)を手向ける風習として残ったものと思われます。
たとえば『延喜式』には「六処界川共御禊」があり(『延喜式齋官式』)「山城」「近江勢多川」「甲賀川」「伊勢鈴鹿川」「下樋小川」「多気川」では「幣」を手向けるなど境界祭祀を行うこととされており、「伊勢神宮」の「齋官」の往還の際にも同様のことが行われていました。これらはそこに「境界神」がおり、そこを通過する人々に対し「清浄さ」を要求する意思の表れであり、「旅」の安全を祈る意義と共に「他」の領域からの「汚穢」で自らの領域が汚されることのないよう身を浄める事があったものです。これらは一見「宗教的」な部分にとどまるものと思われがちですが、実態としては「伝染病」に対する方策の一つであり、それを「宗教的」に具現化したものであることが了解できるでしょう。
この時「卑弥呼」が「王」となったこと、その後「壹與」もまた「王」となって政情が安定したことが伝えられていますが、このように「女性」あるいは「幼少」の人間が「祭祀」の主宰者として選ばれたということには二つの理由があったものと思われます。
一つは「王」の陰から実力者(この場合「男弟」)が実務をやりやすくするためですが、さらに一つは「実務」の能力が高いものは「霊的能力」が低いと思われ民衆の支持を受けられないと判断されたためではなかったでしょうか。
すでに述べたようにこの時代には成人した五体満足な人には「霊的能力」がない(欠けている)と考えられていたものと推測され、「祭祀」の主宰者には不適格とされていたものと思われます。その意味で「女性」(特に「幼少」あるいは「老齢」の女性)が「巫覡」として尊敬を集めていたものと思われるわけです。
「卑弥呼」以前には社会不安が少なかったため「王」には霊的能力の多寡は問われなかったものと思われるものの、「疫病」が流行り、天候不順などがあると実務能力が高いというだけでは民衆を律しきれなくなったものではないでしょうか。そのため複数年に亘って紛争が続くこととなったとみられるわけです。