古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「倭国」の中心が「筑紫」であることについて(補論)

2024年12月15日 | 古代史
 すでに「倭国」の領域について『隋書』の記述や『和名抄』の記事、あるいは「高麗」への援軍として参戦し捕虜となった人たちの出身地などの情報から「倭国」との範囲として「筑紫」を中心として「北部九州」と「四国」「中国地方」の半分程度がそうであったと考えたわけですが、そもそも「倭国」というのがどの領域を示すのか、その統治領域の範囲はどれほどかについてはそれを論証したものが見当たらないように思います。
 これについては先の「講演」において「中村修也先生」から「九州王朝」があると先に決めた論は納得できない旨の発言がありました。
 当方は「倭国」とは「筑紫」を中心とした領域であり、だからこそ「倭国」とは「九州王朝」に他ならないと考えているわけですが、それを積極的に論証することはなかなか面倒です。ただしいくつかの状況証拠的なものを集め検討した結果、「筑紫」を中心とした領域が「倭国」と考えられていたものであると推定しているところですが、その一端を紹介します。それは「寺院」に必須の「梵鐘」の存在です。

 「徒然草」には「天王寺」の楽について書かれた段があり、その末尾に「浄金剛院」の鐘について述べられ、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられています。

「再掲」(徒然草第二百二十段)
「何事も邊土は賤しく,かたくなゝれども,天王寺の舞樂のみ,都に恥ずといへば,天王寺の伶人の申侍りしは,當寺の樂はよく圖をしらべあはせて, ものゝ音のめでたくとゝのほり侍る事,外よりもすぐれたり。故は,太子の御時の圖今に侍るをはかせとす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。
 凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。『浄金剛院の鐘の聲,又黄鐘調也。』」

 研究によれば「妙心寺」の鐘は「観世音寺」の鐘と兄弟(同じ「木型」(鋳型の元となるもの)から作られた)とされています。さらに高さ及び厚みなどの寸法・構造も同じとされますから、当然発する音高も同じとなるはずです。(一般に鐘の音高は「開口部」の断面積に反比例し、開口端の厚みに比例するとされます。)
 実際に二〇一二年に行われた「九州国立博物館」における両鐘の「鳴り合わせ」イベントの際の動画データ(YouTubeで公開されているもの)を音声スペクトル解析ソフト(『WavePad』)で高速フーリエ変換したものを見てみると(もちろんネットから取得したデータと言うことで正確性は欠けますが)、共に同じ129ヘルツ付近に「基音」(最も低い音高)があるように判断できます。ただし、高周波成分については両鐘でやや差があり、それが音色の違いとなっているように思えますが、このような高周波成分は減衰も大きく、遠方まで聞こえるものではありません。低音部はエネルギーも大きいため減衰も少なく遠く野山を越えて聞こえるものですからその部分こそが「梵鐘」の機能として重要であり、それは両鐘で共通しているというわけです。
 実際に「妙心寺鐘」について正確にその音の高さを測定した記録があり、その解析によれば、基音成分として125.2Hz と130.1Hz が計測され、聴感上の基音は「204msec」を周期とする「うなり」(ビート)を伴う周波数127.7Hz の音となるとされますから、これは間違いなく「黄鐘」(こうしょう)に相当するものです。(※)
 つまりこれらの鐘は「天王寺」の鐘が鋳造された時点からかなり後代のものとみられるわけですが、その「基準音」は共に同じというわけです。これが「天王寺」と同時代の製作ならば不自然ではありませんが、はるか後代の「文武朝」であるというところが問題でしょう。
 「天王寺」の「鐘」が鋳造された時代以降、「唐」とは何度も交流があったわけであり、この鐘が鋳造された時期に「唐楽」についての情報が入ってこなかったはずはないと思われるわけですが、にも関わらず「呂才」により改正された「音律」を音階として使用していないことに注目すべきです。
 「糟屋評」には「踏鞴鉄」の工房があったという報告があり、ここで「冶鉄」が行われていたと見られるわけですが、同じ工房で「青銅製品」の鋳造も行っていたとして不思議はありません。そこで「梵鐘」が鋳造されていたとみられるわけですが、この時点で依然として「唐」以前の古音階を発するように鋳造されているのは「不審」であるかも知れませんが、それは「寺院」における「鐘」の存在の示す意味につながるものであったと思われるのです。
 これについては当時のわが国では「寺院」の鐘というものは「黄鐘」の音律に適うべきと言う思想があったと見るべきとも考えられます。それは「鐘」の「音」が「無常」を示す意義があったからです。
 有名な「平家物語」の「序」にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文章は単なる「無常観」を表現したものではなく、実際に「鐘の声」は「黄鐘」という「音律」に則ったものでなければならなかったということを意味しているのです。それは「黄鐘」という音高が「四季」を表すものであり、またその意味で移り変わりを表すことから仏教的には「無常」観につながっているのです。
 上の「徒然草」においても「凡そ鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり」とあり、「寺院」の「鐘」というものはすべからく「黄鐘調」でなければ「無常の調子」とならず、そうでなければ「祇園精舎の無常院の鐘と同じにならない」というわけです。
 たとえば、『淮南子』には以下のようにあります。

「中央土也。其帝黄帝,其佐后土,執繩而制四方。其神爲鎮星。其獸黄龍,其音宮,其日戊己」
「黄鍾爲宮,宮者音之君也」
「甲乙寅卯木也。丙丁巳午火也。『戊己四季土也。』庚辛申酉金也。壬癸亥子水也」
(以上『淮南子』巻三「天文訓」より)

 これらによれば「中央は土」であるとされる他、音は「宮」,日は「戊己」などとされることや「黄鍾」は「宮」であり、その「宮」は音の君とされていること、さらには「中央」を表す「戊己」は「四季の土」であるというわけであり、結局「黄鍾」は「四季」を表すものということとなって、このような「五行説」に基づいて「梵鐘」の音髙は「黄鍾調」でなければならないとしていたものと推察されるわけです。
 そう考えると、「鐘」の構造は「規格化」されていたとも考えられます。「黄鐘」の音高を発する必要があるとすると、あえて構造や厚さを変える必要がないからです。その意味で「糟屋」の工房では同じ鋳型から「鐘」の製造を一手に引き受けていたという可能性もあるでしょう。それを示すように「天武紀」には「筑紫」から「大鐘」が献上されたという記事があります。

「(天武)十一年(六八二年)春正月乙未朔…癸未。筑紫大宰丹比眞人嶋等貢大鐘。」

 このように「妙心寺鐘」にわずかに先行して製作された鐘があったとするわけですから、この「大鐘」も同じ「糟屋」工房で製作されたものであり、同じ「木型」から鋳造されたとみられますから、当然この「大鐘」もまた「黄鐘調」の音高であったと思われる事となります。
 ちなみにこの「大鐘」はどの寺院に使用されたのかというと、この「大鐘」献上の約一年前の六八〇年十一月には「薬師寺」の造営が始められたという記事がありますから、この「大鐘」は「薬師寺」に入るはずのものではなかったかと推定できます。(ただしこれらの記事群には年次移動の可能性はありますが)

「(天武)九年(六八〇年)十一月壬申朔…癸未。皇后體不豫。則爲皇后誓願之。初興藥師寺。仍度一百僧。由是得安平。是日。赦罪。」

 ここでは「貢」ずるとされていますから「王権」に献上されたものであり、この当時「王権」が関与している建築中の寺院はこの「薬師寺」だけのようですから、「筑紫大宰」が献上するとしたらこの「薬師寺」が最も適当と思われます。(ただし現在の「薬師寺」「新薬師寺」双方の「梵鐘」とも「八世紀」の鋳造と考えられていますから、この時の「梵鐘」とは異なると思われ、何らかの理由により失われてしまったと考えられます。)
 さらに言えばこの「黄鐘調」の鐘は全て「勅願寺」(或いは「皇后」「太子」などの「準勅願」とでもいうべき「御願」によるもの)にだけ納められたものではなかったでしょうか。
 このような「黄鐘調」の鐘は、上に見たように「淮南子」では「音之君」とされていますから、実際上も「倭国」では「君」以外には使えなかったという可能性があるでしょう。それはこのような「黄鐘調」の鐘の倭国への伝来について考えた場合、「中国」(隋)からの使者が持参した物品の他に「寺院」とそれに関するものについても相当量の下賜物があったと見られ、その中に「梵鐘」もあったと推定されるからです。
 この時の「隋」からの使者は「文帝」が派遣したものであるのは間違いないところですが、彼は仏教を国教としていましたから、夷蛮の国が仏教に深く帰依するとか寺院を造るという場合にそれに補助しなかったとすると不自然であると思われます。つまり「倭国」においても「隋」の肝いりで寺院が建設されたとみられ、それが「元興寺」であろうというのが私見であるわけですが、その時点で「梵鐘」についても当然「隋」の技術により鋳造されたとみることができると思われ、その音高が「黄鐘調」であったとするのもまた当然であると思われるわけです。(寺院が造られたにも関わらず梵鐘が備わっていなかったとするとそれもまた大変不自然といえるでしょうから。)
 また当然「鐘」を持ってきたというわけではなく、「木型」を作成する技術者が隋使とともに来て、「木型」を作製し(これ知ってみれば「母型」(マザー)であり、そこから銅を流し込む本来の「鋳型」を作製していたものと思われる)梵鐘を作成する技術を伝えたものと思われます。
 そう考えると、この時の「倭国」において「倭国王」以外の家臣や一般人が「黄鐘調」の鐘を製造したり使用したりはできなかったという可能性が高いと推量できます。これらは「隋皇帝」から「倭国王」への贈呈品であり、その意味でもこれら「黄鐘調」の鐘は全て「倭国王」直属の工房で作られていたものとみることができそうであり、それが「筑紫」(糟屋或いはその周辺)で作られていたということになるということからも、当時の倭国の中心が「北部九州」にあったことが推定できるわけですが、「天王寺」の「鐘」もまた「筑紫」で作られたとみられることとなり、少なくとも「天王寺」もまた「倭国王」の勅願であり、それが「難波」にあったというわけですから、その「難波」という地がこの時点で「倭国王」の直轄地域として存在していたことが窺えるものです。
 
(※)明土真也「音高の記号性と『徒然草』第220 段の解釈」(『音楽学』58号二〇一二年十月)


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