古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「和銅」出土と「不比等」

2018年12月30日 | 古代史

 「多胡碑」がある場所からほど遠くないところに「和銅」出土の地があります。『続日本紀』によれば、この地から「和銅」(純度の高い自然銅)が出土し、それが朝廷に献上され、これを契機に「催鋳銭司」を設置したと書かれており、そのトップとして「丹比真人三宅麻呂」が任命されています。

「(七〇八年)和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。現神御宇倭根子天皇詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻■尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。如是治賜慈賜來留天豆日嗣之業。今皇朕御世尓當而坐者。天地之心乎勞弥重弥辱弥恐弥坐尓聞看食國中乃東方武藏國尓。自然作成和銅出在止奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗乃相于豆奈比奉福波倍奉事尓依而。顯久出多留寳尓在羅之止奈母。神随所念行須。是以天地之神乃顯奉瑞寳尓依而御世年號改賜換賜波久止詔命乎衆聞宣。故改慶雲五年而和銅元年爲而御世年號止定賜。是以天下尓慶命詔久。冠位上可賜人々治賜。大赦天下。自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪无輕重。已發覺未發覺。繋囚見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。謀殺人已殺。賊盜。常赦所不免者。不在赦限。亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。高年百姓。百歳以上。賜籾三斛。九十以上二斛。八十以上一斛。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。優復三年。鰥寡■獨不能自存者賜籾一斛。賜百官人等祿各有差。諸國國郡司加位一階。其正六位上以上不在進限。免武藏國今年庸當郡調庸詔天皇命乎衆聞宣。是日。授四品志貴親王三品。從二位石上朝臣麻呂。從二位藤原朝臣不比等並正二位。正四位上高向朝臣麻呂從三位。正六位上阿閇朝臣大神。正六位下川邊朝臣母知。笠朝臣吉麻呂。小野朝臣馬養。從六位上上毛野朝臣廣人。多治比眞人廣成。從六位下大伴宿祢宿奈麻呂。正六位上阿刀宿祢智徳。高庄子。買文會。從六位下日下部宿祢老。津嶋朝臣堅石。无位金上元並從五位下。
二月甲戌。始置催鑄錢司。以從五位上多治比眞人三宅麻呂任之。讃岐國疫。給藥療之。」

この人物は「碑文」の中で「左中弁丹比真人」と書かれた人物と同一と思われ、その彼が発布した文章が碑文の「宣」と思われる訳です。
 「丹比真人三宅麻呂」は、「催鋳銭司」に選任されていますが、この地位は当事「大納言」であった「不比等」が選んだ可能性が高いと考えられます。すでに見たように「藤原不比等」は関東に関係の深い人物と考えられ、その関東から出た「和銅」に「彼」が関係していないとは考えられないからです。 
 また、「鋳銭司」は「大蔵省」の下にあった機関ですが、実際には「原材料」が出土する地方の国府に近いところに置き、該当する国府に管理させた事が記録に残っているため、この時も同様であったとすると、長官に任命された「三宅麻呂」もこの地方に頻繁に訪れていた可能性もあり、この地の「郡司」であったと考えられる「羊」(羊大夫)とは「既知の間柄であったでしょう。

 その三宅麻呂が発布した「碑文」の文章ではこの地に「多胡」郡を新たに設置したことになっています。(帰化人が多い地域であったことから「胡」(えびす…外国人のこと)が多(多い)という意を含んだ郡名称となっているのではないでしょうか)
 そして、その新たに設置した郡を「羊」という人物に「給」しているのです。しかもその郡の戸数は「三百戸」と書かれていますが、『続日本紀』によれば「三百戸」の位封は「従二位」に相当し、地位で言えば「右大臣」に相当するのです。そして、この当時「右大臣」といえば「藤原不比等」なのです。
 この「郡」を「羊」に「給」したのは「和銅」発見に関連するものであり、一種の褒賞と考えられ、結果的にその「多胡郡」の位封は「不比等」の元に入ったと考えられるわけであり、裏のシナリオは「不比等」が書いていたという可能性があるでしょう。 
 現地資料の一部には群馬地方特産の品物を奈良の天皇の元に日参したことから褒章としてもらった、という記事がありますが、この程度ではこのような膨大な領域を特定の個人には「給」したりはしないと考えられ、何か別の功績を認めたからに他ならず、「和銅」の件との関連が考えられるものです。
 
 改元の理由付けとして、自然銅(「和銅」)が発見されたので、それを「瑞祥」として改元し、記念に貨幣を鋳造、発行したということになりましたが、実際には「武蔵国秩父郡」には銅山がないと考えられています。
 この地から出土した「銅」(和銅)が「和同開珎」鋳造に使用された形跡はありません。実際には他の地で産出した銅が使用されたのです。「新和同」の産地は「山口県」(長登銅山)ですし、「古和同」は「大分県」(香春銅山)と考えられているわけです。「秩父」からは少量は出ても、貨幣鋳造に必要なほどではなかったか、あるいはまったく出なかったかと考えられます。つまり「秩父からの自然銅」というのは、いってみれば「でっち上げ」(詐欺)であり、この主役が「藤原不比等」と考えられ、「三宅麻呂」と「羊」という人物がその手下であったらしいと考えられます。
 似たような事例としては、対馬から金が出た、という記事が『続日本紀』にありますが、これも後年「詐欺」であったことが露見しています。この時は「大伴御行」が絡んでいたようです。

「(七〇一年)大寳元年…
八月…丁未。先是。遣大倭國忍海郡人三田首五瀬於對馬嶋。冶成黄金。至是。詔授五瀬正六位上。賜封五十戸。田十町。并■綿布鍬。仍免雜戸之名。對馬嶋司及郡司主典已上進位一階。其出金郡司者二階。獲金人家部宮道授正八位上。并賜■綿布鍬。復其戸終身。百姓三年。又贈右大臣大伴宿祢御行首遣五瀬冶金。因賜大臣子封百戸。田■町。注年代暦曰。於後五瀬之詐欺發露。知贈右大臣爲五瀬所誤也。撰令所處分。職事官人賜祿之日。五位已下皆參大藏受其祿。若不然者。彈正糺察焉。」

 このように当時瑞祥として鳥や亀などが発見されたり、金や銅が発見されたりした中にかなりの数の「詐欺」「欺瞞」があったことが推定されます。それというのもかなりの褒賞や税の減免などがあるなど、発見者を装うための動機を形成するに十分な背景があったものです。「対馬」からの「金」献上の場合「冶金」したとされる「三田首五瀬」という人物は「雑戸」という地位から脱却したかったという点が大きいものと思われます。
 ただし「対馬」の「金」については「大伴御行」も欺されていたことがいわれておりますから、「和銅」の場合も「大伴御行」と同様「不比等」自身もだまされたものなのかもしれません。あるいは「丹比真人三宅麻呂」さえも巻き込まれた被害者であったというシナリオもありそうです。


(この項の作成日 2011/01/17、最終更新 2012/09/04)(旧ホームページ記事より転載)

 


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