以前「遣隋使」についての投稿を行いましたが、その投稿は同内容で古田史学会報にも投稿していたものですが、未採用となっているものです。その理由は定かではありませんが一つの理由として「長すぎる」というものがあったように思います。それに関して当時投稿の際に付した文章を掲載します。これはいわば「長くなる」ことについての説明、というより「言い訳」ですが、本音も入っています。
(以下当時の添付文)
「遣隋使」問題についての投稿は従前の理解にかなり強い疑いを突きつけるものであり、影響はそれなりに重大であると考えています。
従来一般的にはこの『隋書』と『書紀』の記述の「違い」について「年代」としては同一ではあるものの「裴世清」と対応した「倭国王」の立場を慮ってもっぱら『書紀』の側が脚色されているというような議論が行われているようです。
これに対し古田氏の論はこの二つの記事を同一のものとは見ずに、別の時点のものとして考える立場のものです。
古田氏の論は以下のような点を総合したものです。
①「唐使」「大唐」等の「唐」表記からこれを「唐使」であり「遣唐使」として「皇帝」を「唐」の高祖とするもの。
②「裴世清」の官位の違いを時代差とみる立場から「文林郎」を「隋代」、「鴻櫨寺掌客」を「初唐」として理解し、降格処分を受けたとするもの。
③『隋書』と『書紀』で「国書」の有無の違いがある点もこれを時代差としてみるもの。
④「国書」の内容の「寶命」という表現から「初代皇帝」に特有のものと理解し、それと類似の「国書」の存在から「初唐」の時代に「唐」の高祖が出したものと理解するもの。
⑤『書紀』の「呉国」記事からこれを「初唐」の時期に存在した「呉国」にあてて考えるもの。
⑥傍証として「扶余豊」の「質」の時期を「義慈王」の即位以降として考えるほうが正当とする立場からのもの。
⑦『元興寺縁起』に書かれた「裴世清」記事は後代の潤色がみられ、信頼性が低いとみる立場からのもの。
以上のような論点で構成されており、論として多角的・総合的・論理的であり、これに対するまっとうな批判・反論をいまだに見ません。
ただし、一般的にこの種の議論は『隋書』と『書紀』のいずれに問題があるかという観点で行われており、その点は古田氏の議論においても例外ではなく『隋書』に書かれた内容については疑いを持たれておられないようであり、問題は『書紀』にのみあると理解されているようです。
それに対し私はこの二つの記事が同一の時点のものではないという古田氏の見解に同意しつつ、『隋書』と『書紀』のいずれにも重大な問題があるという可能性を指摘することにより、この『推古紀』の国書の「唐帝」も「大業八年」の「隋帝」もいずれも「煬帝」ではなく、また古田氏のいうような「唐」の「高祖」でもなく、実際には「隋」の「高祖」である「楊堅」(文帝)であることを論証しようとするものです。
そのためにはこれら古田氏が挙げた各論点について逐一検証・批判しながら論を進める必要があり、さらに「遣隋使」の真の派遣時期が「隋初」である理由を別に説明する必要があります。
古田氏の上げた各論点について検証してみると、
①については「唐」という表記が「隋」という表記をあえて隠蔽するために使われているとみられること。
②「裴世清」の官位問題は、「裴世清」について残された記録から「六二五年」という年次付近で「四品」程度まで昇進していたことが判明し、「唐初」で「鴻櫨寺掌客」であるとすると昇進速度という点で無理があると思われること。特進があったとするなら、たとえば戦功があった場合などにはみられるものの、それは「武官」(武将)に限られ「文官」であったとみられる「裴世清」の場合には適用されないものと思われること。
③について「寶名」問題は確かに「初代皇帝」にかかわるものとは思われ(ただし二代皇帝である「煬帝」にも「唐」の「太宗」にも使用例は見られるものの)、その点が正しいとは思われるものの、「南北朝」以降は「周」の古代の使用例から外れ「禅譲」による「即位」に関して使用されるようになったとみられ、「前王朝」「前皇帝」との関連を意識した用語と思われること。その意味では「唐」の「高祖」だけではなく「隋」の「初代皇帝」である「高祖」(文帝)にも当てはまるといえること。
④の「呉」という表記が『書紀』では「南朝」を指す常套語であることから帰納してここも同様とみるべきであり、この時点でまだ「南朝」が健在であった時期を措定すべきこと。
⑤「扶余豊」の「質」の時期は「遣隋使」問題とは別の問題であり、それは『書紀』が参考とした資料が『隋書』までであったからであり、『隋書』の記載範囲を超える時期のものについては、それ以前のものと同質、同内容の潤色があったと考えるべきではないこと。『書紀』編者はあくまでも『隋書』の中の「倭国関係」記事との対応だけを考えたものと思われること。
⑥『元興寺縁起』にみられる「裴世清」記事には「副使」として「偏光高」の存在と彼の職掌が書かれており、その表記は「隋初」の時期にこそ適合するものと思われ、かえって資料の信頼性が高いとみられること。
以上のように古田氏により精緻な議論が行われたにもかかわらず、なお疑問とすべき点があることが知られ、他の考え方の成立する余地があるように思われます。
そして、当方が提示する論として『隋書』と『書紀』の双方に疑問がある点(以下のもの)について細かく述べる必要があります。
⑦『隋書』の成立の事情から推測して「大業年間」の記事には年次移動の可能性が考えられること。(「大業起居中」が欠落しているにも関わらず「大業年中記事に「皇帝」の「言動」が記されている)
⑧『隋書』の「裴世清」の発言の中にある「宣諭」という用語に注目し、それが「天子」標榜を糾弾する意図から発せられたものとみられることから、『書紀』の記事内容とは全く整合しないこと。国書不携帯という事情も彼が「文林郎」という官職で派遣されていることも同様の理由からであること。そう考えればそれ以前の国交回復時に「国書」がもたらされていて当然であること。その国書が『推古紀』に書かれたものと考えられること。その内容も確かに国交開始時点と思われる文言を含んでいること。
⑨『隋書』中の「倭国王」の使者の発言(「聞海西菩薩天子重興佛法」)と「裴世清」に接見した「倭国王」の発言内容(「我聞海西有大隋禮義之國」「冀聞大國惟新之化」)が「隋」の「高祖」について発言されたものと考えて高度に整合的であること。
⑩「隋」の「開皇年間」に整えられた「隋代七部楽」の中に「倭国」の楽が入っていることから、「倭国」の楽が「隋初」にすでに伝わっていたとみられること。それは当然「遣隋使」によったものとみるべきであること。
⑪『書紀』の「裴世清」を迎える儀礼や服装の内容が「南朝」的であること。『隋』からの使者を「隋制」に則って歓迎するのは重要な儀式であり、また義務であったとみられること。そのことから「隋」との国交がそれ以前に回復していたとは考えられず、これが国交成立時の記事であるとみられること。
⑫「文帝」に「寶命」の使用例が少ないのは彼は「周」(北周)の制度等を全く継受せずかえって「北斉」の制度を取り入れて「隋制」を整えていることなど「北周」からの禅譲を標榜しながら実際には「北周」との関係について「清算」したという意識があったとみられ、その意味で「天命」意識があったことと、「皇帝」の座に就いたのは「仏教」の「三十三天」の加護があったためという特別な関係を強調するがためとみられること。さらに倭国に対して「寶命」を使用したのは「寶命」が「南北朝」以降の王朝からの「継続性」を強く意識した用語となったためであり、「倭国」が継続して「中国」に遣使してきたという事実に対応するためのものと思われ、「高句麗」に対する「天命」がそれまでの「北朝」と「高句麗」の関係(友好的であったもの)を清算する(してもいいという)意識からのものというように相手の出方によって使い分けされていると思われること。
⑬「伊吉博徳」の発言の中に「洛陽」を「東京」と表現している部分があり、そのことから「煬帝」により「東都」と改称されたとされる「大業五年」以降「洛陽」に「遣隋使」が行ったとは考えられないこととなり、そのことからも『隋書』の年次に疑いがあること。
以上の内容を含んでいます。そのためやむを得ずボリュームが多くなってしまいました。可能な限り短縮を試みましたが、かなり困難な状況です。よってそれを理由として掲載されないことには全く異議を唱えません。
従来一般的にはこの『隋書』と『書紀』の記述の「違い」について「年代」としては同一ではあるものの「裴世清」と対応した「倭国王」の立場を慮ってもっぱら『書紀』の側が脚色されているというような議論が行われているようです。
これに対し古田氏の論はこの二つの記事を同一のものとは見ずに、別の時点のものとして考える立場のものです。
古田氏の論は以下のような点を総合したものです。
①「唐使」「大唐」等の「唐」表記からこれを「唐使」であり「遣唐使」として「皇帝」を「唐」の高祖とするもの。
②「裴世清」の官位の違いを時代差とみる立場から「文林郎」を「隋代」、「鴻櫨寺掌客」を「初唐」として理解し、降格処分を受けたとするもの。
③『隋書』と『書紀』で「国書」の有無の違いがある点もこれを時代差としてみるもの。
④「国書」の内容の「寶命」という表現から「初代皇帝」に特有のものと理解し、それと類似の「国書」の存在から「初唐」の時代に「唐」の高祖が出したものと理解するもの。
⑤『書紀』の「呉国」記事からこれを「初唐」の時期に存在した「呉国」にあてて考えるもの。
⑥傍証として「扶余豊」の「質」の時期を「義慈王」の即位以降として考えるほうが正当とする立場からのもの。
⑦『元興寺縁起』に書かれた「裴世清」記事は後代の潤色がみられ、信頼性が低いとみる立場からのもの。
以上のような論点で構成されており、論として多角的・総合的・論理的であり、これに対するまっとうな批判・反論をいまだに見ません。
ただし、一般的にこの種の議論は『隋書』と『書紀』のいずれに問題があるかという観点で行われており、その点は古田氏の議論においても例外ではなく『隋書』に書かれた内容については疑いを持たれておられないようであり、問題は『書紀』にのみあると理解されているようです。
それに対し私はこの二つの記事が同一の時点のものではないという古田氏の見解に同意しつつ、『隋書』と『書紀』のいずれにも重大な問題があるという可能性を指摘することにより、この『推古紀』の国書の「唐帝」も「大業八年」の「隋帝」もいずれも「煬帝」ではなく、また古田氏のいうような「唐」の「高祖」でもなく、実際には「隋」の「高祖」である「楊堅」(文帝)であることを論証しようとするものです。
そのためにはこれら古田氏が挙げた各論点について逐一検証・批判しながら論を進める必要があり、さらに「遣隋使」の真の派遣時期が「隋初」である理由を別に説明する必要があります。
古田氏の上げた各論点について検証してみると、
①については「唐」という表記が「隋」という表記をあえて隠蔽するために使われているとみられること。
②「裴世清」の官位問題は、「裴世清」について残された記録から「六二五年」という年次付近で「四品」程度まで昇進していたことが判明し、「唐初」で「鴻櫨寺掌客」であるとすると昇進速度という点で無理があると思われること。特進があったとするなら、たとえば戦功があった場合などにはみられるものの、それは「武官」(武将)に限られ「文官」であったとみられる「裴世清」の場合には適用されないものと思われること。
③について「寶名」問題は確かに「初代皇帝」にかかわるものとは思われ(ただし二代皇帝である「煬帝」にも「唐」の「太宗」にも使用例は見られるものの)、その点が正しいとは思われるものの、「南北朝」以降は「周」の古代の使用例から外れ「禅譲」による「即位」に関して使用されるようになったとみられ、「前王朝」「前皇帝」との関連を意識した用語と思われること。その意味では「唐」の「高祖」だけではなく「隋」の「初代皇帝」である「高祖」(文帝)にも当てはまるといえること。
④の「呉」という表記が『書紀』では「南朝」を指す常套語であることから帰納してここも同様とみるべきであり、この時点でまだ「南朝」が健在であった時期を措定すべきこと。
⑤「扶余豊」の「質」の時期は「遣隋使」問題とは別の問題であり、それは『書紀』が参考とした資料が『隋書』までであったからであり、『隋書』の記載範囲を超える時期のものについては、それ以前のものと同質、同内容の潤色があったと考えるべきではないこと。『書紀』編者はあくまでも『隋書』の中の「倭国関係」記事との対応だけを考えたものと思われること。
⑥『元興寺縁起』にみられる「裴世清」記事には「副使」として「偏光高」の存在と彼の職掌が書かれており、その表記は「隋初」の時期にこそ適合するものと思われ、かえって資料の信頼性が高いとみられること。
以上のように古田氏により精緻な議論が行われたにもかかわらず、なお疑問とすべき点があることが知られ、他の考え方の成立する余地があるように思われます。
そして、当方が提示する論として『隋書』と『書紀』の双方に疑問がある点(以下のもの)について細かく述べる必要があります。
⑦『隋書』の成立の事情から推測して「大業年間」の記事には年次移動の可能性が考えられること。(「大業起居中」が欠落しているにも関わらず「大業年中記事に「皇帝」の「言動」が記されている)
⑧『隋書』の「裴世清」の発言の中にある「宣諭」という用語に注目し、それが「天子」標榜を糾弾する意図から発せられたものとみられることから、『書紀』の記事内容とは全く整合しないこと。国書不携帯という事情も彼が「文林郎」という官職で派遣されていることも同様の理由からであること。そう考えればそれ以前の国交回復時に「国書」がもたらされていて当然であること。その国書が『推古紀』に書かれたものと考えられること。その内容も確かに国交開始時点と思われる文言を含んでいること。
⑨『隋書』中の「倭国王」の使者の発言(「聞海西菩薩天子重興佛法」)と「裴世清」に接見した「倭国王」の発言内容(「我聞海西有大隋禮義之國」「冀聞大國惟新之化」)が「隋」の「高祖」について発言されたものと考えて高度に整合的であること。
⑩「隋」の「開皇年間」に整えられた「隋代七部楽」の中に「倭国」の楽が入っていることから、「倭国」の楽が「隋初」にすでに伝わっていたとみられること。それは当然「遣隋使」によったものとみるべきであること。
⑪『書紀』の「裴世清」を迎える儀礼や服装の内容が「南朝」的であること。『隋』からの使者を「隋制」に則って歓迎するのは重要な儀式であり、また義務であったとみられること。そのことから「隋」との国交がそれ以前に回復していたとは考えられず、これが国交成立時の記事であるとみられること。
⑫「文帝」に「寶命」の使用例が少ないのは彼は「周」(北周)の制度等を全く継受せずかえって「北斉」の制度を取り入れて「隋制」を整えていることなど「北周」からの禅譲を標榜しながら実際には「北周」との関係について「清算」したという意識があったとみられ、その意味で「天命」意識があったことと、「皇帝」の座に就いたのは「仏教」の「三十三天」の加護があったためという特別な関係を強調するがためとみられること。さらに倭国に対して「寶命」を使用したのは「寶命」が「南北朝」以降の王朝からの「継続性」を強く意識した用語となったためであり、「倭国」が継続して「中国」に遣使してきたという事実に対応するためのものと思われ、「高句麗」に対する「天命」がそれまでの「北朝」と「高句麗」の関係(友好的であったもの)を清算する(してもいいという)意識からのものというように相手の出方によって使い分けされていると思われること。
⑬「伊吉博徳」の発言の中に「洛陽」を「東京」と表現している部分があり、そのことから「煬帝」により「東都」と改称されたとされる「大業五年」以降「洛陽」に「遣隋使」が行ったとは考えられないこととなり、そのことからも『隋書』の年次に疑いがあること。
以上の内容を含んでいます。そのためやむを得ずボリュームが多くなってしまいました。可能な限り短縮を試みましたが、かなり困難な状況です。よってそれを理由として掲載されないことには全く異議を唱えません。
…という経緯がありました。現在に至っても掲載されておらず私の論は「なかった」こととなっています。そのためこのブログに投稿しているというわけです。