リバイバルシリーズの第2弾です。(第1弾は「遣隋使」関連のもの)
以下の論はかなり以前に投稿したものですが、このままでは採用されずその後前半部分を割愛した形で再編集したものが「古田史学会報一五五号」に採用・掲載されています。
「鞠智城」について ―「北緯三十三度」の地とは
「要旨」
『延喜式』に残る「日の出・日の入り時刻」データから「平安京」以外の場所である「北緯三十三度」の地点が「都」であった時代があると推察され、その場所としては「鞠智城」付近が想定されこと。その「天文観測データ」の収集開始時期は「倭の五王」の最後の王である「武」の時代付近ではなかったかと考えられること。そのことなどから「肥後」が「倭国王権」の中心であった時代があったと見られること及び「難波京」のプロトタイプとして「鞠智城」が存在していたと推察されること。
Ⅰ.「日の出・日の入時刻」と「緯度」
以下は増田修氏の研究(註1)に触発されたものであり、先行研究として敬意を表したいと思います。
増田修氏は上掲論文の中で「斎藤国治氏」の研究(註2)に触れ、そこに書かれた「日の出・日の入り時刻」の記録からそれが「太宰府」で記録されたものとされました。それについて再検討することとします。
『延喜式』に書かれた「日の出・日の入り時刻」は「夏至」・「冬至」の前後三日間ほどを除いて、その時点の都である「平安京」(京都)の緯度(三十五度〇一分)よりもっと南の「北緯三十三度」付近におけるものが書かれているらしい事が推定されています。
『令義解』(大宝令の注釈書) には「宮廷の開門時刻」について「鐘を鳴らして合図すること」と規定しており、その鐘を鳴らす時刻については『延喜式』に詳細が記されています。そこには「日の出・日の入」の時刻が数日おきに「一年」を「四十」の区間に分けて書かれているのですが、それらのデータからその土地の緯度が推測可能です。
「日の出・日の入」の時刻は「春分」と「秋分」については土地の緯度には無関係となり「同時刻」となりますが、「冬至」と「夏至」付近については緯度により大きく変化するものであり、「緯度」が高い方が変化の幅(ずれ方と言うべきか)が大きくなります。(註3)
それを踏まえて『延喜式』を見てみると、「冬至」と「夏至」前後の三日間だけは「緯度」として「北緯三十五度」を想定すると近似していると判明しています。つまり「夏至」付近の日の出と「冬至」付近の「日の入り」は北緯三十五度の曲線と合うとされますが、それ以外はほぼ北緯三十三度の曲線と一致するとされるのです。(数字から曲線を描くと本来なめらかなサインカーブのはずが「夏至」の「日の出」と「冬至」の「日の入」部分が「出っ張った」状態になっているのがわかります)
「北緯三十五度」に近いのは「京都」(「平安京」)(ほぼ三十五度)ないしは「飛鳥」(三十四度三十分)です。これは「冬至」と「夏至」という時点に行われる重要な儀式(「十二月の大祓い」及び「六月の大祓い」)を行う際に利用されるものだけは「北緯三十五度」の地点のデータが使用されているとみるべきであり、『延喜式』の成立事情から考えて「平安京」という『延喜式』制定時点の都のデータが使用されていると考えて間違いないと思われます。しかし「冬至」と「夏至」を除くとそれらの値は「北緯三十三度」の地点の「日の出・日の入」時刻が書かれていると推定できるとされます。
ただし、斉藤氏はこれを「当時の算法の不備」というような見解のようですが(つまり「宮門の開閉時刻」を規定するために「近似計算」を行って「日の出」・「日の入り」の時刻を算出したと考えられているようです)、しかし、これは「観測」による値(時刻)がその基礎となっていると見るべきではないでしょうか。計算せずとも観測すれば「日の出・日の入」の時刻は測定できるわけです。これを基礎データとして使用したと見ることもできるでしょう。
もしこれを計算で出した値とすると「夏至」・「冬至」の前後だけ「算法」に狂いが出ていることになり、不審でしょう。これを「観測値」と捉えれば当然「夏至」・「冬至」の付近とそれ以外の日付とは観測地点に違いがある結果と見ることができます。
しかしこの「北緯三十三度」という値に該当する「適地」は「近畿」付近に存在しません。この経度付近で「北緯三十三度」に相当する場所を調べると「太平洋」上に出てしまいます。
他に「北緯三十三度」が陸上に存在するのは「四国」の高知県の足摺岬の根本付近(宿毛市や四万十市などの地域)と「九州」の内部しかないのです。しかし「四国」の当該地域は「倭国王権」の都とは縁遠い場所と考えられますから「九州」だけが条件に合致することとなるでしょう。
「九州」の中で「北緯三十三度」に該当する地域を見てみると、「肥後」の地である「熊本県玉名市」や「荒尾市」「山鹿市」「菊池市」などが該当しますが、「鞠智城」の位置がまさしく「北緯三十三度」です。つまり『延喜式』の「日の出・日の入り時刻」が観測された場所として「鞠智城」付近が最も考えられることを示しています。これについて増田氏は上掲論文中で「…倭国の首都に存在した太宰府は、北緯三三度強に位置する。…」とされ、この北緯三十三度の地点を太宰府と考えられているようですが、この「鞠智城付近」も該当することに言及されていません。誤差を考えると確かに「太宰府」にも可能性はあるものの、そこが「倭国の首都」であるという記述通り、実際には「先入観」によるものではないでしょうか。逆にこの「緯度」から「首都」をいわば「逆算」すると「太宰府」とは限らないことがいえると思われます。
Ⅱ.「鞠智城」の創建時期
上の「日の出・日の入り時刻」の解析から「北緯三十三度」付近に以前倭国王権の都があったことが推定されることとなったわけですが、その時期は自力で「暦」の作成をすることを余儀なくさせられた時点が最も該当するものと考えられます。
これについては従来『書紀』における天文観測の開始時期が『推古紀』であることを理由としてこの時期を「暦」を自力で作成開始した時点と考えられているようですが(註4)、それは不審であり、もっと遡上する時期を措定すべきと思われます。なぜなら「倭国」は「隋」以前に「南朝」との関係の継続に破綻したと考えられるからであり、実質的には「遣使」の記録が「武」で途絶えていることでもわかるように「倭国王権」は「武」の時代以降すでに「柵封」されてはいなかったと見られます。(註5)そうであれば「暦」の頒布(これは百済を通じたものであったとは思われるものの)を受けることはその時点以降できなくなっていたものと思われ、その結果自力で暦を作るということとなったものと思われるわけですが、そうであれば「五世紀の終わり」から「六世紀の初め」付近にはすでに「天文観測」を開始していたとして不審ではないこととなります。そしてその時点での「都」は「北緯三十三度」(つまり「肥」の国)の地点であるのは「前方後円墳」についての伊東氏の考察(註6)などから了解できます。
それに従えば「前方後円墳」の重要な構成要素である「横穴式石郭」という様式あるいは「舟形石棺」などの「石棺」の源流、また「石材」として「阿蘇溶結凝灰岩」の使用など各種の点で「肥後」にオリジナルがあるとされます。それらは一般に「肥後の豪族」の近畿王権への服属の証しなどと言われますが、そのような理解がアンフェアなのはいうまでもありません。なぜなら「古墳」や「石室」の様式や素材は「葬送祭祀」の重要な要素であり、それらは一般に「外部」からの圧力なしには大きく変化しないものであり、そこに「肥後」の要素が多いのは「肥後」からの「圧力」によるものとしか理解できないからです。もしこの時点で「近畿」に「倭国」の中心権力があり、「肥後」が「従」たる勢力であったとするならなぜ、その「従」たる文化を「主」たる側が取り入れなければならないのでしょうか。「近畿」の権力が「肥後」に及んだのなら、「近畿」の墓制を構成する要素が「肥後」に見られなければなりませんが、実際には逆になっているわけですから、それはいわゆる「文化勾配」(中心権力から地方へと文化が移動すること)に反するものです。これを素直に見るならば、「倭の五王」は九州特に「肥後」に所在していたものであり、「肥後」に「倭の五王」の権力の淵源があったのだ、という理解しかありえないのです。特に「阿蘇溶結凝灰岩」の著名な切り出し場所は当初「菊池川上流」の「鞠智城」の至近にあったものであり、この「鞠智城」の存在意義に深く関わるものと思われます。
そもそも「鞠智城」で発見された「総柱式建物」の柱穴からは「七世紀前半の須恵器」が出土しています。この時代にすでに「鞠智城」が存在していたことが疑えないこととなったわけですが、それはあくまでも「繕治」の年次とみるべきであり、「創建」の年次とはみられません。なぜならこの「鞠智城」が「難波京」と共通する性格があり、さらにこれに先行することが想定されるからです。
Ⅲ.「難波京」と「鞠智城」
「難波京」も発掘が進み各種の科学的方法が援用された結果、その創建は「七世紀半ば」を遡上する可能性が指摘されています。そうであれば「鞠智城」はさらにそれを遡上するとも考えられ、「六世紀代」であると言うことも考えられることとなります。
「鞠智城」の形式としては「筑紫」の「大野城」や「高良山神籠石」などのいわゆる「朝鮮式山城」と共通する性格を持っているとされていますが、他方それらに比べると大きな違いも指摘されています。たとえば、他の「山城」と違い急峻な山腹に「城」を築く「山上抱谷式」というタイプではなく、より「平坦」な「台地」上の場所に「城」を築く「平地丘陵式」であることや、「城域」に「谷」が含まれていない点が異なっています。
また、これら「山城」は「百済」に基本的に源流があるとされ、その意味で「朝鮮式山城」と称されるわけですが、「百済」では「泗沘城」と「青馬山城」というように「都城」と「山城」という組み合わせが「普遍的」であり、その意味では「筑紫都城」と「大野城」等の山城という組み合わせは多分に「百済的」であるものの、「鞠智城」の場合はそれらとは「一線を画する」ものです。それは「鞠智城」それ自体が「山城」と「都城」を両面備えた形式となっていると考えられるからです。それは「城域」に「政庁的」建物と考えられる大型建物群が存在しており、「官衙的中枢管理区域」の存在が指摘されていることからもいえることです。
そして、これらの点は「難波京」に通じるものではないでしょうか。つまり、「難波京」は「鞠智城」と同様「都城」と「山城」という二つの特性を有していると言えると思われるわけです。
「都城」(京師)の特徴として「条坊制」が挙げられますが、「鞠智城」や「筑紫」(太宰府周辺)の「山城」では「条坊制」が布かれてはいません。(「山城」という構造自体が、「条坊制」とは異質であり、相容れなかったものでしょう)
それに対し「難波京」では「難波宮」を起点として「条坊制」が施行されていた痕跡が確認されつつあります。つまり、「難波京」は「発展型山城」とでも言うべき状態となっており、「鞠智城」の形態をより「進化」させ、「筑紫都城」のもつ「条坊制」とその周辺の防衛施設である「大野城」などの「山城」の防衛機能を「合体」させた形態を有するものとして造られたと推定されるわけです。それはこの難波京」の立地からもいえることであり、「上町台地」のほぼ最標高地点を選んでいることや(一番高い場所には「生国魂神社」があったため、そのすぐ直下に造られている)、谷の入り組んだ土地をわざわざ選んでいるように見えることなど、ある意味古代の「京」としては「空前絶後」とも言える場所に造られたものといえます。
「飛鳥京」や「藤原京」、後の「平城京」などの「京」はほぼ「平地」といえる場所に造られたものであり、それらとは明らかに「趣」を異にするものです。(ただし、「近江京」とは近似した性格が認められます)
このような「上町台地」の突端の「海」に突き出たような、とても「平坦」とは言えないような場所をあえて選んでいるのは、この「難波京」の「性格」として「山城」的な部分があったのではないかということを推測させるものです。また「難波京」では「複雑に入り組んだ谷」を埋めながら整地層を構成しており、それはその様なことを基本的には行わない「大野城」や「基肄城」などの通常の「山城」とは明らかに異なってはいるものの、「鞠智城」とは少なからず共通しているように思われます。その意味でこの「副都」「難波京」は、「筑紫宮殿」周辺の「条坊制」をモデルとしつつ、「鞠智城」という「新型」山城の発展・拡大の延長線上にあったと思われるわけです。これらを総合すると「鞠智城」は「難波京」の母型ともいうべきものと思われ、創建年次として「難波京」を相当程度遡上することが窺えるものです。
Ⅲ.「古代官道」と「山城」
また、この「鞠智城」付近には「古代官道」が通じていたことが確認されており、この場所が「筑紫」や「肥後」周辺各地への交通の要衝であったことも明らかになっています。
「鞠智城」の至近から「肥後国」の中心として考えられている「大水駅家」の間にも「車路」という地名が遺存しており、そのことから「延喜式」以前の官道は「鞠智城」を経由していたというのが有力な説となっているようです。つまり「延喜式」以前に廃絶してしまった官道が多くあり、それらについてはルートの再現が「延喜式」からは既に困難になっていると考えられますが、「肥後」国府から「鞠智城」に至る道路としての「菊池街道」として今に残るものはかなり「直線的」な道路であり、これが古代の「官道」であったことを窺わせるものです。
「基肄城」など山城には「車道」と呼ばれる「平坦部」があるのが確認されており、この事から「山城」には「官道」が取り付くものであったことが推測されています。これら「基肄城」や「鞠智城」などの「山城」に「軍事目的」があったのは「当然」ですが、「官道」もまた基本的に「軍事目的」であったと考えられ、そうであれば「官道」に沿って「山城」があり、また「官道」が「山城」に接するように敷設されているのもまた「当然」とも言えると思われます。
この「七世紀前半」時点の「倭国王権」は「筑紫都城」を防衛するための施設として、その「至近」に「山城」と「水城」を築造したものと推量されますが、それと同時に「複都制」の「詔」を発し、その中で「凡都城宮室非一處。必造兩參。故先欲都難波。是以百寮者各往之請家地。」というように「二ないし三箇所」を「都城宮室」の場所として選定することとしたものであり、「先ず」第一番目に「難波」に「副都(京)」が形成されたわけです。
この「詔」でも「両参」とされているように、「副都」として想定しているのは最大二箇所程度と考えられ、『書紀』にも「難波」の他「信濃」にも造る動きがあったとされます。これは「筑紫」が危険と判断されれば「副都」から列島支配を継続することが可能になるように手段を講じていたものです。
ここで「難波」や「信濃」がその場所として想定されていたのは「山陽道」と「東山道」の整備拡幅事業の進捗との兼ね合いであったと思われます。
「副都」と「離宮」などが決定的に違うのは、「副都」から「統治行為」の全てが可能であることです。当然官人なども「首都」から引き連れていく訳ではなく最低限の「統治体制」が常時整った状態となっていたものと思料されます。そのことから「複都制」の前提条件というのは、「副都」と「首都」を結び、且つ主要な地域へ早期に「軍事展開」ができるような「幹線道路」の整備が完了していることであり、「副都」から素早く軍事行動ができるようになっているということであったと思われます。その意味で「難波津」が交通アクセスの第一である時点はまだ「副都」として機能してはいなかったとみられるわけです。あくまでも「陸路」によることで大量の軍事的行動が可能であるというのが必須の前提条件であったと思われ、その意味で「山陽道」の整備の進捗と「難波」が「副都」として機能するということの間には緊密な関係があると思われるのです。
ただし「倭国王」が「筑紫京」に滞在している時に(海から)「奇襲」などを受けた場合は「難波」まで逃げる時間もないわけであり、「筑紫」からそう遠くはないが、追っ手を遮断できる「天然の要害」である「山地」を挟んでいて、かなり安全と思われる場所に「王権」の「仮の受け皿」として「旧王城」である「鞠智城」を整備したという可能性があるでしょう。
「註」
一.増田修「倭国の暦法と時刻制度」(『市民の古代』第16集一九九四年)
二.斉藤国治「『延喜式』にのる日出・日入、宮門開閉時刻の検証」(『日本歴史』五三三号、一九九二年)
三.その時刻を求める近似式としては時角をtとして、cost=tanφtanδ(ただしφはその土地の緯度、δは太陽の赤緯、tは角度)で表されます。
四.谷川清隆、相馬充「七世紀の日本天文学」『国立天文台報』第十一巻(二〇〇八年)
五.菅野拓『「梁書」における倭王武の進号問題について/臣下から「日出処天子」への変貌をもたらしたものは何か ―古田説の検討を中心として』(「大学評価・学位授与機構二〇〇八年十月期学位授与中請(要旨)として」をネットで参照)
六.伊東義彰「九州古墳文化の展開(抄)」(『古田史学会報』七十七号 二〇〇六年)
「要旨」
『延喜式』に残る「日の出・日の入り時刻」データから「平安京」以外の場所である「北緯三十三度」の地点が「都」であった時代があると推察され、その場所としては「鞠智城」付近が想定されこと。その「天文観測データ」の収集開始時期は「倭の五王」の最後の王である「武」の時代付近ではなかったかと考えられること。そのことなどから「肥後」が「倭国王権」の中心であった時代があったと見られること及び「難波京」のプロトタイプとして「鞠智城」が存在していたと推察されること。
Ⅰ.「日の出・日の入時刻」と「緯度」
以下は増田修氏の研究(註1)に触発されたものであり、先行研究として敬意を表したいと思います。
増田修氏は上掲論文の中で「斎藤国治氏」の研究(註2)に触れ、そこに書かれた「日の出・日の入り時刻」の記録からそれが「太宰府」で記録されたものとされました。それについて再検討することとします。
『延喜式』に書かれた「日の出・日の入り時刻」は「夏至」・「冬至」の前後三日間ほどを除いて、その時点の都である「平安京」(京都)の緯度(三十五度〇一分)よりもっと南の「北緯三十三度」付近におけるものが書かれているらしい事が推定されています。
『令義解』(大宝令の注釈書) には「宮廷の開門時刻」について「鐘を鳴らして合図すること」と規定しており、その鐘を鳴らす時刻については『延喜式』に詳細が記されています。そこには「日の出・日の入」の時刻が数日おきに「一年」を「四十」の区間に分けて書かれているのですが、それらのデータからその土地の緯度が推測可能です。
「日の出・日の入」の時刻は「春分」と「秋分」については土地の緯度には無関係となり「同時刻」となりますが、「冬至」と「夏至」付近については緯度により大きく変化するものであり、「緯度」が高い方が変化の幅(ずれ方と言うべきか)が大きくなります。(註3)
それを踏まえて『延喜式』を見てみると、「冬至」と「夏至」前後の三日間だけは「緯度」として「北緯三十五度」を想定すると近似していると判明しています。つまり「夏至」付近の日の出と「冬至」付近の「日の入り」は北緯三十五度の曲線と合うとされますが、それ以外はほぼ北緯三十三度の曲線と一致するとされるのです。(数字から曲線を描くと本来なめらかなサインカーブのはずが「夏至」の「日の出」と「冬至」の「日の入」部分が「出っ張った」状態になっているのがわかります)
「北緯三十五度」に近いのは「京都」(「平安京」)(ほぼ三十五度)ないしは「飛鳥」(三十四度三十分)です。これは「冬至」と「夏至」という時点に行われる重要な儀式(「十二月の大祓い」及び「六月の大祓い」)を行う際に利用されるものだけは「北緯三十五度」の地点のデータが使用されているとみるべきであり、『延喜式』の成立事情から考えて「平安京」という『延喜式』制定時点の都のデータが使用されていると考えて間違いないと思われます。しかし「冬至」と「夏至」を除くとそれらの値は「北緯三十三度」の地点の「日の出・日の入」時刻が書かれていると推定できるとされます。
ただし、斉藤氏はこれを「当時の算法の不備」というような見解のようですが(つまり「宮門の開閉時刻」を規定するために「近似計算」を行って「日の出」・「日の入り」の時刻を算出したと考えられているようです)、しかし、これは「観測」による値(時刻)がその基礎となっていると見るべきではないでしょうか。計算せずとも観測すれば「日の出・日の入」の時刻は測定できるわけです。これを基礎データとして使用したと見ることもできるでしょう。
もしこれを計算で出した値とすると「夏至」・「冬至」の前後だけ「算法」に狂いが出ていることになり、不審でしょう。これを「観測値」と捉えれば当然「夏至」・「冬至」の付近とそれ以外の日付とは観測地点に違いがある結果と見ることができます。
しかしこの「北緯三十三度」という値に該当する「適地」は「近畿」付近に存在しません。この経度付近で「北緯三十三度」に相当する場所を調べると「太平洋」上に出てしまいます。
他に「北緯三十三度」が陸上に存在するのは「四国」の高知県の足摺岬の根本付近(宿毛市や四万十市などの地域)と「九州」の内部しかないのです。しかし「四国」の当該地域は「倭国王権」の都とは縁遠い場所と考えられますから「九州」だけが条件に合致することとなるでしょう。
「九州」の中で「北緯三十三度」に該当する地域を見てみると、「肥後」の地である「熊本県玉名市」や「荒尾市」「山鹿市」「菊池市」などが該当しますが、「鞠智城」の位置がまさしく「北緯三十三度」です。つまり『延喜式』の「日の出・日の入り時刻」が観測された場所として「鞠智城」付近が最も考えられることを示しています。これについて増田氏は上掲論文中で「…倭国の首都に存在した太宰府は、北緯三三度強に位置する。…」とされ、この北緯三十三度の地点を太宰府と考えられているようですが、この「鞠智城付近」も該当することに言及されていません。誤差を考えると確かに「太宰府」にも可能性はあるものの、そこが「倭国の首都」であるという記述通り、実際には「先入観」によるものではないでしょうか。逆にこの「緯度」から「首都」をいわば「逆算」すると「太宰府」とは限らないことがいえると思われます。
Ⅱ.「鞠智城」の創建時期
上の「日の出・日の入り時刻」の解析から「北緯三十三度」付近に以前倭国王権の都があったことが推定されることとなったわけですが、その時期は自力で「暦」の作成をすることを余儀なくさせられた時点が最も該当するものと考えられます。
これについては従来『書紀』における天文観測の開始時期が『推古紀』であることを理由としてこの時期を「暦」を自力で作成開始した時点と考えられているようですが(註4)、それは不審であり、もっと遡上する時期を措定すべきと思われます。なぜなら「倭国」は「隋」以前に「南朝」との関係の継続に破綻したと考えられるからであり、実質的には「遣使」の記録が「武」で途絶えていることでもわかるように「倭国王権」は「武」の時代以降すでに「柵封」されてはいなかったと見られます。(註5)そうであれば「暦」の頒布(これは百済を通じたものであったとは思われるものの)を受けることはその時点以降できなくなっていたものと思われ、その結果自力で暦を作るということとなったものと思われるわけですが、そうであれば「五世紀の終わり」から「六世紀の初め」付近にはすでに「天文観測」を開始していたとして不審ではないこととなります。そしてその時点での「都」は「北緯三十三度」(つまり「肥」の国)の地点であるのは「前方後円墳」についての伊東氏の考察(註6)などから了解できます。
それに従えば「前方後円墳」の重要な構成要素である「横穴式石郭」という様式あるいは「舟形石棺」などの「石棺」の源流、また「石材」として「阿蘇溶結凝灰岩」の使用など各種の点で「肥後」にオリジナルがあるとされます。それらは一般に「肥後の豪族」の近畿王権への服属の証しなどと言われますが、そのような理解がアンフェアなのはいうまでもありません。なぜなら「古墳」や「石室」の様式や素材は「葬送祭祀」の重要な要素であり、それらは一般に「外部」からの圧力なしには大きく変化しないものであり、そこに「肥後」の要素が多いのは「肥後」からの「圧力」によるものとしか理解できないからです。もしこの時点で「近畿」に「倭国」の中心権力があり、「肥後」が「従」たる勢力であったとするならなぜ、その「従」たる文化を「主」たる側が取り入れなければならないのでしょうか。「近畿」の権力が「肥後」に及んだのなら、「近畿」の墓制を構成する要素が「肥後」に見られなければなりませんが、実際には逆になっているわけですから、それはいわゆる「文化勾配」(中心権力から地方へと文化が移動すること)に反するものです。これを素直に見るならば、「倭の五王」は九州特に「肥後」に所在していたものであり、「肥後」に「倭の五王」の権力の淵源があったのだ、という理解しかありえないのです。特に「阿蘇溶結凝灰岩」の著名な切り出し場所は当初「菊池川上流」の「鞠智城」の至近にあったものであり、この「鞠智城」の存在意義に深く関わるものと思われます。
そもそも「鞠智城」で発見された「総柱式建物」の柱穴からは「七世紀前半の須恵器」が出土しています。この時代にすでに「鞠智城」が存在していたことが疑えないこととなったわけですが、それはあくまでも「繕治」の年次とみるべきであり、「創建」の年次とはみられません。なぜならこの「鞠智城」が「難波京」と共通する性格があり、さらにこれに先行することが想定されるからです。
Ⅲ.「難波京」と「鞠智城」
「難波京」も発掘が進み各種の科学的方法が援用された結果、その創建は「七世紀半ば」を遡上する可能性が指摘されています。そうであれば「鞠智城」はさらにそれを遡上するとも考えられ、「六世紀代」であると言うことも考えられることとなります。
「鞠智城」の形式としては「筑紫」の「大野城」や「高良山神籠石」などのいわゆる「朝鮮式山城」と共通する性格を持っているとされていますが、他方それらに比べると大きな違いも指摘されています。たとえば、他の「山城」と違い急峻な山腹に「城」を築く「山上抱谷式」というタイプではなく、より「平坦」な「台地」上の場所に「城」を築く「平地丘陵式」であることや、「城域」に「谷」が含まれていない点が異なっています。
また、これら「山城」は「百済」に基本的に源流があるとされ、その意味で「朝鮮式山城」と称されるわけですが、「百済」では「泗沘城」と「青馬山城」というように「都城」と「山城」という組み合わせが「普遍的」であり、その意味では「筑紫都城」と「大野城」等の山城という組み合わせは多分に「百済的」であるものの、「鞠智城」の場合はそれらとは「一線を画する」ものです。それは「鞠智城」それ自体が「山城」と「都城」を両面備えた形式となっていると考えられるからです。それは「城域」に「政庁的」建物と考えられる大型建物群が存在しており、「官衙的中枢管理区域」の存在が指摘されていることからもいえることです。
そして、これらの点は「難波京」に通じるものではないでしょうか。つまり、「難波京」は「鞠智城」と同様「都城」と「山城」という二つの特性を有していると言えると思われるわけです。
「都城」(京師)の特徴として「条坊制」が挙げられますが、「鞠智城」や「筑紫」(太宰府周辺)の「山城」では「条坊制」が布かれてはいません。(「山城」という構造自体が、「条坊制」とは異質であり、相容れなかったものでしょう)
それに対し「難波京」では「難波宮」を起点として「条坊制」が施行されていた痕跡が確認されつつあります。つまり、「難波京」は「発展型山城」とでも言うべき状態となっており、「鞠智城」の形態をより「進化」させ、「筑紫都城」のもつ「条坊制」とその周辺の防衛施設である「大野城」などの「山城」の防衛機能を「合体」させた形態を有するものとして造られたと推定されるわけです。それはこの難波京」の立地からもいえることであり、「上町台地」のほぼ最標高地点を選んでいることや(一番高い場所には「生国魂神社」があったため、そのすぐ直下に造られている)、谷の入り組んだ土地をわざわざ選んでいるように見えることなど、ある意味古代の「京」としては「空前絶後」とも言える場所に造られたものといえます。
「飛鳥京」や「藤原京」、後の「平城京」などの「京」はほぼ「平地」といえる場所に造られたものであり、それらとは明らかに「趣」を異にするものです。(ただし、「近江京」とは近似した性格が認められます)
このような「上町台地」の突端の「海」に突き出たような、とても「平坦」とは言えないような場所をあえて選んでいるのは、この「難波京」の「性格」として「山城」的な部分があったのではないかということを推測させるものです。また「難波京」では「複雑に入り組んだ谷」を埋めながら整地層を構成しており、それはその様なことを基本的には行わない「大野城」や「基肄城」などの通常の「山城」とは明らかに異なってはいるものの、「鞠智城」とは少なからず共通しているように思われます。その意味でこの「副都」「難波京」は、「筑紫宮殿」周辺の「条坊制」をモデルとしつつ、「鞠智城」という「新型」山城の発展・拡大の延長線上にあったと思われるわけです。これらを総合すると「鞠智城」は「難波京」の母型ともいうべきものと思われ、創建年次として「難波京」を相当程度遡上することが窺えるものです。
Ⅲ.「古代官道」と「山城」
また、この「鞠智城」付近には「古代官道」が通じていたことが確認されており、この場所が「筑紫」や「肥後」周辺各地への交通の要衝であったことも明らかになっています。
「鞠智城」の至近から「肥後国」の中心として考えられている「大水駅家」の間にも「車路」という地名が遺存しており、そのことから「延喜式」以前の官道は「鞠智城」を経由していたというのが有力な説となっているようです。つまり「延喜式」以前に廃絶してしまった官道が多くあり、それらについてはルートの再現が「延喜式」からは既に困難になっていると考えられますが、「肥後」国府から「鞠智城」に至る道路としての「菊池街道」として今に残るものはかなり「直線的」な道路であり、これが古代の「官道」であったことを窺わせるものです。
「基肄城」など山城には「車道」と呼ばれる「平坦部」があるのが確認されており、この事から「山城」には「官道」が取り付くものであったことが推測されています。これら「基肄城」や「鞠智城」などの「山城」に「軍事目的」があったのは「当然」ですが、「官道」もまた基本的に「軍事目的」であったと考えられ、そうであれば「官道」に沿って「山城」があり、また「官道」が「山城」に接するように敷設されているのもまた「当然」とも言えると思われます。
この「七世紀前半」時点の「倭国王権」は「筑紫都城」を防衛するための施設として、その「至近」に「山城」と「水城」を築造したものと推量されますが、それと同時に「複都制」の「詔」を発し、その中で「凡都城宮室非一處。必造兩參。故先欲都難波。是以百寮者各往之請家地。」というように「二ないし三箇所」を「都城宮室」の場所として選定することとしたものであり、「先ず」第一番目に「難波」に「副都(京)」が形成されたわけです。
この「詔」でも「両参」とされているように、「副都」として想定しているのは最大二箇所程度と考えられ、『書紀』にも「難波」の他「信濃」にも造る動きがあったとされます。これは「筑紫」が危険と判断されれば「副都」から列島支配を継続することが可能になるように手段を講じていたものです。
ここで「難波」や「信濃」がその場所として想定されていたのは「山陽道」と「東山道」の整備拡幅事業の進捗との兼ね合いであったと思われます。
「副都」と「離宮」などが決定的に違うのは、「副都」から「統治行為」の全てが可能であることです。当然官人なども「首都」から引き連れていく訳ではなく最低限の「統治体制」が常時整った状態となっていたものと思料されます。そのことから「複都制」の前提条件というのは、「副都」と「首都」を結び、且つ主要な地域へ早期に「軍事展開」ができるような「幹線道路」の整備が完了していることであり、「副都」から素早く軍事行動ができるようになっているということであったと思われます。その意味で「難波津」が交通アクセスの第一である時点はまだ「副都」として機能してはいなかったとみられるわけです。あくまでも「陸路」によることで大量の軍事的行動が可能であるというのが必須の前提条件であったと思われ、その意味で「山陽道」の整備の進捗と「難波」が「副都」として機能するということの間には緊密な関係があると思われるのです。
ただし「倭国王」が「筑紫京」に滞在している時に(海から)「奇襲」などを受けた場合は「難波」まで逃げる時間もないわけであり、「筑紫」からそう遠くはないが、追っ手を遮断できる「天然の要害」である「山地」を挟んでいて、かなり安全と思われる場所に「王権」の「仮の受け皿」として「旧王城」である「鞠智城」を整備したという可能性があるでしょう。
「註」
一.増田修「倭国の暦法と時刻制度」(『市民の古代』第16集一九九四年)
二.斉藤国治「『延喜式』にのる日出・日入、宮門開閉時刻の検証」(『日本歴史』五三三号、一九九二年)
三.その時刻を求める近似式としては時角をtとして、cost=tanφtanδ(ただしφはその土地の緯度、δは太陽の赤緯、tは角度)で表されます。
四.谷川清隆、相馬充「七世紀の日本天文学」『国立天文台報』第十一巻(二〇〇八年)
五.菅野拓『「梁書」における倭王武の進号問題について/臣下から「日出処天子」への変貌をもたらしたものは何か ―古田説の検討を中心として』(「大学評価・学位授与機構二〇〇八年十月期学位授与中請(要旨)として」をネットで参照)
六.伊東義彰「九州古墳文化の展開(抄)」(『古田史学会報』七十七号 二〇〇六年)