下記の論はやや迂遠ではありますが、間接的に「遣隋使」による仏教奨励策の一環として「寺院」に必須の「鐘」が「隋皇帝」(文帝)から「下賜」されたという論の一部を形成しています。
「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について
鎌倉時代に「後深草院二条」という「後深草院」の「女房」であった人物が書き残した「とはずがたり」という随筆様の文学があります。その巻三の中に以下のような記述があります。
「…れいの御しやくにめされてまいる一院御ひわ新院御ふえとう院こと大宮の院姫宮御こと春宮大夫ひわきんひらしやうのふえかね行ひちりき夜ふけゆくまゝに嵐の山の松風雲井にひゝくおとすごきにしやうこんかう院のかねこゝもとにきこゆるおりふし一院とふろうはをのつからとかやおほせいたされたりしによろつの事みなつきておもしろくあはれなるに…」
ここでは天皇以下高貴の方々による楽器の演奏が行われたことが記されていますが、その中で「しやうこんこういんのかね」がなると「一院」(後深草院)がつられたように「とふろうはをのつから…」と詠じたとされます。
この「しやうこんこういん」とは「浄金剛院」を指し、「鐘」とはその後「妙心寺」に入ることとなった「観世音寺」と兄弟とされる「鐘」を意味します。その「鐘」が鳴るのが低く聞こえてくると「後深草院」はすかさず「菅原道真」の「漢詩」(以下)をふまえて詠じたというわけです。
「一従謫落就柴荊/万死兢々跼蹐情/『都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声』/中懐好遂孤雲去/外物相逢満月迎/此地雖身無??/何為寸歩出門行」(『菅家後集』より「不出門」)
これについては一般には「鐘の音」という現象からの単なる連想と思われているようですが、これはそれほど単純な話ではなく、両寺院の鐘が兄弟関係にあるという認識が当時の宮廷人にあったことがその背景にあると考えるべきでしょう。でなければ「大宰府」や「観世音寺」まで発想が飛躍する理由が不明となると思われます。つまり聞こえてきた「浄金剛院」の「鐘」の「音」からすぐに「観世音寺」の「鐘」に想いが行ったというわけですが、それは音高つまり「鐘」の発する「音色」がこの「浄金剛院」と他の寺院とでは異なっていたことを示すものと思われ、それは「観世音寺」の鐘と同じ音高であるということをみな承知していたということもまた示唆されるものです。
つまり「浄金剛院」の「鐘」が奏でる音高は「黄鐘」であり、また「無常」を表すものであったものですが、当時の京都の他の寺院の「鐘」はその後時代を経て発生した「日本音階」により鋳造されていたものであり、音高が変化した結果「無常」を表す「黄鐘」の音高は(当時の京都では)「浄金剛院」の鐘だけであったという可能性もあるところです。このことから「後深草院」以下諸々の宮人は「浄金剛院」の「鐘」が「観世音寺」の「鐘」と兄弟であり、それがもともと「文武朝期」に作られた古式ゆかしいものということをよく承知していたということが知られます。そのような事情がなぜ把握されていたのかということは「不明」としか言えませんが、これについて書かれたもの(※)では、元寇などの影響で「観世音寺」や「大宰府」についての知識が京の宮廷人たちにも知られるようになっていたからとされていますが、そのような理由だけでは「鐘」同士の関係などの「深い」事情は容易に知られないものと思われ、「周知の事実」とはなりえないものと思われます。つまり、何らかの明確な理由があるからこそ「浄金剛院」とその「鐘」についての「経緯」を「宮廷」の人たちはよく承知していたものと思われるわけです。
「浄金剛院」の鐘は当初「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」により「檀林寺」が創建された際(八五〇年)に(どこからか不明ではあるものの)持ち込まれたものであり、その後その「壇林寺」が「廃寺」となって以降「浄金剛院」に移されたわけですが、「橘皇后」が「鐘」をどこからか持ち込んだ理由というのもその音高が「黄鐘」という「古音律」にかなった音高を発するものであって、「無常」を表すものであったものであったからではないでしょうか。
彼女はその「無常」を体現するために死後埋葬されることを望まず、飢えた鳥獣に身を与えるという「風葬」あるいは「鳥葬」とでも言うべき扱いに身を委ねたとされます。そのような彼女であれば「鐘」の音色にも「無常」が表現されるべきであったと考えても不思議はありません。そのためどこかから「黄鐘調」の音高を発する「鐘」を探し出してきたものでしょう。
しかも推測するにそれは「筑紫」など九州の寺院ではなかったかと考えられます。それは『徒然草』における「兼好法師」の記述として「西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、『遠國』よりたつねだされけり。」とある部分からも推察されます。ここで「都」には「鐘」を「正しい音髙」つまり「黄鐘調」で鋳造する技術がなくなっていたこと、それを「遠国」に求めたことが記されますが、この「遠国」というのが「筑紫」であったという可能性は高いと思料します。
この「遠国」というのが「律令制」に言う「遠国」と一致するとは限りませんが(この「兼好法師」の時代には「律令制」はとうの昔に崩壊していたわけですから)、仮にそれが同義であったと仮定すると、そのような「都」を遠く離れた場所で「寺院」が多く存在していた過去があり、また「古音律」に則った「鐘」が使用されていたという条件を満たす地域を探すと「西海道」つまり「筑紫」が該当する可能性が最も高いと思料します。それは「浄金剛院」の鐘が「筑紫」で鋳造されたものであることと深く関係していると考えられる訳です。
(『徒然草』の中では「東国」に関する記事では「東国」と明確に書かれており、「遠国」という表記は「東国」とは異なることが推察されるものの、あえてその出所を伏せてあるようにも感じられます。)
この「筑紫」周辺の寺院は八世紀に入って「廃寺」とさせられたものが多かったとみられますから、元々この「鐘」が納められていた寺院にしても同様の運命となっていた可能性があり、そのような寺院から移されたものと見ることができると思われます。ただし、それが何という寺院であったかは不明ではあるものの、皇后の御願によって建てられる寺院に使用されるのですから、当然その「鐘」も「由緒正しい」ものであったはずであり、「太宰府」近辺の「旧王権」に近かった寺院が措定されるでしょう。
(※)寺尾美子「『とはずがたり』注釈小考 浄金剛院の鐘の音」(『駒澤国文』29号一九九二年二月)
鎌倉時代に「後深草院二条」という「後深草院」の「女房」であった人物が書き残した「とはずがたり」という随筆様の文学があります。その巻三の中に以下のような記述があります。
「…れいの御しやくにめされてまいる一院御ひわ新院御ふえとう院こと大宮の院姫宮御こと春宮大夫ひわきんひらしやうのふえかね行ひちりき夜ふけゆくまゝに嵐の山の松風雲井にひゝくおとすごきにしやうこんかう院のかねこゝもとにきこゆるおりふし一院とふろうはをのつからとかやおほせいたされたりしによろつの事みなつきておもしろくあはれなるに…」
ここでは天皇以下高貴の方々による楽器の演奏が行われたことが記されていますが、その中で「しやうこんこういんのかね」がなると「一院」(後深草院)がつられたように「とふろうはをのつから…」と詠じたとされます。
この「しやうこんこういん」とは「浄金剛院」を指し、「鐘」とはその後「妙心寺」に入ることとなった「観世音寺」と兄弟とされる「鐘」を意味します。その「鐘」が鳴るのが低く聞こえてくると「後深草院」はすかさず「菅原道真」の「漢詩」(以下)をふまえて詠じたというわけです。
「一従謫落就柴荊/万死兢々跼蹐情/『都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声』/中懐好遂孤雲去/外物相逢満月迎/此地雖身無??/何為寸歩出門行」(『菅家後集』より「不出門」)
これについては一般には「鐘の音」という現象からの単なる連想と思われているようですが、これはそれほど単純な話ではなく、両寺院の鐘が兄弟関係にあるという認識が当時の宮廷人にあったことがその背景にあると考えるべきでしょう。でなければ「大宰府」や「観世音寺」まで発想が飛躍する理由が不明となると思われます。つまり聞こえてきた「浄金剛院」の「鐘」の「音」からすぐに「観世音寺」の「鐘」に想いが行ったというわけですが、それは音高つまり「鐘」の発する「音色」がこの「浄金剛院」と他の寺院とでは異なっていたことを示すものと思われ、それは「観世音寺」の鐘と同じ音高であるということをみな承知していたということもまた示唆されるものです。
つまり「浄金剛院」の「鐘」が奏でる音高は「黄鐘」であり、また「無常」を表すものであったものですが、当時の京都の他の寺院の「鐘」はその後時代を経て発生した「日本音階」により鋳造されていたものであり、音高が変化した結果「無常」を表す「黄鐘」の音高は(当時の京都では)「浄金剛院」の鐘だけであったという可能性もあるところです。このことから「後深草院」以下諸々の宮人は「浄金剛院」の「鐘」が「観世音寺」の「鐘」と兄弟であり、それがもともと「文武朝期」に作られた古式ゆかしいものということをよく承知していたということが知られます。そのような事情がなぜ把握されていたのかということは「不明」としか言えませんが、これについて書かれたもの(※)では、元寇などの影響で「観世音寺」や「大宰府」についての知識が京の宮廷人たちにも知られるようになっていたからとされていますが、そのような理由だけでは「鐘」同士の関係などの「深い」事情は容易に知られないものと思われ、「周知の事実」とはなりえないものと思われます。つまり、何らかの明確な理由があるからこそ「浄金剛院」とその「鐘」についての「経緯」を「宮廷」の人たちはよく承知していたものと思われるわけです。
「浄金剛院」の鐘は当初「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」により「檀林寺」が創建された際(八五〇年)に(どこからか不明ではあるものの)持ち込まれたものであり、その後その「壇林寺」が「廃寺」となって以降「浄金剛院」に移されたわけですが、「橘皇后」が「鐘」をどこからか持ち込んだ理由というのもその音高が「黄鐘」という「古音律」にかなった音高を発するものであって、「無常」を表すものであったものであったからではないでしょうか。
彼女はその「無常」を体現するために死後埋葬されることを望まず、飢えた鳥獣に身を与えるという「風葬」あるいは「鳥葬」とでも言うべき扱いに身を委ねたとされます。そのような彼女であれば「鐘」の音色にも「無常」が表現されるべきであったと考えても不思議はありません。そのためどこかから「黄鐘調」の音高を発する「鐘」を探し出してきたものでしょう。
しかも推測するにそれは「筑紫」など九州の寺院ではなかったかと考えられます。それは『徒然草』における「兼好法師」の記述として「西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、『遠國』よりたつねだされけり。」とある部分からも推察されます。ここで「都」には「鐘」を「正しい音髙」つまり「黄鐘調」で鋳造する技術がなくなっていたこと、それを「遠国」に求めたことが記されますが、この「遠国」というのが「筑紫」であったという可能性は高いと思料します。
この「遠国」というのが「律令制」に言う「遠国」と一致するとは限りませんが(この「兼好法師」の時代には「律令制」はとうの昔に崩壊していたわけですから)、仮にそれが同義であったと仮定すると、そのような「都」を遠く離れた場所で「寺院」が多く存在していた過去があり、また「古音律」に則った「鐘」が使用されていたという条件を満たす地域を探すと「西海道」つまり「筑紫」が該当する可能性が最も高いと思料します。それは「浄金剛院」の鐘が「筑紫」で鋳造されたものであることと深く関係していると考えられる訳です。
(『徒然草』の中では「東国」に関する記事では「東国」と明確に書かれており、「遠国」という表記は「東国」とは異なることが推察されるものの、あえてその出所を伏せてあるようにも感じられます。)
この「筑紫」周辺の寺院は八世紀に入って「廃寺」とさせられたものが多かったとみられますから、元々この「鐘」が納められていた寺院にしても同様の運命となっていた可能性があり、そのような寺院から移されたものと見ることができると思われます。ただし、それが何という寺院であったかは不明ではあるものの、皇后の御願によって建てられる寺院に使用されるのですから、当然その「鐘」も「由緒正しい」ものであったはずであり、「太宰府」近辺の「旧王権」に近かった寺院が措定されるでしょう。
(※)寺尾美子「『とはずがたり』注釈小考 浄金剛院の鐘の音」(『駒澤国文』29号一九九二年二月)