以前投稿したものですが、これもまた「遣隋使」に関連する論となります。
「七弦琴」―「帝王の琴」と倭国
要旨
「隋書俀国伝」中には「五弦琴」が確認でき、まだ倭国には「七弦琴」が渡来していないと考えられること、「源氏物語」には「七弦琴」が(当時廃れていたにもかかわらず)「帝王」の楽として琴(きん(きむ))が現れ、これが「七弦琴」と考えられること、「五行」に音階をつけた「納音」が「七弦琴」とともに渡来したと思われること、また「尺八」も同時に渡ったものと思われ、いずれも「隋皇帝」からの下賜によると思われ、仏教治国策の一環としての供与であったと思われること、以上について述べます。
Ⅰ.「隋書」における「五弦琴」
倭国の「琴」としては古墳その他に出土する「琴」と思われる遺物及び「琴」を演奏している状態を示していると考えられる「埴輪」などがありますが、その研究によれば、地域により「弦」の数に違いがあるのが確認されています。
それによれば西日本に出現する「五弦」型と関東地域の「四弦」型とが確認できるとされます。
ところで、『隋書俀国伝』では「楽」として「俀(倭)国」に存在するものとして「五弦琴」と書かれています。
「…樂有五弦琴笛…」
ここに書かれた「五弦琴」が「五弦」と「琴」なのか「五弦琴」という琴なのかについては意見が分かれています。これを「五弦」と「琴」というように区切って理解する場合は「五弦」とは「琵琶」を意味すると考えられることとなりますが、その場合「琴」の弦数については言及していないこととなりますから、「隋」と同じで「七弦」であったと考えられる事となります。しかし、「倭国内」の遺跡からは「七弦」の琴が確認されず、当時もその前代も倭国内には「七弦琴」は存在していなかったと考えるべきこととなり、そうであれば『隋書』の記述とは食い違います。そのため、この「五弦」を「五弦琴」とつなげて理解して「五弦の琴」という意味と理解することもまた可能かと思われます。
そのような理解に正当性があると思えるのは、同じ『隋書』内の「南蛮」の国々に対して「五絃」と「琵琶」が書き分けられている例があるからです。
「…樂有琴笛琵琶五絃,。??鼓以警?,吹蠡以即戎。…」(隋書/列傳第四十七/南蠻/林邑)
「…有大小鼓琵琶五絃箜篌笛。…」(隋書/列傳第四十八/西域/康國)
これらの例を見ると、「琴」とは別に「琵琶」と「五絃」が存在していることが明瞭に書かれており、「五絃」という表現が「琵琶」を示すものではないことは明らかと思われます。つまり、「倭国」を含むこれらの国々には「五絃」と称される「琵琶」とも「琴」(七弦琴)とも異なる楽器が存在していたことを示すものであり、最も考えられるのは古代に「帝舜」が奏していたという「五絃琴」ではなかったかというものです。
『隋書』の中にもありますが、元々「琴」は「五弦」であったものであり、後に(周の文王の時とされる)に二弦加えられ、七弦となったとされています。 『礼記』などにも「帝舜」(つまり周代以前)と「五弦琴」についての逸話が書かれています。
「…昔者,舜作五弦之琴以歌南風,?始制樂以賞諸侯。故天子之為樂也,以賞諸侯之有德者也。…」『礼記』「楽記」
このエピソードは「隋・唐代」においても著名であり、このことから「五弦」といえば「帝舜の五弦琴」というように連想されていたものと思われます。
またこの「五弦琴」については「帝舜」の歌が「南風」を歌ったものと言う事もあり、特に中国南方地域に強く遺存していたようです。「北宋時代」に編纂された「太平御覧」の「州郡部」に引用されている「湘中記」の中でも「江南道潭州」(現在の長沙市付近か)では「帝舜」の「遺風」があるとされ、「古老は五弦琴を弾ずる」とされています。
「《湘中記》曰:其地有舜之遺風,人多純樸,今故老猶彈五弦琴,好爲《漁父吟》。」(「太平御覧」州郡部十七「江南道下」「潭州」)
このように「南方地域」で「五弦琴」が見られるわけですが、それは『隋書』の「林邑伝」において、習俗として「文身断髪」とされるなどその記述が南方的であることと、そこに「五弦」と書かれている事とがつながっているように思われ、この「五弦」が「帝舜」の「南風」に影響された「五弦琴」であることを推察させるものです。
また、「林邑伝」に描かれた習俗は「倭国伝」にも近似しており、そのことは「倭国伝」の「五弦」もまた「帝舜」の「五弦琴」と関係があると考える余地がありそうです。
他の史料においても「五弦」はほぼ全て「五弦琴」を指し、それに対し「五弦」の「琵琶」の場合は「五弦琵琶」と書かれる場合が多いという実態が確認されます。
また、この『倭人伝』(及び「高麗伝」)において書かれている「琴」について、これが「七弦琴」を指すものとすると、「林邑伝」などで「楽」の例を挙げる場合の先頭近くに書かれる場合が多いことと食い違うともいえるでしょう。
『風俗通義』(註一)では「雅琴者楽之統也、八音與竝行、然君子常御所者、琴最親密、身於離不。」とされ、「七弦琴」としての「琴」は諸楽器の「統」であり、合奏の際にはその中心となる楽器とされています。さらに常に君主の傍らにあるべき楽器ともされていたものです。(「君子左琴」の思想)
つまり「楽器類」を列挙する場合は暗黙のルールとして「琴」(七弦琴)から始められるものと思われ、「琴」(七弦琴)が存在している場合には当然「先頭近く」に書かれるものであり、それに対し「五弦琴」は逆に南方的であることから考えても「隋」など「北朝」から見ると「マイナー」な存在であり、「琴」が存在しているならそれに先だって書かれるというようなことはなかったのではないかと思われ、基本的には先頭には来ないと考えるべきでしょう。そう考えれば「五弦琴」という表記は「五弦」と「琴」ではなく、いわゆる「五弦琴」を示すものと思われることとなるでしょう。
また「林邑伝」で「楽器」を列挙した後に「頗與中國同」と書かれているのは、その先頭に「琴」が置かれていることと関係しているでしょう。つまりこの「琴」は「七弦琴」であり、それも含めて「楽器」は(「五弦」の存在を除けば)「隋」によく似た構成であると言う事ではないでしょうか。そうであれば「倭国」や「高麗」が「五弦」「琴」と始まってなおかつ「林邑伝」のように「中国」(隋)と同じとは書かれていない事もまた重要であると思われ、ここには「七弦琴」が存在していないと考えられることとなり、「琴」単独で書かれているとはいえなくなると思われるのです。
『雄略紀』に「呉」の人が「渡来」した記事がありますが、彼は「呉琴」の奏者の祖とされていますから、彼により「呉琴」が持ち込まれたものと思われますが、この「呉琴」とは「帝舜」が奏したという「五弦琴」を指すと思われ、これは当時の中国でも「北朝」というより「南朝」の領域で多く弾かれていたものです。
「(雄略)十一年…秋七月。有從百濟國逃化來者。自稱名曰貴信。又稱。貴信呉國人也。磐余呉琴彈■手屋形麻呂等。是其後也。」
「五弦琴」はそれ以前からもあったと思われるものの、中国のものとは弦の張り方(並行なのか放射状なのか)など細かい点で違いがあり、この時点以降倭国独自のものから中国式へ主流が変ったということが考えられるでしょう。
「中国」では「七弦琴」が長く使用され、「隋」以前の「六朝時代」やそれ以前も「七弦」であったと考えられています。その「調弦法」は「二弦」がオクターブ離れて調弦されるものが一般的であり、(曲により「調」が違う場合があり、その場合は「調弦」が違う)「西日本」の「五弦琴」と中国の「七弦琴」とが「同源」であるという可能性が考えられるものの、一般には「五弦琴」は「帝舜」が弾じたという記述があり、周王朝時代以前の古式であるという可能性が考えられ、それを「列島」では早期に受容した後改変せずそのまま保存していたと理解できます。
「舞」も「琴」も元々「王」の独占するところであり、祭祀等のセレモニーには不可欠であったと思われ、『隋書俀国伝』にも「其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂」と書かれており、「朝會」つまり「朝廷」が開かれるたびに必ず「儀仗」つまり「儀式」のための「武器」「武具」を飾り、またそれを身につけた人員を配置し、なおかつ、「国楽」を「奏する」とされています。
このように「王」の「統治」と「楽」を奏するという行為は不可分のものであり、「弦」の数の違いは「音階」「調律」の違いとなり、それは即座に「奏」される「曲目」の違いとなりますが、その曲目は「国楽」と呼称され、「国家」を象徴するものであったわけですから、その違いは「国家」(国)の違いとならざるを得ません。つまり、「弦数」の違いは「統治領域」の違いでもあるわけです。(埴輪として「琴」が出土しているのも、「古墳」の主である「王」に奉仕するという性格を良く表していると思われます。)
Ⅱ.「七弦琴」と『源氏物語』
すでに述べたように倭国内には『隋書』の時代「鴻臚寺掌客」としての「裴世清」が倭国を訪れる以前には「七弦琴」が存在していなかったこととなりますが、これに関して『源氏物語』の主人公である「光源氏」が「七弦琴」を得意としていたという記述もそれなりに重要であると思われます。
『源氏物語』が書かれた「十世紀末」から「十一世紀初頭」という時代には「七弦琴」は既に廃れており演奏されることもなくなっていたにも関わらず、主人公である「光源氏」はその「七弦琴」の名手とされています。(「源氏物語絵詞」など平安後期以降に書かれたものではあるものの、その中に「七弦」の琴が描かれている例が多数に上ることが確認されています。(註二)
この「七弦琴」は「源氏物語」の中では「きん」「きむ」と仮名書きされており(これは「音」と思われる)、「琴」(こと)とは異なるものと考えられていたようです。「和琴」は「六絃」であったと思われ、「あづまごと」の別名のように「東国」(関東)にその起源を持つものでした。ところで、その「琴」(きん)を得意としていた「光源氏」のモデルとされているのが「聖徳太子」であるとする研究があります。(註三)
それによれば『聖徳太子伝暦』という平安時代の書物に出てくる「聖徳太子」に関する記述と「源氏物語」中の「光源氏」とが非常によく似ているとされています。そこには「百済」から「日羅」を招請し彼がそれに応え「来倭」した際に「聖徳太子」と面会したというエピソードが書かれており、その情景などの描写が、『源氏物語』の中で「光源氏」が「高麗」から来た「人相」を見る人との対面するシーンに酷似しているとされます。
(『聖徳太子伝暦』の記述)「(推古)十二年 癸卯 穐七月 百濟賢者韋北達率日羅…太子密諮皇子 御之微服…指太子曰 那童子也 是神人矣…日羅跪地 而合掌白曰 敬礼救世觀世音大菩薩 傳燈東方粟散王云云 人不得聞 太子修容 折磬而謝 日羅大放身光 如火熾炎 太子亦眉間放光 如日輝之枝…」
(以下酷似しているとされる「源氏物語」の一部を記述)「そのころ、高麗人のまゐれるが中に、かしこき相人ありけるを…いみじう忍びて、この御子を、鴻臚館に遣はしたり。…相人驚きて、あまたゝび傾きあやしぶ。「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします。…「光る君」という名は、高麗人の愛で聞こえて、つけたてまつりける」とぞいひ伝へたるとなむ。」
このようにそのシチュエーションの細部までよく似ているとされます。この『聖徳太子伝暦』は、一説には「紫式部」の曾祖父である「藤原兼輔」が書いたものとされていますから、「紫式部」が幼少の頃から見慣れていたという可能性もあるでしょうし、またその「伝暦」の原資料となったものが彼女の周辺にまだ残っていてそれを参照したという可能性も考えられるところです。そう考えると、「聖徳太子」と「七弦琴」の間に「実際に」何らかの関係があったということも可能性としてはあり得ると思われます。
また、一般には「七弦琴」の「倭国」への伝来は「唐代」とされていますが、「隋」の「楽制」の伝来という中に含まれていたという可能性も考えられ、そうであれば、それは「古式」ともいえる「五弦琴」の存在を知った「隋皇帝」(文帝)からの、最新のものを知らしめようという意味の贈呈品であったという可能性もあるでしょう。
ところで「七弦琴」がもたらされたとしてもそれで演奏するための「楽譜」がなければ演奏はできないわけであり、この時同時にそのような「譜」が伝来しなければなりませんが、「光源氏」が「聖徳太子」と関連づけて書かれているとすると、「物語」の中で彼や近待の人が演奏する「琴」の楽曲にそれが反映している可能性があります。それについては、「源氏物語」の「若菜下」において「夕顔」などを中心とした四人で「光源氏」の前で演奏される曲に注目されます。そこでは「漢代」に「匈奴」との間で政略結婚をさせられた「王昭君」(王明君)の悲話をモチーフとした「胡笳の調べ」が演奏されていたことが明らかとなっています。(註四) これは「梁」の時代「琴」の名手「丘公」が「作曲」したものであり、それ以降しきりに演奏されたものです。(以下「源氏物語」の当該部分)
「…返り声に、皆調べ変はりて、律の掻き合はせども、なつかしく今めきたるに、琴は、『こかのしらへ』、あまたの手の中に、心とどめてかならず弾きたまふべき五、六の発喇を、いとおもしろく澄まして弾きたまふ。…」(『源氏物語(若菜下)』より)
このように「源氏」の中で「胡笳の調べ」が演奏されていることから、「南北六朝」時代の「碣石調幽蘭」という「琴譜」が伝来したと見ることができると思われます。(現在も存在・保管されています)これは上記「丘公」の手による『琴譜』の一部であり、その中には「胡笳調」が含まれているのです。(註五)
このようなことはこの「七弦琴」や「譜」の伝来が一概に「唐代」であるとは限定できない性格を持つと思われ、むしろ「遣隋使」という存在を考えると、「隋代」の伝来を措定して全く無理がないものであり、「聖徳太子」の時代であるという設定や伝承とも整合すると思われます。しかも「隋」との関係が友好的な雰囲気であったのは「宣諭」事件(註五)以前の「開皇年間」に限られると思われますから、六世紀末を措定するのが最も妥当であると思われます。
この「七弦琴についてはその当の「源氏」の中で「光源氏」本人の口から次のようなことが語られており、「琴」の出自を含め興味が持たれます。
「…この琴は、まことに跡のままに尋ねとりたる昔の人は、天地をなびかし、鬼神の心をやはらげ、よろづの物の音のうちに従ひて、悲しび深き者も喜びに変はり、賤しく貧しき者も高き世に改まり、宝にあづかり、世にゆるさるるたぐひ多かりけり。この国に弾き伝ふる初めつ方まで、深くこの事を心得たる人は、多くの年を知らぬ国に過ぐし、身をなきになして、この琴をまねび取らむと惑ひてだに、し得るは難くなむありける。げにはた、明らかに空の月星を動かし、時ならぬ霜雪を降らせ、雲雷を騒がしたる例、上りたる世にはありけり。かく限りなきものにて、そのままに習ひ取る人のありがたく、世の末なればにや、いづこのそのかみの片端にかはあらむ。…」(『源氏物語(若菜下)』より)
つまりこの国に「初めて」「琴」の演奏法などが伝えられた時点で、この「琴」がすばらしいものであることを知った人物はその「琴」を極めようとして「多くの年を知らぬ国に過ぐ」し、「身をなきになし」て、学ぼうと精一杯がんばったけども、困難であったというわけです。それほど困難であったためにそれを習得できる人も少なく、「琴」が演奏できる人はどこにいるかさえよくわからなくなってしまったものです。(これは「宇津保物語」を下敷きにした記述と考えられているようです。)
このように「七弦琴」が廃れてしまったことを嘆くわけですが、それは「七弦琴」そのものが「倭国」においては「古来」からの伝統が全くなかったものであり、一般的な楽器ではなかったことがその理由として最も考えられます。あくまでも「隋皇帝」から「倭国王」へのプレゼントとしてもたらされたものであり、「王権」中枢の人物だけがそれを演奏していたとするわけですが、多くの人々がそれを演奏する機会も能力もなかったとすれば、継続して演奏されることがなくなっていったというのも当然と言えるでしょう。
つまり「七弦琴」は「平安時代」以前より「琴の琴」「箏の琴」「和琴」等複数ある「琴」の中の最高位のものとされたものであり、「天皇」を始めとした「高位」にあるものしか弾くことのないものへと(必然的に)なったわけです。それはそもそも「数」が少なかったこともあるでしょうけれど、本来「隋皇帝」から「倭国王」へという至上の品であったという経歴と性格がそのようなランク付けがされることとなった原因であるといえるでしょう。
『源氏』の中でも「琴」(七弦琴)は「光源氏」の持つ特別なものという意でしょうか「秘したまふ御琴ども」とされ、またそれは特別な袋(文中では「うるはしき紺地の袋」とされる)に入れられているとされます。
このように「七弦琴」が「至高」のものとして描かれているわけですが、それは「光源氏」が「聖徳太子」に結びつけられて「源氏物語」が構成されているという点に深く関係していると思われるわけです。
Ⅲ.「五行」と「納音」(音律と音数)
「中国」では「詩」は本来「曲」に乗せて「歌う」ものでした。その場合多くは「琴」が伴奏として使用されていたものです。先に挙げた「帝舜」の「春風」も同様であったものであり、「五弦琴」を弾きながら「詩」を歌ったものです。このような場合元々「詩」の「一音」が、「曲」の「一音」に対応するものではなかったかと考えられます。つまり、「詩」の「一区切り」の音数と「弦の数」とが元々対応していたのではないかと考えられ、「五弦琴」の存在は原初的な「詩」における「一区切り」の数が「五音」であったことを示すものではないでしょうか。
つまり「琴」の演奏の原初的な演奏法は「開放弦」による演奏が基本であったと思われ、「指」で「絃」を押さえて「違う音階」を発生させるのはそれに継ぐ段階であると考えられるわけです。
「詩」が本来「曲」に乗せて歌うものであり、またそれを「五弦」に乗せて歌うなら「五言詩」がしっくりくるでしょうし、「七弦」ならば「七言詩」がふさわしいといえるのではないでしょうか。つまり、詩の形式の発展と「琴」の弦数とは関係があるのではないかと考えられることとなります。
「詩」の形式においては「唐代」以前の「詩」を「古体詩」と呼び、「四言」「五言」「七言」などいくつか種類があるようですが、「漢の武帝」の時代(紀元前一二〇年)宮中に設けた音楽を司る役所を「楽府」といい、またその後そこに集められた民間の歌謡そのものを指すものともなったとされます。当然「曲」が先行して存在しており、「役人」としての「楽人」が典礼用の詩を作り、それをそれらの「曲」に乗せて歌ったもののようです。ただし「曲」にはすでに「題」がついているわけであり、新しく作った詩にも同様の「題」が適用されたものです。
「魏」の「曹操」の「楽府」に納められた「詩」では「五言詩」が非常に多く、この時代の詩曲の多くが「五音」単位で作られていたことを示しています。「五音」で構成される「詩曲」はまさに「五弦」による伴奏が最もふさわしいと思えます。一音一語と考えれば五言が複数繰り返される型の詩文に曲をつける際には「五弦」の楽器が最も適切に思われるわけです。
そもそも「詩」が本来「メロディー」を持つものであり、楽器演奏が必須であったと考えると、「詩」と「音階」と(というより「音律」というべきでしょうか)には深い関係があることとなるでしょう。
中国語は日本語と違って極端な高低アクセントがあり、中国人の話しているのを聞くと「音楽的」という印象を受けるという意見がありますが、それは「詩文」を吟ずる際には特に顕著になったものと思われ、「楽器」で伴奏するのも当然と思われますが、その際に中国語のイントネーション(「平仄」)とマッチしなければならず、「音階」や「音律」と「言語」の間には直線的関係があったこととなるでしょう。それは「五絃」と「五言」の間に関係があると考えることにつながるものです。
日本においても「山田耕筰」のように日本語のイントネーション(高低アクセント)に沿って作曲をするという運動をしていた例がありますが、中国語の「平仄」はもっと明確に音の高低が意識されるものであり、調律がそれを意識しなかったとは考えにくいと思われます。つまり「平仄」と「音階」は整合的でなければならないはずであり、韻文を音階で表すとするとそのような調律が必要となるということでもあります。
ところで「五行説」というものがあります。それはこの宇宙が「五つの要素」でできているとする考え方であり、それが移り変わることで「陰」と「陽」が変転するというものです。このような思想が「倭国」に到来したのがいつのことなのかは明確ではありませんが、本格的な導入は『書紀』では『推古紀』に記された「百済」からという「暦本」「天文」「方術」などを扱う人間が来倭したとする記事が注目され、「六世紀終わり」という時期が最も考えられるものです。
この「五行」はそれぞれ「木」「火」「金」「土」「水」に配され、それに対応する「色」として「青」「赤」「黄」「白」「黒」の五色があるとされます。しかし、「色」だけではなく「音階」も配されているのです。それは「納音」と呼ばれています。
「納音」は「五行」を音階で表したものであり、それは「五行」に当てはめられていることから考えて、その音階を表す楽器が「五弦」のものであることが推察されます。その音階としては「宮」、「商」、「角」、「徴」、「羽」の五つの音階が相当するとされ、さらにその後これが「干支」に配されて年ごとの吉兆を占うものとして考えられるようになりました。これは「五弦琴」あるいは「七弦琴」の「第一絃」から「第五絃」までの「開放弦」の音階そのものであり、年次(生まれ年)に応じて「音階」つまり「納音」が定まっていたものです。
この「納音」は「南北朝」以降の中国で確認できますが、それがいつ「倭国」へ伝わったかは不明でしたが、「二〇一四年」に熊本県で「納音」が付された「文書」が見つかり、それに「九州年号」が書かれており、またその「九州年号」の最初である「善記」がその「起点」となっていることことが確認されました。(註四)これを見ても、「九州倭国王朝」が健在のうちに伝えられたことが窺われ、すでに行った検討などからも「倭国」に伝わったのは「隋代」であったと考えるのが自然です。
また、この「納音」が「音階」と関係しているということから、この時の「納音」が「楽器」(特に「七弦琴」)と共にもたらされたものと考えるのもまた自然です。
「聖徳太子」と「音律」を結びつける伝承は「徒然草」の中に顔を出しています。そこでは「天王寺」の楽士達が自分たちの音階は太子(聖徳太子)の時に定められたものとする記述があります。
『「何事も邊土は、卑しく頑(かたくな)なれども、天王寺の舞樂のみ、都に恥ぢず」といふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、「當寺の樂は、よく圖をしらべ合せて、物の音のめでたく整ほり侍ること、外よりも勝れたり。ゆゑは太子の御時の圖、今にはべる博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。そのこゑ、黄鐘調の最中(もなか)なり。寒暑に從ひて上(あが)り・下(さが)りあるべきゆゑに、二月 涅槃會(ねはんゑ)より聖靈會(しゃうりゃうゑ)までの中間を指南とす。秘藏のことなり。この一調子をもちて、いづれの聲をもとゝのへ侍るなり」と申しき。』(徒然草第二百二十段)
このように「聖徳太子」の時代に音律が伝えられたとするわけですが、それは当然「隋代」でありしかも「開皇年間」のことであったと見るべきこととなるでしょう。
ただし、「納音」についてはそれ以降「五行」だけで記述されることが多くなったようです。すでに「唐代」(「武則天」の時代)には「納音」について「五行」の表記だけ見られることとなっています。
以上のように「納音」は「七弦琴」の流入と共に「倭国」に伝わったものと思われますが、その後「倭国九州王朝」から「新日本国王朝」へ「王朝交代」が起きた結果、「納音」の元となった「五弦琴」「七弦琴」が使用されなくなったものと思われます。「新日本国王朝」では「四弦琴」あるいはそれを改良した「六弦琴」を使用していたものであり、その「音階」は「五弦琴」や「七弦琴」とは異なるものであったと思われ、そのため「納音」の元となった「五音」に基づく「楽」は演奏機会がなくなったものと考えられます。このため、「五行」と「音階」や「納音」についての関係についても不明となっていったものと思われ、「干支」と「五行」の関係だけが遺存したものと考えられるわけです。
「宣命暦」で書かれた「天平年間」の「具注暦」が発見されていますが、そこには「納音」が「五行」だけで表記されており、この時代にはすでに「音律」が忘却されていたことがわかります。
ところで、現在確認できる「納音」には「山頭」「井泉」など「五行」の前に形容語をつけて三十種類に分類されていますが、これは「倭国」において考え出されたことではなかったでしょうか。
中国の使用例では「五音」と「五行」についてのみ書かれており、接頭辞たる形容語が確認できるものが全く見あたりません。
(以下中国の例)
「…勝龍所以白者,楊姓納音為商,至尊又辛酉?生,位皆在西方,西方色白也。死龍所以黑者,周色黑。…」(「隋書/列傳第三十四/王劭」より)
「蕭吉字文休,梁武帝兄長沙宣武王懿之孫也。博學多通,尤精陰陽算術。…所以靈寶經云:『角音龍精,其祚日強。』來?年命納音?角,?之與經,如合符契。又甲寅、乙卯,天地合也,甲寅之年,以辛酉冬至,來年乙卯,以甲子夏至。冬至陽始,郊天之日,即是至尊本命,此慶四也。夏至陰始,祀地之辰,即是皇后本命,此慶五也。…」(「隋書/列傳第四十三/藝術/蕭吉」より)
「尚獻甫,衞州汲人也。尤善天文。初出家為道士。則天時召見,起家拜太史令,固辭曰:「臣久從放誕,不能屈事官長。」則天乃改太史局為渾儀監,不隸祕書省,以獻甫為渾儀監。數顧問災異,事皆符驗。又令獻甫於上陽宮集學者撰方域圖。長安二年,獻甫奏曰:「臣本命納音在金,今?惑犯五諸侯太史之位。?,火也,能尅金,是臣將死之?。」則天曰: 「朕為卿禳之。」遽轉獻甫為水衡都尉,謂曰:「水能生金,今又去太史之位,卿無憂矣。」其秋,獻甫卒,則天甚嗟異惜之。復以渾儀監為太史局,依舊隸祕書監。…」(「舊唐書/列傳第一百四十一/方伎/尚獻甫」より)
これらの例を見ても「五行」の前には何も付加されていません。この段階までに確認できないということは、これらは「中国」から伝わったものではなく、日本側で付加されたものではないかと考えられることとなります。
Ⅳ.尺八と遣隋使
すでに見たように「七弦琴」は「遣隋使」(あるいは(来倭した「隋使」)によってもたらされたと思われますが、同様にこのとき伝来したと推定されるものに「尺八」があります。
従来「尺八」は「唐」の「呂才」(漏刻の改良を行ったとされる人物)による発明とされているようですが、それは実際には「改良」であったものであり、彼はそれまで基音として「黄鐘」だけであったものを、十二音律すべてに対応する「尺八」を作製したものであり、さらにその「黄鐘」についても「音律」からわずかに狂いがあったものを彼が長さと「孔」の位置を改めて定めた結果、音律が全て基準(三分損益法)に則った、つまりどの「運指法」によっても「音髙」が「音律」に正確なものとなったと言う事と理解できます。(ここでいう「音律」とは、「三分損益法」により導かれる「十二」の音階をいいます。)
「呂才,博州清平人也。少好學,善陰陽方伎之書。貞觀三年,太宗令祀孝孫増損樂章,孝孫乃與明音律人王長通,白明達遞相長短。太宗令侍臣更訪能者,中書令温彦博奏才聰明多能眼所未見,耳所未聞,一聞一見,皆達其妙,尤長於聲樂,請令考之。侍中王珪,魏徴又盛稱才學術之妙,徴日「才能爲尺十二枚,『尺八』長短不同,各應律管,無不諧韻」太宗即徴才,令直弘文館。」(『旧唐書』巻七十九「呂才傳」)
「才製『尺八』凡十二枚,長短不同,與律諧契。即召才直弘文館,參論樂事」(『新唐書』巻一百七「呂才傳」)
これらの記述では「尺八」という単語が説明抜きで使用されており、彼以前に既に「尺八」というものがあったことを示唆しています。また彼の「尺八」がこの「貞観三年」をそれほど遡る時期に造られたものではないこともまた確かと思われ、少なくとも「隋末」あるいは「唐初」を上限とすべきものと思われます。
ところで「法隆寺」に元あったとされ現在国立博物館に保存されている「宝物」に「尺八」が存在します。この「尺八」について学術的調査を加えた結果が公表されており、それによれば「長さ」及び「孔」の位置や発せられる音髙などから、この「尺八」が「呂才」が改良を加える以前のものであることが明らかとなっています。(註五)
それによれば「法隆寺」の尺八は「宋尺」により造られており、それは中国南朝(劉宋、斉,梁,陳 )の各代で使用され、「楽律」もまたこれによって定められたとされます。また中国北朝においても「北周」「隋」「唐」と歴代用いられたものであり、隋代では,開皇の始めに「鐘律尺」として制定され、その後の「唐」も「唐小尺律」(正律)として使用が継続されていたものです。
ところで「法隆寺」に関する伝承の中にはこの「尺八」に関するものがあり、例えば『古今目録抄』(聖徳太子伝私記)には以下のような記述があるのが確認できます。
「尺八,漢竹なり。太子此笛を法隆寺より天王寺に御ますの道,椎坂にして吹き給いしの時,山神,御笛に目して出て御後にして舞ふ。太子奇みて見返し給ふ。爰に山神,見奉りて,怖れて舌を指出づ,其様舞ひ伝へて天王寺に之を舞ふ。今に蘇莫者と云ふなり。」
ここでは「漢竹」とされ「唐」とは書かれていません。この記事が書かれた年代から考えると、「唐」とする方が常識的であるにもかかわらず、「漢」と表記されており、これはその伝来の年代をおよそ推定させるものであり、少なくともその伝来が「唐」以前を推定させるものです。
ところでこの「蘇莫者」については『旧唐書』あるいは『新唐書』に関連する記事があります。
「…時又有清源尉呂元泰,亦上書言時政曰:「國家者,至公之神器,一正則難傾,一傾則難正。今中興政化之始,幾微之際,可不慎哉?自頃營寺塔,度僧尼,施與不?,非所謂急務也。林胡數叛,?虜?侵,帑藏?竭,?口亡散。夫下人失業,不謂太平;邊兵未解,不謂無事;水旱為災,不謂年登;倉廩未實,不謂國富。而乃驅役飢凍,彫鐫木石,營構不急,勞費日深,恐非陛下中興之要也。比見坊邑相率為渾脱隊,駿馬胡服,名曰『蘇莫遮』。旗鼓相當,軍陣勢也;騰逐喧譟,戰爭象也;錦?夸競,害女工也;督斂貧弱,傷政體也;胡服相歡,非雅樂也;渾脱為號,非美名也。安可以禮義之朝,法胡虜之俗?詩云:『京邑翼翼,四方是則。』非先王之禮樂而示則於四方,臣所未諭。書:『曰謀,時寒若。』何必?形體,灌衢路,鼓舞跳躍而索寒焉?」書聞不報。…」(『新唐書/列傳第四十三/呂元泰』より)
ここでは八世紀に入って「唐」の勢威がやや衰え始めた時点において臣下が皇帝に向け諫言しているわけですが、その内容としては都においてさえも「西方」から伝わった習慣に染まっている現実を憂えているわけであり、そこでは「胡服」「駿馬」が描かれていますから、西方から北方にかけての異民族の風習が描写されているようであり、それは「非雅樂也」とされています。「唐」から見て夷蛮とも言える地域の風習であるというわけですが、それを「蘇莫遮」と呼称するとされています。これは『古今目録抄』時点で「今に蘇莫者と云ふなり」とされる「蘇莫者」と同じものであると思われますが、それはまた「渾脱の舞」と呼称されるものと同一と思われ、一種の「剣舞」であり、「軍事」的色彩を帯びた舞であるとされます。
このようなものが「聖徳太子」の時代に倭国にあったというわけですが、一般には後代の脚色として扱われていますが、「北朝」(北魏)は「亀滋国」などを制圧しその勢力下においていましたから、「隋」においてもそれら胡族の風習が既知のものであったとして当然といえ、そう考えると、この「唐代」の「蘇莫者」の流行は一種のリバイバルではないかと思われます。
このような「西方」の国の風習が「倭国」に伝わった時期として従来考えられているのは「則天武后」が死去した直後付近であり、その時期が流行のピークであったと思われることから、その時点付近で派遣された遣唐使がもたらしたと言えるかもしれませんが、そのような想定の場合「聖徳太子」や「初唐」以前の規格でつくられた笛と関連していると考えられることを別に説明する必要がありますが、それはかなり困難なのではないでしょうか。
「蘇莫遮」(渾脱の舞)とともに「法隆寺」の「尺八」が「聖徳太子」との関連のもとに書かれていることや、その「蘇莫遮」が「剣舞」であり「軍楽」と関係していると考えられること、その「尺八」が「唐」以前の基準尺で造られていることが明らかとなったことからも、この「尺八」が「隋代」に伝来したものと考えられることを示し、これも「遣隋使」がもたらしたものと考えると、当然「宣諭事件」以前に伝来したと考えるべきこととなります。そう考えると、少なくとも『書紀』や『隋書』の記事をそのまま受け取るとしても、「大業三年」以前の伝来であると思われ、「文帝」の時代に伝来したと考えるのが正しいと思われることとなるでしょう。そう考えるのは「尺八」の出す音高が「黄鐘」だからであり、それは仏教において「無常」を表す音であり、寺院の梵鐘の出すべき音として認識されていたものだからです。それを踏まえると「煬帝」というより仏教に深く帰依し、仏教を国教とした「文帝」に深く関わるものではないかという推測が可能となるでしょう。
すでに見たように『徒然草』には「隋代」に「音律」がもたらされたらしいことが書かれているわけですが、その内容から見て「四天王寺」の「鐘」が「尺八」と同じ「黄鐘」という基準音で鋳造されていたらしいことが推定されています。(註六)
前述した「徒然草」によれば「四天王寺」の舞楽についての音の基準値が非常に繊細に取り扱われていることがわかります。気温や湿度によって「鐘」の最低音高(基本周波数)が変化するため、「二月涅槃會より聖靈會までの中間」といいますから、「二月十五日」から「二十二日」までの間の中間つまり「二月十八日」の鐘の「音」に他の楽器を調律しているというわけです。
「尺八」の伝来時期や「四天王寺」の「梵鐘」の基準音が「隋代」以前のものであるということを下敷きにして思惟進行すると、それらは「隋」との交流の中でもたらされたものと考えられ、「隋」の「開皇年間」の伝来が最も考えられるものです。それはまた「隋」における「楽制」の制定などの情報や事物がこのとき倭国にもたらされた中の一環であったことを強く示唆するものと思われます。
註
一.「風俗通義」とは後漢末(二世紀の終わりごろ)の「応劭」の著作。
二.川島絹江「源氏絵における琴(きん)と和琴の絵画表現の研究」(『東京成徳短期大学紀要』第四十三号二〇一〇年)
二.川本信幹「源氏物語作者の表現技法」(『日本体育大学紀要』二十二巻一号一九九二年)
三.上原作和『光源氏物語 學藝史ー右書左琴の思想』(翰林書房 二〇〇六年五月)
四.熊本県玉名郡和水町 前垣芳郎 「【転載】「九州年号」を記す一覧表を発見―和水町前原の石原家文書―」(「古田史学会報第一二二号
五. 明土真也「法隆寺と正倉院の尺八の音律」(『音楽学』五十九号二〇一三年十月)
六.明土真也「音高の記号性と『徒然草』第二二〇 段の解釈」(『音楽学』五十八号二〇一二年十月)
要旨
「隋書俀国伝」中には「五弦琴」が確認でき、まだ倭国には「七弦琴」が渡来していないと考えられること、「源氏物語」には「七弦琴」が(当時廃れていたにもかかわらず)「帝王」の楽として琴(きん(きむ))が現れ、これが「七弦琴」と考えられること、「五行」に音階をつけた「納音」が「七弦琴」とともに渡来したと思われること、また「尺八」も同時に渡ったものと思われ、いずれも「隋皇帝」からの下賜によると思われ、仏教治国策の一環としての供与であったと思われること、以上について述べます。
Ⅰ.「隋書」における「五弦琴」
倭国の「琴」としては古墳その他に出土する「琴」と思われる遺物及び「琴」を演奏している状態を示していると考えられる「埴輪」などがありますが、その研究によれば、地域により「弦」の数に違いがあるのが確認されています。
それによれば西日本に出現する「五弦」型と関東地域の「四弦」型とが確認できるとされます。
ところで、『隋書俀国伝』では「楽」として「俀(倭)国」に存在するものとして「五弦琴」と書かれています。
「…樂有五弦琴笛…」
ここに書かれた「五弦琴」が「五弦」と「琴」なのか「五弦琴」という琴なのかについては意見が分かれています。これを「五弦」と「琴」というように区切って理解する場合は「五弦」とは「琵琶」を意味すると考えられることとなりますが、その場合「琴」の弦数については言及していないこととなりますから、「隋」と同じで「七弦」であったと考えられる事となります。しかし、「倭国内」の遺跡からは「七弦」の琴が確認されず、当時もその前代も倭国内には「七弦琴」は存在していなかったと考えるべきこととなり、そうであれば『隋書』の記述とは食い違います。そのため、この「五弦」を「五弦琴」とつなげて理解して「五弦の琴」という意味と理解することもまた可能かと思われます。
そのような理解に正当性があると思えるのは、同じ『隋書』内の「南蛮」の国々に対して「五絃」と「琵琶」が書き分けられている例があるからです。
「…樂有琴笛琵琶五絃,。??鼓以警?,吹蠡以即戎。…」(隋書/列傳第四十七/南蠻/林邑)
「…有大小鼓琵琶五絃箜篌笛。…」(隋書/列傳第四十八/西域/康國)
これらの例を見ると、「琴」とは別に「琵琶」と「五絃」が存在していることが明瞭に書かれており、「五絃」という表現が「琵琶」を示すものではないことは明らかと思われます。つまり、「倭国」を含むこれらの国々には「五絃」と称される「琵琶」とも「琴」(七弦琴)とも異なる楽器が存在していたことを示すものであり、最も考えられるのは古代に「帝舜」が奏していたという「五絃琴」ではなかったかというものです。
『隋書』の中にもありますが、元々「琴」は「五弦」であったものであり、後に(周の文王の時とされる)に二弦加えられ、七弦となったとされています。 『礼記』などにも「帝舜」(つまり周代以前)と「五弦琴」についての逸話が書かれています。
「…昔者,舜作五弦之琴以歌南風,?始制樂以賞諸侯。故天子之為樂也,以賞諸侯之有德者也。…」『礼記』「楽記」
このエピソードは「隋・唐代」においても著名であり、このことから「五弦」といえば「帝舜の五弦琴」というように連想されていたものと思われます。
またこの「五弦琴」については「帝舜」の歌が「南風」を歌ったものと言う事もあり、特に中国南方地域に強く遺存していたようです。「北宋時代」に編纂された「太平御覧」の「州郡部」に引用されている「湘中記」の中でも「江南道潭州」(現在の長沙市付近か)では「帝舜」の「遺風」があるとされ、「古老は五弦琴を弾ずる」とされています。
「《湘中記》曰:其地有舜之遺風,人多純樸,今故老猶彈五弦琴,好爲《漁父吟》。」(「太平御覧」州郡部十七「江南道下」「潭州」)
このように「南方地域」で「五弦琴」が見られるわけですが、それは『隋書』の「林邑伝」において、習俗として「文身断髪」とされるなどその記述が南方的であることと、そこに「五弦」と書かれている事とがつながっているように思われ、この「五弦」が「帝舜」の「南風」に影響された「五弦琴」であることを推察させるものです。
また、「林邑伝」に描かれた習俗は「倭国伝」にも近似しており、そのことは「倭国伝」の「五弦」もまた「帝舜」の「五弦琴」と関係があると考える余地がありそうです。
他の史料においても「五弦」はほぼ全て「五弦琴」を指し、それに対し「五弦」の「琵琶」の場合は「五弦琵琶」と書かれる場合が多いという実態が確認されます。
また、この『倭人伝』(及び「高麗伝」)において書かれている「琴」について、これが「七弦琴」を指すものとすると、「林邑伝」などで「楽」の例を挙げる場合の先頭近くに書かれる場合が多いことと食い違うともいえるでしょう。
『風俗通義』(註一)では「雅琴者楽之統也、八音與竝行、然君子常御所者、琴最親密、身於離不。」とされ、「七弦琴」としての「琴」は諸楽器の「統」であり、合奏の際にはその中心となる楽器とされています。さらに常に君主の傍らにあるべき楽器ともされていたものです。(「君子左琴」の思想)
つまり「楽器類」を列挙する場合は暗黙のルールとして「琴」(七弦琴)から始められるものと思われ、「琴」(七弦琴)が存在している場合には当然「先頭近く」に書かれるものであり、それに対し「五弦琴」は逆に南方的であることから考えても「隋」など「北朝」から見ると「マイナー」な存在であり、「琴」が存在しているならそれに先だって書かれるというようなことはなかったのではないかと思われ、基本的には先頭には来ないと考えるべきでしょう。そう考えれば「五弦琴」という表記は「五弦」と「琴」ではなく、いわゆる「五弦琴」を示すものと思われることとなるでしょう。
また「林邑伝」で「楽器」を列挙した後に「頗與中國同」と書かれているのは、その先頭に「琴」が置かれていることと関係しているでしょう。つまりこの「琴」は「七弦琴」であり、それも含めて「楽器」は(「五弦」の存在を除けば)「隋」によく似た構成であると言う事ではないでしょうか。そうであれば「倭国」や「高麗」が「五弦」「琴」と始まってなおかつ「林邑伝」のように「中国」(隋)と同じとは書かれていない事もまた重要であると思われ、ここには「七弦琴」が存在していないと考えられることとなり、「琴」単独で書かれているとはいえなくなると思われるのです。
『雄略紀』に「呉」の人が「渡来」した記事がありますが、彼は「呉琴」の奏者の祖とされていますから、彼により「呉琴」が持ち込まれたものと思われますが、この「呉琴」とは「帝舜」が奏したという「五弦琴」を指すと思われ、これは当時の中国でも「北朝」というより「南朝」の領域で多く弾かれていたものです。
「(雄略)十一年…秋七月。有從百濟國逃化來者。自稱名曰貴信。又稱。貴信呉國人也。磐余呉琴彈■手屋形麻呂等。是其後也。」
「五弦琴」はそれ以前からもあったと思われるものの、中国のものとは弦の張り方(並行なのか放射状なのか)など細かい点で違いがあり、この時点以降倭国独自のものから中国式へ主流が変ったということが考えられるでしょう。
「中国」では「七弦琴」が長く使用され、「隋」以前の「六朝時代」やそれ以前も「七弦」であったと考えられています。その「調弦法」は「二弦」がオクターブ離れて調弦されるものが一般的であり、(曲により「調」が違う場合があり、その場合は「調弦」が違う)「西日本」の「五弦琴」と中国の「七弦琴」とが「同源」であるという可能性が考えられるものの、一般には「五弦琴」は「帝舜」が弾じたという記述があり、周王朝時代以前の古式であるという可能性が考えられ、それを「列島」では早期に受容した後改変せずそのまま保存していたと理解できます。
「舞」も「琴」も元々「王」の独占するところであり、祭祀等のセレモニーには不可欠であったと思われ、『隋書俀国伝』にも「其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂」と書かれており、「朝會」つまり「朝廷」が開かれるたびに必ず「儀仗」つまり「儀式」のための「武器」「武具」を飾り、またそれを身につけた人員を配置し、なおかつ、「国楽」を「奏する」とされています。
このように「王」の「統治」と「楽」を奏するという行為は不可分のものであり、「弦」の数の違いは「音階」「調律」の違いとなり、それは即座に「奏」される「曲目」の違いとなりますが、その曲目は「国楽」と呼称され、「国家」を象徴するものであったわけですから、その違いは「国家」(国)の違いとならざるを得ません。つまり、「弦数」の違いは「統治領域」の違いでもあるわけです。(埴輪として「琴」が出土しているのも、「古墳」の主である「王」に奉仕するという性格を良く表していると思われます。)
Ⅱ.「七弦琴」と『源氏物語』
すでに述べたように倭国内には『隋書』の時代「鴻臚寺掌客」としての「裴世清」が倭国を訪れる以前には「七弦琴」が存在していなかったこととなりますが、これに関して『源氏物語』の主人公である「光源氏」が「七弦琴」を得意としていたという記述もそれなりに重要であると思われます。
『源氏物語』が書かれた「十世紀末」から「十一世紀初頭」という時代には「七弦琴」は既に廃れており演奏されることもなくなっていたにも関わらず、主人公である「光源氏」はその「七弦琴」の名手とされています。(「源氏物語絵詞」など平安後期以降に書かれたものではあるものの、その中に「七弦」の琴が描かれている例が多数に上ることが確認されています。(註二)
この「七弦琴」は「源氏物語」の中では「きん」「きむ」と仮名書きされており(これは「音」と思われる)、「琴」(こと)とは異なるものと考えられていたようです。「和琴」は「六絃」であったと思われ、「あづまごと」の別名のように「東国」(関東)にその起源を持つものでした。ところで、その「琴」(きん)を得意としていた「光源氏」のモデルとされているのが「聖徳太子」であるとする研究があります。(註三)
それによれば『聖徳太子伝暦』という平安時代の書物に出てくる「聖徳太子」に関する記述と「源氏物語」中の「光源氏」とが非常によく似ているとされています。そこには「百済」から「日羅」を招請し彼がそれに応え「来倭」した際に「聖徳太子」と面会したというエピソードが書かれており、その情景などの描写が、『源氏物語』の中で「光源氏」が「高麗」から来た「人相」を見る人との対面するシーンに酷似しているとされます。
(『聖徳太子伝暦』の記述)「(推古)十二年 癸卯 穐七月 百濟賢者韋北達率日羅…太子密諮皇子 御之微服…指太子曰 那童子也 是神人矣…日羅跪地 而合掌白曰 敬礼救世觀世音大菩薩 傳燈東方粟散王云云 人不得聞 太子修容 折磬而謝 日羅大放身光 如火熾炎 太子亦眉間放光 如日輝之枝…」
(以下酷似しているとされる「源氏物語」の一部を記述)「そのころ、高麗人のまゐれるが中に、かしこき相人ありけるを…いみじう忍びて、この御子を、鴻臚館に遣はしたり。…相人驚きて、あまたゝび傾きあやしぶ。「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします。…「光る君」という名は、高麗人の愛で聞こえて、つけたてまつりける」とぞいひ伝へたるとなむ。」
このようにそのシチュエーションの細部までよく似ているとされます。この『聖徳太子伝暦』は、一説には「紫式部」の曾祖父である「藤原兼輔」が書いたものとされていますから、「紫式部」が幼少の頃から見慣れていたという可能性もあるでしょうし、またその「伝暦」の原資料となったものが彼女の周辺にまだ残っていてそれを参照したという可能性も考えられるところです。そう考えると、「聖徳太子」と「七弦琴」の間に「実際に」何らかの関係があったということも可能性としてはあり得ると思われます。
また、一般には「七弦琴」の「倭国」への伝来は「唐代」とされていますが、「隋」の「楽制」の伝来という中に含まれていたという可能性も考えられ、そうであれば、それは「古式」ともいえる「五弦琴」の存在を知った「隋皇帝」(文帝)からの、最新のものを知らしめようという意味の贈呈品であったという可能性もあるでしょう。
ところで「七弦琴」がもたらされたとしてもそれで演奏するための「楽譜」がなければ演奏はできないわけであり、この時同時にそのような「譜」が伝来しなければなりませんが、「光源氏」が「聖徳太子」と関連づけて書かれているとすると、「物語」の中で彼や近待の人が演奏する「琴」の楽曲にそれが反映している可能性があります。それについては、「源氏物語」の「若菜下」において「夕顔」などを中心とした四人で「光源氏」の前で演奏される曲に注目されます。そこでは「漢代」に「匈奴」との間で政略結婚をさせられた「王昭君」(王明君)の悲話をモチーフとした「胡笳の調べ」が演奏されていたことが明らかとなっています。(註四) これは「梁」の時代「琴」の名手「丘公」が「作曲」したものであり、それ以降しきりに演奏されたものです。(以下「源氏物語」の当該部分)
「…返り声に、皆調べ変はりて、律の掻き合はせども、なつかしく今めきたるに、琴は、『こかのしらへ』、あまたの手の中に、心とどめてかならず弾きたまふべき五、六の発喇を、いとおもしろく澄まして弾きたまふ。…」(『源氏物語(若菜下)』より)
このように「源氏」の中で「胡笳の調べ」が演奏されていることから、「南北六朝」時代の「碣石調幽蘭」という「琴譜」が伝来したと見ることができると思われます。(現在も存在・保管されています)これは上記「丘公」の手による『琴譜』の一部であり、その中には「胡笳調」が含まれているのです。(註五)
このようなことはこの「七弦琴」や「譜」の伝来が一概に「唐代」であるとは限定できない性格を持つと思われ、むしろ「遣隋使」という存在を考えると、「隋代」の伝来を措定して全く無理がないものであり、「聖徳太子」の時代であるという設定や伝承とも整合すると思われます。しかも「隋」との関係が友好的な雰囲気であったのは「宣諭」事件(註五)以前の「開皇年間」に限られると思われますから、六世紀末を措定するのが最も妥当であると思われます。
この「七弦琴についてはその当の「源氏」の中で「光源氏」本人の口から次のようなことが語られており、「琴」の出自を含め興味が持たれます。
「…この琴は、まことに跡のままに尋ねとりたる昔の人は、天地をなびかし、鬼神の心をやはらげ、よろづの物の音のうちに従ひて、悲しび深き者も喜びに変はり、賤しく貧しき者も高き世に改まり、宝にあづかり、世にゆるさるるたぐひ多かりけり。この国に弾き伝ふる初めつ方まで、深くこの事を心得たる人は、多くの年を知らぬ国に過ぐし、身をなきになして、この琴をまねび取らむと惑ひてだに、し得るは難くなむありける。げにはた、明らかに空の月星を動かし、時ならぬ霜雪を降らせ、雲雷を騒がしたる例、上りたる世にはありけり。かく限りなきものにて、そのままに習ひ取る人のありがたく、世の末なればにや、いづこのそのかみの片端にかはあらむ。…」(『源氏物語(若菜下)』より)
つまりこの国に「初めて」「琴」の演奏法などが伝えられた時点で、この「琴」がすばらしいものであることを知った人物はその「琴」を極めようとして「多くの年を知らぬ国に過ぐ」し、「身をなきになし」て、学ぼうと精一杯がんばったけども、困難であったというわけです。それほど困難であったためにそれを習得できる人も少なく、「琴」が演奏できる人はどこにいるかさえよくわからなくなってしまったものです。(これは「宇津保物語」を下敷きにした記述と考えられているようです。)
このように「七弦琴」が廃れてしまったことを嘆くわけですが、それは「七弦琴」そのものが「倭国」においては「古来」からの伝統が全くなかったものであり、一般的な楽器ではなかったことがその理由として最も考えられます。あくまでも「隋皇帝」から「倭国王」へのプレゼントとしてもたらされたものであり、「王権」中枢の人物だけがそれを演奏していたとするわけですが、多くの人々がそれを演奏する機会も能力もなかったとすれば、継続して演奏されることがなくなっていったというのも当然と言えるでしょう。
つまり「七弦琴」は「平安時代」以前より「琴の琴」「箏の琴」「和琴」等複数ある「琴」の中の最高位のものとされたものであり、「天皇」を始めとした「高位」にあるものしか弾くことのないものへと(必然的に)なったわけです。それはそもそも「数」が少なかったこともあるでしょうけれど、本来「隋皇帝」から「倭国王」へという至上の品であったという経歴と性格がそのようなランク付けがされることとなった原因であるといえるでしょう。
『源氏』の中でも「琴」(七弦琴)は「光源氏」の持つ特別なものという意でしょうか「秘したまふ御琴ども」とされ、またそれは特別な袋(文中では「うるはしき紺地の袋」とされる)に入れられているとされます。
このように「七弦琴」が「至高」のものとして描かれているわけですが、それは「光源氏」が「聖徳太子」に結びつけられて「源氏物語」が構成されているという点に深く関係していると思われるわけです。
Ⅲ.「五行」と「納音」(音律と音数)
「中国」では「詩」は本来「曲」に乗せて「歌う」ものでした。その場合多くは「琴」が伴奏として使用されていたものです。先に挙げた「帝舜」の「春風」も同様であったものであり、「五弦琴」を弾きながら「詩」を歌ったものです。このような場合元々「詩」の「一音」が、「曲」の「一音」に対応するものではなかったかと考えられます。つまり、「詩」の「一区切り」の音数と「弦の数」とが元々対応していたのではないかと考えられ、「五弦琴」の存在は原初的な「詩」における「一区切り」の数が「五音」であったことを示すものではないでしょうか。
つまり「琴」の演奏の原初的な演奏法は「開放弦」による演奏が基本であったと思われ、「指」で「絃」を押さえて「違う音階」を発生させるのはそれに継ぐ段階であると考えられるわけです。
「詩」が本来「曲」に乗せて歌うものであり、またそれを「五弦」に乗せて歌うなら「五言詩」がしっくりくるでしょうし、「七弦」ならば「七言詩」がふさわしいといえるのではないでしょうか。つまり、詩の形式の発展と「琴」の弦数とは関係があるのではないかと考えられることとなります。
「詩」の形式においては「唐代」以前の「詩」を「古体詩」と呼び、「四言」「五言」「七言」などいくつか種類があるようですが、「漢の武帝」の時代(紀元前一二〇年)宮中に設けた音楽を司る役所を「楽府」といい、またその後そこに集められた民間の歌謡そのものを指すものともなったとされます。当然「曲」が先行して存在しており、「役人」としての「楽人」が典礼用の詩を作り、それをそれらの「曲」に乗せて歌ったもののようです。ただし「曲」にはすでに「題」がついているわけであり、新しく作った詩にも同様の「題」が適用されたものです。
「魏」の「曹操」の「楽府」に納められた「詩」では「五言詩」が非常に多く、この時代の詩曲の多くが「五音」単位で作られていたことを示しています。「五音」で構成される「詩曲」はまさに「五弦」による伴奏が最もふさわしいと思えます。一音一語と考えれば五言が複数繰り返される型の詩文に曲をつける際には「五弦」の楽器が最も適切に思われるわけです。
そもそも「詩」が本来「メロディー」を持つものであり、楽器演奏が必須であったと考えると、「詩」と「音階」と(というより「音律」というべきでしょうか)には深い関係があることとなるでしょう。
中国語は日本語と違って極端な高低アクセントがあり、中国人の話しているのを聞くと「音楽的」という印象を受けるという意見がありますが、それは「詩文」を吟ずる際には特に顕著になったものと思われ、「楽器」で伴奏するのも当然と思われますが、その際に中国語のイントネーション(「平仄」)とマッチしなければならず、「音階」や「音律」と「言語」の間には直線的関係があったこととなるでしょう。それは「五絃」と「五言」の間に関係があると考えることにつながるものです。
日本においても「山田耕筰」のように日本語のイントネーション(高低アクセント)に沿って作曲をするという運動をしていた例がありますが、中国語の「平仄」はもっと明確に音の高低が意識されるものであり、調律がそれを意識しなかったとは考えにくいと思われます。つまり「平仄」と「音階」は整合的でなければならないはずであり、韻文を音階で表すとするとそのような調律が必要となるということでもあります。
ところで「五行説」というものがあります。それはこの宇宙が「五つの要素」でできているとする考え方であり、それが移り変わることで「陰」と「陽」が変転するというものです。このような思想が「倭国」に到来したのがいつのことなのかは明確ではありませんが、本格的な導入は『書紀』では『推古紀』に記された「百済」からという「暦本」「天文」「方術」などを扱う人間が来倭したとする記事が注目され、「六世紀終わり」という時期が最も考えられるものです。
この「五行」はそれぞれ「木」「火」「金」「土」「水」に配され、それに対応する「色」として「青」「赤」「黄」「白」「黒」の五色があるとされます。しかし、「色」だけではなく「音階」も配されているのです。それは「納音」と呼ばれています。
「納音」は「五行」を音階で表したものであり、それは「五行」に当てはめられていることから考えて、その音階を表す楽器が「五弦」のものであることが推察されます。その音階としては「宮」、「商」、「角」、「徴」、「羽」の五つの音階が相当するとされ、さらにその後これが「干支」に配されて年ごとの吉兆を占うものとして考えられるようになりました。これは「五弦琴」あるいは「七弦琴」の「第一絃」から「第五絃」までの「開放弦」の音階そのものであり、年次(生まれ年)に応じて「音階」つまり「納音」が定まっていたものです。
この「納音」は「南北朝」以降の中国で確認できますが、それがいつ「倭国」へ伝わったかは不明でしたが、「二〇一四年」に熊本県で「納音」が付された「文書」が見つかり、それに「九州年号」が書かれており、またその「九州年号」の最初である「善記」がその「起点」となっていることことが確認されました。(註四)これを見ても、「九州倭国王朝」が健在のうちに伝えられたことが窺われ、すでに行った検討などからも「倭国」に伝わったのは「隋代」であったと考えるのが自然です。
また、この「納音」が「音階」と関係しているということから、この時の「納音」が「楽器」(特に「七弦琴」)と共にもたらされたものと考えるのもまた自然です。
「聖徳太子」と「音律」を結びつける伝承は「徒然草」の中に顔を出しています。そこでは「天王寺」の楽士達が自分たちの音階は太子(聖徳太子)の時に定められたものとする記述があります。
『「何事も邊土は、卑しく頑(かたくな)なれども、天王寺の舞樂のみ、都に恥ぢず」といふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、「當寺の樂は、よく圖をしらべ合せて、物の音のめでたく整ほり侍ること、外よりも勝れたり。ゆゑは太子の御時の圖、今にはべる博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。そのこゑ、黄鐘調の最中(もなか)なり。寒暑に從ひて上(あが)り・下(さが)りあるべきゆゑに、二月 涅槃會(ねはんゑ)より聖靈會(しゃうりゃうゑ)までの中間を指南とす。秘藏のことなり。この一調子をもちて、いづれの聲をもとゝのへ侍るなり」と申しき。』(徒然草第二百二十段)
このように「聖徳太子」の時代に音律が伝えられたとするわけですが、それは当然「隋代」でありしかも「開皇年間」のことであったと見るべきこととなるでしょう。
ただし、「納音」についてはそれ以降「五行」だけで記述されることが多くなったようです。すでに「唐代」(「武則天」の時代)には「納音」について「五行」の表記だけ見られることとなっています。
以上のように「納音」は「七弦琴」の流入と共に「倭国」に伝わったものと思われますが、その後「倭国九州王朝」から「新日本国王朝」へ「王朝交代」が起きた結果、「納音」の元となった「五弦琴」「七弦琴」が使用されなくなったものと思われます。「新日本国王朝」では「四弦琴」あるいはそれを改良した「六弦琴」を使用していたものであり、その「音階」は「五弦琴」や「七弦琴」とは異なるものであったと思われ、そのため「納音」の元となった「五音」に基づく「楽」は演奏機会がなくなったものと考えられます。このため、「五行」と「音階」や「納音」についての関係についても不明となっていったものと思われ、「干支」と「五行」の関係だけが遺存したものと考えられるわけです。
「宣命暦」で書かれた「天平年間」の「具注暦」が発見されていますが、そこには「納音」が「五行」だけで表記されており、この時代にはすでに「音律」が忘却されていたことがわかります。
ところで、現在確認できる「納音」には「山頭」「井泉」など「五行」の前に形容語をつけて三十種類に分類されていますが、これは「倭国」において考え出されたことではなかったでしょうか。
中国の使用例では「五音」と「五行」についてのみ書かれており、接頭辞たる形容語が確認できるものが全く見あたりません。
(以下中国の例)
「…勝龍所以白者,楊姓納音為商,至尊又辛酉?生,位皆在西方,西方色白也。死龍所以黑者,周色黑。…」(「隋書/列傳第三十四/王劭」より)
「蕭吉字文休,梁武帝兄長沙宣武王懿之孫也。博學多通,尤精陰陽算術。…所以靈寶經云:『角音龍精,其祚日強。』來?年命納音?角,?之與經,如合符契。又甲寅、乙卯,天地合也,甲寅之年,以辛酉冬至,來年乙卯,以甲子夏至。冬至陽始,郊天之日,即是至尊本命,此慶四也。夏至陰始,祀地之辰,即是皇后本命,此慶五也。…」(「隋書/列傳第四十三/藝術/蕭吉」より)
「尚獻甫,衞州汲人也。尤善天文。初出家為道士。則天時召見,起家拜太史令,固辭曰:「臣久從放誕,不能屈事官長。」則天乃改太史局為渾儀監,不隸祕書省,以獻甫為渾儀監。數顧問災異,事皆符驗。又令獻甫於上陽宮集學者撰方域圖。長安二年,獻甫奏曰:「臣本命納音在金,今?惑犯五諸侯太史之位。?,火也,能尅金,是臣將死之?。」則天曰: 「朕為卿禳之。」遽轉獻甫為水衡都尉,謂曰:「水能生金,今又去太史之位,卿無憂矣。」其秋,獻甫卒,則天甚嗟異惜之。復以渾儀監為太史局,依舊隸祕書監。…」(「舊唐書/列傳第一百四十一/方伎/尚獻甫」より)
これらの例を見ても「五行」の前には何も付加されていません。この段階までに確認できないということは、これらは「中国」から伝わったものではなく、日本側で付加されたものではないかと考えられることとなります。
Ⅳ.尺八と遣隋使
すでに見たように「七弦琴」は「遣隋使」(あるいは(来倭した「隋使」)によってもたらされたと思われますが、同様にこのとき伝来したと推定されるものに「尺八」があります。
従来「尺八」は「唐」の「呂才」(漏刻の改良を行ったとされる人物)による発明とされているようですが、それは実際には「改良」であったものであり、彼はそれまで基音として「黄鐘」だけであったものを、十二音律すべてに対応する「尺八」を作製したものであり、さらにその「黄鐘」についても「音律」からわずかに狂いがあったものを彼が長さと「孔」の位置を改めて定めた結果、音律が全て基準(三分損益法)に則った、つまりどの「運指法」によっても「音髙」が「音律」に正確なものとなったと言う事と理解できます。(ここでいう「音律」とは、「三分損益法」により導かれる「十二」の音階をいいます。)
「呂才,博州清平人也。少好學,善陰陽方伎之書。貞觀三年,太宗令祀孝孫増損樂章,孝孫乃與明音律人王長通,白明達遞相長短。太宗令侍臣更訪能者,中書令温彦博奏才聰明多能眼所未見,耳所未聞,一聞一見,皆達其妙,尤長於聲樂,請令考之。侍中王珪,魏徴又盛稱才學術之妙,徴日「才能爲尺十二枚,『尺八』長短不同,各應律管,無不諧韻」太宗即徴才,令直弘文館。」(『旧唐書』巻七十九「呂才傳」)
「才製『尺八』凡十二枚,長短不同,與律諧契。即召才直弘文館,參論樂事」(『新唐書』巻一百七「呂才傳」)
これらの記述では「尺八」という単語が説明抜きで使用されており、彼以前に既に「尺八」というものがあったことを示唆しています。また彼の「尺八」がこの「貞観三年」をそれほど遡る時期に造られたものではないこともまた確かと思われ、少なくとも「隋末」あるいは「唐初」を上限とすべきものと思われます。
ところで「法隆寺」に元あったとされ現在国立博物館に保存されている「宝物」に「尺八」が存在します。この「尺八」について学術的調査を加えた結果が公表されており、それによれば「長さ」及び「孔」の位置や発せられる音髙などから、この「尺八」が「呂才」が改良を加える以前のものであることが明らかとなっています。(註五)
それによれば「法隆寺」の尺八は「宋尺」により造られており、それは中国南朝(劉宋、斉,梁,陳 )の各代で使用され、「楽律」もまたこれによって定められたとされます。また中国北朝においても「北周」「隋」「唐」と歴代用いられたものであり、隋代では,開皇の始めに「鐘律尺」として制定され、その後の「唐」も「唐小尺律」(正律)として使用が継続されていたものです。
ところで「法隆寺」に関する伝承の中にはこの「尺八」に関するものがあり、例えば『古今目録抄』(聖徳太子伝私記)には以下のような記述があるのが確認できます。
「尺八,漢竹なり。太子此笛を法隆寺より天王寺に御ますの道,椎坂にして吹き給いしの時,山神,御笛に目して出て御後にして舞ふ。太子奇みて見返し給ふ。爰に山神,見奉りて,怖れて舌を指出づ,其様舞ひ伝へて天王寺に之を舞ふ。今に蘇莫者と云ふなり。」
ここでは「漢竹」とされ「唐」とは書かれていません。この記事が書かれた年代から考えると、「唐」とする方が常識的であるにもかかわらず、「漢」と表記されており、これはその伝来の年代をおよそ推定させるものであり、少なくともその伝来が「唐」以前を推定させるものです。
ところでこの「蘇莫者」については『旧唐書』あるいは『新唐書』に関連する記事があります。
「…時又有清源尉呂元泰,亦上書言時政曰:「國家者,至公之神器,一正則難傾,一傾則難正。今中興政化之始,幾微之際,可不慎哉?自頃營寺塔,度僧尼,施與不?,非所謂急務也。林胡數叛,?虜?侵,帑藏?竭,?口亡散。夫下人失業,不謂太平;邊兵未解,不謂無事;水旱為災,不謂年登;倉廩未實,不謂國富。而乃驅役飢凍,彫鐫木石,營構不急,勞費日深,恐非陛下中興之要也。比見坊邑相率為渾脱隊,駿馬胡服,名曰『蘇莫遮』。旗鼓相當,軍陣勢也;騰逐喧譟,戰爭象也;錦?夸競,害女工也;督斂貧弱,傷政體也;胡服相歡,非雅樂也;渾脱為號,非美名也。安可以禮義之朝,法胡虜之俗?詩云:『京邑翼翼,四方是則。』非先王之禮樂而示則於四方,臣所未諭。書:『曰謀,時寒若。』何必?形體,灌衢路,鼓舞跳躍而索寒焉?」書聞不報。…」(『新唐書/列傳第四十三/呂元泰』より)
ここでは八世紀に入って「唐」の勢威がやや衰え始めた時点において臣下が皇帝に向け諫言しているわけですが、その内容としては都においてさえも「西方」から伝わった習慣に染まっている現実を憂えているわけであり、そこでは「胡服」「駿馬」が描かれていますから、西方から北方にかけての異民族の風習が描写されているようであり、それは「非雅樂也」とされています。「唐」から見て夷蛮とも言える地域の風習であるというわけですが、それを「蘇莫遮」と呼称するとされています。これは『古今目録抄』時点で「今に蘇莫者と云ふなり」とされる「蘇莫者」と同じものであると思われますが、それはまた「渾脱の舞」と呼称されるものと同一と思われ、一種の「剣舞」であり、「軍事」的色彩を帯びた舞であるとされます。
このようなものが「聖徳太子」の時代に倭国にあったというわけですが、一般には後代の脚色として扱われていますが、「北朝」(北魏)は「亀滋国」などを制圧しその勢力下においていましたから、「隋」においてもそれら胡族の風習が既知のものであったとして当然といえ、そう考えると、この「唐代」の「蘇莫者」の流行は一種のリバイバルではないかと思われます。
このような「西方」の国の風習が「倭国」に伝わった時期として従来考えられているのは「則天武后」が死去した直後付近であり、その時期が流行のピークであったと思われることから、その時点付近で派遣された遣唐使がもたらしたと言えるかもしれませんが、そのような想定の場合「聖徳太子」や「初唐」以前の規格でつくられた笛と関連していると考えられることを別に説明する必要がありますが、それはかなり困難なのではないでしょうか。
「蘇莫遮」(渾脱の舞)とともに「法隆寺」の「尺八」が「聖徳太子」との関連のもとに書かれていることや、その「蘇莫遮」が「剣舞」であり「軍楽」と関係していると考えられること、その「尺八」が「唐」以前の基準尺で造られていることが明らかとなったことからも、この「尺八」が「隋代」に伝来したものと考えられることを示し、これも「遣隋使」がもたらしたものと考えると、当然「宣諭事件」以前に伝来したと考えるべきこととなります。そう考えると、少なくとも『書紀』や『隋書』の記事をそのまま受け取るとしても、「大業三年」以前の伝来であると思われ、「文帝」の時代に伝来したと考えるのが正しいと思われることとなるでしょう。そう考えるのは「尺八」の出す音高が「黄鐘」だからであり、それは仏教において「無常」を表す音であり、寺院の梵鐘の出すべき音として認識されていたものだからです。それを踏まえると「煬帝」というより仏教に深く帰依し、仏教を国教とした「文帝」に深く関わるものではないかという推測が可能となるでしょう。
すでに見たように『徒然草』には「隋代」に「音律」がもたらされたらしいことが書かれているわけですが、その内容から見て「四天王寺」の「鐘」が「尺八」と同じ「黄鐘」という基準音で鋳造されていたらしいことが推定されています。(註六)
前述した「徒然草」によれば「四天王寺」の舞楽についての音の基準値が非常に繊細に取り扱われていることがわかります。気温や湿度によって「鐘」の最低音高(基本周波数)が変化するため、「二月涅槃會より聖靈會までの中間」といいますから、「二月十五日」から「二十二日」までの間の中間つまり「二月十八日」の鐘の「音」に他の楽器を調律しているというわけです。
「尺八」の伝来時期や「四天王寺」の「梵鐘」の基準音が「隋代」以前のものであるということを下敷きにして思惟進行すると、それらは「隋」との交流の中でもたらされたものと考えられ、「隋」の「開皇年間」の伝来が最も考えられるものです。それはまた「隋」における「楽制」の制定などの情報や事物がこのとき倭国にもたらされた中の一環であったことを強く示唆するものと思われます。
註
一.「風俗通義」とは後漢末(二世紀の終わりごろ)の「応劭」の著作。
二.川島絹江「源氏絵における琴(きん)と和琴の絵画表現の研究」(『東京成徳短期大学紀要』第四十三号二〇一〇年)
二.川本信幹「源氏物語作者の表現技法」(『日本体育大学紀要』二十二巻一号一九九二年)
三.上原作和『光源氏物語 學藝史ー右書左琴の思想』(翰林書房 二〇〇六年五月)
四.熊本県玉名郡和水町 前垣芳郎 「【転載】「九州年号」を記す一覧表を発見―和水町前原の石原家文書―」(「古田史学会報第一二二号
五. 明土真也「法隆寺と正倉院の尺八の音律」(『音楽学』五十九号二〇一三年十月)
六.明土真也「音高の記号性と『徒然草』第二二〇 段の解釈」(『音楽学』五十八号二〇一二年十月)