古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

高地性集落と津波(三)

2016年07月03日 | 古代史

 ところで、高地性集落の発達に伴い「銅鐸」の形式や大きさに変化が現れることが判明しています。たとえば、「紀伊半島」(和歌山県)の内部で「銅鐸」の型の変化を見ると、南部が最も新しいとされますが、それは「高地性集落」の発達が最も著しい地域でもあり、また「津波被害」が特に顕著であった可能性が高い地域でもあります。これについては「津波被害」により「銅鐸」の生産において技術の継承ができず、新型を生産することとなったというシチュエーションが想定できますが、また「大災害」を前にして、祭祀そのものが「見直し」をされる状況となったという可能性もあるでしょう。当時の人々は「鬼神信仰」の中にあったとみられ、そうであれば人々はこの大地震と巨大津波を「鬼神」の祟りであると考えたとして不思議はなく、祭祀を正しいものにする必要があると考えた彼らは「津波」の大きさに見合う「巨大銅鐸」を「祭器」として使用することで「鬼神」の祟りを鎮めることが可能と思ったものではないでしょうか。(大型化する理由が判然としていない現状ではそのような被害の程度の大きさに見合うものが必要と考えたとする推定も成立する余地があると思われます。)
 ちなみに「鬼神信仰」とは「超自然的存在」である「神」と「人」が死後「超自然的存在」となる「鬼」の双方をほぼ対等に考えるものであり、いずれも正しく「祭祀」を行わなければ「祟る」と考えていたものです。

 このようなことを推定させるのはこのような高地性集落が「北部九州」には数多く見られないこと、近畿などのように平野部との比高差で100mにもなるようなものが確認できず、30m内外というかなり低いものしか確認できないことがあります。そもそもこの地域には海溝型と呼ばれる大規模な津波を伴う地震が発生していないと思われます。(地殻構造から発生の余地が少ないと思われる)
 津波が発生しても5-10m程度のものであったと思われ、それほど高地に集落を移動する必要性がなかったということも言えそうです。
 それに対し「近畿」や特に大阪湾周辺には顕著に見られる訳であり、この場所が津波被害の及びやすい低湿地帯であったことを考えると、津波被害にあった後多くの人々や集落が「丘陵地域」に移動したと見るのは不自然ではありません。
 またそのような大被害が発生したとすると、各集落や各地域間で生存競争が激化したことが予想され、戦いが発生する要因ともなったものと思われます。特に「平野部」は「稲作」の適地であったわけであり、そのスペースが大幅に減少したとすると、少なくなった耕地をめぐって争いが発生した可能性は高いと思われます。それが大規模な内乱に発展したという可能性も否定できません。そのため「高地性集落」が「砦」として機能した側面がなかったとは言えいのは事実です。(槍が刺さった状態で発見された人物の「木棺」が発見されていることもそれを推測させるものです。)

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