古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『日本書紀』と『日本紀』(続き)2

2015年08月18日 | 古代史
 すでにみたように『書紀』に先行して『日本紀』が存在していたものであり、かなり後代まで『日本紀』が存在すると共に、現行『書紀』(日本書紀)の編纂の完成が遅れたことが推定されるわけですが、平安時代「嵯峨天皇」の時代に『続日本紀』に続く「正史」として編纂されたのが『日本後紀』です。(この書名も『日本紀』が原点となっていると思われます)
 この中に『続日本紀』編纂に関する話が出てきます。
 以下『続日本紀』編纂についての「藤原朝臣継縄」の「桓武天皇」宛の上表文です。

「桓武天皇延暦十三年(七九四年)八月癸丑(十三)」「右大臣從二位兼行皇太子傅中衞大將藤原朝臣繼繩等。奉勅修國史成。詣闕拝表曰。…修國史之墜業。補帝典之缺文。爰命臣與正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衞佐伊豫守臣菅野朝臣眞道。少納言從五位下兼侍從守右兵衞佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等。銓次其事。以繼先典。若夫襲山肇基以降。浄原御寓之前。神代草昧之功往帝庇民之略。前史■著、燦然可知。除自文武天皇。訖于聖武皇帝。記注不昧。餘烈存焉。但起自寶。至于寶亀。廃帝受禪。號遺風於簡。學南朝登祚。長茂實於從涌。…」(『日本後紀』巻三逸文)

 この『逸文』の中には「先典」という言い方が出てきます。これは前述の『日本紀』のことと推察されます。(この『日本紀』が、「現行日本書紀」とイコールではないと思われることについては述べたとおりです)
 そして、その「先典」としての内容は「襲山の基を肇くを以つて降ち、清原御寓の前、神代の草昧の功、往しへの帝の庇民の略」と表現されているわけです。つまり、「天孫降臨」以降「浄原御寓之前」までが「前史」として『日本紀』に書かれている、と言っているわけです。
 そして、編纂が続いている『続日本紀』については「文武天皇より」とされ、その「文武」以降「聖武」までは必要な事項がちゃんと書かれている、といっています。(そこから以降が「不十分」なのか「未完成」なのかは不明ですが、再編纂の余地があるとしているわけです。)
 この文章の内容から判断して、「文武天皇」は「浄原宮」で統治した(「浄原御寓」)という事になると思われ、これらのことから「先典」(「前史」)としての『日本紀』には「浄原御寓之前」までが書かれていることとなるでしょう。
 『国史大系』本の『日本後紀』(逸文)の「注」では、この「浄原」を「天武天皇御宇」としていますが、それではそれに続くはずの『持統紀』が『書紀』にも『続日本紀』にも存在しないこととなってしまいます。さらに「浄原御寓之前」までが『書紀』に書かれているとすると『天武紀』さえも『書紀』にないこととなってしまうでしょう。『書紀』では「天武」は「壬申の乱」の後「浄御原宮」で即位したとされているからです。

「(六七三年)二年…二月丁巳朔癸未。廿七天皇命有司。設壇場即帝位於飛鳥浮御原宮。」(『天武紀』)

 つまり「天武」も「浄原御寓」と呼称されて当然といえるわけであり、「浄原御寓『之前』」を「天武」とするわけにはいかないと思われ、この解釈には通釈としても問題があることは間違いないと思われます。
 現代ではこの部分については「清原」と「藤原」の書き間違いとして処理されているようです。つまり「浄原御寓」とは「天武」ではなく「持統」であるとする訳です。しかしそれは「元明」の即位の詔に「持統」に対する「敬称」として現れている「藤原宮御宇」というものと齟齬することとなります。

「慶雲四年(七〇七年)秋七月壬子条」「天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐『藤原宮御宇』倭根子天皇丁酉八月尓。…」(『続日本紀』(元明紀))

 これによっても「持統」は「浄原」「清原」「浄御原」などではなく「藤原宮」に「御宇」したと表現されており、「藤原御寓之『前』」ではありません。
 さらに『続日本紀』には「浄御原天皇」と「藤原宮御宇天皇」とが併記された例が存在します。

「養老六年(七二二年)十二月戊戌朔庚戌条」「勅奉為浄御原宮御宇天皇造弥勒像。藤原宮御宇太上天皇釈迦像。其本願縁記写以金泥。安置仏殿焉。」(『続日本紀』(聖武紀))

 この例からは「浄御原宮御宇天皇」と「藤原宮御宇太上天皇」とは別の人物であり、「浄御原宮御宇天皇」が「天武」、「藤原宮御宇太上天皇」は「持統」を指すことと考えざるを得ませんから、この『日本後紀』の文章の「浄原」を「藤原」との「書き間違い」と見なすことは実は非常に困難であると思われます。
 そもそもこの『日本後紀』の「逸文」とされる部分には系統を異にする諸本があり、『国史大系巻六日本逸史』(経済雑誌社)などではこの部分は「浄御原御寓」と書かれているようです。「浄原」や「清原」なら「藤原」との錯乱もありそうですが「浄御原」となるとそう簡単にはいかず、「藤原」との錯乱とは安易には言えなくなります。つまり、単に「清」と「藤」の書き間違いとすることは、その意味でも容易に成立するものではないと思われることとなるでしょう。
 つまり、この『日本後紀逸文』の文章はどのように解釈しても現行の『日本書紀』と『続日本紀』の中身とは食い違ってしまうものであり、「矛盾」を引き起こすこととならざるを得ないのです。
 そうすると「持統」はやはり「浄原御寓」の「前」の統治者であるとならざるを得ず、ここでは「文武」を指して「浄原御寓」と呼称していると考えるのが相当であることとなります。
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