また「法隆寺」には「幡」(灌頂幡)が何点か伝来しています。そこには「年次」が書かれているものがありますが、その「幡」の様式などから「八世紀に入ってからのもの」という推定がされているようですが(※1)、私見によればそれは疑わしいと思われます。なぜならそこには「大寶」とか「慶雲」というような「年号」が(一点を除き)書かれていないからです。少なくとも「年号」と「干支」の併用が為されて然るべき時期であると思われますが、そこでは「干支」しか書かれていません。
ちなみに年次の「干支」表記は「壬午」「戊子」「壬辰」「己未」「辛酉」「癸亥」の各年であり、これらは各々「六八二年」「六八八年」「六九二年」「七二九年」「七二一年」「七二三年」と推定されています。
しかし「大寶」建元以降は「年次表記」は「年号」によるというルールが定められたものであり、木簡なども「年号」「干支」の併用あるいは「年号」だけというスタイルに代わっています。(月日は別ですが)
(『養老令』(以下)では以下に見るように「公文書」には「年号」を用いることとされたものであり、これは「民間」でも同様の事が行われたと見られ、「年次」を表記する場合には「年号」或いは「年号」と「干支」の併用というのが習慣化されたものと見られます。)
(儀制令公文条)「凡公文応記年者。皆用年号。」
しかしこの「幡」では「干支」しか書かれておらず、これはその年次として「大寶」以後であるとは言い難いことを示すと思われ、それ以前のものである事が示唆されます。そうであればいずれも想定よりも六十年ないし百二十年遡上した時期を想定すべきこととなります。そうであれば「壬午」は「六二二年」、「戊子」は「六二八年」、「壬辰」は「六三二年」、「己未」は「六〇九年」、「辛酉」は「六〇一年」、「癸亥」は「六〇三年」という年次が推定されることとなるでしょう。
実際にこれらの推定は「幡」の様式とも矛盾していません。この幡は「第一部」(最上部の区画)がかなり縦長であり、これは「古式」と考えられかなり時代が遡上する可能性を含んでいます。それは「隋代」が最も考えられるものであり、「遣隋使」という存在を抜きにしては考えられません。(この区画部分の形状は「初唐」段階では既に正方形に近づいていますから、この「法隆寺」の幡の年代を八世紀に入ってからのものとすると年代と形状が齟齬します。)
これらのことから「法隆寺」に残されている「幡」はそのほとんどが「隋代」付近の製作であると思われ、それは「法隆寺」という寺院そのものの創建年代をも表していると思われることとなり、「七世紀初頭」段階で「法隆寺」が創建されていたという可能性を強く示唆するものです。
このような推測は「西院伽藍」に残されている「梵鐘」の様式などからも言えることのようです。
その「梵鐘」は、鋳上がりの程度や造形についての技術が「拙劣」であるという評価がされており(※2)、あきらかに創建時のものではなく、移築時点に新たに製造されたものと考えられることなります。しかし「観世音寺」や「妙心寺」の鐘のようにこの時代を少し下る時点で非常に優秀な「梵鐘」が「筑紫」では製造されており、それはこの「西院伽藍」の「梵鐘」が「筑紫」の製造ではなく現地である「飛鳥」で作られたことを示すものと思われることとなります。つまり「移築」に際して「鐘」が破損するなどのトラブルがあったものとみられ、新たに製造する必要が発生したということと思われますが、この「移築」が「倭国王権」の直轄事業であるなら、その「鐘」の再作製も同様に「倭国王」の直轄として行われたはずであり、「筑紫」の工房で鋳造されて当然と思われるのに対して、実際にはそれが現地の鋳物師により鋳造されているらしいという事の中に「移築」の主体が「倭国王権」ではなかったことが強く示唆されるものです。
また「法起寺露盤名」によると「上宮聖徳王」の遺言により「福亮法師」が「法起寺」の「堂宇」(金堂)を建てたとされていますが、この「法起寺」はその「形式」が現行の「法隆寺」の形式と違い、「東面金堂」と考えられています。この形式は「法隆寺」の解体調査から判明した「法隆寺」の元々の形式に非常に近似していると思われ、参考にされたのが少なくとも「現行」の「法隆寺」でないことは明確です。
逆に言うと、「原形式」で建っていた時点における「法隆寺」に「準拠」しているとも考えられ、建立された「戊戌年」(六三八年)という時点で「移築」前の「原・法隆寺」が建っていた証拠であるとも考えられます。
(※1)沢田むつ代「上代の幡の編年」(『繊維と工業』60号2004年)
(※2)坪井良平『新訂梵鐘と古文化 つりがねのすべて』(ビジネス教育出版社2005年)
(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2015/04/08)(ホームページ記載記事を転記)