「卑弥呼」の年齢
ところで、「卑弥呼」は『倭人伝』では「年已長大」と有り、これは古田氏が四十歳程度の年令を示す例を提示して以来「四十歳代」を指す用語という理解が一般的になりましたが、それがどの時点のことであるかが問題となるでしょう。
「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」
この『倭人伝』の記述を見ると、「本亦以男子爲王」という表現の最初の「男王」が誰なのかが問題となるでしょう。これを『後漢書』にいう「倭国王」とされる「帥升」とみて、彼を含め「七~八十年」と表記しているとした場合、「歴年」を数年間として考えると「卑弥呼」の即位は「一九〇年」付近が措定されることとなりますが、その時点で「年已長大」とすると、「魏」に遣使した時点では「八十歳程度」の老婆となります。彼女がこのぐらいの長寿であったとするとそのことが『倭人伝』の中に特記事項として書かれなかったはずがないと思われます。「年已長大」という表現は子供ではないという程度のものという解釈もあり、いずれにしても八十歳を超えるような「長寿」であったとはいえないこととなります。
また「魏使」が「金印」等を「仮授」するために「来倭」した時点の「卑弥呼」についての印象として「年已長大」としていると見ることもできるかもしれません。そうであれば「二三八年」付近で「四十歳代」程度となるわけですが、それでは即位した時点を「一九〇年」程度とすると、まだ「0」歳の赤子であったこととなってしまうでしょう。それはあり得ないとして、「壱与」のようにまだ「十三歳」程度の「幼女」のころに即位を想定すると、その即位年次は「二一〇年」付近と推定されることとなりますが、これでは「歴年」が二十年以上の期間を指すこととなってしまいます。これらはいわば相互に矛盾していると見られることとなります。つまり「どこか」がおかしいと思われるわけです。
これについてはすでに述べたように「帥升」という存在を「男王」の在位期間の起点として考えている点に問題があるといえます。つまり「光武帝」から金印を授けられた「委奴国王」と「帥升」については「倭の奴国王」であって「倭王」でもないし、「倭国王」でもなかった(もちろん「邪馬壹国王」ではない)と考えられるわけであり、そうであれば「男王」という表現の中にこの二人は入らないということとなります。
「帥升」以降のどこかで「奴国」が没落し「邪馬壹国」が取って代わり、その時点で「男王」が即位し、彼の時点で「倭王」と称すべき程度に統治範囲が広がったという可能性を考えることも必要と思われます。
「其国」という表現が「邪馬壹国」ではなく「諸国」を含む「倭王権」全体を指すと思われることからも、「倭」のほんの一握りの支配領域しかなかったと思われる「帥升」やそれ以前の「倭の奴国王」は該当しないという可能性が考えられるわけです。
そして、そこから数えた「男王」の統治期間が「七~八十年」であったとすると、「卑弥呼」の即位は「二〇〇年以降」であった可能性が強くなりますが、そうであれば「魏」へ遣使した「二三八年」付近で「四十歳代」ということも当然有り得ることとなります。
即位に至る経過から考えて即位時点ですでに「鬼道に仕え能く衆を惑わす」という実績があったからこそ「王」として共立されたと見るべきですから、そうであればその時点で幼少であったとは考えにくく、それは「年已長大」という形容と矛盾しないこととなります。
さらに言えば「男弟」が「佐治國」していたというのも「卑弥呼」の統治が開始された時点からのものとみるべきではないかと思われ、そのためには「男弟」がそのような事が可能な年令に達している必要があり、これをせいぜい二十代後半程度を下限として考える必要があるでしょう。それもまた「卑弥呼」の年齢として「年已長大」とされることとやはり矛盾しないと思われます。
このことから「邪馬壹国」が「倭王権」の中心国となったのは少なくとも「魏」に遣使した時点から数えて七~八十年以前のことであり、「歴年」とされる「数年間」を足して考えると「一五〇年」よりは以前のこととなるでしょう。
「卑弥呼」が即位してすぐに「遣使」したかどうかは不明ですが、「公孫淵」の討伐という外的要因が整った事から「遣使」が行われるようになったと見るべきですから、それは「卑弥呼」の即位と直結した話ではなかったであろうとは思われます。なぜなら「遣使」は「狗奴国」との関係の中でのできごとであるわけですが、「卑弥呼」はそれとは別の理由で「共立」されたと見られるからです。
そうであれば「卑弥呼」の即位は「遣使」の時期をやや遡る「二一〇~二二〇年」付近が措定され、「邪馬壹国」が「倭」をほぼ制圧したのは「一四〇年付近」であるらしいことが推定できますから、「帥升」の亡き後を襲い、「奴国」から「倭王権」の座を奪取したという可能性が高いこととなります。
その年次以降「邪馬壹国」が「倭王権」の盟主となり二代あるいは三代「王」が交替したものと思われますが、「後漢末」から「魏代」にかけて「混乱」が発生し、「卑弥呼」が即位するまで数年間「倭王」が不在であったとみられることとなるでしょう。
「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」
この『倭人伝』の記述を見ると、「本亦以男子爲王」という表現の最初の「男王」が誰なのかが問題となるでしょう。これを『後漢書』にいう「倭国王」とされる「帥升」とみて、彼を含め「七~八十年」と表記しているとした場合、「歴年」を数年間として考えると「卑弥呼」の即位は「一九〇年」付近が措定されることとなりますが、その時点で「年已長大」とすると、「魏」に遣使した時点では「八十歳程度」の老婆となります。彼女がこのぐらいの長寿であったとするとそのことが『倭人伝』の中に特記事項として書かれなかったはずがないと思われます。「年已長大」という表現は子供ではないという程度のものという解釈もあり、いずれにしても八十歳を超えるような「長寿」であったとはいえないこととなります。
また「魏使」が「金印」等を「仮授」するために「来倭」した時点の「卑弥呼」についての印象として「年已長大」としていると見ることもできるかもしれません。そうであれば「二三八年」付近で「四十歳代」程度となるわけですが、それでは即位した時点を「一九〇年」程度とすると、まだ「0」歳の赤子であったこととなってしまうでしょう。それはあり得ないとして、「壱与」のようにまだ「十三歳」程度の「幼女」のころに即位を想定すると、その即位年次は「二一〇年」付近と推定されることとなりますが、これでは「歴年」が二十年以上の期間を指すこととなってしまいます。これらはいわば相互に矛盾していると見られることとなります。つまり「どこか」がおかしいと思われるわけです。
これについてはすでに述べたように「帥升」という存在を「男王」の在位期間の起点として考えている点に問題があるといえます。つまり「光武帝」から金印を授けられた「委奴国王」と「帥升」については「倭の奴国王」であって「倭王」でもないし、「倭国王」でもなかった(もちろん「邪馬壹国王」ではない)と考えられるわけであり、そうであれば「男王」という表現の中にこの二人は入らないということとなります。
「帥升」以降のどこかで「奴国」が没落し「邪馬壹国」が取って代わり、その時点で「男王」が即位し、彼の時点で「倭王」と称すべき程度に統治範囲が広がったという可能性を考えることも必要と思われます。
「其国」という表現が「邪馬壹国」ではなく「諸国」を含む「倭王権」全体を指すと思われることからも、「倭」のほんの一握りの支配領域しかなかったと思われる「帥升」やそれ以前の「倭の奴国王」は該当しないという可能性が考えられるわけです。
そして、そこから数えた「男王」の統治期間が「七~八十年」であったとすると、「卑弥呼」の即位は「二〇〇年以降」であった可能性が強くなりますが、そうであれば「魏」へ遣使した「二三八年」付近で「四十歳代」ということも当然有り得ることとなります。
即位に至る経過から考えて即位時点ですでに「鬼道に仕え能く衆を惑わす」という実績があったからこそ「王」として共立されたと見るべきですから、そうであればその時点で幼少であったとは考えにくく、それは「年已長大」という形容と矛盾しないこととなります。
さらに言えば「男弟」が「佐治國」していたというのも「卑弥呼」の統治が開始された時点からのものとみるべきではないかと思われ、そのためには「男弟」がそのような事が可能な年令に達している必要があり、これをせいぜい二十代後半程度を下限として考える必要があるでしょう。それもまた「卑弥呼」の年齢として「年已長大」とされることとやはり矛盾しないと思われます。
このことから「邪馬壹国」が「倭王権」の中心国となったのは少なくとも「魏」に遣使した時点から数えて七~八十年以前のことであり、「歴年」とされる「数年間」を足して考えると「一五〇年」よりは以前のこととなるでしょう。
「卑弥呼」が即位してすぐに「遣使」したかどうかは不明ですが、「公孫淵」の討伐という外的要因が整った事から「遣使」が行われるようになったと見るべきですから、それは「卑弥呼」の即位と直結した話ではなかったであろうとは思われます。なぜなら「遣使」は「狗奴国」との関係の中でのできごとであるわけですが、「卑弥呼」はそれとは別の理由で「共立」されたと見られるからです。
そうであれば「卑弥呼」の即位は「遣使」の時期をやや遡る「二一〇~二二〇年」付近が措定され、「邪馬壹国」が「倭」をほぼ制圧したのは「一四〇年付近」であるらしいことが推定できますから、「帥升」の亡き後を襲い、「奴国」から「倭王権」の座を奪取したという可能性が高いこととなります。
その年次以降「邪馬壹国」が「倭王権」の盟主となり二代あるいは三代「王」が交替したものと思われますが、「後漢末」から「魏代」にかけて「混乱」が発生し、「卑弥呼」が即位するまで数年間「倭王」が不在であったとみられることとなるでしょう。