日本国からの使者の前年にも使者が送られたことが『書紀』にあります。
「發遣大唐大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒〈駒更名 絲〉・學問僧道嚴・道通・道光・惠施・覺勝・弁正・惠照・僧忍・知聡・道昭・定惠〈定惠 内大臣之長子也〉・安達〈安達中臣渠毎連之子〉・道觀〈道觀春日粟田臣百濟之子〉・學生巨?臣藥〈藥豐足臣之子〉・氷連老人〈老人眞玉之子。或本以學問僧知辨・義德・學生坂合部連磐積而増焉〉并一百二十一人倶乘 一舩。以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂〈更名八掬脛〉・副使小乙上掃守連小麻呂・學問僧道福・義向并一百二十人倶乘一舩。以土師連八手爲送使。」「白雉四年(六五三)五月壬戌条」
「遣大唐押使大錦上高向史玄理〈或本云 夏五月 遣大唐押使大華下高向玄理〉・大使小錦下河邊臣麻呂・副使大山下藥師惠日・判官大乙上書直麻呂・宮首阿彌陀〈或本云 判官小山下書直麻呂〉・小乙上崗君宜・置始連大伯・小乙下中臣間人連老〈老 此云 於唹(おゆ)〉・田邊史鳥等分乘二舩。留連數月取新羅道、泊于莱州。遂到于京、奉覲天子。於是東宮監門郭丈擧悉問日本國之地里及國初之神名。皆随問而答。押使高向玄理卒於大唐」「白雉五年(六五四)二月条」
通常「白雉五年」の遣唐使団は、その前の「白雉四年」の遣唐使船が東シナ海を直接横断しようとして「遭難」したこともあり、より安全と考えられる「新羅道」という「新羅」経由でのルート(北路か)を経由しようとしたため、団の構成をより「親新羅」的にするために必要な人材を選抜したものと考えられていました。そのため「押使」という「高向玄理」を始め、かなりの数の「親新羅系」の人物が遣唐使中にいるなど、当初より「親新羅」的人物が選抜されていると考えられていたわけです。
実際問題としてこの時の遣唐使団とその前年の遣唐使団については『書紀』の表現と内容が著しく異なります。以下に相違を示します。
1.「白雉四年」の遣唐使を派遣した記録には「日付」が書かれているのに対して、「白雉五年」の記録では「月」しか書かれていません。
2.「白雉四年」の遣唐使は、参加した人数が「百二十一人」「百二十人」と明確に記載されているのに対し、「白雉五年」の方には「概数」さえ記載されていません。
3.共に「二船」に分乗しているわけですが、「白雉四年」の方は各々の乗船者がかなり細かく書いてあるのに対し、「白雉五年」の方はまったく触れておらず、「誰」が「どちら」に乗っていたか、不明となっています。
4.また、この乗船者については、「白雉四年」側には「父親」の名前などの補足の記録があるのに対し、「白雉五年」には皆無です。
5.さらに、「白雉四年」の方は各々の船に「送使」がいるのに対し、「白雉五年」の方は「送使」がいないのか、書かれていません。
6.「白雉五年」の遣使の使者の冠位は「後の時代」の冠位が書かれており、この時代のものではありません。これを補足・修正するように「或本伝」という形で別の情報が記載されていますが、「白雉四年」の方の冠位は当時の冠位そのままが書かれているようです。
7.「白雉四年」の遣唐使中には「学問僧」がいるように書かれているが、「白雉五年」の方には「学問僧」がいたかは不明となっています。
8.また、帰国した使者に対する対応も違います。「白雉四年」の使者が帰国した際には「唐皇帝」から贈り物をもらい、それを「倭国王」に進上し、「倭国王」から労をいたわられ、「褒美」を下賜されていますが、「白雉五年」の使者が帰国した際には、ただ「帰国した」という記事だけであり、功績が顕彰されていません。
9.「白雉五年」の遣唐使は「新羅道」を経由して唐に入国していますが、「白雉四年」の航路は「南路」という「東シナ海」を直接横断するルートを採用しています。
10.この遣唐使記事に続いて「伊吉博徳言」として以下の文章があります。
『孝徳紀』(白雉五年)の項
「伊吉博徳言 學問僧惠妙於唐死 知聰於海死 智國於海死 智宗以庚寅年付新羅舩歸 覺勝於唐死 義通於海死 定惠以乙丑年付劉德高等舩歸 妙位 法謄 學生氷連老人 高黄金并十二人別倭種韓智興 趙元寶『今年』共使人歸。」
これを見ると「伊吉博徳言」で言及されている人名の内「知聰」「氷連老人」「定惠」が「白雉四年」の遣唐使団にいた人間ですが、言及されている他の人たちについては不明であり、どの船に乗っていたのかはわかりません。しかし判明している人名がすべて「白雉四年」の遣唐使団であることを考えると、「伊吉博徳」が情報を持っていたのは「白雉四年」の遣唐使団だけであったのではないかと考えられるでしょう。このことから「白雉五年」の遣唐使についての情報が「伊吉博徳」のような「外交」に関するスペシャリストともいうべき人間にさえもたらされていなかったこととなります。
以上のように「白雉四年」遣使が緻密な記録であるのに対し、「白雉五年」遣使は非常に「大まか」な記録になっており、これは『書紀』編纂時の参考資料の「多寡」の差があったものと考えられます。
この二つの「遣唐使」が同じ「機関」により同じ時期に派遣されたとすると、資料の「不均衡」の説明が付きません。つまりこれらは「遣使」した機関ないしは時期が異なる事を示すものと思われ、それは「白雉五年」の遣唐使派遣が本当に「倭国」からなのかが問われるものです。
実際問題としてこの時の遣唐使団とその前年の遣唐使団については『書紀』の表現と内容が著しく異なります。以下に相違を示します。
1.「白雉四年」の遣唐使を派遣した記録には「日付」が書かれているのに対して、「白雉五年」の記録では「月」しか書かれていません。
2.「白雉四年」の遣唐使は、参加した人数が「百二十一人」「百二十人」と明確に記載されているのに対し、「白雉五年」の方には「概数」さえ記載されていません。
3.共に「二船」に分乗しているわけですが、「白雉四年」の方は各々の乗船者がかなり細かく書いてあるのに対し、「白雉五年」の方はまったく触れておらず、「誰」が「どちら」に乗っていたか、不明となっています。
4.また、この乗船者については、「白雉四年」側には「父親」の名前などの補足の記録があるのに対し、「白雉五年」には皆無です。
5.さらに、「白雉四年」の方は各々の船に「送使」がいるのに対し、「白雉五年」の方は「送使」がいないのか、書かれていません。
6.「白雉五年」の遣使の使者の冠位は「後の時代」の冠位が書かれており、この時代のものではありません。これを補足・修正するように「或本伝」という形で別の情報が記載されていますが、「白雉四年」の方の冠位は当時の冠位そのままが書かれているようです。
7.「白雉四年」の遣唐使中には「学問僧」がいるように書かれているが、「白雉五年」の方には「学問僧」がいたかは不明となっています。
8.また、帰国した使者に対する対応も違います。「白雉四年」の使者が帰国した際には「唐皇帝」から贈り物をもらい、それを「倭国王」に進上し、「倭国王」から労をいたわられ、「褒美」を下賜されていますが、「白雉五年」の使者が帰国した際には、ただ「帰国した」という記事だけであり、功績が顕彰されていません。
9.「白雉五年」の遣唐使は「新羅道」を経由して唐に入国していますが、「白雉四年」の航路は「南路」という「東シナ海」を直接横断するルートを採用しています。
10.この遣唐使記事に続いて「伊吉博徳言」として以下の文章があります。
『孝徳紀』(白雉五年)の項
「伊吉博徳言 學問僧惠妙於唐死 知聰於海死 智國於海死 智宗以庚寅年付新羅舩歸 覺勝於唐死 義通於海死 定惠以乙丑年付劉德高等舩歸 妙位 法謄 學生氷連老人 高黄金并十二人別倭種韓智興 趙元寶『今年』共使人歸。」
これを見ると「伊吉博徳言」で言及されている人名の内「知聰」「氷連老人」「定惠」が「白雉四年」の遣唐使団にいた人間ですが、言及されている他の人たちについては不明であり、どの船に乗っていたのかはわかりません。しかし判明している人名がすべて「白雉四年」の遣唐使団であることを考えると、「伊吉博徳」が情報を持っていたのは「白雉四年」の遣唐使団だけであったのではないかと考えられるでしょう。このことから「白雉五年」の遣唐使についての情報が「伊吉博徳」のような「外交」に関するスペシャリストともいうべき人間にさえもたらされていなかったこととなります。
以上のように「白雉四年」遣使が緻密な記録であるのに対し、「白雉五年」遣使は非常に「大まか」な記録になっており、これは『書紀』編纂時の参考資料の「多寡」の差があったものと考えられます。
この二つの「遣唐使」が同じ「機関」により同じ時期に派遣されたとすると、資料の「不均衡」の説明が付きません。つまりこれらは「遣使」した機関ないしは時期が異なる事を示すものと思われ、それは「白雉五年」の遣唐使派遣が本当に「倭国」からなのかが問われるものです。
以上のような理由もあり「白雉五年」の使者が初めての「日本国」からの使者であると推定したわけですが、では彼らか初めて「日本国」を名告ったのかというそうではないと考えます。それは『書紀』に書かれた「改新の詔」とそれに前後する「詔」群の解析からです。そこでは「日本」という名称が「詔」の中に現れます。