「行基」が「崇福寺」の創建に関わっているとみるのは「菩提遷那」(「婆羅門僧正」)という人物との関連からも推定できます。
この人物は「遣唐使」であった「多治比広成」「学問僧理鏡」「中臣名代」らの要請により「天平六年」(七三六年)に「唐」より来日した「インド僧」であり、彼が来日した際には「行基」が出迎えをするなど歓迎を受けています。そして彼は「東大寺」の大仏開眼の際には「導師」として「大仏の目に墨を入れる」という大任を果たしており、「聖武天皇」以下王権内部から強力な支持を受けていた事が解ります。その理由としてはやや不明な点はありますが、「大仏」つまり「盧舍那佛」そのものが「華厳経」に関連しているものであり、「菩提遷那」はその「華厳経」を常に読経していたとされますから、「盧舍那佛像」を造るという中に「菩提遷那」がかなり指導的役割をしていたものではないかと考えられます。
またそれは後日「東大寺」を建立するために、「行基」(及び「橘諸兄」)が「伊勢神宮」に遣わされ、「舎利」を献上することで「伊勢神宮」の領地(飯高郡)から寄進を受けることとなったという経緯があったという「伝承」とも関連しているとされます。なぜならその「舎利」は「菩提遷那」が「天竺」から持ち来たったものとされているからです。その「舎利」について「伊勢神宮」ではこれを「(如意)寶珠」であるとして歓迎したとされます。(『行基菩薩秘文』による)
それによれば「日輪」(これは天照大神)すなわち「大日如来」の本地は「廬舎那仏」であるとして、「大仏」を作りそれを収容する寺院を造ることを「善いこと」であるとしています。
(『行基菩薩秘文』による)「実相真如之日輪、明生死長夜之闇/本有常住之月輪、掃無明煩悩之雲/我遇難遇之大願、於闇夜如得之燈/亦受難受之宝珠、於渡海如請之《請之》船/造聖武大仏殿故、慶豊受大神宮事/善哉善哉■■■、神妙神妙自珍者/《五》先垂跡地神霊、富相応所安一志/飯高施福衆生故、…」
これについては一般には「平家」によって「東大寺」が焼亡した際に再建のため「伊勢神宮」に「重源上人」が「後白河法皇」から遣わされた時点で作られた話と解釈されています。しかし、そもそもこの「伊勢」参詣が「天平の創建時に伊勢に祈願したという先例」に基づくものであったとされており、そのような事実がないにも関わらず「先例」に基づくとしても説得力がないのは確かですから、話の内容から考えて実話であったという可能性が高いと思われます。そう考えて矛盾がないという点が重要です。飯高郡の豪族らしい人物が以下のように「位」を授けられているのはその現れと思われます。
「天平十年(七三八年)九月丙申朔甲寅。伊勢國飯高郡人无位伊勢直族大江授外從五位下。」
「天平十四年(七四二年)夏四月甲申。伊勢國飯高郡采女正八位下飯高君笠目之親族縣造等。皆賜飯高君姓。…」
また「伊勢神宮」への参詣については多くの史料が「行基」と共に「橘諸兄」についても記していますが、『続日本紀』には確かに「伊勢神宮」へ使者として「橘諸兄等」が派遣された記事があります。
「天平十年(七三八年)五月辛夘。使右大臣正三位橘宿祢諸兄。神祇伯從四位下中臣朝臣名代。右少弁從五位下紀朝臣宇美。陰陽頭外從五位下高麥太。齎神寳奉于伊勢大神宮。」
この派遣の後に飯高郡の「无位伊勢直族大江」に対して「外從五位下」を授けるという褒賞が行われており、これは「飯高郡」からの調庸の施入に対するものではなかったかと考えられるものです。(特に銀あるいは水銀という特殊な金属材料が産出していた記録があり、これが目的であったとも考えられるでしょう)
この時と前後して(時期は史料により異なる)「行基」も派遣されたとする伝承があります。たとえば『日本帝皇年代記』によれば「行基」は「天平十三年」に「伊勢神宮」に「仏舎利」を献上するため派遣されています。
「辛巳(天平)十三 勅行基法師、授仏舎利一粒、献伊勢太神宮、有種々神託…」
この時の「仏舎利」が「菩提遷那」の提供したものであるとされているであり、そのことは「廬舎那佛」の造仏に際して「菩提遷那」が深く関わっていることと、それに「伊勢神宮」とが実は深く関連していることを示すものです。
そもそも「菩提遷那」が日本への渡海要請を受けた理由として、以前に既に「来倭」していたという「文殊菩薩」に逢うためであったという説があることが注目されます。
その「文殊菩薩」については「行基」を指すという伝承がありますが、それは後代派生したものと思われ、彼の来日時点では既に過去の人物であった可能性が強いでしょう。(古田史学の会顧問の水野氏によればこれは仏教初伝に関係しているとされる「雷山先如寺」の「清賀上人」を指すという可能性があるとされます。)
その「菩提遷那」が「唐」に滞在していた時点で所在していた寺院が長安(西京)の「崇福寺」なのです。
後に「鑑真」が来日した際に「菩提遷那」が慰問に訪れ、「長安」の「崇福寺」であなたに「律」を教えられたことがあるか覚えているかという問いに「鑑真」が覚えていると返事したとされます。
(「東大寺要録」「大和尚伝」より)「…後有婆羅門僧正菩提亦来参問云。某甲在唐崇福寺住経三日。闍梨在彼講律。闍梨識否。和上云憶得也。」
つまり「菩提遷那」と「崇福寺」とは特別な関係であり、「インド」から唐に渡ってきた「菩提遷那」が(期間は不明ですが)学問僧として「崇福寺」に滞在していたものであり、その時点で「鑑真」を初めとした高僧から教義を授けられた意義深い場所であったものです。この「崇福寺」と今「紫香楽」の地にその創建を措定している寺院名が同じ「崇福寺」であるのは偶然ではなく、「行基」や「聖武天皇」は「菩提遷那」のために「長安」の「崇福寺」を再現しようとして同じ寺名の寺院を我が国にも作ろうとしていたのではないかと推察されるわけです。