古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

民部省と大蔵省の地位の差

2015年09月05日 | 古代史
 「婦女子」の髪型に関する「詔」の分析から「慶雲二年」記事はその本来の年次が「六四八年」であり、「57年」移動されているらしいことが推察されることとなったわけですが、同様に移動が考えられるのが「大蔵」へ「庸」の一部が納入されるようになったという「慶雲三年」の記事です。(以下関係記事)

「…又收貯民部諸國庸中輕物■絲綿等類。自今以後。收於大藏。而支度年料。分充民部也。」「(七〇六年)三年春正月丙子朔戊午条」

 ここでは「庸」の一部である「布・綿」について「大蔵省」で保管されるようになったことがわかります。これはそれまで「民部省」で収集保管していたものですが、この時点以降「大蔵」へと移管されたというわけです。このことは「大蔵」の重要性が高まり、「民部」を凌駕するようになったことを示すといえますが、しかし、それに遥かに先立つ『書紀』の「朱鳥元年」の「天武」の葬儀の記事では「大蔵」の方が先に「誄」を奏しています。
 この「葬儀」記事では各官庁を代表して「誄」が奏せられており、それを見るとそこに「序列」のようなものがあるのに気がつきます。

「平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次淨大肆伊勢王誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。
乙丑。諸僧尼亦哭於殯庭。是日。直大參布勢朝臣御主人誄太政官事。次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事。次直大肆大三輪朝臣高市麻呂誄理官事。次直廣參大伴宿禰安麻呂誄大藏事。次直大肆藤原朝臣大嶋誄兵政官事。
丙寅。僧尼亦發哀。是日。直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事。次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事。次直廣肆穗積朝臣虫麻呂誄諸國司事。次大隅。阿多隼人及倭。河内馬飼部造各誄之。
丁卯。僧尼發哀之。是日百濟王良虞代百濟王善光而誄之。次國々造等随參赴各誄之。仍奏種々歌舞。」「(六八六年)朱鳥元年九月戊戌朔甲子条」

 これで見ると一日目は「宮殿」で「倭国王」の至近に仕えていた者達が「誄」を行っており、それに続く二日目以降各官庁の責任者が「誄」を行っているわけですが、それらは「太政官」に始まり「法官」「理官」「大蔵」「兵政官」と続いて二日目が終ります。さらにその翌日になると「刑官」から「民官」「諸国司」「地方の夷蛮地域の代表者」と「馬飼部」という下級官というように「誄」が次々と進められていっています。これらの順序がある原則に基づいているのは確実です。
 例えば、初日は明らかに「宮中」あるいは「倭国王」の側近関係の「誄」が行われ、二日目以降各官庁の代表者が誄を行なう訳ですが、「直大参」「直広参」「直大肆」「直広参」「直大肆」と続き、その翌日になると「直広肆」から始まり、「直広肆」「直広肆」と続いてそれ以上の冠位を持つものが現れません。この「冠位」から考えても、また誄の順序から考えても「官庁間」の中では「刑官」「民官」が低く扱われているということが窺えます。
 しかし、「養老令」を見てみると、民部省とその所管の官庁の職掌としては以下に見るようにかなり広範な機能が割り当てられているのが判ります。

「職員令 民部省条(途中省略)「掌。諸国戸口名籍。賦役。孝義。優復。
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