古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

遣隋使と遣唐使(8)

2014年09月25日 | 古代史
「隋書俀国伝」の「大業三年記事」は、その年次が「書紀」の「遣隋使」記事と一致しているため、従来から疑われたことがありませんでした。それに対し「開皇二十年記事」は「書紀」にないこともあり、特に戦前はその存在は疑問視と言うより無視されていたものです。しかし近年はこの「開皇二十年記事」についてもその存在を認める方向で研究されているようですが、この「大業三年記事」については言ってみれば「ノーマーク」でした。しかし、この「大業三年記事」については、他の資料(「通典」・「冊布元亀」)には「開皇二十年記事」と一括で書かれているなどの点が認められ、記事として確実性がやや劣ると見ることができるでしょう。またそれは「起居注」との関係からもいえると思われます。
 これらの「史書」の元ネタとも言うべき「起居注」については「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという説があります。(「隋書経籍志」中には「開皇起居注」はありますが「大業起居注」が漏れています。)
 また、「隋」から受禅した段階では「秘府」(宮廷内書庫)にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。
 「旧唐書」(「令狐徳菜伝」)によれば「武徳五年」(六二二)に秘書丞となった「令狐徳菜」が、「太宗」に対し、「経籍」が多く亡失しているのを早く回復されるよう奏上し、それを受け入れた「高祖」により「宮廷」から散逸した諸書を「購募」した結果、数年のうちにそれらは「ほぼ元の状態に戻った」とされています。

(「舊唐書/列傳第二十三/令狐棻」より)
「…時承喪亂之餘,經籍亡逸,棻奏請購募遺書,重加錢帛,置楷書,令繕寫。數年間,羣書略備。…」
 
 ここでは「亡逸」とされていますから、それがかなりの量に上ったことがわかります。また、同様の記述は「魏徵伝」にも書かれています。

(「舊唐書/列傳第二十一/魏徵」より)
「…貞觀二年,遷秘書監,參預朝政。徵以喪亂之後,典章紛雜,奏引學者校定四部書。數年之間,秘府圖籍,粲然畢備。…」

 この記述は「秘府」にはまだ足りないものがあったことを示すものであり、「魏徵」等の努力によって原状回復の努力が為されたと見られるものの、それで全ての史料が集まったものではないのはもちろんであり、失われて戻らなかったものもかなりあったものと思われます。このことは「大業起居注」に限らず多くの史料がなかったか、あっても一部欠損などの状態であったことが考えられるものであり、これに従えば「大業三年記事」もその信憑性に疑問符がつくものといえるのではないでしょうか。

 ところで、「隋書俀国伝」に書かれた「倭国王」の言葉に「聞海西菩薩天子重興仏法」というのがあります。

「大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」

 ここで言う「菩薩天子」とは「菩薩戒」を受けた「天子」を言うと思われ、最も該当するのは「隋の文帝」であると思われます。実際に彼は「開皇五年」に「菩薩戒」を受けています。また「二代皇帝」である「煬帝」も「天台智」から「授戒」していますが、それは「即位」以前の「楊広」としてのものでしたから、厳密には「文帝」とは同じレベルでは語れません。さらに、「文帝」であれば「重興仏法」という言葉がもっとも似つかわしいといえます。
 「北周」の「武帝」は「仏教」を嫌い、「仏教寺院」の破壊を命じるなど「廃仏毀釈」を行ったとされます。「文帝」は「北周」から「授禅」の後、すぐに「仏教」の回復に乗り出します。「出家」を許可し、「寺院」の建築を認め、「経典」の出版を許すなどの事業が矢継ぎ早に行われました。
 そのあたりの様子は、例えば下記のような史料にも書かれています。

(攝山志/卷四/建記/舍利感應記 王劭)
「…皇帝曰今佛法重興必有感應 其後處處表奏皆如所言蔣州於棲霞寺起塔鄰人先 夢佛從西北來寳葢旛花映滿寺衆悉執花香出迎及 舍利至如所夢焉餘州若此顯應加以放光靈瑞類葢多矣」

 また「大正新脩大蔵経」の中にも類例が散見できます。

(大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三六 佛祖?代通載二十二卷/卷十/詔三十州建塔)
「(開皇)二十四 辛酉改仁壽
初文帝龍潛時遇梵僧。以舍利一裹授之曰。檀越他日為普天慈父。此大覺遺靈。故留與供養。僧既去。求之不知所在。帝登極後。嘗與法師曇遷。各置舍利於掌而數之。或少或多。竟不能定。遷曰。諸佛法身過於數量。非世間所測。帝始作七寶箱貯之。至是海內大定。帝憶其事。是以岐州等三十州各建塔焉
是年六月十三日。詔曰。仰惟正覺大慈大悲。救護眾生津濟庶品。朕歸依三寶『重興聖教』。思與四海之內一切人民俱發菩提共修福業。…」

(大正新脩大藏經/第五十二卷 史傳部四/二一○六 集神州三寶感通?卷上/振旦神州佛舍利感通序)
「…隋高祖昔在龍潛。有神尼智仙。無何而 至曰。佛法將滅。一切神明今已西去。兒當為 普天慈父『重興佛法』神明還來。後周氏果滅佛法。及隋受命常以為言。又昔有婆羅門僧。詣宅出一裹舍利曰。檀越好心。故留供養。尋爾不知所在。帝曰。『我興由佛』。故於天下立塔。…」

 また以下の資料では、「文帝」に直接関連することとして「重興仏法」という用語が明確に使用されています。

(大正新脩大藏經 史傳部二/二〇六〇 續高僧傳/卷二十六/感通下正傳四十五 附見二人/隋京師大興善寺釋道密傳一)
「…帝以後魏大統七年六月十三日。生於此寺中。…時年七歲。遂以禪觀為業。及帝誕日。無因而至。語太祖曰。兒天佛所祐。勿憂也。尼遂名帝為那羅延。言如金剛不可壞也。又曰。此兒來處異倫。俗家穢雜。自為養之。太祖乃割宅為寺。內通小門。以兒委尼。不敢名問。後皇妣來抱。忽見化而為龍。驚遑墮地。尼曰。何因妄觸我兒。遂令晚得天下。及年七歲告帝曰。兒當大貴從東國來。佛法當滅由兒興之。而尼沈靜寡言。時道成敗吉凶。莫不符驗。初在寺養帝。年十三方始還家。積三十餘歲略不出門。及周滅二教。尼隱皇家。內著法衣。戒行不改。帝後果自山東入為天子。『重興佛法』。皆如尼言。…」

 これらによれば、「重興」という用語が「隋高祖」と関連して使用されていることは明白です。
 また「唐」の「宣帝」についても「重興仏法」という用語が使用されています。

(大正新脩大藏經/第五十卷 史傳部二/二〇六一 宋高僧傳卷十二/習禪篇第三之五正傳二十人 附見四人/唐衡山昂頭峯日照傳)
「釋日照。姓劉氏。岐下人也。家世豪盛。幼承庭訓博覽經籍。復於莊老而宿慧發揮。思從釋子。即往長安大興善寺曇光法師下。稟學納戒。傳受經法靡所不精。因遊嵩嶽問圓通之訣。欣然趨入。後遊南嶽登昂頭峯。直拔蒼翠便有終焉之志。庵居二十載。屬會昌武宗毀教。照深入巖窟。飯栗飲流而延喘息。大中宣宗『重興佛法』。率徒六十許人。還就昂頭山舊基。… 」

 彼の場合は「武宗」により発せられた「廃仏令」(「会昌の廃仏」)を廃し、「仏教保護」を行ったとされます。これも「隋」の高祖と同様の事業であったことが知られ、「重興仏法」の語義が「一度廃れた仏法を再度興すこと」の意であることがこの事から読み取れます。

 これに対し「煬帝」に関連して「重興仏法」という用語が使用された例が確認できません。また彼は確かに「仏法」を尊崇したと言われていますが、「文帝」や「唐の宣帝」のような宗教的、政治的状況にはなかったものであり、「重興仏法」という語の意義と彼の事業とは合致していないと言うべきです。このことから考えると、「倭国」からの使者が「煬帝」に対して「重興仏法」という用語を使用したとすると極めて不自然と言えるでしょう。
 この点については従来から問題とされていたようですが、その解釈としては「煬帝」でも「不可」ではないという程度のことであり、極めて恣意的な解釈でした。あるいは「文帝」同様の「仏教」の保護者であるという「賞賛」あるいは「追従」を含んだものというようなものや、まだ「文帝」が在位していると思っていたというようなものまであります。しかし「追従」や「迎合」などの解釈は同じ使者が「日出ずる国の天子云々」の国書を提出した結果「皇帝」の怒りを買う結果になったこととの整合的説明になっていません。また、「九州年号」のうち「隋代」のものは全て「隋」の改元と同じ年次に改元されており、それは当時の「倭国王権」の「隋」への「傾倒」を示すものと言えると思われますが、(これについては別途書きます)そうであれば「文帝」の存否の情報などを「持っていなかった」というようなことは考えにくいと言え、この「重興仏法」という言葉は正確に「文帝」に向けて奉られたものとか考えるしかないこととなります。
 そのような思惟進行によれば、この記事については『本当に「大業三年」の記事であったのか』がもっとも疑われるポイントとなるでしょう。つまりこの記事は「文帝」の治世期間のものであり、そこに書かれた「遣隋使」はまさに「遣隋使」だったのではないかと考えるべきではないかということです。
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「一大率」と「博多湾」防衛

2014年09月07日 | 古代史
続いて「一大率」と「博多湾」防衛についてです。

 「倭人伝」の記述によれば「郡使」あるいは「勅使」は「いつも」「一大国(壱岐)」から「末廬国」へ行くコースを使っていたと理解されます。
「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
…自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」
 これによれば「一大国」から「末廬国」へというコースは「郡使」の往来などに常用されていたものではないかと考えられることとなるでしょう。つまりこのような往来には「博多湾」は使用されていなかったと推定されることとなります。
 たとえば「郡使」などが「一大国」まで来ると、「末廬国」へと意識的に「誘導」されたものと見られ、そのことは「一大国」に「一大率」から派遣された担当官がおり、彼によって「末廬国」へと誘導されたものと見られることとなるでしょう。つまり「一大率」の支配下に「一大国」があったことを示すものと思われるわけです。
 また入港するに当たって「博多湾」を避け「末廬国」へと誘導した理由としても、「古田氏」が言うようにそこ(博多湾)が「重要地点」に至近であったからと思われ、この「湾」からほど遠くない場所に王都である「邪馬壹国」があったらしいことが推定されるでしょう。(このことは「邪馬壹国」が「近畿」にあったという解釈に対する反証ともいえるものです。もし「近畿」にあったのならば「魏使」が「博多湾」へ直接入港したとしてもそれほど支障があったはずがないからです。)
 この「卑弥呼」の時代である「三世紀」には「博多湾」はもっと現在より海岸線が内陸側にあったと見られ、その分余計に「邪馬壹国」に接近していたと言えるでしょう。
 これは逆に言うと「敵」が海から侵入してくるとすると、当然「博多湾」に向かうこととなることを意味します。当然これに対する防衛システムも博多湾を中心に展開しているはずということとなるでしょう。つまり「一大率」は北方の防衛の拠点とされているわけですから、この「一大率」は「博多湾」に面してその拠点を持っていたと考えるのが相当です。
 ところで、「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」という文章からは「一大率」が「津」において「不得差錯」というように、いわば「税関」のような業務を行っていたと理解されますので、最初の上陸地である「末廬国」に「一大率」が出張っていたのではないかと考えられることとなります。
 そこで注意されるのは「末廬国」だけが「官」について言及されていないことであり、その理由として他の諸国のように「邪馬壹国」から官僚が派遣されていたわけではないことが窺え、この国が「一大率」の支配下にあり、「外交」の担当官として(後の「鴻臚寺」のような役職か)「一大率」により「直轄」が行われていたのではないかと考えられ、彼の配下の人員が任命され、赴任していたという可能性が考えられるでしょう。
 つまり「一大率」は「博多湾」の防衛と共に「末廬国」の「津」(これは場所不明)で外交使節の受け入れと送り出しを行っていたものであり、「博多湾」はそのような用途としては使用していなかったこととなります。
 「博多湾」には「首都」あるいは「首都圏」防衛のために水軍の基地があったものではないかと思われ「軍艦」が常時停泊していたものと思われます。「博多湾」の防衛を考えると、そこに水軍の基地と「一大率」の拠点としての「城」がなければならないのは当然と思われます。そのような場所に直接入港することを避けるのは当然であると思われますが、そう考えると、博多湾に面した場所に「伊都国」の領域があったということとなります。
 後の「鴻臚館」のあった場所(これは後に「博多警固所」となり、また「福岡城」となります。)には「大津城」という「城」があったことが推定されており、また「主船司」も至近にあったらしいことが推察されています。
 これは当時の「新羅」などの侵入に対する「博多」防衛のためのシステムですが、その趣旨は「一大率」という存在と酷似するものではないでしょうか。このことから「伊都国」に「治する」とされている「一大率」もこの「鴻臚館跡」付近にその拠点を持っていたという可能性が考えられ、この場所が元々「伊都国」の領域の中にあったのではないかと考えられることを示すものです。(この場所が地形的にも「博多湾」に突き出るような形になっているのも「博多湾」の防衛拠点としては理想的であり、この地の利点を生かさなかったはずがないとも言えます)
 また「伊都国」には郡使などの往来に際して「郡使往來常所駐」、つまり常に駐まるところとありますから、「伊都国」には「外国使者」の宿泊施設や「迎賓館」のようなものもあったと思われます。これはまさに後の「鴻臚館」につながるものであり、その「鴻臚館」が「軍事拠点」としての「大津城」などと同じ場所にあったことが推定されているわけですから、「卑弥呼」の時代においても「一大率」の拠点と至近の場所にあったと考えるのは不自然ではないこととなるでしょう。
 そして、そこが「伊都国」とされていることは基本的に「博多湾岸」そのものが本来「伊都国」の支配下にあったことを意味すると思われます。つまり「伊都国」はかなり東西に長い形状(領域)を持っていたのではないでしょうか。
 この「鴻臚館跡」の場所は現在の常識では「奴国」の領域とされていますが、「奴国」の領域はもっと内陸側にその中心があったと思われ、「須久・岡本遺跡」のある場所付近がいわゆる「奴国」ではなかったでしょうか。
 「博多湾岸」が「奴国」の領域となったのは、「伊都国」の権力が衰微し、その後「奴国」側がその領域を自家のものとしたという経緯があったことが推察されます。
 何か明証があるわけではありませんが、「伊都国」の権力が衰えたのは「卑弥呼」の死後のことではないかと思われ、代わりに立ったという男王が「伊都国」関連の人物であった可能性があり、それが受け入れられなかったと云うことから「伊都国」の権威の失墜と云うことにつながったのではないかと考えられます。それ以降「一大率」の拠する場所は「奴国」の支配下に入ったと云うことではないでしょうか。

以上「正木氏」の論考とは比べるべくもありませんが、私なりの論を記してみました。ホームページも追って改訂します。
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 「短里」と「倭人伝」の行路記事

2014年09月07日 | 古代史
つづいて「短里」と「倭人伝」の行路記事についてです。

 「魏志倭人伝」を理解する上で重要なものに「短里」があります。
 「邪馬台国」(邪馬壹国)がどこにあったか、といういわゆる「邪馬台国」論争というものがありますが、この論争の中で明らかになった事の一つは、距離の単位である「里」の実距離です。
 「魏志倭人伝」の中では(というより「三国志全体」にわたり)通例知られていた「漢代」の実距離とはまったく違う「里」が使用されている事が判明しています。それは「魏晋朝短里」という呼称で言われているもので、「周代」に使用され、「魏晋朝」に至って復活したものと思われ、中国最古の天文算術書「周髀算経」の中に現れる「里」の実長がそれと考えられます。
 この「周髀算経」の中で太陽の角度から二点間の距離を求める測量法が紹介されており、この既知の二点間の距離と実際の距離とから換算すると、従来の「漢代」のものとは別の「里単位」がそこに述べられていることが判明します。(谷本茂氏の研究による)それによればその「一里」は約75m程度と思われるとのことです。
(以下「倭人伝」の行路記載部分)

「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
又渡一海、千餘里至末盧國。有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。」

 これら「倭人伝」に出てくる「里数」を漢代の長里と解すると「一里」はおよそ「440m」程度あったとされますから、「千里」と記されている「半島」(狗邪韓国)から「対海国」(対馬)までの距離などは400km以上あることとなり、これを「釜山―対馬間」の最短距離として置き換えて考えると、55km程度しかないことと大きく食い違います。
 また「末盧国」から「伊都国」までの距離も「200km」以上となってしまい、「末盧國」を「唐津」付近と推定した場合、山口県を越えて広島まで届いてしまう距離となってしまいます。しかし「伊都国」は「福岡平野」の一端と言うことで衆目が一致しているわけですから、実距離との乖離が激しくなるのは避けられません。(奴国も同様の意味で食い違ってしまいます)
 また「郡治」からの総距離として書かれている「万二千余里」もこれが長里であるとすると「5000km」程度になってしまいますから、南洋諸島側にルートをとると台湾やフィリピンを超えインドネシアまで届いてしまい、列島内には全く収りません。これらのことから「短里」の存在は確実視されているわけです。

 「漢書西域伝」などでは常に「長安」と近隣の「郡治」からの距離表示がされており、行程に何日かかったかというような情報はそこには書かれていません。これは「倭人伝」とは違い「行路記事」とは厳密には言えないと思われます。「倭人伝」の場合は魏使の行程をなぞったように書かれており、単純に「帯方郡治」からの距離だけではなく移動に要した時間も記録されていると理解するべきでしょう。その意味では「五百里」という距離は、「草木茂盛、行不見前人」というような描写に見られる移動区間の道路整備の不十分さや、後の隋・唐代の官道を利用した場合の移動距離が「一日」以内ならば「五十里」を最大とするという規定から考えても(これは「長里」)、この距離を移動するには一日では困難であり、二日間の行程を想定する必要があります。
 
 また「倭人伝」には「郡治」からの総距離として「万二千余里」と書かれているわけですが、半島内だけで「七千余里」とされています。さらに「狗邪韓国」から「対海国」、「対海国」から「壱岐国」、「壱岐国」から「末廬国」へと海を渡るわけですが、その距離が各々「千余里」と書かれており、ここまでの合計で「一万里以上」となってしまいます。
 ここで「韓半島」の「七千餘里」を「七千」から「七千五百」の間と仮に理解することとして、同様に「千余里」は「千」から「千五百」の間とします。そうすると「郡治」から「末廬国」までの距離合計は「一万里」から「一万二千里」の間にあることとなります。
 また総計の「万二千余里」を「一万二千里」から「一万二千五百里」の間と理解した場合、「末廬国」以降「邪馬壹国」までの距離は最小「五百里」最大「二千五百里」となる計算です。
 これをおよそ短里によって実距離を計算すると「38km」程度から「190km」程度の間ぐらいとなります。
 地図上で「末廬国」からこの距離範囲を検索してみると、太宰府の手前の博多湾岸からその後背地である筑紫小郡付近(甘木・朝倉等の場所)までぐらいがその範囲となります。
 個別の区間から考えてみると、「魏使」の到着地点を「唐津」と仮に考えて、「短里」つまり「一里」が「75m程度」として「伊都国」の位置を推定すると「福岡市」の中心部に届きます。この場所には(後でも触れますが)「筑紫大津城」「鴻廬館」「主船司」などが存在していたと推定される場所であり、「一大率」の常置していた場所として最も蓋然性の高いものと考えられます。
 また「奴国」はそこから「百里」つまり「7-8km」程度の距離の場所にあるというわけですから、「弥生王墓」として知られる「須久・岡本遺跡」付近が想定される場所となります。さらに「不彌国」は「水城」付近ではないかと思われ、「水城」という防衛施設の存在と共に「不彌国」自体が「首都防衛軍」の体を成していたという可能性があると思われます。
 また、その背後に「邪馬壹国」があるとするとちょうど「太宰府」付近あるいはその後背地と言える場所がそれに該当する可能性が高いこととなります。(戸数が「七万余戸」というようにきわめて大きいことからも「太宰府」付近だけではなく相当広範囲の地域が「邪馬壹国」の領域とされていたことが窺えます。)
 
 また、このことから「邪馬壹国」の部分に書かれた「水行十日、陸行一月」という記述は「邪馬壹国」への全行程を記したものと推定されることとなるでしょう。なぜなら、「邪馬壹国」までの移動日数がさらに計四十日分追加されるとすると「総距離数」と矛盾するのは明白だからです。
 ここからさらに水行と陸行を重ねるとすると、当時の倭国がまだ道路整備が不十分であったという可能性を考えて、(漢代の長里で)一日二十里(実距離として10km弱程度)として40日分を計算すると「400km」がさらに加わることとなります。これは短里で「五千三百里」程度となりますから、合計で「一万八千里」程度まで膨らんでしまうでしょう。つまり、ここに書かれた日数は「帯方郡治」からの全行程に関わるものと見るのが妥当であることとなります。
 その場合「水行」は10日間とされており、また「半島」から「末廬国」までに三回海を渡るわけであり、その際各々1日は消費していると見れば残りの7日間は半島内での日数となるでしょう。郡治からの行程の冒頭に「海岸に従って水行する」とされていますから、当然水行部分はあるわけですが、その際は半島の西海岸を南下したこととなります。しかしこの部分を全水行するとした場合、「陸行一月」というのが全て「倭国」の内部とならざるを得なくなりますが、距離が短すぎて一月もかからないで「邪馬壹国」まで到着すると考えられることと食い違います。このことは「半島内」は部分的に「水行」し、また部分的に「陸行」したことを示すものです。そう考えれば「水行」の七日分で半島の西海岸を約半分ほど来たと考えれば、そこから「狗邪韓国」(これは場所不明ですが、推定によれば「釜山」付近ではないかと思われます。)までを「陸行」したこととなりますが、ほとんどが山道であり、道のり距離としては相当の距離となったものと思われます。地図上で確認すると「ソウル」近郊の港である「仁川」付近から船出したとして「錦江」河口付近まで水行したとすると、その距離としては約250から280km程度となります。これを「七日間」で進んだとすると1日あたり40km程度となり、水行距離として不自然に短くはありません。
 また「錦江」河口付近の町である「群山」から半島を横断する形で「釜山」まで陸行したと仮定した場合約300kmの行程となります。これを1日10km程度の移動距離とするとちょうど一ヶ月となりまさに「陸行一月」となります。(もちろん「一月」と言っても幅があるでしょうし、少ないながらも「倭国内」の陸行にも日数がかかってはいますが、韓国内陸行として「一月」程度の日数が必要であることは間違いないところです)
 と、ここまで書いたところで「古田史学会報一二一号」の正木氏の論を見ました。それによれば水行の場合1日500里であるとして対馬海峡横断に要する日数を各二日間とっているようです。その分朝鮮半島の西岸の水行部分を削ったようですが、おおよそは私見と同様のようであり、得心のいくものでした。また1刻100里という考え方はなるほどと感心せざるを得ないものであり、優れた論考と思われます。

 これらのことは「邪馬壹国」(邪馬台国)が「近畿」にあったという説には決定的に不利なこととなります。「南」を「東」に変えたところで、「郡治」から「末盧国」までで総距離の九割方を所要してしまうとすれば、「近畿」には全く届かないこととなります。しかし「長里」では列島内から大きくはみ出してしまうわけですから、「邪馬壹国近畿説」は成立の余地がないこととなるでしょう。(近畿に届くように距離と方角を調節すると言うことであれば、それはすでに「学問」とはいえないのは当然です)
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正木氏の論について

2014年09月07日 | 古代史
古田史学会報に最近「正木氏」が書かれた「倭人伝」についての解析記事を実はよく見ておらず、つい最近になってしげしげと見て思わず「感嘆」の声を発してしまったのですが、実は氏の論とやや重なる内容の文章をホームページ用に書いていた最中だったのです。
具体的なポイントとしては「一大率」の権能として「末廬国」に来た「魏使」に対する対応があったであろう事、「末廬国」の「官」が書かれていない理由がそこにあること。「倭人伝」の行路記事の距離数と日数についての確認などです。それらをみると当方より「氏」の論が詳細であり、またアイデアが豊富であって、さすがと言わざるを得ないものであり、脱帽致します。このような重要な論が「会報」に止まり、世間一般に触れる機会が少ないのはもったいない気がします。もちろん何らかの形でこの後公表されることとは思いますが…。
それに比べると冴えない論ではありますが、一応書いたからには公開しますので見てやっていただきたい。
但し、前段とも言える論に触れておく必要がありますので、まずそちらを御覧いただきます。それは「大津城」に関する議論です。

 以下は「佐藤鉄太郎氏」の『実在した幻の城 ―大津城考―』中村学園研究紀要第二十六号一九九四年に依拠した部分があることを前記します。

 「続日本紀」に「大津城」という名称が出てきます。
「『続日本紀』宝亀三年(七七二)十一月辛丑条」「罷筑紫營大津城監。」
 この「大津城」という城は実際には存在していないとされているようです。つまり「朝鮮式山城」としては「基肄城」「大野城」という存在が「大宰府」の防衛のために築かれているわけですが、「大津」となると「博多」の海側の地名であり、「大宰府」近辺ではなく那珂川の河口付近のことを示すと思われます。そこに「城」があったというわけですが、「朝鮮式山城」だけが「城」であるという考え方をしていると、「城」はこの場所にはないこととなるのは当然です。しかし、「朝鮮式山城」はある程度後代のものであり、それ以前から存在していたとすると「山城」であるかどうかには拘る必要がないこととなるでしょう。
 そう考えると、最も可能性があるのは後に福岡城が置かれた「平和台」付近であり、「鴻廬館」があったとされる場所ではないでしょうか。ここに「城」つまり軍事的拠点があったと考えるのはここが対外勢力にとって大宰府への入口であり、関門であったはずだからです。

 「佐藤氏」も言われるように「筑紫大津」「娜大津」「博多大津」は「書紀」「続日本紀」では全く同義で使用されています。この事から「大津城」という「城」も上記「大津」の地に作られていたと考えるべきでしょう。
 その「筑紫国」には「城」が存在していたことは「壬申の乱」の際に「栗隈王」に対し戦闘に参加するよう「近江朝」からの使者としてきた「佐伯連」に対して栗隈王が発言した中にも現れています。
「…筑紫国者元戌邊賊之難也,其峻城深湟,臨海守者,豈爲内賊耶,…」 
 ここでは「城」があり、それが海に臨んで立地しており、城そのものも険しく(急峻な城壁があるように書かれています)、また堀も深いとされます。このような「城」が実際に存在していたと考えて無理はないでしょう。「栗隈王」が言うとおり、それは「外敵」からの防衛のためには当然必要であったと思われるからです。
 また「鴻廬館」に関しても「善隣国宝記」の中では「大津館」と記されている箇所があります。
(「善隣国宝記」上巻 鳥羽ノ院ノ元永元年条)「…天武天皇ノ元年、郭務宋等来、安置大津ノ舘、客上書ノ函題曰、大唐皇帝敬問倭王書、…」
 これは「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという指示に対し「菅原在良」が答えた中にあるもので、彼の認識として当時「鴻廬館」が「大津館」と称されていたということであり、それは「鳥羽天皇」時代の宮廷官人の通常の認識であったことを示すものと思われます。
 これについては同じく「善隣国宝記」の中に引用されている「海外国記」の中には「別館」という表現がされています。
(「善隣国宝記」上巻 (天智天皇)同三年条」「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務宋等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於『別館』。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。…」
 「海外」からの客あるいは「訪問者」は「鴻臚館」で接遇するべきとされていたわけですから、この別館が「鴻臚館」そのものか「鴻臚館」の中に複数の建物があり、その一つを指すのかは不明ですが、「鴻臚館」が「大津館」とも呼称されていたことが強く推定され、そのことから「大津城」が「鴻廬館」の至近に存在したことを示すと考えるのは相当であることとなります。その時点で「外敵」からの「警固」の拠点として機能していたと思われます。
 「佐藤氏」も指摘するように平安時代になり「新羅」による(これは海賊か)博多湾侵入事件があって後「太宰府」警護の兵士達は(「選士」と名称が変えられた後)交替で「鴻臚館」の警護にも当たっていたものであり、それはここに「兵士」が詰めるべき「城」があったことの反映であると思われています。
 この場所には後に「博多警固所」が造られます。これは「元寇」など海からの外敵に対する北部九州というより「倭国」(日本国)の防衛の拠点であり、ここが最前線であったことが知られます。
 このように「大津城」は実在したものであり、それは「太宰府」の北方の海岸線に位置し「海」から侵入してくる外敵に対して防衛線を築いていたものですが、このようなものが「七世紀」以降に初めて築かれたと考えるのは明らかに不当というものでしょう。なぜなら「筑紫」の地が要害の地であるのは「宣化」の「詔」(以下)などでも明らかなように、歴代倭国王権にとって事実であったからです。
「(宣化)元年(五三六年)夏五月辛丑朔条」「詔曰。食者天下之本也。黄金萬貫不可療飢。白玉千箱何能救冷。夫筑紫國者遐迩之所朝届。去來之所關門。是以海表之國候海水以來賓。望天雲而奉貢。自胎中之帝洎于朕身。収藏穀稼。蓄積儲粮遥設凶年。厚饗良客。安國之方。更無過此。故朕遣阿蘇仍君。未詳也。加運河内國茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稻目宿禰。宜遣尾張連運尾張國屯倉之穀。物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀。阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀國屯倉之穀。修造官家那津之口。又其筑紫肥豐三國屯倉。散在縣隔。運輸遥阻。儻如須要。難以備卒。亦宜課諸郡分移。聚建那津之口。以備非常。永爲民命。早下郡縣令知朕心。」
 ここでは「筑紫」は内外からの人々が「貢納品」などを持参してやってくる際の「関門」となるべき場所であるとされています。このように考えてみると「大津城」が相当以前からこの地に存在していたという可能性が考えられ、(規模はともかく)これは「卑弥呼」の時代の「伊都国」に常駐していたという「一大率」に重なるものとは考えられるものです。
 既に述べたように「一大率」は「邪馬壹国」の北方に位置し、海上から侵入してる外敵(この場合は「狗奴国」)に対して強力な防衛線を構築していたものです。それが「水軍」とその拠点たる「城」(及び迎宴施設)とで構成されていたと考えるのは当然であり、その位置関係としては「倭人伝」に書かれた移動の方向と距離から、現在の「鴻廬館跡」の場所が「一大率」の治するところであった可能性が高いものと思われます。
 弥生時代はこの場所はまだ河川による上流からの堆積物が少なく、平野部の形成が不十分であったと思われ、その「一大率」のいた場所は現在の「能古島」のように「砂州」で陸上とつながっていた程度はなかったかと思われますが、「博多湾」に浮かぶように突き出たその位置は湾内への侵入者に対する監視場所として理想的であったと思われます。そのような場所に「一大率」が城を構えていたとして不思議ではなく、また水軍の本拠地もこの至近にあったと考えるべきであり、これが後の「主船司」につながる存在となったと思われます。
 従来この位置は「奴国」の領域と考えられているようですが、それでは「博多湾」には「一大率」が睨みをきかすことの出来る場所がないこととなります。「博多湾」は重要な港湾であり、その場所に基地というべきものを持たないで「一大率」がその機能を発揮できたとは思われません。とすればこの「大津城」のあった地域は元々は「伊都国」の範囲の中にあったものと思われることとなるでしょう。その後「伊都国」と「奴国」の間(あるいは「奴国」の背後にいる「邪馬壹国」との間)の関係が変化した結果「伊都国」の領域が減少し、代わって「奴国」が「大津城」付近を自家のものとしたという推移があった可能性が考えられます。(「伊都国」は倭国の中でも古参の存在であり、その実質的支配領域は時代が下るにつれ漸次減少していたのではないかと思われ、代わって「奴国」の領域が博多湾岸まで拡大したという可能性が考えられます。
 またその「大津城」の構造としては、これは先に述べたように「朝鮮式山城」のようなものではなく、せいぜい「神籠石」のような列石を周囲に廻らした形のものであったとも考えられます。ちょうど「難波宮」のように海にやや突き出た位置にやや平坦な形で城を構成していたとも考えられるものです。(それは「鞠智城」にも似ているといえるでしょう。)
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