「隋書俀国伝」の「大業三年記事」は、その年次が「書紀」の「遣隋使」記事と一致しているため、従来から疑われたことがありませんでした。それに対し「開皇二十年記事」は「書紀」にないこともあり、特に戦前はその存在は疑問視と言うより無視されていたものです。しかし近年はこの「開皇二十年記事」についてもその存在を認める方向で研究されているようですが、この「大業三年記事」については言ってみれば「ノーマーク」でした。しかし、この「大業三年記事」については、他の資料(「通典」・「冊布元亀」)には「開皇二十年記事」と一括で書かれているなどの点が認められ、記事として確実性がやや劣ると見ることができるでしょう。またそれは「起居注」との関係からもいえると思われます。
これらの「史書」の元ネタとも言うべき「起居注」については「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという説があります。(「隋書経籍志」中には「開皇起居注」はありますが「大業起居注」が漏れています。)
また、「隋」から受禅した段階では「秘府」(宮廷内書庫)にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。
「旧唐書」(「令狐徳菜伝」)によれば「武徳五年」(六二二)に秘書丞となった「令狐徳菜」が、「太宗」に対し、「経籍」が多く亡失しているのを早く回復されるよう奏上し、それを受け入れた「高祖」により「宮廷」から散逸した諸書を「購募」した結果、数年のうちにそれらは「ほぼ元の状態に戻った」とされています。
(「舊唐書/列傳第二十三/令狐棻」より)
「…時承喪亂之餘,經籍亡逸,棻奏請購募遺書,重加錢帛,置楷書,令繕寫。數年間,羣書略備。…」
ここでは「亡逸」とされていますから、それがかなりの量に上ったことがわかります。また、同様の記述は「魏徵伝」にも書かれています。
(「舊唐書/列傳第二十一/魏徵」より)
「…貞觀二年,遷秘書監,參預朝政。徵以喪亂之後,典章紛雜,奏引學者校定四部書。數年之間,秘府圖籍,粲然畢備。…」
この記述は「秘府」にはまだ足りないものがあったことを示すものであり、「魏徵」等の努力によって原状回復の努力が為されたと見られるものの、それで全ての史料が集まったものではないのはもちろんであり、失われて戻らなかったものもかなりあったものと思われます。このことは「大業起居注」に限らず多くの史料がなかったか、あっても一部欠損などの状態であったことが考えられるものであり、これに従えば「大業三年記事」もその信憑性に疑問符がつくものといえるのではないでしょうか。
ところで、「隋書俀国伝」に書かれた「倭国王」の言葉に「聞海西菩薩天子重興仏法」というのがあります。
「大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」
ここで言う「菩薩天子」とは「菩薩戒」を受けた「天子」を言うと思われ、最も該当するのは「隋の文帝」であると思われます。実際に彼は「開皇五年」に「菩薩戒」を受けています。また「二代皇帝」である「煬帝」も「天台智」から「授戒」していますが、それは「即位」以前の「楊広」としてのものでしたから、厳密には「文帝」とは同じレベルでは語れません。さらに、「文帝」であれば「重興仏法」という言葉がもっとも似つかわしいといえます。
「北周」の「武帝」は「仏教」を嫌い、「仏教寺院」の破壊を命じるなど「廃仏毀釈」を行ったとされます。「文帝」は「北周」から「授禅」の後、すぐに「仏教」の回復に乗り出します。「出家」を許可し、「寺院」の建築を認め、「経典」の出版を許すなどの事業が矢継ぎ早に行われました。
そのあたりの様子は、例えば下記のような史料にも書かれています。
(攝山志/卷四/建記/舍利感應記 王劭)
「…皇帝曰今佛法重興必有感應 其後處處表奏皆如所言蔣州於棲霞寺起塔鄰人先 夢佛從西北來寳葢旛花映滿寺衆悉執花香出迎及 舍利至如所夢焉餘州若此顯應加以放光靈瑞類葢多矣」
また「大正新脩大蔵経」の中にも類例が散見できます。
(大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三六 佛祖?代通載二十二卷/卷十/詔三十州建塔)
「(開皇)二十四 辛酉改仁壽
初文帝龍潛時遇梵僧。以舍利一裹授之曰。檀越他日為普天慈父。此大覺遺靈。故留與供養。僧既去。求之不知所在。帝登極後。嘗與法師曇遷。各置舍利於掌而數之。或少或多。竟不能定。遷曰。諸佛法身過於數量。非世間所測。帝始作七寶箱貯之。至是海內大定。帝憶其事。是以岐州等三十州各建塔焉
是年六月十三日。詔曰。仰惟正覺大慈大悲。救護眾生津濟庶品。朕歸依三寶『重興聖教』。思與四海之內一切人民俱發菩提共修福業。…」
(大正新脩大藏經/第五十二卷 史傳部四/二一○六 集神州三寶感通?卷上/振旦神州佛舍利感通序)
「…隋高祖昔在龍潛。有神尼智仙。無何而 至曰。佛法將滅。一切神明今已西去。兒當為 普天慈父『重興佛法』神明還來。後周氏果滅佛法。及隋受命常以為言。又昔有婆羅門僧。詣宅出一裹舍利曰。檀越好心。故留供養。尋爾不知所在。帝曰。『我興由佛』。故於天下立塔。…」
また以下の資料では、「文帝」に直接関連することとして「重興仏法」という用語が明確に使用されています。
(大正新脩大藏經 史傳部二/二〇六〇 續高僧傳/卷二十六/感通下正傳四十五 附見二人/隋京師大興善寺釋道密傳一)
「…帝以後魏大統七年六月十三日。生於此寺中。…時年七歲。遂以禪觀為業。及帝誕日。無因而至。語太祖曰。兒天佛所祐。勿憂也。尼遂名帝為那羅延。言如金剛不可壞也。又曰。此兒來處異倫。俗家穢雜。自為養之。太祖乃割宅為寺。內通小門。以兒委尼。不敢名問。後皇妣來抱。忽見化而為龍。驚遑墮地。尼曰。何因妄觸我兒。遂令晚得天下。及年七歲告帝曰。兒當大貴從東國來。佛法當滅由兒興之。而尼沈靜寡言。時道成敗吉凶。莫不符驗。初在寺養帝。年十三方始還家。積三十餘歲略不出門。及周滅二教。尼隱皇家。內著法衣。戒行不改。帝後果自山東入為天子。『重興佛法』。皆如尼言。…」
これらによれば、「重興」という用語が「隋高祖」と関連して使用されていることは明白です。
また「唐」の「宣帝」についても「重興仏法」という用語が使用されています。
(大正新脩大藏經/第五十卷 史傳部二/二〇六一 宋高僧傳卷十二/習禪篇第三之五正傳二十人 附見四人/唐衡山昂頭峯日照傳)
「釋日照。姓劉氏。岐下人也。家世豪盛。幼承庭訓博覽經籍。復於莊老而宿慧發揮。思從釋子。即往長安大興善寺曇光法師下。稟學納戒。傳受經法靡所不精。因遊嵩嶽問圓通之訣。欣然趨入。後遊南嶽登昂頭峯。直拔蒼翠便有終焉之志。庵居二十載。屬會昌武宗毀教。照深入巖窟。飯栗飲流而延喘息。大中宣宗『重興佛法』。率徒六十許人。還就昂頭山舊基。… 」
彼の場合は「武宗」により発せられた「廃仏令」(「会昌の廃仏」)を廃し、「仏教保護」を行ったとされます。これも「隋」の高祖と同様の事業であったことが知られ、「重興仏法」の語義が「一度廃れた仏法を再度興すこと」の意であることがこの事から読み取れます。
これに対し「煬帝」に関連して「重興仏法」という用語が使用された例が確認できません。また彼は確かに「仏法」を尊崇したと言われていますが、「文帝」や「唐の宣帝」のような宗教的、政治的状況にはなかったものであり、「重興仏法」という語の意義と彼の事業とは合致していないと言うべきです。このことから考えると、「倭国」からの使者が「煬帝」に対して「重興仏法」という用語を使用したとすると極めて不自然と言えるでしょう。
この点については従来から問題とされていたようですが、その解釈としては「煬帝」でも「不可」ではないという程度のことであり、極めて恣意的な解釈でした。あるいは「文帝」同様の「仏教」の保護者であるという「賞賛」あるいは「追従」を含んだものというようなものや、まだ「文帝」が在位していると思っていたというようなものまであります。しかし「追従」や「迎合」などの解釈は同じ使者が「日出ずる国の天子云々」の国書を提出した結果「皇帝」の怒りを買う結果になったこととの整合的説明になっていません。また、「九州年号」のうち「隋代」のものは全て「隋」の改元と同じ年次に改元されており、それは当時の「倭国王権」の「隋」への「傾倒」を示すものと言えると思われますが、(これについては別途書きます)そうであれば「文帝」の存否の情報などを「持っていなかった」というようなことは考えにくいと言え、この「重興仏法」という言葉は正確に「文帝」に向けて奉られたものとか考えるしかないこととなります。
そのような思惟進行によれば、この記事については『本当に「大業三年」の記事であったのか』がもっとも疑われるポイントとなるでしょう。つまりこの記事は「文帝」の治世期間のものであり、そこに書かれた「遣隋使」はまさに「遣隋使」だったのではないかと考えるべきではないかということです。