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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

民部省と大蔵省の地位の差(再度)

2015年12月19日 | 古代史

9月5日付で書いた論が中途半端になっていました。以下に続きを書くこととします。

 「婦女子」の髪型に関する「詔」の分析から「慶雲二年」記事はその本来の年次が「六四八年」であり、「57年」移動されているらしいことが推察されることとなったわけですが、同様に移動が考えられるのが「大蔵」へ「庸」の一部が納入されるようになったという「慶雲三年」の記事です。
 ここでは「庸」の一部である「布・綿」について「大蔵省」で保管されるようになったことがわかります。これはそれまで「民部省」で収集保管していたものですが、この時点以降「大蔵」へと移管されたというわけです。このことは「大蔵」の重要性が高まり、「民部」を凌駕するようになったことを示すといえますが、しかし、それに遥かに先立つ『書紀』の「朱鳥元年」の「天武」の葬儀の記事では「大蔵」の方が先に「誄」を奏しています。
 「養老令」を見てみると、民部省とその所管の官庁の職掌としては以下に見るようにかなり広範な機能が割り当てられているのが判ります。

「職員令 民部省条(途中省略)「掌。諸国戸口名籍。賦役。孝義。優復。■免。家人。。橋道。津済。渠池。山川。藪沢。諸国田事。」
「職員令 主計寮条(途中省略)「掌。計納調及雑物支度国用勘勾用度事。」
「職員令 主税寮条(途中省略)「掌。倉廩出納。諸国田租。舂米。碾磑事。」

そのうち「庸」についていえば一部である「布・綿」は後に「大蔵省」で保管されるようになります。
(以下関係記事)

「…又收貯民部諸國庸中輕物■絲綿等類。自今以後。收於大藏。而支度年料。分充民部也。」「(七〇六年)三年春正月丙子朔戊午条」

 これ以降「庸中輕物」については「大蔵」へ収めることとなった訳ですが、それ以前は全て「民部」へ収めていた訳です。「民部」に広範な機能があったこと、このようにその機能の一部が後年「大蔵」へ移管されることなどを考えると、「朱鳥」時点で「大蔵」の方が重要視されていたというのは疑問とするべきでしょう。
 本来「庸」「調」などの徴集の基礎は「戸籍」であり、「人民を如何に把握するか」が焦点であったはずです。その意味からいうと「民部」が先に活躍し「人民」に関するデータベース作りを行なう必要があった訳であり、その後そのデータベースを元にした各国各人からの「税」の徴集が開始されるようになるわけですから、「民部」の重要度は当初の方が高いのは当然であると思われます。その後「税」としての徴収物が増大するとその管理をめぐって官庁間で「綱引き」があったという可能性もあり、「大蔵」が力を付けていったのもそのような流れの中かも知れません。しかし、そう考えると、「朱鳥段階」つまり「大宝令」にかなり先行する時期において「大蔵」がそれほど力を付けていたとは考えにくいこととなります。

 また「大宝令」段階で「戸籍・計帳」に関する人員が配置されているように見えることは、「七世紀代」で既に大量の「庸」等の「税」としての物品が送られてきていたと考えられることが、「藤原京」や「石神遺跡」などから出土している「木簡」の解析などから判明していることと矛盾します。つまりそれらは「戸籍・計帳」が十分に整備されていることが必須の条件だからです。これらのことは『書紀』と『続日本紀』の「税」に関する記事の時系列が本当に正しいのか疑わしいと言わざるを得ないものです。
 これらについても他の記事同様『続日本紀』記事と『書紀』記事とはその年次配列が逆転しているのではないかという疑いが生じるものです。
 この「七〇六年」の「庸」の一部が「大蔵」へ納められることとなったという記事が「婦女子の髪型」に関する記事と同様「五十七年遡上」すると仮定した場合、「六五一年」のこととなりますが、「誄」が奏された「朱鳥元年記事」は「三十五年遡上」の対象と考えられますから「六五一年」のこととなって、同年のこととなり、時系列としては確かに整合することとなります。つまり「大蔵」が力を付けてきたことを背景として葬儀の際の「誄」を述べる順に反映したと言えるのではないでしょうか。

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「倭国乱」と「後漢」の状況

2015年12月16日 | 古代史

 すでに見たように「卑弥呼」の即位の前夜とでも言うべき時期は「後漢末」が措定され、この時点付近で争乱が発生したというわけですが、「帥升」を「男王」の一人と仮定した場合には「卑弥呼」の即位年次として「後漢」で発生した「黄巾の乱」の時期とほぼ等しい(「一八四年」)というところに注目すべきこととなります。もしそれがもっと遅れるとしても事態は余り変らないと思われ、「後漢」王朝の衰微とそれに対応して争乱が発生したことと、この「倭国乱」との時期及び内容が近似していることに注目すべきこととなるでしょう。
 一般には「後漢」が衰微していく過程は「梁冀」氏のような強力な人物が外戚となり「幼帝」を誕生させそれを陰で操る体制が生まれたことや、彼等を「宦官」と協力して排除したため今度はその「宦官」による専横を止められなくなったなどの理由により「皇帝」の持つ「権威」が大幅に低下したことが衰微の重要な要因とされます。しかし、実際にはそれらはさほど重要な要素ではないと思われます。なぜならそれらは「一般の人々」に直接関係したこととは思われないからです。
 この「後漢」のような強力な王権が倒れるには「民衆」の苦しみが極大に達する状況があったとしなければならず、それに対して王権の側から適切な対応ができなかったことがそこに原因として横たわっていると思われます。
 この時期「太平道」や「五斗米道」など道教系の新興宗教が発生し、多くの民衆の支持を集めそれが「黄巾の乱」など争乱に結びつくということとなったわけですが、その過程には天候不順による農業への被害が大きかったということが重要な要因としてあったものと考えられます。
 『後漢書』など当時の記録を見ると、「旱害」あるいは「大水」「地震」というような自然災害も多かったとみられますが、そのような食糧事情の悪化は当時の衛生状態とも関連して「伝染病」の発生にもつながったものと思われます。
 実際に『後漢書』の中には「疫」「大疫」「疫癘」と称されるような「伝染病」とおぼしきものが蔓延していた事を示す記事が数多く見えます。
 以下「順帝」年間の『疫癘』と「考桓帝」と「考霊帝」の治世の中での『疫』『大疫』の例を挙げます。
 まず、「順帝」の治世期間に現れる『疫癘』の例です。)
「永建元年(一二六年)春正月甲寅,詔曰:先帝聖,享祚未永,早弃鴻烈。姦慝緣,人庶怨讟,上干和氣,『疫癘』為災。…
冬十月…甲辰,詔以『疫癘』水潦,令人半輸今年田租;傷害什四以上,勿收責;不滿者,以實除之。」

(以降「桓帝」の『疫』『大疫』の例)
「元嘉元年春正月,京師疾疫,使光祿大夫將醫藥案行。癸酉,大赦天下,改元元嘉。
二月,九江、廬江『大疫。』」「後漢書/本紀 凡十卷/卷七 孝桓帝 劉志 紀第七/元嘉元年」
「四年春正月辛酉,南宮嘉殿火。戊子,丙署火。『大疫。』…」「同上/延熹四年」
「九年春正月…己酉,詔曰:『比歲不登,民多飢窮,又有水旱『疾疫之困』。盜賊徵發,南州尤甚。灾異 日食,譴告累至。政亂在予,仍獲咎徵。其令大司農絕今歲調度徵求,及前年所調未畢者, 勿復收責。其灾旱盜賊之郡,勿收租,餘郡悉半入』」「同上/延熹九年」

(以降同様に「霊帝」の治世期間の『疫』『大疫』の例)
「四年…二月癸卯,地震,海水溢,河水清。
三月辛酉朔,日有食之。太尉聞人襲免,太僕李咸為太尉。詔公卿至六百石各上封事。『大疫』,使中謁者巡行致醫藥。司徒許訓免,司空橋玄為司徒
詔公卿至六百石各上封事。『大疫』,使中謁者巡行致醫藥。」「後漢書/本紀 凡十卷/卷八 孝靈帝 劉宏 紀第八/建寧四年(一七一年)」
「二年春正月,『大疫』,使使者巡行致醫藥。」「同上/熹平二年(一七四年)」
「二年春,『大疫』,使常侍、中謁者巡行致醫藥。」「同上/光和二年(一七九年)」
「五年春正月辛未,大赦天下。
二月,『大疫。』」「同上/光和五年(一八二年)」
「二年春正月,『大疫。』」「同上/中平二年(一八五年)」

 このように頻繁に「大疫」と記され、何か強い感染力あるいは伝染力のある病気が蔓延していたことが示唆されますが、さらに「桓帝」の「延喜九年」の「詔」では天候不順により食糧不足となっていることが記されており、その他「疫」以外にも「水害」や「旱害」を示す記録や地震あるいは「津波」と思われる記事などが再三にわたり書かれているなど、天変地異がうち続いたことで多くの人々が悩まされていた実態が明らかとなっています。

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「歴年」と卑弥呼の即位年次

2015年12月14日 | 古代史

 『魏志倭人伝』によれば「倭」における政治状況について「住七八十年」とあり、その後「歴年」という表現が続きます。

「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。…」

 この「歴年」については『三国志』中に三十例ほど使用例が確認できますが、いずれも複数年に亘ることを示す表現ではあるものの具体的な年数を示す場合とそうでない場合に分かれます。
 具体的な年数を示す場合を以下に示します。

「遷光祿勳。帝愈崇宮殿,彫飾觀閣,鑿太行之石英,采穀城之文石,起景陽山於芳林 之園,建昭陽殿於太極之北,鑄作黃龍鳳皇奇偉之獸,飾金墉、陵雲臺、陵霄闕。百役繁興, 作者萬數,公卿以下至于學生,莫不展力,帝乃躬自掘土以率之。而遼東不朝。悼皇后崩。 天作淫雨,冀州水出,漂沒民物。隆上疏切諫曰:蓋「天地之大曰生,聖人之大寶曰位;何以守位?曰仁;何以聚人?曰財」。然則士民者,乃國家之鎮也;穀帛者,乃士民之命也。穀帛非造化不育,力不成。 是以帝耕以勸農,后桑以成服,所以昭事上帝,告虔報施也。昔在伊唐,世值陽九厄運 之會,洪水滔天,使鯀治之,績用不成,乃舉文命,隨山刊木,前後『歷年二十二載』。災眚 之甚,莫過於彼,力役之興,莫久於此,堯、舜君臣,南面而已。禹敷九州,庶士庸勳,各 有等差,君子小人,物有服章。今無若時之急,而使公卿大夫並與廝徒共供事役,聞之 四夷,非嘉聲也,垂之竹帛,非令名也。是以有國有家者,近取諸身,遠取諸物,嫗煦養 育,故稱「悌君子,民之父母」。今上下勞役,疾病凶荒,耕稼者寡,饑饉荐臻,無以卒 歲;宜加愍卹,以救其困。」(『三國志/魏書 二十五 辛?楊阜高堂隆傳第二十五/高堂隆』)

 ここでは「歴年二十二載」とされ、この「歴年」の具体的年数が「二十二年間」であることが示されています。(これは「帝堯」の子である「鯀」の治水に関する記事であり、『史記』などによれば水害は前後二十二年間に亘ったとされ、それを踏まえた発言であるわけです)
 また以下の例では「数百年」であることがわかります。

「…太和中,繇上疏曰:「大魏受命,繼蹤虞、夏。孝文革法,不合古道。先帝聖,固天所縱,墳典之業,一以貫之。是以繼世,仍發明詔,思復古刑,為一代法。連有軍事,遂未施行。陛下遠追二祖遺意,惜斬趾可以禁惡,恨入死之無辜,使明習律令,與羣臣共議。出本當右趾而入大辟者,復行此刑。書云:『皇帝清問下民,寡有辭于苗。』此言堯當除蚩尤、有苗之刑,先審問於下民之有辭者也。若今蔽獄之時, 訊問三槐、九棘、羣吏、萬民,使如孝景之令,其當棄巿,欲斬右趾者許之。其黥、劓、左趾、宮刑者,自如孝文,易以髠、笞。能有姦者,率年二十至四五十,雖斬其足,猶任生育。今天下人少于孝文之世,下計所全,歲三千人。張蒼除肉刑,所殺歲以萬計。臣欲復肉刑,歲生三千人。子貢問能濟民可謂仁乎?子曰:『何事於仁,必也聖乎,堯、舜其猶病諸!』又曰: 『仁遠乎哉?我欲仁,斯仁至矣。』若誠行之,斯民永濟。」書奏,詔曰:「太傅學優才高,留 心政事,又於刑理深遠。此大事,公卿羣僚善共平議。」司徒王朗議,以為「繇欲輕減大辟之條,以益刖刑之數,此即起偃為豎,化屍為人矣。然臣之愚,猶有未合微異之意。夫五刑之屬,著在科律,自有減死一等之法,不死即為減。施行已久,不待遠假斧鑿于彼肉刑,然後有罪次也。前世仁者,不忍肉刑之慘酷,是以廢而不用。不用已來,『歷年數百』。今復行之,恐所減之文未彰于萬民之目,而肉刑之問已宣于寇讎之耳,非所以來遠人也。今可 按繇所欲輕之死罪,使減死之髠、刖。嫌其輕者,可倍其居作之歲數。內有以生易死不訾之恩,外無以刖易釱駭耳之聲。」議者百餘人,與朗同者多。帝以吳、蜀未平,且寢。」

 ここでは「大理」(刑官)から「肉刑」を復活させるべきという上表がされ検討したとされていますが、その中で「肉刑」が行われなくなってから「数百年」経っているという意味で「歴年数百」と書かれています。この「肉刑」が行われなくなったのは「前漢」の「文帝」の時代ですから、この「魏」の時代までに「四〇〇年」ほど経過していると思われ、確かに「数百」という表現は妥当といえます。
 このように具体的な数字を伴う場合もあるわけであり、その場合多大な年数であるというケースもあるわけですが、他方年数が何も書かれない場合も多く、その場合前後関係からその年数を推定すると、数年である場合がほとんどと思われます。
 また以下に「年数」が書かれない場合で推定できる代表的なケースを挙げてみます。

「太祖圍張超于雍丘,超言:「唯恃臧洪,當來救吾。」衆人以為袁、曹方睦,而洪為紹所表用,必不敗好招禍,遠來赴此。超曰:「子源,天下義士,終不背本者,但恐見禁制,不相及逮耳。」洪聞之,果徒跣號泣,並勒所領兵,又從紹請兵馬,求欲救超,而紹終不聽許。超遂族滅。洪由是怨紹,絶不與通。紹興兵圍之,『歴年』不下。紹令洪邑人陳琳書與洪,喩以禍福,責以恩義。」(『三國志/魏書七 呂布臧洪傳第七/臧洪』より)

 ここでは「太祖」つまり「曹操」が「臧洪」の立てこもる城を攻めたが「歴年」「不下」つまり降伏しなかったとされています。これは実際には「一九四年」からの出来事であり、それが終息したのは「一九七年」とされますから四年間を意味するものと思われることとなります。
 また「呉」の「孫権」の配下の武将である「陸遜」という人物に関するエピソードに以下のものがあります。

「…權欲遣偏師取夷州及朱崖,皆以諮遜,遜上疏曰:「臣愚以為四海未定,當須民力,以濟時務。今兵興『歷年』,見眾損減,陛下憂勞聖慮,忘寢與食,將遠規夷州,以定大事,臣反覆思惟,未見其利,萬里襲取,風波難測,民易水土,必致疾疫,今驅見眾,經涉不毛,欲益更損,欲利反害。又珠崖絕險,民猶禽獸,得其民不足濟事,無其兵不足虧眾。今江東見眾,自足圖事,但當畜力而後動耳。昔桓王創基,兵不一旅,而開大業。陛下承運,拓定江表。臣聞治亂討逆,須兵為威,農桑衣食,民之本業,而干戈未戢,民有飢寒。臣愚以為宜育養士民,其租賦,眾克在和,義以勸勇,則河渭可平,九有一統矣。」權遂征夷州,得不補失…」(『三國志/吳書十三 陸遜傳第十三』より)
 
 ここでは「孫権」が「夷州及朱崖」を征服しようと考えた際に「陸遜」が上疏した文の中に「歴年」という用語が出てくるわけですが、それは「孫権」の計画に対して反対の意思を表明したものであり、戦いがもし何年もかかることとなると「兵」や「民」が疲弊することとなると危惧したものでした。つまりもし戦いを起こせば彼等の土地を制圧するのに何年もかかるのは当然であるという前提の発言であるわけですが、ただしそれは簡単には終わらないという意味での「歴年」であると思われ、数十年にも及ぶという趣旨ではないことは明らかです。それが数年という期間であっても「人民」にとっては由々しきことと言うわけです。これらのことから単に「歴年」と表す場合は明らかに数年間程度以内の時間的長さを意味するものと判断されるものです。そして、それはこの「倭王」をめぐる争いにおいても同様であったと考えられることとなるでしょう。そうであれば「男王」が統治して国情が安定していた時点から数えて「卑弥呼」の即位まで「八十年強」の年数が想定できることとなります。
 この「七~八十年」という表現から考えて、これは「一代」ではなく「二代」あるいは「三代」にわたる治世と推察されますが、『後漢書』にいう「帥升」がこの『倭人伝』にいう「男王」の一人であるとすると、「帥升」の貢献が「紀元一〇五年」ですから、彼を含めてそれ以降の男王期間が七~八十年であったこととなり、「一八五年」付近にその混乱期間の始まりが想定できると思われます。つまり「卑弥呼」の即位はそこから数年後の「一八〇年から一九〇年」付近と推定されることとなるでしょう。ただし、これについては「帥升」もそれ以前の「委奴国王」も「倭王」でもなく「倭国王」でもなかったという理解も可能ですから、彼ら以降に「邪馬壹国」の王が「男王」として立って、その時点以降のことを指すとも考えられるわけです。そうなると「卑弥呼」の即位はかなり遅れることとなり、「後漢代」ではなく「魏代」のことと理解する必要があるかもしれません。次回はそのあたりを書きます。

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卑弥呼の身体の状況と霊的能力

2015年12月08日 | 古代史

 この時点で「卑弥呼」の鬼道が熱烈な支持を得た背景としては、当時大きな「社会不安」があり、それに対して宗教がそれを担うことを求める民衆の強烈な欲求が大きかったものと見られます。そのような欲求はその時点まではそれほどのものではなかったものが、急激に社会の中で大きなウェイトを占めることとなったものと思われ、そのことと新たに立った「男王」を民衆は支持しないということとは強く関係していると思われます。
 
その「社会不安」については後ほど触れますが、その時点で「祭祀」が重要な要素を占めることとなったわけであり、そこでは「卑弥呼」でなければならないという民衆の支持あるいは意思が示されたものと見られるわけです。その理由はいくつかあると思われますが、当然ですがその時点で彼女の「霊的能力」が突出して優れていたと大衆が認めていたからという理由が最も大きいと思われ、それは「能く衆を惑わす」という『倭人伝』の表現に表れています。
 
このように古代において「霊的能力」の高い存在は現実世界ではえてして「役に立たない」存在であったという可能性があり、「卑弥呼」も例外ではなかったものではないでしょうか。
 
古代においては「不具」であったり「身体能力」の一部が欠如しているような人物はその共同体の中での実生活の役にはほぼ立たないわけですが、その代わり(というよりそれだからこそ)霊的能力に長けた存在として一定の尊敬を集めていたという可能性があります。「左手第四指」に対する霊的信仰はそのことを暗示しているのではないでしょうか。

 世界中で「左手第四指」に対して「無名指」という意味の呼称がされている事実があります。現在日本では「薬指」と呼称されますが、これは「薬」を調合する際にこの指を使用する(かき混ぜる)からというのがその理由とされますが、それはその指でなければ薬が効かないからであり、「左手第四指」に「霊的能力」があるからとされます。それが「無名指」とされるのは「名前」を「鬼神」に知られると「霊的能力」がなくなってしまうからとされ、「名前」と「鬼神」という超現実的存在との間に強いつながりがあることに対する信仰が世界各国であったことが知られるものです。 

 このように「左手第四指」が重要視される最大の理由はそれが「役に立たない」からであり、「不器用」の象徴だからです。

 「第四指」は「第五子」(小指)と「腱」の一部がつながっており、(通常は)単独で動かすことができません。特にそれが「左手」である場合は特にその指を主体的に使用することはないといって支障ないでしょう。つまり「左手第四指」は典型的な「役に立たない」存在であるわけですが、それだからこそ、この指に対する「畏怖」と「敬意」があったものではないかと思われ、それは「古代」における「共同体(集落)」の中においても、同様の意味がその存在に対して与えられたものではないでしょうか。(「蛭子」に対する信仰もそれに良く似たものといえるでしょう)

 

 「縄文」遺跡からは明らかに「不具」と思われる「人骨」が出ており、それは「成人」に達していることが確認されていますから、その人物は少なくとも周囲の助けを受けて生活していたことを示しており、「縄文」の社会が弱者に寛容であった証拠というような理解がされる場合がありますが、それについてもその人物が「祈祷師」など当時の共同体に必要な存在となっていたという可能性について考慮されるべきではないかということを示唆するものでもあります。つまりそのような人物は「シャーマン」的位置にいたものではないかと考えられ、逆に重要視されていたものとも考えられるわけです。

 「卑弥呼」もどこかに(身体的あるいは精神的かは不明ではあるものの)不具合を抱えていたものであり、それ故に強い「霊的能力」を有していた(少なくとも周囲はそう理解していた)可能性があると思えます。それは「男弟」が現実の政治を補佐していたという中にも現れているものと思われ、「卑弥呼」の能力が「霊的」な部分に特化していたことを示すものであり、当時の実生活ではほとんど「役立たず」というべき状態ではなかったかと推察されることとななります。

 

 彼女という存在は『書紀』では「神功皇后」に投影されているわけですが、「神功皇后」の治績は政治的軍事的領域に亘っており、単なる「霊的能力」を持った人物という範疇を超えています。これは明らかに「卑弥呼」とは異なるものです。「卑弥呼」の能力は実生活や実際の政治には関与しなかった、というよりできなかったことを示唆するものですが、それは彼女の身体的能力に何らかの欠陥があったという可能性につながるものと思われます。またそれだからこそ「佐治國」しているという「男弟」の存在が大きかったものと推量されるわけです。

 

 この「鬼道」はその後「宗女」である「壹與」に受け継がれますが、この「壹與」も「13歳」(二倍年暦とすると6歳強)と「幼少」であり、「共同体」の実生活上ではほとんど「役に立たない」人物ですから、その意味でも「霊的存在」として畏敬の念を持たれていたとも思われます。

 このことは「実生活」において有用な仕事のできるような人物は「霊的能力」については周囲からその能力を認められていなかったという可能性が考えられ、そのことと「卑弥呼」の死後「男王」が立ったものの周囲の賛同が得られず争乱となったということの間には関係があると思えます。
 その人物は(その時点では必須であった)「霊的能力」を認められず、「祭祀」の主宰者としての地位に疑問符が付けられたものと思われます。そのため「壹與」が選ばれたというわけでしょう。

 このことはまた「男弟」の存在の理由にもつながります。「卑弥呼」や「壹與」が「霊的能力」に突出して統治の実務能力が欠如していたとすると誰かが補佐しなければならなくなるのは必然ですから、「男弟」がそれをカバーしていたというのはそのような推察が正しいことを示すと共に、逆に「男弟」が自分の思うような統治を行おうとすると「実務能力」に欠ける人物が前面に立っていた方がやりやすいというのもまた当時の事情からは考えられるところです。つまり「男弟」の側の事情から「実務能力」のない人物があえて選ばれているともいえるかもしれないわけです。(それは当然民衆の支持に沿っている形であるところがミソであるわけですが)
 

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卑弥呼と鬼神信仰

2015年12月08日 | 古代史

 「卑弥呼」の行っていた祭祀については『倭人伝』の中では「鬼道」と呼ばれており、このことから「卑弥呼」は「鬼神」を祀る祭祀を行なっていたのではないかと考えられます。
 『三国志』の中で同様に「鬼道」という名称が使用されているものに、「道教」の一派である「五斗米道」があります。(以下の記事)

「張魯字公祺,沛國豐人也。祖父陵,客蜀,學道鵠鳴山中,造作道書以惑百姓,從受道者出五斗米,故世號米賊。陵死,子衡行其道。衡死,魯復行之。益州牧劉焉以魯為督義司馬,與別部司馬張脩將兵?漢中太守蘇固,魯遂襲脩殺之,奪其?。焉死,子璋代立,以魯不順,盡殺魯母家室。魯遂據漢中,以『鬼道』 教民,自號「師君」。其來學道者,初皆名「鬼卒」。受本道已信,號「祭酒」。各領部?,多者為治頭大祭酒。皆教以誠信不欺詐,有病自首其過,大都與?巾相似。諸祭酒皆作義舍,如今之亭傳。又置義米肉,縣於義舍,行路者量腹取足;若過多, 『鬼道』輒病之。…」(『三國志/魏書八 二公孫陶四張傳第八/張魯』より)

 「五斗米道」とは「後漢」の順帝のころ(一四二年)四川省成都の郊外(蜀の国)で「張陵」という人物が「太上老君」よりお告げを受けた、と言い出したことに始まり、その後「張衡」「張魯」と計親子三代にわたり教団を組織し、強大な軍事力を保持するようになったものであり、これがいわゆる「三張」道教と呼ばれているものです。その後彼らは「魏」の「曹操」に軍事力を剥奪され無力化されたものです。(二一五年)
 この時代に「魏」などでは「儒教」が正統と考えられていました。そのため「道教」やその一派である「五斗米道」などは基本的には「魏」や「西晋」から見ると「異端」的なものであり、そのため「鬼道」という用語を使用する動機となっているものと考えられます。そういう意味において卑弥呼の「鬼道」というものが、「原始道教的」意味合いを持っていた可能性は高いでしょう。

 この「五斗米道」や「太平道」などに共通なことは「鬼神」信仰であり、その「鬼神」特に「鬼」とは「死者」を指すものでした。このような「土俗的信仰」は「江南地方」に淵源を持つものと思われ、南方的であることが推察されます。
 また、「倭」の各国は朝鮮半島に勢力を張っていた「公孫氏」が「後漢」に非協力的(「公孫淵」に至って反旗を翻した)であったため多年にわたり朝鮮半島を経由しての「漢」(魏)との交流は閉ざされていて、南方の「蜀」や「呉」との交流に偏っていたものと考えられ、「五斗米道」についてもその方面から直接情報が伝わっていた可能性があるものと考えられています。
 ただし、「卑弥呼」の「鬼道」はより原始的であり、祭儀には「血食祭祀」を行っていたと思われ、「五斗米道」とも違うそれ以前の世界に類するものであったとみられます。それは古田氏が指摘したように「卑弥呼」の「呼」が「生け贄に傷をつける行為」を指す語であるとすることからも言え、そのことから「卑弥呼」の儀式の内容が示唆されます。それに対し後に「五斗米道」を継承した「天師道」では動物を犠牲とすることを強く批判している事実があります。

 また、ここで言う「鬼」とは基本的には「死者」のこととされるわけですが、その意味では「卑弥呼」は「巫覡」と呼ばれる立場であったと思われ、彼女は「倭王権」の長として「鬼」や「神」と意志を交通させていたものであり、それは単なる「祖先祭祀」とは異なり、数多くの「先人達」が対象であったと思われ、彼らの「意志」をその時点の「邪馬壹国」以下の諸国の置かれた厳しい状況(具体的には「疫病」の蔓延であったと思われます)に反映させることを目的として儀式を執り行っていたものでしょう。そのような重要で古典的な儀礼には「神聖性」が欠けている「鏡」が使用されることはなかったものであり、そのような場では「玉」が使用されていたものと思われます。
 「玉」は「周代」以来「中国」で重要な儀礼にしか使用されない「神聖」な祭器であったものであり、「周」の官職(大夫)を名乗っていたと思われる「卑弥呼」の「倭」でも当然「玉」が祭器として使用されていたと考えられることとなります。
 これに対し「五斗米道」などでは「鏡」が「祭祀」の際に用いられたという意見もありますが、それが正しいとしても、「魏」の皇帝からの下賜品が「鬼道」の「祭祀用」としてのものではないことは自明でしょう。
 「卑弥呼」の「鬼道」が「五斗米道」の流れを汲むものであるとすると、それは「魏」では「邪教」と考えられていたわけであり、その様なものを「卑弥呼」が信仰していたとしても、それに対しその「祭祀」のために「皇帝」が器物を贈るということが行われたとは考えられないからです。
 あくまでも「卑弥呼」の私的な好物としての「鏡」を下賜したものであり、それは「化粧」材料と思しき「眞珠、鉛丹各五十斤」が同時に下賜されていることでもわかると思われます。

 また、この当時中国では「銅鏡」はいわば「縁起物」であり、その特徴として「銘文」の存在があります。そこでは「現世利益」「不老長寿」あるいは「神仙世界」への誘いというような文が選ばれ、「鏡」としての実用性の他「実生活」を豊かにする呪術として室内の要所に飾られていたものと思われます。つまり「卑弥呼」への「鏡」にも必ず「銘文」が書かれていたと思われますが、最も可能性のあるものは「不老長寿」を言祝ぐものであり、「延年益寿」「受長命寿萬年」というようなもの(これらは実例があります)が「銘文」として書かれていたと言うことが考えられます。それは「卑弥呼」がこの時点でかなりの高齢ではなかったかと考えられる事からもいえるでしょう。

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