古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

大宮姫伝説について

2018年05月20日 | 古代史

 薩摩に伝わる伝承として「大宮姫伝説」というものがあります。(以下は古賀達也氏の研究(※)に準拠します)
この話の概要は以下のようなものです。

 「孝徳天皇」の白雉元年庚戌の年に開聞岳の麓で生まれた姫は二歳の時入京し、十三歳で「天智天皇」の妃となりましたが、訳あって都を追われ開聞岳に帰って来ました。
「天智十年」辛未の年(通常六七一年とされる)、「天智天皇」がこの地にやって来られそのまま当地に残り慶雲三年(七〇七年)まで存命し七十九才で亡くなられ、後を追うように大宮姫は和銅元年(七〇八年)に五十九歳で亡くなられた、というものです。
 
 この伝承は常識とされていることと大きく異なる部分があります。第一に『書紀』には天智天皇にそのような姫の存在が記されていません。また、死亡年次も年齢も異なっています(天智天皇より三才年上になる)。薩摩に行った、という伝承もないのです。しかし、既存の知識と大きく衝突する地点には何かの真実の反映があるものと考えられ、頭から無視するのは科学的態度ではないと考えられます。

(開聞古事縁起)天智天皇十年(六七一年)辛未十二月三日大長元年、都を出て太宰府へ着く。その後、薩摩へ行き大宮姫と再会。
(書紀)天智天皇十年(六七一年)十二月癸亥朔乙丑(三日)天皇崩于近江宮。…十二月癸酉(十一日)殯于新宮。

 この伝承によれば「天智天皇」は天智十年に薩摩の地に来たことになっていますが、「日付」を見ると、『書紀』の「日付」と関係しているのがわかります。
 「太宰府到着」とされる「天智十年十二月三日」という伝承の日付は、『書紀』の「天智天皇」の死去した日付と同じなのです。
 つまり、死亡したとされている日時には「太宰府」に「到着」していることとなりますが、「近江」では「十一月二十三日」に「大友皇子」等による「血盟」が取り交わされており、それは「筑紫」から「薩夜麻」が「唐」の使者(というより「軍」)を伴って帰国したという知らせを受けたことに対する行動としては、「時間的」な部分では不自然ではありません。この当時「山陽道」はすでに完成していたと思われ、それを使用して連絡のため「早馬」が来たとすると「二週間」は充分に長いといえます。

 この直後の「壬申の乱」では「官道」を使用する権利を表す「駅鈴」を渡すよう「倭京」の「留守司」である「高坂王」に「大海人側」の使者が要請する場面が出てきます。この事でわかるように、このときすでに「筑紫と「難波」の間、あるいは「難波」から「東国」につながる「官道」と「駅馬」の制度が整備されていたとみるべきですが、「八世紀」段階の史料を見ると「山陽道」には「五十一駅」あり、これに「筑紫」周辺の十一駅と加え六十二駅あったと考えられます。『養老令』では「緊急」の場合(これは「海外から邦人が帰国した場合など」も含むとされています)「早馬」の使用が認められていたものであり、その場合は「一日十駅」の移動を認めていますが、これであれば「筑紫」~「難波」の移動に必要な日数は「一週間」程度ではなかったかと考えられます。(また実距離としても一日40km程度の行程を考慮すると「馬」に乗れば問題なく移動可能と推量されます。)
 これに関しては、『扶桑略記』(平安時代末期に僧「皇円」によって書かれた書)の記載が注目されます。

「一云 天皇駕馬 幸山階郷 更無還御 永交山林 不知崩所《只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害》」

 つまり、「天智天皇」は馬に乗って山階(山科)の里へ出かけたが還らず、亡くなったところもわからなかったので、「沓」(靴)が見つかった所を「山陵」としたというのです。
 このような伝承は「天智」が「馬に乗って行った」しかし「還ってこなかった」という事実を「内包」していると考えられ、「薩耶麻帰国」の報に接し、急遽「筑紫」へ「馬」で出かけていったことを指し示していると思われます。

 この時「天智天皇」が「筑紫」に向かった理由を考えてみると、彼は帰国した「薩耶麻」と「唐」の使者「郭務悰」を「歓迎」するために向かったのではないかと考えられます。「筑紫君」という高位の人物が帰国したのを歓迎しなかったはずがなく、また彼に伴って「二千人」という多数の「外国人」が来たからにはこれを「表面上」はともかく歓迎しないということはあり得ないからです。少なくとも「太宰府」では「我が君」の帰国を歓迎したことでしょう。この「薩夜麻」の帰国、という事態に対して「天智」が素早く対応しようとしたことが窺えるわけです。「薩夜麻」はそれほどの「重要人物」であったものであり、それは「唐」の使者(というより「軍」)を伴っているという点でさらに印象として増強されたものと推察されます。

 このように「大宮姫伝説」に従えば、「天智」は帰国した「薩夜麻」に「面会」に行ったものと思われるわけですが、想像ではそこで「日本国」を創始し、「天皇位」についたことを「詰問」されたのではないかと思われます。これに対し「天智」は従順の姿勢を示したのではないでしょうか。
 彼は、「薩夜麻」が「唐」から帰国することはない、あるいはもっと先のことと思っていたのかもしれません。そのため、天皇位を空白にしているよりは自分が即位してでも国内の人心を収攬しようと考えたと思われ、そのことを「薩耶麻」に「説明」ないしは「申し開き」したのでしょう。しかし、本来の「倭国王」が帰国したとすれば、それを重視し尊重するつもりでいたように思われます。自ら身を退くことで、事態を沈静化しようとしたと推察され、結果、彼は「薩摩」に引きこもることとなったものか、あるいは「流罪」になったかと思われるのです。
 「死罪」を免れたものと考えられるのは、(『書紀』によると)「天武」は「天智」の娘四人を妻にしていることから判断できます。これは「天武」が「正統」な「倭国王」であり、彼が「薩夜麻」と同一人物であるとすれば、彼が帰国後、「天智」が「彼」に対して恭順の意を示し、その証しとして「娘」を「妻」として差し出して「許し」を請うたと考えれば納得がいきます。
 『書紀』や『古事記』では「謀反」など重い罪に問われた場合「妻」や「娘」を没収された上「死罪」にされるという場合と、「死罪」は免れる場合とがあり、この場合は後者であったのではないでしょうか。
 またここで「死罪」が適用されていないのは「天智」に対する「隠然」たる支持が東国を中心に遺存していたからではないかと考えられ、それを沈静化させる意味でも「極刑」は適用しなかったと推測されるものです。(それは壬申の乱の際にも東国からの勢力を防いでいることからも明らかです)  彼は「唐」の軍事力を目の当たりにして「無力感」に襲われたということもあるかもしれません。「大友皇子」達には「厳格な遺詔」を残してきていたとは言え、実際に「唐」(と今は敵となった「百済」)の軍勢を見て、色々思いをめぐらした結果自分を捨て石にする気持ちとなったものと思われます。


(この項の作成日 2011/01/20、最終更新 2017/04/23)(ホームページ記載記事に加筆)

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手に香廬を持っての誓いとは

2018年05月20日 | 古代史

 『書紀』には「薩夜麻」の帰国記事の直後に以下の記事があります。

「天智十年(六七〇年)十一月丙辰(二十三日)。大友皇子在内裏西殿織佛像前。左大臣蘇我赤兄臣。右大臣中臣金連。蘇我果安臣。巨勢人臣。紀大人臣侍焉。大友皇子手執香鑪先起誓盟曰。六人同心奉天皇詔。若有違者。必被天罸。云々。於是左大臣蘇我赤兄臣等手執香鑪隨次而起。泣血誓盟曰。臣等五人。隨於殿下奉天皇詔。若有違者。四天王打。天神地祇亦復誅罸。卅三天證知此事。子孫當絶。家門必亡。云々」(『天智紀』より)

 ここでは、「大友皇子」が「右大臣」「左大臣」など重要閣僚を集め、「泣血誓盟曰」をしていますが、そこには「天智」が存在していません。
 また、ここで彼らが行った、「天智」の「詔」を互いに奉じる事を確認するために行った「誓いの儀式」は、はなはだ「異例」であり、これは「手に香廬を持って」、と表現されているように「天智」が死去したか、すでに死を覚悟して「近江」を離れたかどちらかの状況であったと考えられ、「大友皇子」に何らかの「遺詔」を残していったものと推察されます。

 ちなみにこの「儀式」については仏教的誓約の作法であり、重要な内容の誓約を行う場合に行われる性質のものであったようです。
 この儀式の淵源は『大方便佛報恩經』という経典にあると思われます。そこでは「善友太子」が「如意(摩尼)寶珠」を得た際にやはり「手に香廬」を持ち「立って」「誓願」しており、これがその後の「「誓願」あるいは単に「願」を立てる際のとるべき作法となったものではないでしょうか。 
 
爾時善友太子於月十五日朝,淨自澡浴,著鮮淨衣,燒妙寶香。於高樓觀上,『手捉香爐,頭面頂禮摩尼寶珠,立誓願言』:「我為閻浮提一切眾生故,忍太辛苦,求是寶珠。」爾時東方有大風起,吹去雲霧,虛空之中皎然明淨,并閻浮提所有糞穢、大小便利、灰土、草莾,涼風動已,皆令清淨。…」(大方便佛報恩經七卷/卷四 惡友品)

 この「大方便佛報恩經」は特に「北朝」で流布していたものであり、日本神話の『海幸彦・山幸彦神話』に深い影響を与えたとされますが、それが「七世紀」の倭国王権の中枢で信仰されていたとして不自然とはいえません。 
 これを承けたものとしては、たとえば『藤氏家伝』には以下のような文章があります。

「…。故賜純金香爐、持此香爐、如汝誓願、従観音菩薩之後、到兜率陀天之上。日々夜々、聴弥勒之妙説。朝々暮々、転真如之法輪。…」(『藤氏家伝』上巻)

 ここでは「天智」より「純金の香爐」を下賜しそれを用いて「請願」するように「弔辞」(誄)を呈しています。
 さらに『法隆寺伽藍縁起並びに資財帳(西院資材帳)』にも「許世徳陀高臣」が「香炉」を手に「撃ち」、誓約している情景が描写されています。

「…天皇大化三年歳次戊申九月二十一日己亥許世徳陀高臣宣命為而食封三百烟入賜《岐》又戊午年四月十五日請上宮聖徳法王令講法華勝鬘等経《岐》其義如僧諸王公主及び《臣》連公民信受無不喜也講説竟高座《尓》坐奉而大御語《止》為而『大臣《乎》香爐《乎》手撃而誓願《弖》事立《尓》白《之久》』七重寶《毛》非常也人寶《毛》非常也是以遠《岐須売呂次乃》御地《乎》布施之奉《良久波》御世御世《尓母》不朽滅可有物《止奈毛》播磨国依西地五十万代布施奉此地者他人口入犯事《波》不在《止》白而布施奉《止》白《岐》…」

 ここでは「大臣」(許世徳陀高臣)が「上宮聖徳法王」の講説を聞いた後「香爐」を「手撃」しながら「誓願」し「事立」ています。
 また(後代ではありますが)『宋史紀事本末』(明代に書かれた歴史書)の卷六「平江南」の中に以下の記事があります。

「…一日,彬忽稱疾不視事,諸將皆來問疾。彬曰「某之疾非藥石所能愈,惟須諸君誠心自誓,以克城之日,不妄殺一人,則自愈矣」『諸將許諾,共焚香為誓。』明日,彬即稱愈。…」(『宋史紀事本末』卷六平江南」より)

 ここでは(北宋の)皇帝からの「むやみに人を殺すな」という「殺戮禁止」を諸将が守るのかを問われ、諸将がそれを「香を焚いて誓った」ので、それを受け入れたとされており、ここでも「誓う」ために「香を焚く」という作法が行われています。これはまさに『天智紀』の「大友皇子」と諸臣による「香炉」を手にしての「血の誓約」と同義の儀式であると思われます。
 また『三国史記』においても「新羅」に初めて仏教を伝えた「墨胡子」という人物に「王女」の病気を占ってもらったシーンでやはり「焚香表誓」しています。

「(法興王)十五年 肇行佛法 初訥祇王時 沙門墨胡子 自高句麗至一善郡 郡人毛禮 於家中作窟室安置 於時 梁遣使 賜衣着香物 君臣不知其香名與其所用 遣人香問 墨胡子見之 稱其名目曰 此焚之則香氣芬馥 所以達誠於神聖 所謂神聖未有過於三寶 一曰佛 二曰達摩 三曰僧伽 若燒此發願 則必有靈應 『時王女病革 王使胡子焚香表誓 王女之病尋愈 王甚喜 餽贈尤厚』…」

 これら以外にも(当然のように)誓約をするようなシチュエーションはあるわけですが、必ず「香焚」という作法を行うわけではなく、こと「仏教的」な雰囲気の中での作法であり、特に仏教に深く傾倒している人がその中心人物である場合に行わせるようです。
 このように重要な誓約を行う際に「天」にいる「仏」に対する儀礼として「香を焚く」「香廬を手に持ち立つ」という儀礼が要求されていたものと思われるわけです。さらに「大友皇子」達の場合は「血盟」も行われており、厳格さにおいて比類なきものであったことが窺え、ここで誓われた約束は「死」を賭して守るべきものとされていたことが判ります。それほど重要な「詔」を「天智」が残していったとするなら、それは何があっても「近江朝廷」を守り、「唐」の圧力に屈するなというものではなかったでしょうか。そのことが「壬申の乱」を誘発することとなったものと推量します。そのことから考えて、「天智」が最も恐れたのは「薩夜麻」というよりその背後の「唐」であったと思われ、彼等により「百済」の如く「侵略」されることを危惧したものと思われるわけです。

 「薩夜麻」が「対馬」に到着したことを「対馬」から「筑紫太宰府」へ知らせてきたのが「天智十年十一月十日」であったと思われ、「大友皇子」等の「泣血誓盟曰」はこの二週間足らず後のことです。これについては「山陽道」を使用して「早馬」により「筑紫」から「近江」へ知らせが来たものでしょう。これに対する「措置」というのが「泣血誓盟曰」というわけですから、その知らせが「天智」にとって破局的なものであったことは充分考えられるところであり、この知らせを受けた後早々に「天智」は「近江」を離れたものと考えられます。
 この後「十二月三日」に死去した、という記事になるわけですが、それはこの「泣血誓盟曰」からわずか「一週間後」の事であり、「天智」の運命に「薩夜麻」とその背後にいる「唐」が深く関わっていると考えるのは当然と言えるものです。


(この項の作成日 2011/01/16、最終更新 2017/09/30)(ホームページ記載記事に加筆)

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「薩夜麻」の帰国と近江朝廷

2018年05月20日 | 古代史

 「六九〇年」に「大伴部博麻」が帰還したときの「持統天皇」の詔によると、彼が捕虜になったのは「斉明七年の百済を救う役」となっており、これは通常「六六一年八月」に出兵した「阿曇比邏夫」等が率いる遠征軍を「百済」に派遣した際の戦闘と思われていますが、この戦いは「百済」が「唐」と「新羅」の連合軍により包囲され、壊滅的打撃を受け「滅亡」することとなった時点の「直後」を意味するものと考えられ、この時の戦いで「大伴部博麻」が捕虜になったとされているわけですが、「詔」では彼と一緒に「薩夜麻」など四人が同じ場所にいたとされていますから、彼らもこの時点で「捕虜」となったという可能性が示唆されます。つまり、彼等は「白村江の戦い」で捕虜になったのではなく、その前々年にすでに「捕虜」になっていたのではないかと推察されるのです。

 『書紀』によれば「阿曇連比羅夫が軍船一七〇隻を率いて豊章を百済に送り『勅』して百済王位を継がせた」とあります。これは上に見たように『旧唐書』や『資治通鑑』の記載などから、「百済」滅亡後まもないことと推測され、「六六〇年」の「冬」であったのではないかと考えられます。そして、この『書紀』の記事から判断して、ここで「勅」するという用語が使用されており、そのようなことができるのは「倭国王」だけですから、このときは「阿曇連比羅夫」に同行する形で「筑紫君薩夜麻」が「軍船一七〇隻を率いて」「親征」したものと考えられます。(当然実際には彼が「大将軍」であったこととなるでしょう)
 以下その前後の事象を『書紀』により時系列に並べたものです。

「斉明六年」(六六〇年)七月または八月 唐・新羅の連合軍により百済滅亡
「斉明七年」(六六一年)八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。
「天智称制元年」(六六二年)夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。『而撫其背。』褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。

 この「天智称制元年」の記事の文章においては「場所」が書かれていませんが、明らかに「大極殿」における儀典の際の出来事と思われ、明確にこの場所に「倭国王」がいたとは書かれてはいないものの、「百済滅亡」という事態に際して、倭国王自身が「百済王子」である「豊璋」を母国に送る儀典に臨場して当然と思われます。
 「阿曇連比羅夫」は「筑紫君薩夜麻」直属の部下でありまた「盟友」であったと考えられ、彼らは共同してこの闘いに臨んだものと思われますから、彼が「倭国王」であるところの「薩夜麻」から全権を委任されていたとは思われますが、「豊璋」に対し「背中を撫でる」等のかなり立場の違いを示すような所作が「阿曇連比羅夫」に可能であったかは疑問です。このような所作は「倭国王」自身によるものではないかと思われますが、よく似た動作は「壬申の乱」の際に「天武」(当時「大海人」)が「高市皇子」に対して行っています。

「…既而天皇謂高市皇子曰。其近江朝。左右大臣及智謀群臣共定議。今朕無與計事者。唯有幼小少孺子耳。奈之何。皇子攘臂按劔奏言。近江羣臣雖多。何敢逆天皇之靈哉。天皇雖獨。則臣高市頼神祇之靈。請天皇之命。引率諸將而征討。豈有距乎。爰天皇譽之。『携手撫背曰。』愼不可怠。因賜鞍馬。悉授軍事。皇子則還和斬。…」(天武紀)
 
 このような所作は「倭国王」ならではであり、決して「阿曇比羅夫」のレベルの人間が行う事ではありません。「倭国王」が直接「豊璋」等百済の諸将を激励したわけであり、それは「倭国王」自身が先頭に立って「百済」と共同行動をとる意思を示したものといえるでしょう。
 「阿曇比羅夫」は「倭国王」のそのような意思を体して行動していたものであり、「百済を救う役」では「前軍」の大将としていわば「切込み隊」のような役目を負って、自ら戦地へと赴いたのですが、それは同じように先頭を切って戦いに参加した「倭国王」である「薩夜麻」をサポートするためであったと思われます。(すでに見たように「大海人」は「凡海人氏」が「壬生」であったものであり、その「凡海人氏」は「阿曇一族」でした。その「薩夜麻」は「筑紫君」とされており、「阿曇氏」は明らかに彼の配下(あるいは「同族」)であったと思われますから、「大海人」と「薩夜麻」に非常に共通した性格を感じるものであり、「薩夜麻」が軍の先頭に立ったとしたら「阿曇一族」がそれを強力にサポートしたと推定するのは当然といえます。しかし、結果的に戦いに負け、「薩夜麻」も捕虜にされてしまったわけです。

 その後「六七一年」になって「捕囚」の身となっていた「薩夜麻」が帰国します。そして彼の帰国が当時の倭国内に「激震」をもたらしたのは間違いないと思われます。

『書紀』では「天智十年十一月」に「薩夜麻帰国」の記事があります。

天智十年(六七〇年)十一月甲午朔癸卯。對馬國司遣使於筑紫太宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩夜麻。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務■等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。

(この時派遣された「唐使」以下の「六百人」は「唐人」であり、「送使沙宅孫登」以下の「一千四百人」は「百済人」と考えられ、いずれも「熊津都督府」から差し向けられた人員と考えられます。また先述したようにこれらの人員はほぼ全員「戦闘員」と考えられ、「平和目的」とばかりは言えないと考えられるものです。)
 この「薩夜麻」の帰国に関して「近江朝廷」からは何のコメントも出ていません。「六九〇年」に帰国した「大伴部博麻」や「八世紀」に入ってから帰国した人物など、この「白村江の戦い」や「百済を救う役」などで「捕虜」となった人物達の帰国に際しては「顕彰」する「詔」と共に「多大な褒賞」が与えられています。であるとすれば、帰国した「薩夜麻」にも同様に「褒賞」なりが与えられたり、その長期の「捕囚生活」をねぎらう「詔」が発せられても良さそうなものですが、それらは「全く」記載されていません。
 「百済を救う役」及びそれに続く「白村江の戦い」で捕虜になった人物で「君」の称号で呼ばれるような「高位」の人物の帰還はこの時点では(以後も)彼が唯一の存在です。であれば「王権」がその帰国を歓迎しないのはあり得ないものと思われます。しかし『書紀』では「一切」それらについては触れられていません。しかし「何も記載されていない」事が「薩夜麻」に対する「ただならぬ」扱いを示すものでしょう。
 そもそも「大伴部博麻」が「顕彰」された最大の理由は「薩夜麻」等に対する「献身」であったと思われる訳ですが、その対象がただの人などではなかったことが重要であったわけであり、その「献身」の対象が「至高の存在」であったことが「博麻」を高く顕彰することとなった最大の理由であったと思われる訳です。つまり「持統」の判断としては「博麻」が「献身」した事により「薩夜麻」の意図が「倭王権」に届いたというわけであり、そのことにより「倭国」と「倭王権」が維持できたというわけではなかったでしょうか。そのような国家危急に際し「身体」を張って貢献したことが「希有」な事であるとして特に「詔」を出し、またそれを『書紀』に特記する(させる)こととなった理由であると思われる訳です。

 『書紀』には何も記載されていないわけですが、実際にはこの時「天智天皇」は「筑紫」に「薩夜麻」を歓迎するために「本人」が直接「筑紫」へ向かったのではないかと思われます。少なくとも彼の帰国を無視して、何の意思表示もせず「近江」に居続ける事はできなかったでしょう。そしてそれは「天智」にとって厳しい現実となるであろう事が予想できたものと推量されます。それを示すと思われるのが、「帰国記事」の「直後」の記事である、『書紀』の十一月「丙辰」(二十三日)と思われる条の記事です。

「天智十年(六七〇年)十一月丙辰。大友皇子在内裏西殿織佛像前。左大臣蘇我赤兄臣。右大臣中臣金連。蘇我果安臣。巨勢人臣。紀大人臣侍焉。大友皇子手執香鑪先起誓盟曰。六人同心奉天皇詔。若有違者。必被天罸。云々。於是左大臣蘇我赤兄臣等手執香鑪隨次而起。泣血誓盟曰。臣等五人。隨於殿下奉天皇詔。若有違者。四天王打。天神地祇亦復誅罸。卅三天證知此事。子孫當絶。家門必亡。云々」

 ここでは、「大友皇子」が「右大臣」「左大臣」など重要閣僚を集め、「泣血誓盟曰」をしていますが、そこには「天智」が存在していません。
 また、ここで彼らが行った、「天智」の「詔」を互いに奉じる事を確認するために行った「誓いの儀式」は、はなはだ「異例」であり、これは「手に香廬を持って」、と表現されているように「仏教儀式」としては厳格さを要求されるものであり、形式的には「仏」として天上界に生まれ変わった「天智」に対して「誓約」したものと思われるわけです。このことは「天智」か実際に死去したか、すでに死を覚悟して「近江」を離れたかどちらかの状況であったと考えられ、「大友皇子」に何らかの「遺詔」を残していったものと推察されるものです。


(この項の作成日 2011/01/16、最終更新 2017/09/30)(ホームページ記載記事を転記)

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「天武朝期」「難波京」説に対する反論(二)

2018年05月20日 | 古代史

 『孝徳記』の示す難波宮が正しいのか、それとも『天武紀』の「難波副都」記事が正しいのか「考古学」の成果を援用して主張が繰り広げられていますが、しかし記事内容的には『天武紀』において「難波宮」に幸したり遷宮したりした形跡がないのに対して、『孝徳紀』にはそれが存在します。またそこに「伊勢王」という同一と思われる人物が活躍しているわけですが、その『孝徳紀』と『天武紀』の間の『斉明紀』にその「伊勢王」の死去記事があります。これらは『書紀』が持っている「矛盾」を表すものですが、死んだはずの人間が葬儀を取り仕切っているように見える「天武紀」により多く疑いの目が向けられて当然ともいえます。
 このように『書紀』だけをみていると『天武紀』以前に「難波宮」が存在していて当然と思えます。しかしことはそう簡単ではありませんから、この二つの時期の記事についてどちらが真なのかについては多角的に検討する必要があります。
 また、この二つの時期の「難波宮」を「重出」と見る事もできるかもしれません。『書紀』には他にも「重出」と思しき記事があります。但し一般に記事の「重出」は先に出てくる方が「真」であり、後出する方が「偽」であるのが原則です。たとえば『書紀』では『応神紀』と『雄略紀』に「呉」からの「幡織女」がもたらされた記事がありますが、これは種々の理由から「五世紀初め」の「応神」の時代の事と考えるべきであり、『雄略紀』の方が「偽」と考えるのが妥当です。また『敏達紀』と『欽明紀』では「仏教」の受容に関して「蘇我」と「物部」との対立が「親子」二代にわたって書かれていますが、これも実際にはほぼ「重出」とみられており、これについては「天然痘」をキーワードとして「四寅剣」と「金光」年号との関連及び善光寺と『請観音経』などのからみからも『欽明紀』が「真」と考えるべきと思われます。さらにその「重出」の理由としては「遣隋使」記事との関係で『敏達紀』に相当する期間が「空白」となったためのやむを得ない対応ではなかったかと思われますが、これらから帰納して「難波宮」の年代を考えると、『孝徳期』の記事が本来であり、『天武紀』記事が重出であったという可能性が高いと思料します。

 さらに「難波宮」を「天武朝期」とすると矛盾があるというのは、その等の「天武」の死去に関連した記事中に以下の記事があることでもわかります。それは『書紀』にその「天武」自身の死去を「新羅」に知らせるために使者を派遣した際に正当な取扱をされなかったとして「新羅」からの「弔使」を詰問する場面です。その中には「在昔難波治天下天皇」の「死去」に際して「喪使」として伝える使者として「田中臣法麻呂」という人物が派遣された時、新羅では「翳餐」の地位にあった「金春秋」が「宣」を「奉勅」したとされており、ここでは「難波治天下天皇」の治世が「金春秋」の新羅王即位以前のこととして書かれていることとなります。(これに関しては以前『「本朝」と「天朝」』というタイトルで『古田史学会報』「一一九号及び一二〇号」の中で触れました。)
 このことから「金春秋」は「六五四年の春」には新羅王に即位していたと思われ、「翳餐」という地位で「難波治天下天皇」の「喪」を「奉勅」したというのは、当然のこととしてそれを遡る時期のこととなりますが、このことは必然的に「難波宮」そのものが「七世紀半ば」を遡上する時期に存在したこととならざるを得ないものです。(「難波宮治天下」とされていますから「難波宮」の存在が前提なのは当然です。)
 更にこの記事は以下の『書紀』の記事にも影響を与えるものであり、その本来の時期がもっと遡上する可能性を示唆します。

「(六四七年)大化三年…是歳。…新羅遣上臣大阿餐金春秋等。送博士小徳高向黒麻呂。小山中中臣連押熊。來獻孔雀一隻。鸚鵡一隻。仍以春秋爲質。春秋美姿顏善談咲。…」

 ここでは「金春秋」が「上臣」である「大阿餐」として倭国にやってきて、さらに「質」となったとされます。この記事は『三国史記』とは整合しませんが、『三国史記』は『旧唐書』等の「中国資料」を参照していますから、これは『書紀』と「中国資料」との不整合でもあります。
 ここではこの時の「金春秋」の肩書きが「大阿餐」であったとされますが、下に見るように『三国史記』によれば「六五〇年」の段階で「伊餐」であったようです。

「(善徳王)十一年(六五〇年) 春正月 遣使大唐獻方物 秋七月 百濟王義慈大擧兵 攻取國西四十餘城 八月 又與高句麗謀 欲取党項城 以絶歸唐之路 王遣使 告急於太宗 是月 百濟將軍允忠 領兵攻拔大耶城 都督伊品釋 舍知竹竹・龍石等死之 冬 王將伐百濟 以報大耶之役 乃遣『伊餐』金春秋於高句麗」

 これらに従えば三年ほどで「大阿餐」から「伊餐」まで昇格したこととなってしまいますが、「大阿餐」と「翳餐(伊餐)」は三段階その官位のランクが違うものであり、どこかの時点で特進したという可能性もあるものの、普通に考えれば毎年一ランクずつ昇格したこととなり、これは少々考えにくいものです。
 彼の死去時の年齢や出自から考えても「大阿餐」となったのはもっと以前の話ではなかったかと考えられ、『書紀』の記述には疑問を感じます。そうであれば、「昔在難波宮治天下天皇」の「喪之日」を「翳餐」である「金春秋」が「奉勅」したというのは「六四七年」以前から以降「六五三年」までの間が最も考えられるものです。そしてこの年代時点で「難波宮」は存在していたということにならざるを得ないわけです。
 これらのことは『書紀』において「七世紀代」の記事のいくつかについては明らかに本来の年次から移動されていると推定される事を意味し、それは『天武紀』の各種記事に顕著であるように思われることとなります。

 また「聖武天皇」の「難波行幸」に供奉した笠朝臣金村の以下の歌からも「難波宮」が「長柄宮」でありそれは「味經原」に存在していたことが強く覗われます。

(『万葉集』巻六第九二八番歌)(原文)忍照  難波乃國者  葦垣乃  古郷跡  人皆之  念息而  都礼母無  有之間尓  續麻成  長柄之宮尓  真木柱  太高敷而  食國乎  治賜者  奥鳥  味經乃原尓  物部乃  八十伴雄者  廬為而  都成有  旅者安礼十方

(読み)おしてる  難波の国は  葦垣の  古りにし里と  人皆の  思ひやすみて  つれもなく  ありし間に  続麻なす  長柄の宮に  真木柱  太高敷きて  食す国を  治めたまへば  沖つ鳥  味経の原に  もののふの  八十伴の男は  廬りして  都成したり  旅にはあれども

この歌は神亀二年十月十日聖武天皇が難波へ行幸した際に同行した際の歌とされます。

「(神龜)二年(七二五年)…冬十月庚申。天皇幸難波宮。」(『続日本紀』より)

 ここでは確かに「味經乃原」に「長柄宮」があったものであり、「聖武」の「難波宮」はまさにその位置にあったとされるわけです。遺跡の発掘からも「前期難波宮」の中に正確に収まるように「後期難波宮」は造られているとされます。これらから考えて、「難波宮」は「味経宮」と言いうるものであり、それはまた「長柄宮」でもあったと見るべきこととなり、それらは「前期難波宮」と現在私たちが呼んでいる上町台地の最標高の場所にあったこととなります。そしてその「難波宮」そのものについて上に見るように七世紀半ばを遡上する可能性を考えるべき事となるわけです。

 そもそも「考古学」の成果と言っても「土器」「瓦」などの「編年」は(いわゆる「飛鳥編年」も「難波編年」も)結局『書紀』とリンクしている点では違いがなく、たとえば「飛鳥編年」では「藤原宮」から出土する「土器」や「瓦」なども「基準」とされていますが、その年代としては『書紀』の記述を信憑しているようです。しかし、その『書紀』が記事重出などの「不定性」を抱えているとすると、双方の「編年」共根本の基準が揺らぐのは避けられません。しかも「藤原京」は「下層条坊」(先行条坊)があり、また「大極殿」の建設時期が当初より大幅に遅れたことも推定されています。これらのことは「飛鳥編年」についても「難波編年」についてもその基準が基準として耐えうるものなのかが問われる状況であり、そこを明確にしない限り「時代推定」は揺れ動くこととなります。

 以上のことなどから、「前期難波宮」が『天武紀』(六七〇年代)に建設されたと考えることはもちろん、定説の「六五〇年代」というものについても甚だしく疑問を感じるものです。

(「古田史学会報一一七号」に大下隆氏の文章が載っており、これについての反論を以下に記します。(若干順不同となっています))

一.「難波津」が上町台地上になかったとされ、『上町台地は谷が多く、『孝徳紀』に描かれた小郡、大郡、味経宮、高麗館、三韓館、などの外交の館を造るスペースも全くないことも判ってきました』とされるが、「前期難波宮」そのものが「上町台地」に「谷」を埋めて作られていることを考えると、これは有効な反論となっていないと考えられます。
 発掘調査によっても「難波宮」下層からは幾世代にも亘る遺跡が確認されており、またそこからは「須恵器」の窯跡が確認されていて、それはそのようなものに対する需要が至近にあったことを示していますから、「難波宮」以前から「官衙」的建物が存在していたことを推定させるものとなっています。つまり「谷」が多いというような不利な条件は「絶対的」なものではないと言うことであり、「高所」「台地」というような条件の方が適地と考えられていた背景があると思われます。(その意味では「山城的」であるとみているわけですが。)
二.相変わらず復元された「古地図」を「一級史料」として扱っているようですが、すでに述べた理由により十年以前に作られたこの「古地図」が正確とはいえなくなっています。
三.同様に上に述べた理由により土器編年の基準点とその期間について相変わらず錯誤があります。上に述べたように「土器」は「前様式」と必ず「ラップ」(重なる)ものであり、その重ならない期間が「三十年」程度とされているのです。(全体としてはもっと期間が長くなるものと思われる)この「重なり期間」を無視することは出来ないと考えられます。また「杯B」様式が「七世紀後半」である、という「編年」そのものが「流動性」を帯びているのは上に記したとおりです。それは「藤原京」の完成時点にリンクさせているものであり、それが木簡などから「不動」のものではなくなっているのは周知の通りです。
四.同形式の「土器」(「瓦」も同様)が出た場合、必ず「時代差」があります。九州が先行しているのはそれ以前の全てについて共通であり、弥生時代から以降の各時代を通じて「強い権力者」の発生と共に「時代の位相」が同期する(つまり同時性が表れる)ようになり、そのような「強い権力」が継続しない場合(大抵そうなります)は「位相」がズレ始める(つまり同時性が失われる)と言うことを間欠的に繰り返していると見られます。「七世紀初め」時点以降「統一王権」が成立した後は「時間差」はほぼ消失したと思われますが、それらは例外なく「筑紫」発であり、それが「東側」へ伝搬するのです。(「前方後円墳」の終焉が典型的です。これも同様に西日本から東日本へ若干の時間差を以て伝搬しています)
五.難波宮は「掘立柱」に「板葺き」であったため「瓦」は出土しません。「瓦」が「宮殿」に使用されるのは「七世紀後半」に入ってからです。「瓦」は近傍の「窯」で焼かれるため、地域性を帯びがちです。これについては「大越氏」の「瓦編年」に関する議論が有用です。近畿の七世紀前半では「単弁蓮華文」しか見られませんが、これは「百済」-「高句麗形式」であり、「隋」の形式ではありません。「隋」からの直輸入である「複弁蓮華文」形式は同時期には「筑紫」にしか見られないのです。これを意図的に遅らせて、近畿より後出としようとしているのが従来の編年であり、それを唯々諾々と受け入れてはいけないと思われます。
六.「正木氏」の「三十四年遡上」研究に疑問を持たれていますが、少なくとも「白雉改元」記事に登場する「伊勢王」と「天武」の死去した際に登場する「伊勢王」との存在の整合をどうするかについて述べなければ有効な反論となりません。(別人という説もありますが、この両者の存在期間は僅かではありますが重なっており、そのような想定が不可能であることを示しています)
七.『日本帝皇年代記』の性格について「明確に『日本書紀』の影響を受けている三次資料です。」とありますが、そうは考えられません。『日本帝皇年代記』をよく見てみたらすぐ解ることですが、『日本帝皇年代記』の編者は現行の『日本書紀』を見ていないと考えられる点が多々見受けられます。(特に「壬申の乱」と「乙巳の乱」についてはほとんど書かれていません。『書紀』はこの二つを書くために編纂されたとさえいえるほどボリュームがあります。それが「欠落」しているのは、逆に「明確に『日本書紀』の影響を受けていない史料」といえると思われるぐらいです。その意味では「独立資料」ともいえ、「三次資料」と断言はできません。
八.また「鎮西」とは「大下氏」が言うような「近畿の権力が西にある九州を鎮める」という意味で使用されているわけではなく、これは「観音寺」を創建した「主体」としての用法であり、「大宰府」を表すものと見られます。この「鎮西」という用法は「観音寺」という用法(「唐の太宗」の「李世民」の「世」を諱んだもの)と共に、後世のものであることは間違いないものですが、(「鎮西」の初出は「天長四年」(八二七年)、「観音寺」の初出は「天長八年」(八三一年)と見られ、九世紀以降の呼称と推測されます。)これらのことは原初形としての『日本紀』『続日本紀』がこの時点まで存続していたことの徴証とも言えると思われます。
九.「相対論証」を否定されていますが、「直接証拠」において乏しい「古代史」において「相対論証」つまり「状況証拠の積み上げ」により、より確実性、蓋然性の高い論理を展開していくことは有力な方法であり、これを否定してはそもそも「古田史学」そのものが成立しない、どころか既存の古代史学全般が成立しないと考えられます。(「仮想」の重層とは意味が異なります。)
十.「須恵器」の編年において『「三百年間」に十五種ほどの様式が確認される』と言われていますが、これは実態と論理が逆立ちしており、そもそも「須恵器編年」の基準点と思われるのが「藤原京」であり、そこから遡上するのに各二十-三十年ぐらいを適用してそれが十五種あるので三百年になっているのです。その「三百年」が正しいかどうかは「古墳」から共出する「土器」(須恵器ではない)との整合から判定していますが、その「土器編年」がずれているとすると、「須恵器編年」もずれるほかありません。しかも起点としての「藤原京」の年代が実は流動的であることを考えると、編年として有効といいにくいのではないでしょうか。
十一.また大下氏のいうように「碾磑」と「水碓」は異なるものですが、正木氏の論はその違いを踏まえた上で「八世紀王権」の編纂者の見解をなぞった形で展開しており、これについては大下氏の批判は見当違いといえます。つまり「碾磑」と「水碓」を同一視しているのは正木氏ではなく『書紀』編纂者であり、『令義解』を編集した後代の学者や官人なのです。正木氏はそれを承知の上で書いているのです。その点について誤解があるようです。(ただし「碾磑」を「水碓」と異なるという点そのものには大下氏に同意します。当方も「水碓」はあくまでも「大粉砕用」の物であり「微粉末」を生成するものではないと考えています。なぜなら「製鉄」においては「微粉末」は必要ないからです。ただし、倭国では砂鉄からの製法が古典的であり、一般的であったようですから、それにこだわったという可能性もあり得ます。)


(この項の作成日 2012/04/13、最終更新 2017/07/23)(ホームページ記載記事を転記)

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「天武朝期」「難波京」説に対する反論(一)

2018年05月20日 | 古代史

 「前期難波宮」が「七世紀」中葉のいわゆる「孝徳朝」に造られたというのは定説になっていますが、それにも関わらず、以前より少なくない反論が提出されています。それは「難波宮」が造られたのは「天武朝」である、ないしは「天武朝」に「改修」または「整備」が行われているというものです。
 これらの考え方の従来からの根拠としていたものは『書紀』の『天武紀』の記載でした。そこには「副都制」の詔が書かれていて、また「難波宮殿」整備と考えられる記述があったからです。しかし、それが「正木氏」の研究により「三十四年遡上」すべき記事とされたことにより、その根拠を失ったわけですが、他方別の観点から同様に「天武朝」の難波宮殿建設を主張する論もあります。それは「大下氏」の論に代表されるものであり、「土器編年」及び「地勢学的」理由からのようです。

 すでにかなり時間が経過しましたが、考古学的調査(ボーリング等)が難波地域に対して行われました。それによれば「河内湖」と呼ばれる古い湖が現在の大阪市の大部分を占めていました。そして、その出口側に台地上に広がる地域として「上町」地域があったとされてきていたのです。「前期難波宮」も「四天王寺」(天王寺)も、その「上町」台地にあったものです。(実際にありました)これらの「遺跡」の年代の判定には「土器」その他の出土物からの判定に加え「戊申」と記された「木簡」の存在が重要視されてきました。この「戊申」は西暦で言うと「六四八年」にあたるものと考えられ、この「木簡」が決めてとなって、「七世紀中葉」という時代判定となったものです。
 この「木簡」は「難波宮」の北西部の「谷」を埋め立てた地形の場所から出土したものですが、「廃棄物」とおぼしきものの集積した場所であったようです。
 さらに同様に「北西部」の「谷」を埋め立てた付近で「水利施設」の遺跡が確認されており、この移設から出土した「樋」状の板材を「年輪年代法」により測定された結果「六三四年」伐採という結果が出されています。
 「伐採年代」が「建築年代」というわけではないのはもちろんですが、柱材などとは違い、「樋」はそもそも「乾燥」が厳しく求められるわけではないと考えられ、それほど長く「寝かせる」という必要性はなかったものと考えられるわけです。そうすると「木材」の実使用開始時期は「木簡」の示す年代に限りなく接近することとなり、それは即座に通常考えられている「孝徳朝期」である「六五〇年」付近をかなり遡上する時期に「難波宮殿」が造られたことを意味していると考えられることとなるでしょう。
 しかし、これらについては実は「七世紀後半」ではないかという主張が為されているわけです。

 先ほどの「ボーリング調査」等によれば、従来「陸地」と判定されていた「場所」が「水域」(湖ないし沼)であるとされたり、干潟が存在したと考えられる場所がまだ「海域」であったりしたとされています。
 また、出土した「土器」の編年について『書紀』との照合を取り止め、ないしは「無視」して、「土器」からだけで決めた場合、従来より数十年新しくなる、と言う論も出て来ています。これらに基づき「前期難波宮」の年代を「天武朝」の「六七〇年代」とする考えが提出されているわけです。これらの「論拠」は「一見」科学的であり、斬新であるようですが、以下の理由により、疑問を感じざるを得ません。

 一つには「ボーリング調査」に「津波」が考慮されていないのではないかと言うことです。「水域」と判断した理由として「海生生物」や「海底堆積物」の存在があると考えられるわけですが、ご存じのように「南海トラフ」に代表される「既知の地震」や「未知の地震」などにより、有史以来数多くの「津波」が発生し、それにより運ばれた「海生生物」の死骸などや「海底堆積物」が大量に列島各地の「陸域」に存在していると考えられるわけですが、「大阪」の地も同様に「津波」に襲われていたものと推測され(それは「江戸時代」の地震記録などからの推測できます)、ボーリング調査の結果の再検討が必要であると考えられます。
 また「地震」が発生すると広い範囲で(程度の多少はもちろんあるものの)「地盤沈降」を起こすことが知られており、「陸域」であったものが「水域」に変わってしまうような例も確認されていて、それらを十分考慮した調査であるか、再検証が必要ではないでしょうか。この「ボーリング調査」は「東日本大震災」よりかなり前に行われたものであり、地震専門家による「津波痕跡調査」という、専門的な見地からの調査ではないことが問題となると思われます。そのような専門的な見地からの調査によって初めて東北、北海道など各地で「海底堆積物」が「陸域」に存在することが確認されたものであり、それはほんの数年前のことなのです。それ以前の調査で、しかも「津波痕跡確認」という明確な目的を持った調査でない場合、その「徴証」を見落としたり、見誤ったりしている可能性が考えられます。つまり、既に「陸域」になっていた場所や地域であっても「水域」と判定された可能性が考えられるものであり、その点について、再検討が必要と思われるものです。
 「ボーリング調査」などのサンプリングによる調査は実は非常に難しく、層位の差の見分けが困難である場合が多いことと、大阪平野の場合は地域によりかなり変化に富んでおり、僅かな距離でも全く異なるサンプリング内容を示す場合もあるとされ、その解析や解釈は常に慎重である必要があります。

 また、「土器(須恵器)編年」はどのような方法論であったとしても、「人為」が入り込む余地があり、「木簡」という「準金石文」的存在(ほぼ第一次史料と思われる)が存在しているならば、それが指し示す事実に従うのが合理的と考えられ、「戊申」という年次の示す重みは非常に重要であると考えられます。
 また「土器(須恵器)」の変遷の「説明」として「白村江の戦い」が影響した可能性を論じられていますが、「対外戦争」により変化があったとすれば「渡来人」的要素が増加することと考えられ、「百済」からの亡命人が多数に上ったと推測されるわけですから、そのような兆候が見られた場合に始めて成立する仮説であると考えられますが、その点が明確ではありません。
 それよりは「難波宮」という「副都」が始めて成立し、各地から「勅命」により集められた多くの人々により「副都」が建設されたことを考慮すると、その時点で「土器」の大きな変化があって当然であり、この場合であれば「渡来人」的要素の混入というより、他の地域の土器との折衷のような形で新たな形式が誕生した可能性があり、このような別解釈が成立する余地があるのが問題といえるでしょう。(特に「番匠」として「九州」の人々が動員された可能性がありますから、彼等の影響があったと見る之のが相当でしょう)
 更に「大下氏」が依拠している「小森論文」では「藤原京」整地層レベルから出ている土器を「六九〇年代」として判定しており、それは『書紀』にある「藤原京」関連記事から推定したものと思われますが、それはそもそも『書紀』の記述に束縛されないという前提に反していますし、無理に『書紀』とリンクさせようとしても、その肝腎の「藤原京」そのものの遺跡年代に疑問がある現状ではその試みも良好な結果を得られないという可能性が高いでしょう。
 そもそも「藤原京」は、何もなかったところに「京」が造られたわけではありません。既にそれ以前にある程度「街区」が出来ていたところを新たに「京」としたものです。
 「発掘」の結果ここに「藤原京」が造られる以前にすでにこの地域には「街区(条坊)」が形成されていたらしいことが判明しています。その「条坊」の「基準」(寸法など)は共通であったとされています。つまり、すでにある「条坊」を廃棄して別に「京」を形成しているのです。また後に「宮域」となった場所にも条坊が施工されていたことが明らかになっており、ここに居住していた人達を移転させて「宮」を造成しているのが明らかになっています。(この事は『続日本紀』の記事を裏書きするものと思われます)これらの「条坊」を「廃棄」し、その上に改めて「第二次藤原京」が造られたものと推定されます。

 発掘からは「街路」及び「溝」(排水用か運河かは判然としませんが)が下層から複数確認され、それが「藤原京」段階とされる以前に形成されたものであるのは明白と思われ、この事は「藤原京段階」という概念全体に重要な変更を迫るものと思われます。つまり「藤原京」と同一整地層レベルにおいてもかなり年代として遡上する可能性がある上に、その下層はそれを上回って遡上すると考えられるのです。たとえば「薬師寺」は「藤原京」内に建てられており、(右京八条三坊に位置していたもの)、しかも「条坊」に合っています。この寺院の「創建」が「六八〇年」の年次にほど近いと考えれば、「第二次藤原京」とでも言うべき「京師」建設はそれを更に遡上するのは当然であり、現在では「天武初年」付近まで条坊の敷設時期が遡上すると考えられるようになっています。この時期を上限と考えると、このレベルの年代は「六九〇年」から「十五年」程度は遡上する可能性があると言えます。

 この「藤原京」の年代というものが「須恵器」編年のひとつの年代基準となっていますから、これに「幅」ないし「誤差」があるとすると、それ以前の遺跡の年代測定全体に影響を及ぼすこととなります。つまり「難波京」が「天武朝」に作られたとする説の根本は「難波京」の年代を(結局のところ)『書紀』の記事から後追いしているわけであり、記事に書かれた「六九五年」という年次から遡って考えているわけです。そのため「藤原京」の年代を「早くて六九〇年頃」としたためにそこから「二十年」ほど遡上した「六七〇年」付近を「難波京」の年次としたと言う事ですから、これが更に「十五年」程度遡上するとした場合には「六五五年頃」の創建という帰結が得られ、「孝徳期」に限りなく接近してくることとなります。(私見ではさらに遡上する可能性さえあると見ていますが)

 しかも「須恵器編年」の一世代三十年というのは「弥生時代」の土器編年でも使用され、それに基づいて「弥生時代」の編年が行なわれていたものの、その後「年輪年代」や「放射性炭素測定」が行なわれた結果、それと大きく「齟齬」することとなったという曰くのある論法です。(実際にはもっと期間が長かったと見られる)
 そもそも「須恵器」にしろ「土器」にしろ一つのタイプの寿命はかなり長いと考えるべきでしょう。なぜなら、その様なものが専門の工房で作られるとすれば、必ず「師匠」と「弟子」という関係がそこに成立していたはずであり、師匠の後に弟子が直ぐに別の新しいタイプを作ったなどとは考えない方がよいと思えるからです。師匠から受け継いだ型はかなりの期間継承するものであり、そう考えれば極端な話「倍」の「六十年」程度が一つのタイプの寿命と考えることも出来そうであり、「三十年」が固定された絶対的なものでないことは当然とも言えるでしょう。
 ちなみに、縄文時代はこれが百年という年数であったとされるわけであり、結局弥生時代も似たような期間継続したらしいことが推定されることとなったわけですが、この「三十年」という年数は当時の人達の寿命との関係から帰結されたものという説もあります。海外でも「一つのジェネレーション」の期間が三十年であるのも同様の理由とするわけですが、実際にはそれは確かに「平均寿命」であったかもしれませんが、それを超えて生存した人々もある程度はいたわけであり、彼等の生存期間の方が実際の土器編年において有効であったことを示していると思われます。
 
 また「大下氏」などの論によれば、この「戊申」木簡は「荷札木簡」ではなく「文書木簡」であり、使用後「ある程度の期間」経過後「廃棄させられたもの」という理解をしているようです。それは間違いないものと考えられますが、それが「戊申」という干支の示す時期から「どの程度」の年数経過後棄却されたものかと言うことが明確でないことに加え、そのことが「前期難波宮」が『天武紀』のものであるという何の証明にも反論にもなっていないこともまた重要であると思われます。使用された時期が「六四八年」であるのは「明確」なわけですから、これが示す絶対年代は重要な意味があると考えるべきでしょう。

 また、地元に数多く残る「各種」の「伝承」についても「無視」し得ないものです。「地名」や「伝承」などは後世の「付会」ももちろんあるでしょうけれども、「真実」を伝えている可能性があると言うことももちろんあり得るわけであり、たとえば「九州」で言えば「神功皇后」の伝承が「筑紫」に深く残っていることなどは「それらのうちのいくつか」は「歴史」の真実を反映しているという可能性を感じるものです。同様に「仁徳」に関する「伝承」が「難波」に多いのは『書紀』からの「付会」であるという可能性もありながら、「事実」の反映であるという可能性もまたありうるでしょう。もし新しい学説が真実ならば、これらの「伝承」は「全て」架空のものであると言う事となります。また「後世」の「文書」などに記された「古地図」なども全て「事実」を反映していないものとされてしまうこととなりますが、それもまた「疑問」とせざるを得ません。

 更に「斉明紀」に引用された「伊吉博徳書」によっても、その時の遣唐使船が「難波三津之浦」から出航しているとされています。

以下「斉明五年」(六五九年)条による。
「以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。潤十月一日。行到越州之底。」

 この「六五九年」という年次における「遣唐使」の行程の日取りから考えても「難波三津之浦」とは「筑紫」に存在したものではないと考えられます。そう考えるには「百濟南畔之島」までたどり着くのに時間がかかりすぎているように思えます。期間中に「難船」などの記述がなく、(多少彷徨ったとは思われるものの)順調な航路であったようであり、そうであれば、出発地が「筑紫」であるとははなはだ考えにくいと思われます。つまり「何もなければ」この距離を「二ヶ月強」もかかるとは信じがたく、さらにその後に「筑紫六津之浦」という表現の存在から考えても「難波」に「津」がなかったとは考えられないといえるものです。つまり、ここに書かれた「難波三津之浦」が「摂津難波」に存在したものと推量するのはそれほど無理ではないものです。

 また、この「伊吉博徳」の行程に異議を唱える理由がないということもあります。この記事は『書紀』中に存在するわけですが、「本文」と違いその記述方法などが異なっており(日付が数字表記であることなど)、「潤色」などを想定する余地がないとみられることや、その記録内容からも行程の各部分に真実味があると考えられます。そう考えると、この段階で「遣唐使船」と言うかなり大型の「外洋船」が停泊できる「津」が「難波」にあったことは確実となり、それは「難波朝廷」そのものも、その至近に存在したと考えて不自然ではないことを示します。そしてこの段階で「難波宮」が「難波」に存在したとすると「前期難波宮」と呼ばれる「宮殿」遺構がこの時代(六五九年)より「以前」のものである可能性が高くなるのは必然です。

 また既に述べたようにいわゆる「はるくさ木簡」の存在もあり、これは「前期難波宮」造営「以前」の谷を埋めた層からの発見でした。つまり「前期難波宮」を造営の以前の埋め立ての際のものであり、何らかの儀式を行った後の廃棄場所であったと見られるわけですが、その「はるくさの」という「枕詞」の掛かるものとして「元年」(はじめのとし)があるのであり、この「元年」の示すものが「倭京」ではないかと見られることから「七世紀」始め(第一四半期)が該当する年次として想定できることから、この「層位」の年次もかなり遡上すると想定でき、これらのことは「難波京」自身の年代にも影響を与えるものと見られるわけです。


(この項の作成日 2012/04/13、最終更新 2013/08/16)(ホームページ記載記事を加筆)

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