古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「隋皇帝」による「訓令」とそれに対する「倭国」の反応

2019年01月06日 | 古代史

 『隋書俀国伝』を見ると「大業三年」(六〇七年)とされる遣隋使が提出した国書において倭国王「阿毎多利思北孤」は「隋皇帝」に対し「海西菩薩天子」「重興仏法」という言葉を並べ、「沙門」を修行のためと称して派遣しており、これは一見「自発的」なもののように思われますが、それ以前の遣隋使の発言が影響していると思われます。その様な行動の元となったものは、それ以前に派遣された「隋使」(「裴世清」と思われる)により「訓令」を受けたことと推測できます。

 前回の「遣隋使」の説明により、倭国におけるそれまでの統治のスタイルである「天を兄とし日を弟とする」というものについて「古典的」(と言うより「前近代的」)であり、それを「無義理」であると皇帝が断を下したものです。
 この時の「裴世清」は「鴻臚寺掌客」という正式な外交官として「倭国」に赴き、皇帝から預けられた「国書」及び「訓令書」を「倭国王」に伝達したものと思われますが、さらにいうとこのとき「裴世清」が「訓令書」を単に読み上げただけではなかったことは当然でしょう。「訓令」の中身を「倭国」に根付かせることは「裴世清」に課せられた責務であったと思われ、「行動」としては「法華経」についての資料(経典等)を持参し、それを「倭国王」に伝達したであろうと推察されると共に「講話」も行う予定であったと見て自然です。「法華経」の「素晴らしさ」を「講話」による理解させることが必須であったと思われます。
 これについて『元興寺縁起』などで「聖徳太子」が「講話」を行ったと書かれていますが、実際には「裴世清」が行ったものであり、それを「隋」との関係を清算した(したかった)新日本国が『書紀』編纂の際に粉塗・隠蔽していると見るべきであり、『元興寺縁起』はその影響を受けていると(少なくとも年次においては)みられるものです。
 その後派遣された「遣隋使」が「訓令」を承けてのものであるのは当然であり、下された「訓令」を実行しているという実績を示す必要があったと理解すべき事となるでしょう。それを示すのが「大業三年」という年次の「遣隋使」の中身であり、その中では「菩薩天子」という呼称などから言外に「倭国王」である自分自身が「菩薩」つまり「法華経」に帰依し「出家」した事を示しており、また「沙門」を派遣するなどみればやはり「訓令」の実態は「古典的祭祀」の停止と「仏教治国策」の実施であったこととなるでしょう。つまり、下された「訓令」の具体的な中身として当然「皇帝」が尊崇しまた「隋」という国家として推進していた「仏教」と同じものを倭国においても尊崇すべしとするものであったと見るべきであり、その「仏教」の中身としては「法華経」であったものですから、倭国においても同様に「法華経」がこれ以降尊崇されるようになったものと考えられるものです。

 ちなみこの時「隋」からは「国交開始」の証しとして「隋」の国楽、それを奏する「楽器」及び「楽譜」等がもたらされたものと思われますが(次回隋使が来た際にそれを演奏して歓迎するという外交儀礼を実行するため)、それとは別に「仏教」推進の一環として「寺院」の建築が行われることとなったと見られます。
 「隋」においても「法華経」の推進とその拠点となる「寺院」建築は一体であったものですから、「倭国」においても「大興城」における「大興善寺」と同様「倭国」の「都」に「法華経」推進の拠点となる寺院が必要であったはずであり、それを建築するための「技術者」及び一部の「材料」が派遣されていたものとみられます。その寺院の建築においては部材の寸法等において、「皇帝」の指示により建設されることとなった経緯からも「特別な寸法」が採用されたものと思われ(「営造法式」に規格がない)、ここで倭国で初めて仏法が国家の政策として始められたものでありその拠点として「寺院」が造られ、「大興」という「皇帝」(文帝)ゆかりの地から一字を取り「元興寺」と命名されたものと思われます。

 またこの時の「法華経」は、制圧した「南朝」で著名であった「天台大師」(智顗)を隋の首都である「大興城」に招き、そこで行われた講話を最新の中身として、そのまま「倭国」へ伝えたものと思われます。
 この時の講話の内容として「提婆達多品」に触れたものという資料があり、このとき初めて「法華経」に「提婆達多品」などそれ以前の「法華経」で脱落していた部分が添付されたこととなります。それはそれ以前に「百済」を通して伝えられていた「法華経(妙法蓮華経)」を、よりアップデートしたものであったこととなるものです。「隋皇帝」としては広く「法華経」を知らしめる意図があったはずですから「最新の経義」をそのまま「倭国」へもたらすこととなったものとみられ、「私見」では「隋使」裴世清が「鴻臚寺掌客」として派遣されたのは「五八九年」と考えていますが、その意味で「添品法華経」の成立とされる「六〇一年」に先行して不自然ではないと思われます。
 しかし「聖徳太子」の手になるとされる『三経義疏』で触れられている「法華経」には「提婆達多品」がなく、明らかに「隋皇帝」からの「訓令」以前の様相を示しています。にも関わらず『書紀』では『三経義疏』に関する記事は「遣隋使」以降(六一五年)となっており、年次の矛盾を呈しています。これは『書紀』のこの付近の記事の年次に狂いあるいは潤色があることを推定させるものです。

 その「提婆達多品」で特徴的なことは「娑竭羅龍王」と「文殊菩薩」のエピソードであり、「龍女」(龍王の「第三の娘」)の「往生説話」です。ここで初めて「女人」でも往生できると言うことが説かれたものであり、これは即座に「倭国王」の周辺の女性達、特に彼の母親や夫人(皇后)、子女などに熱烈に受け入れられたであろうこと、彼らが積極的に支持し「法華経」に「進んで帰依した」ことなどが強く推測できるものです。
 さらにその経義の内容が海人族とその家族にとって画期的であったことが推測され、特に有力であったことが推定される「宗像氏」において特に活発な動きとなったと思われます。それを示すのが「厳島神社」の創建説話とそこに現れる「神功皇后」にまつわる伝承です。そこでは創建の時期として「六世紀の末」(五九二年)という年次が示されており、また創建の人物として「神功皇后」の「妹」であり、「龍王の娘である」とされています。
 従来はこの「五九二年」という伝承について深く考えたものはありませんでしたが、「裴世清」が「訓令書」を持参したのが「私見」によれば「五八九年」あるいは「五九〇年」と推察されますので、その限りでは整合します。
 実際には「厳島神社」の祭神は「宗像三女神」の一人である「市杵島比売」であり、父親は「宗像君」とされます。「宗像氏」は当時最有力な水軍であり、彼が「娑竭羅龍王」に擬されたとして不自然ではありません。そしてここにおいて「法華経」の世界と現実が直接つながった形となっているのが注目されます。「宗像氏族」にとってこのような「構成」の近似が「法華経」を積極的に受け入れる下地となったことは間違いないものと思われます。

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太陽系外から飛来する小惑星(あるいは彗星)について

2019年01月05日 | 宇宙・天体

 かなり以前にも記事として書きましたが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/ad1b3e623e590d937a24d52d3c36f3ba)、6500万年前に大絶滅をもたらしたとされる小惑星との衝突という破滅的イベントは「木星」と「火星」の間にある小惑星帯にあった小惑星同士の衝突によって発生した多数の破片がその飛来源として推測されています。この場合はその多くが現在も黄道平面の近くに収まっており、その意味で観測には都合がよいと思われますが、他方黄道からかなり離れた平面を軌道とするものも存在しており、この場合観測がかなり困難となります。それは即座にその軌道予測も困難となることとなり、対策が後手に回ることとなります。
 現在はそこも観測対象として全地球的に観測網が整備されつつありますが、中には太陽系内にその起源を持たないようなものも含まれる可能性もあり、このような場合は速度が高くしかも太陽めがけて加速しまたスイングバイされるため、遠ざかる際の速度は飛来時を上回ることとなります。
 既に一昨年となりましたが、まさにそのようなものとして「オウムアムア」(Oumuamua)と呼称されるようになった天体の接近が観測されました。これはその形状が極端に球形からはずれた形状をしていたため(ほぼ棒状であった)ことから「葉巻型のUFO」などと噂もされましたが、結果的には太陽系の外部から飛来した「彗星」と判定されています。この「オウムアムア」は「こと座」のα星「ベガ」の方向からやってきて、発見時は秒速30Km弱であったようですが、その後太陽の至近で方向を変えた後加速し秒速40km程度となったことが観測されています。その後どんどんと太陽から離れていっており、現時点では土星軌道の距離程度まで離れていったようです。
 このようなものが地球など惑星の至近を通過することも考えられるため、実際には地球近傍を通過する可能性のある天体は私たちが思う以上に多いと言わざるを得ません。今回は「たまたま」地球軌道からかなり離れた軌道となりましたが、地球とニアミスあるいは衝突する場合かなりサイズの小さなものであっても被害が大きなものとなる可能性があります。

 また以前にも地球に700万キロメートルまで接近した小惑星があったという報道がされています。その大きさは4.5kmあったとされ、しかも衛星2個を伴っていたという情報までありますが、これはかなり「大きい」といえるサイズであり、さらに「700万キロメートル」というのは宇宙的には「すぐそば」というイメージであり、ちょっと驚愕です。またその「4.5キロメートル」という大きさも瞠目すべきであり、以前ロシアで観測された「隕石」(というより「微小小惑星」というべきでしょうか)の大気圏突入の際にはその衝撃波で多くの被害があったことが報告されていますが、このケースはかなり上空で本体の破壊があったため、被害もまだしも少なかったというべきでしょう。それは本体の大きさが数十メートルというレベルだったからであり、当然これより大きい「キロメートル」というオーダーの場合は(その入射角にもよりますが)、衝撃波によって破壊が進行するにも時間がかかることとなり、その分地表近くまで落ちてきてしまっているという可能性が高く、その場合衝撃波も閃光もより強烈なものが地表に届くこととなりますから、その威力として核爆弾と何ら異ならないものとなるため、甚大な被害が発生する可能性が高いと思われます。まさに「青天の霹靂」というべきものですが、地球における生物の進化にとって最も重要な不安定要因はこのような地球外から飛来する天体による衝突であるという研究もあるようであり、このような天体衝突による「大絶滅」は現在までも地球を何回か襲っていると考えられています。
 ただ問題はその「間隔」なのでしょう。生物の進化には数千万年から数億年という時間オーダーが必要であり、その途中で大絶滅が起きてしまうとその時点で進化がリセットされてしまい、なかなか高等生物の登場に至らないと思われる訳です。その意味で「木星」という巨大な惑星が太陽系の中程に存在しているというのは、地球にとって「露払い」の意味があり(木星がその引力で微少小惑星群が太陽方向に行かないよういわば「引っ張っている」ため)、この存在があったからこそ現在「人間」が生きていられるというわけです。

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古代オリンピックについて

2019年01月05日 | 古代史

 日本において「縄文」から「弥生」へという時代の変化の根底に一大気候変動があったという論を以前投稿していますが、それは当然全世界的な現象であり、全地球的に時代の転換を迫られたものとみられるわけです。それは文化や制度などにも表れているものであり、この時代に起源を持つものがいくつか見られます。その一つが「オリンピック」です。
 
 雪の降る日々が続きますが、昨年の冬「韓国」の「平昌」で冬季オリンピックが行われたのはまだ記憶に新しいところであり、私の住んでいる北海道からも多くの選手が出場し、彼ら、彼女らの日頃の鍛錬の成果により多くの感動的シーンが見られたものです。
 この「オリンピック」という「競技会」はその始原が「古代ギリシャ」にあり、「ヘラクレス」が「紀元前八世紀半ば」に始めたとする伝承があります。(これはほぼ無批判に「事実ではない」とされているようですが)
 このような「体力」や「筋力」の増強という「オリンピック」の持つ原初的な意味が「戦い」を前提としているのは明白といえるでしょう。「神」に奉納する意義があるとされていますが、だからといってそれが「前八世紀付近」で始まる理由とはならないのは確かです。

 その始源として「前八世紀」(紀元前776年に第1回大会が開かれたとされる)という時代が伝承されているのには当然理由があり、それは当時起きていた「気候変動」による民族移動、またそれによる域外勢力の侵入という事態が関係しているとみるのは当然です。当然のこととしてそれが非平和的なものであった可能性は充分あり、それに対抗して武器を持ち、振るい、投げまた走るというようなことが必須のこととなったものであり、そのためには「体力」、「筋力」が優れていなければならないわけですから、「ヘラクレス」がそのような戦いの場において活躍した多くの勇者の「投影」として存在していたものとみることができるわけです。その意味で「八世紀半ば」という時期を始源として伝えられているのは、それが決して「作り話」ではないことを示していると思われます。

 この当時ギリシャでもスパルタでも同様の動きがあり、そのようなポリスの人々がマッスル化を市民の必須の義務(あるべき姿)と考えていたものです。その後100年ほど経つと「競技」としてのスポーツが成立したとみられるわけですが、それは気候変動も一段落し人々の生活に若干落ち着きと余裕が出てきた段階であり、「戦い」を前提としたものではなくなったということではなかったでしょうか。この時期以降「健康」志向という点から体を鍛え、その成果を競うというようなことになったものと思われるわけです。

 アッシリアの「アッシュールバニパル王」のレリーフ(前八世紀)でも自らが直接手を下して「ライオン狩り」をしているのが描写されています。それもギリシャにおいて「ヘラクレス」がそうであったように「勇猛さ」が美とされていた時代に対応する動きであり、アッシリアにおいても「ライオンと戦えるほどに身体を鍛える」ということの示す意味として「戦闘」がその背景にあったとみるのが相当と思われます。それを「王」が行う事でアッシリア全体の人々を鼓舞する意味があったと考えられるでしょう。

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「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現について

2019年01月03日 | 古代史

 以前に書いたこと( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/0feee359f389173107af6f8307b488c8 『隋書俀国伝』にある「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現)について、追加の論を下に記します。

 ここでいう「附庸」とは「宗主国」(言い換えれば「直接統治領域」)に対する対語であり、「従属国」であることを示します。またここでは「竹斯国」が「附庸国」とされているように見えます。これについて以前「直轄領域」として「壱岐」「対馬」があると見たわけですが、それは外交上・国防上の問題から国境を接している場所は直轄地域のはずという意味でした。
 この場合中心領域について「肥の国」という推測をしたわけですが(もちろん「以東」という表現から考えて「近畿」に中心権力があるとは見なせないわけですが)、逆に言うと「近畿」に中心王権があるとしたら「筑紫(竹斯国)」が「直轄領域」からはずれていることの説明が困難ではないでしょうか。
「近畿」王権がもし「倭国」の中心王権であったとすると、彼らにとっても「国境」の管理は重要であったはずであり、その場合後にそうしたように「筑紫」に出先をおいて拠点とするのがもっとも目的を達成しやすいわけですが、その場合「筑紫」は直轄領域でなければならないでしょう。「壱岐」「対馬」だけを直轄領域として事足りるとするのは「外交上」非常に問題があると思われます。
 仮に「筑紫」に拠点を作ったとしても、それが置かれた「筑紫」が単なる「附庸国」であるとすると、「王権」の意図が徹底しないばかりか、時には意図と反する行動もありうることとなります。そのようなことにならないようにするには「筑紫」そのものを直轄領域にする必要があるはずですから、この『隋書俀国伝』にそのような記述がないのは「近畿」に中心王権がないことの傍証ともいえると思います。
 そもそも「儀典」などを「九州島」上陸地点で行う必要があるのは明らかであり(後の「鴻廬館」のような施設)、これらを行う施設があるのが「附庸国」の国内であるとすると大いに問題でしょう。大使館のようにそこだけを直轄にするというアイデアもありますが、そのような手の込んだことをするくらいであれば「筑紫」全体を直轄とすればよいはずですが、そうはなっていないのは「近畿」の王権にとって「外交」が彼らの必須の業務ではなかったことを示します。
 これについては以前触れたように「従属国」には基本的には自治があるものの、外交は「宗主国」の専権事項であったとされますから、この時点で「近畿」の王権にはそのような権能が与えられていなかったものであり「従属国」の一つであったと見るしかないことを示すと思われます。

 

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山田様のブログ記事へのコメントに対するご批判について

2019年01月03日 | 古代史

 山田様のブログ記事( http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/01/2019-5704.html )について当方が「コメント」として記したこと(「志賀島の金印」と『後漢書』『倭人伝』等に書かれた「倭」等に対する考察( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/f4ea963d0ceb1ab8a00b3ac63168e230 につづく一連のもの、是非皆様にも読み返していただければ幸いです)について、首肯できることできない事を具体的に挙げてご批判いただきました。ありがとうございます。

 以下にご批判のうち一部ですが気になる点について回答のようなものを書いてみます。といっても論として同じことを繰り返し書くこととなりそうですが。

「帥升」と「倭国王」について

 「帥升」に「印」が授与されていないのは「理由」があったからと考えたわけであり、論の中にも書きましたが「単なる書き忘れ」という見方は成立しないと考えました。それは以前の「委奴国王」と「帥升」の統治範囲及び統治の内容等に大きな変化がないからであったと見たわけですが、その場合改めて「金印」(一定の広い地域を統治しているということを認める意で下賜される)が授与されなくて当然ですが、そうであれば『後漢書』がいうような「倭国王」ではなかったこととなるという論理進行です。
 「委奴国王」の時代と異なり「帥升」について「倭国王」と認められる実績があったとすると「金印」が授与されて当然であり、それは『後漢書』や『三國志』という史書に書かれて当然だと考えます。それが書かれていないのは実際には「倭国王」ではなかったからではないかというのが「要旨」です。そう考えた場合「倭国王」という表現をしている『後漢書』に疑いの目が向くのは自然だと思うのですが、いかがでしょうか。「倭国王」という称号を認められるようになっても金印が授与されないこともあるというのであればこの疑問は意味ないこととなりますが、そうでしょうか。
 そもそもこの段階ではまだ「倭国」という「概念」が成立していなかったと思われ、それが成立するのは「倭の五王」の時代と見たわけです。なぜなら「倭の五王」は以前よりも広大な国土を制圧したと自称しまたそれを南朝が認めたわけですから、この段階で「倭国」と「倭国王」が成立したと見ることができるでしょう。(ご指摘のように「倭国」という存在の起点はこの時点という可能性がありそうです)
 この「倭国」と「倭国王」の成立に程近い時点である「南朝劉宋」の時代に「笵耀」は生きていたものであり、そのことが彼の書いたものに反映していると見たものです。
 確かに『後漢書』にしか書かれていない事象もあり、独自資料があったという可能性は高いものの、他方「笵耀」の時代の知識あるいは常識で『三國志』の記述を書き改めているという可能性が高いのもまた既に指摘されていることです。「倭国王」という表現もその類と見たものです。


「ダンワラ古墳」の「鉄鏡」について

 「委奴国王」として「帥升」が奉献して(「金印」は貰わなかったであろうけれど)他に何の下賜品もないというのは不審ですから、何かそのような徴証はないと考え調べた結果であったものです。その意味でさほど重要な論点ではありませんが、「古墳」の時代として五世紀という比定が正しいとして、そこから出土したという「鉄鏡」がその時代に入手可能かというとそうではない可能性が高いと判断したものであり、この時代にそぐわないとすれば、その「鉄鏡」とこの古墳が造られた年代とは異なる年代のものであると見るよりないと考えたものです。それはそれほど「恣意」に類するものと考えません。
 「恣意的」という場合は「任意」に年代を決められるという意味ですが、この場合は「鉄鏡」が作られ下賜されることがあり得た年代がそれほど動かせるものではないのですから、自動的に年代は定まることとなりますので、「恣意」の介入する余地がないように思われます。
 ただし「発掘」の詳細が不明ですので確定的には言えないわけであり、それを「真」として論を構成したわけではないものの不注意であったかもしれません。


「親魏倭王」について

「親魏倭王」という称号の中の「倭」については「倭人の代表」としての表現としての「倭王」とは考えません。「倭」単体では「地域名」の意義しかないと見るからです。
『魏志』の中では「倭人伝」の他に「韓伝」においても「倭」単体では「地域名」としてしか登場しません。これらを踏まえると「親魏倭王」の「倭」は「地域名」として使用されていると考えます。
 そもそも「親魏倭王」というのは「制詔」と表現されているように「魏」の正式な制度の中で「卑弥呼」に対して授与された称号です。金印にも「親魏倭王」とあったというのですから、この「倭王」というのは重要な意味があると考えたわけです。そうであればこの「倭」はそれまでの歴史の中で使用されてきた「倭」という地域名、地方名であったと見るべきではないかと考えたものです。
 「魏」が「倭」と認識した領域の主要な部分は「邪馬壹国」がその中心にあるものであり(論の繰り返しになりますが)「倭」の中に「魏」が「親魏」とは認められない勢力がいたとしても「帥升」の頃よりも多くの地域をその影響下(制度下)においていたことから「倭王」という表現が使用されたと見ています。仮に全てを統治の対象としていた場合には「倭国王」という称号が使用されただろうと見るものです。

 ちなみに半島に「倭人」がいたとしてもそこをただちに「倭」とは表現するわけにはいかないというのは以前考察しました。
( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/441b6def7288dce95aaae8595198f4f7 )
そこでは「韓伝」などで使用されている「「倭」と接する」という表現が「陸続き」をただちに意味しないと考察したものであり(それは半島に「倭人」がいなかったという意味ではなく)、『倭人伝』当時「半島」に「倭地」はなかったということを述べたものです。

 ちなみに、先に提出した「出雲王権」と「筑紫」の関係を推察した際に「伊都国」と「奴国」に使用されている「官職名」について言及しました。そこでは「伊都国王」と「出雲王権」について「思いつき」を書いたわけであり、「国譲り」以降「筑紫」では「伊都国」の権威が低下し、そのため「一大率」に乗っ取られたような形となっているのではないかと見たものですが、この段階(国譲りの時点)以降「奴国」に権力が移っていたと考えています。それを示すのが「委奴国王」の金印と考えたものです。
 この「委奴国」が『倭人伝』の中に出てくる国のどれかであるという可能性は高いと思いますが、そうであればそれを示すもの(「権威」の象徴であり「周王朝」との関係を示すもの)が、「倭人伝」段階で「伊都国」「奴国」以外に見られなければならないと思われますが、実際にはこの両国以外には確認できません。このことは「委奴国」の後継は「伊都国」「奴国」のどちらかではないかと考える余地があるということでしょう。しかしすでに述べたように「国譲り」までは「伊都国」とみており、その後は「奴国」が九州北部に勢力を持っていたと見ていますので、必然的に「委奴国」は「奴国」であるという推論をしています。そうであれば「委奴国」は「倭の奴国」であろうと見たものです。
 「倭」が「地域名」にしか過ぎないとすれば「漢委奴国王」という表現も「倭」の「奴国」に対するものと理解する余地があると見たものです。少なくとも「倭」を挟んだことで「漢」と「奴国」の関係が直接的ではないということにはならないだろうと考えるものです。

「漢廉斯邑君」という称号の例について

 この称号についての指摘は首肯できません。山田様の理解に不審があるように思います。こちらの趣旨はそれ(「漢廉斯邑君」という称号の例)が「二段表記」なのは「三段表記」を避けている例として挙げたのであってそれ以上ではありませんから、そのことから直接の結論として当方に三段表記例を挙げる「挙証責任」があるとは考えません。

 また、ご批判を頂いた中に以下の文章がありました。
「上に見たように「倭」はこの時点では「国名」ではなくあくまでも一地方名であって、その地方に「奴国王」の上に位置する権力者は存在しない」、とされているのは、初めから「倭奴國」を「倭」の「奴國」とされているからとしか思えません。金印を授かったのは、なんと呼ぶべきか私はわかりませんが、「倭奴國」です。」
 この文章は両刃の剣であり、「初めから「倭奴國」を「倭」の「奴国」とは読めないとされているからとしか思えません。」と書き換える事ができてしまいそうです。さらに「金印を授かったのは、なんと呼ぶべきか私はわかりませんが、「倭奴國」です。」としており、それは「倭」と「奴」の間に線は引けないということをアプリオリに述べているように見えますが、しかし私たちは(少なくとも私は)「委奴」と一語で表記するのが妥当なのか「倭」「奴」の間に線を引く余地はないのかを議論しているのですから、このような物言いでは議論の意味がなくなります。

 この「倭」「倭王」等の論は古田氏以来多元史論者の間では「二段読み」が当然としてある意味「疑われていない」のではないかと考えて記事としたものです。私見が正しいかどうかは別として、今一度先入観を捨てて考えていただきたいと思っています。

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