古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「裴世清」の肩書問題

2020年03月07日 | 古代史
 すでに考察したように「大業三年記事」はそれをかなり遡上する時期の記事を移動して書いていると考えられることとなりました。それは「鴻臚寺掌客」としての「裴世清」が、実態としては「隋」の高祖からの使者であると理解しなくてはならないことを意味することとなり、その場合「裴世清」の肩書きの問題を解く必要が出てきます。
 『書紀』の「遣隋使」記事では「肩書き」(「隋皇帝」から「推古天皇」に送られたという詔書の記載による)では「鴻廬寺掌客」となっており、『隋書』の記載の「文林郎」とは食い違いを見せています。
 「文林郎」は「大業年間」の「煬帝」の時代に「散官」ではなく「実務」を担当する者として現れます。また「隋」の「高祖」の時代には、当初なかった「文林郎」が「開皇年間」に新設されたことが『隋書百官志』に書かれています。
「…六年,尚書省二十四司,各置員外郎一人,以司其曹之籍帳。侍郎闕,則釐其曹事。吏部又別置朝議、通議、朝請、朝散、給事、承奉、儒林、『文林等八郎』,武騎、屯騎、驍騎、游騎、飛騎、旅騎、雲騎、羽騎八尉。其品則正六品以下,從九品以上。上階為郎,下階為尉。散官番直,常出使監檢。…」(隋書/志第二十三 百官下/隋)
 ただしこれを見ると「秘書省」の一員としての存在ではないようであり、「煬帝」の時代の「文林郎」とはやや異なる立場ともいえます。
 さらに『列伝』の中に「高祖」に意見する人物として「文林郎」の肩書きを持ったものが登場します。
「…時文林郎楊孝政上書諫曰:「皇太子為小人所誤,宜加訓誨,不宜廢黜。」上怒,撻其胸。尋而貝州長史裴肅表稱:「庶人罪黜已久,當克己自新,請封一小國。」高祖知勇之黜也,不允天下之情,乃?肅入朝,具陳廢立之意。…」(『隋書/列傳第十 文四子/房陵王勇』より) 
 これは皇太子であった「楊勇」を廃する決定を行った際の「仁寿年間」の出来事であり、この時点ですでに「文林郎」が存在しているという事実を反映しているものです。つまり「高祖」の時代に「文林郎」という職官がいたであろうと推察できるわけです。
 これに対し「鴻臚寺掌客」というのは正式な外務官僚です。またこの両者は階級というべき「品(ほん)」が異なっているとされます。確かに「煬帝」治世下では「文林郎」は「従八品」であるのに対して「鴻臚寺掌客」は「正九品」ですが、上に見る「開皇年間」の「文林郎」は「従九品以上」であるのは確かですが、明確に規定されているわけではなく、必ず「上」とも言い難い存在です。これについては通常「兼務」などという解釈もされているようであり、そのため従来の解釈では、「倭国」への使節に任命された際に「鴻臚寺掌客」という「外務」に携わる「職掌」を併せて与えられたと見るわけですが、そのような場合元の職掌よりも上位の「冠位」に相当する職掌が与えられて然るべきであろうと思われ、そうなっていないのはやはり不審です。
 「裴世清」は「倭国王」などと対面する際、自己紹介したでしょうし、それは書かれたものでなければ「正確」なものとはならないはずですから、そのような資料(書状)が「倭国側」に渡ったはずです。これが『書紀』中に出てくるものの参考資料となったものと考えられます。これが「兼務」であるとすると「冠位」の高い方が先に書かれ、また名乗られたと考えなければならないでしょう。そうであれば、名乗った冠位と職掌は「文林郎兼鴻櫨寺掌客」となるはずであり、その逆ではないでしょう。しかるに『書紀』の「国書」には「兼務」した職掌である(後に書かれた「冠位」の低い方の)「鴻臚寺掌客」だけが書かれたとしなければならなくなりますが、それは明らかに不合理であると思われます。
 そもそも「外交使節」などに抜擢する場合、冠位を飾るのはよくある話ですが、本来の職位より低い冠位あるいは「同等」の冠位の職掌を充てたのでは「飾る」こととなりません。こう考えるとこの「倭国側資料」にある(しかも皇帝からの「詔」の文中に存在する)「鴻臚寺掌客」というものが「派遣」時点における彼の本来の「職掌」そのものであると考えざるを得ないこととなります。つまり「倭国」に「国書」を持参した際の「裴世清」は「文林郎」ではなかったと考えざるを得ません。この「鴻臚寺掌客」が彼の本来の職分であり、決して「文林郎」と兼務していた訳でもなく、また「文林郎」が正式の職掌でもなかったと推定するしかないこととなります。
 そう考えると、元々「隋代初期」には「鴻臚寺掌客」であったものが次に来倭した時点では「文林郎」であったと考えるとスムースではないでしょうか。その場合「冠位」の矛盾は起きません。つまり「唐」の時代に来倭したとするより「隋代初期」に来倭し、その後再度倭国を訪れたと考える方が無理がないと言えるわけです。 
 この「鴻臚寺掌客」という官職についてみてみると、『隋書』には「鴻臚寺」という官職名が「隋」に始まるとされ、また「掌客」つまり「対応を担当する職掌」という意味の「典侍署」があったとされています。このことから「鴻臚寺掌客」という職名が「鴻臚寺典客署掌客」という正式な官職名の縮約であり、これは「隋」の始めに「高祖」により制定された官制にあるものであり(『隋書百官志下』)、その意味からは「隋代初期」という時期がもっともふさわしいともいえるでしょう。
 また「裴氏族」の「系譜」が書かれた『裴氏家譜碑』(※2)によれば、「裴世清」は「貞観年間」には「江州刺史」として存命していたとされています。この「刺史」という官職はかなり「位階」が高く、「上州」であれば「三品」、「下州」であれば「四品」とされていますが、『裴氏家譜碑』によると「江州」は「下州」とされており「従四品上」の位階を得ていたようです。 
 さらに同碑によれば、彼は「武徳七年」(六二四年)以前に既に「駕部・主客二郎中」であったとも記されており、これはほぼ「五品」に相当し、さらに「貞観二年」(六二八年)に「都督」(旧「総管」)であったとも記されています。(これは「四品」)このような昇進過程から考えると、「初唐」段階で「九品」というのは明らかに低すぎると言えるでしょう。
 しかし、上に推定したようにこの「鴻臚寺掌客」としての「来倭」が隋代であり「開皇の始め」という時期であったとすると、「初唐」の時期に降格したという想定はしなくて良いわけですから、「六〇八年」段階の「文林郎」(従八品)から、約三十年で二十階位以下の昇進でよいこととなります。これは一見かなりノーマルな昇進速度といえるようです。ただし、そうなると逆に「隋初」から「大業三年」までの昇進が異常に遅いこととなるという問題が発生しますが、これは『隋書』の年代が正確であるという前提ですから、『隋書』の年次に対する疑いを検討した現段階では「大業三年」という年次が実際にはかなり遡上するとみれば不自然とは言えなくなります。
 ところで、この当時「隋王朝」の高官として「裴世矩」という人物がいました。(彼は後に「太宗」の名である「李世民」の「世」を諱として避け「裴矩」と称したもの)彼と「裴世清」は同族ではなかったようですが(共に「河東裴氏」とされるものの「裴矩」が「西眷裴氏族」とされるのに対して「裴世清」は「中眷裴氏族」とされる)、「世」の一字を共有しており、近しい関係にあったことが推定できます。このように名前に文字を共有する場合「兄弟」や少なくとも「同世代」である場合が多く、彼らの場合も「年齢」も近いことが推定されますが、「裴矩」は「貞観元年」(六二七年)に「八十歳」で死去していることが知られていますから、「裴世清」はそれよりやや若い程度ではなかったかと思われ、上にみる「六三八年」の「江州刺史」段階で既に八十歳近かったという推定も可能でしょう。そうであれば「開皇初」で二十代であったらしいことが推定されますが、それは上に行った推定とは基本的に矛盾しないものです。
 ちなみに「裴世矩」は「隋」の「高祖」から気に入られ「重臣」として活躍しました。当時は「黄門待郎」という地位にありましたがその後「唐」に「王朝」が代わった際にも「民部尚書」という官職をあてがわれています。これは「位階」で見ると「昇進」となります。この間「隋」から「唐」へ王朝は代わっても双方の官僚は基本的には「共通」していますし、「考課」も変らず行なわれたものと見られます。もちろん古田氏の言うような「王朝交替」に伴う人事異動(左遷・昇進)はあったでしょうけれど、そもそもそのような影響を受けたのは、「政局」に影響が大きい「高位」の存在が対象となったものと思われ、下から数えた方が早いような下級官吏には縁遠い話ではなかったでしょうか。そうであれば「裴世清」もそれほど「唐」建国時点で大幅な昇進や逆に降格があったと云うことは考えにくいこととなるでしょう。
 これらのことから考えて「裴世清」は「隋初」段階で「鴻臚寺掌客」であったものであり、その後同じ「開皇年間」に「文林郎」として再度「倭国」を訪れたと見るのが相当と思われるわけです。

(※1)榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」(『アリーナ 2008』、2008年3月)
(※2)奥村裕之「唐朝政権の形成と太宗の氏族政策 -金劉若虚撰「裴氏相公家譜之碑」所引の唐裴滔撰『裴氏家譜』を手掛かりに-」史學研究會編「史林」九十五巻第四号二〇一二年。これによれば、「金」(一一七一年頃)の時代に「裴氏」の後裔が「裴氏一族」の家譜を刻んだ「碑」(裴氏相公家譜之碑)を建てたとされ、その中に「裴世清」についての記述があります。
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『新唐書日本伝』と遣隋使派遣時期

2020年03月07日 | 古代史
 以上見てきた見地については『新唐書日本伝』にある「王代紀」部分の記述とも矛盾しないものです。
 『新唐書』日本伝には「倭国」以来の各代の倭国王の「諡号」が累々と書き連ねてある部分があります。この部分は「北宋」の時代に「日本」から訪れた「東大寺」の僧「凋然」が持参した「王代紀」を参考にしているとされています。そこでは、各代の天皇名の合間に「隋」や「唐」側で保有していた「倭国」との交渉の記録が挟み込まれるように書かれています。
 この「挿入」される位置は、常識的に考えるとその「交渉」が行われた時期の「倭国王」の記事中であると考えられます。(「編年体」の史書類は基本的にそのような体裁で書かれているはずですから。)
 しかし、記事を見るとその位置が『書紀』に書かれた天皇の代と食い違っているように見えるのが多くあるのが確認できます。
「…次欽明。欽明之十一年,直梁承聖元年。次海達。『次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。』次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。『其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦 婦人衣純色裙,長腰襦,結髮于後。至煬帝,賜其民錦線冠,飾以金玉,文布為衣,左右佩銀?,長八寸,以多少明貴賤。』
 太宗貞觀五年,遣使者入朝,帝矜其遠,詔有司毋拘歳貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。久之,更附新羅使者上書。…」(新唐書日本伝)
 先ずここでは「用明」の時代が「阿毎多利思北孤」の時代であるというような主張が見られます。そして彼の時代が「開皇末」であり、その時点で「初めて」中国と「通じた」というわけです。この主張は『隋書』を下敷きにしたものと見られますが、『書紀』とは大きく齟齬します。そして、その後「崇峻」へと続くわけですから、その食い違いは大きく「二十年近く」の年時差となると思われます。「隋の開皇末」云々とは『隋書たい国伝』の「開皇二十年」(六〇〇年)記事を指しているのは間違いないと思われるのに対して、『書紀』では「崇峻」はその十年近く前の「五九二年」に死去してしまっているわけですから、その違いはかなり大きいものです。(しかも『書紀』ではあくまでも「推古十六年」(六〇七年)の遣隋使が最初のこととして書かれています。)
 これについてはこの「隋開皇末,始與中國通」という記事が依拠した『隋書』にすでに「誤謬」があると考えれば理解できるものです。つまり、『隋書』の年紀に疑いがあるということは既に述べたわけですが、それに基づけば本来の「遣隋使」派遣は「隋初」のことと考えられ、「二十年」程度の遡上を措定する必要が出てくることとなります。そうであれば、「崇峻」の前(「用命」の時代とされますから「五八六年」と「五八七年」のいずれか)に「中国と通じる」と書かれているのは一概に「間違い」とはいえないこととなるでしょう。 
 これについては後に「日蓮」により書かれた『報恩抄』にもほぼ同様の記事が見られます。
「…又用明天皇の御宇に 聖徳太子仏法をよみはじめ 、和気の妹子と申す臣下を漢土につかはして、先生の所持の一巻の法華経をとりよせ給ひて持経と定め、…」(「第十一章 日本伝教大師の弘通」より)
 これによれば「妹子」が隋に派遣されたのは「用明」の時であると理解しているように受け取られ、これは上の『新唐書』の記事と一致しています。
 この『新唐書』の記事は「凋然」がもたらした「王代紀」が元となっているとされるわけですが、それは「日蓮」が目にしたものと同じようなものなのかも知れません。いずれにしても、当時の「日本側」の常識としては「用明」の時代に「遣隋使」が派遣されたというものであり、これは「正史」としての『書紀』に書かれたこととは全く食い違うものです。このようなことが「正史」という存在に関わらず、認識されていたと言うことはかなり重要であると思われます。
 従来『隋書』記事と『推古紀』記事は同一内容であり、また同年次のこととして書かれているから同一の事象であり、史実であるとする立場がほとんどでした。そのような議論は『書紀』と『隋書』が全く独立に書かれたとした場合有効なものであったわけですが、「雄略天皇」の遺詔が「隋の文帝」の遺詔の(悪く言えば)剽窃であるというのは既に有名なことであり、また「元明天皇」の「平壌遷都詔」もまた「隋」の「文帝」の「大興城遷都詔」を「換骨奪胎」したというべき内容となっていることもまた明らかとなっています。
 『書紀』はその完成が『続日本紀』の中で「七二〇年」のこととして書かれていますが、当然その編纂はそれ以前に行われていたものです。また「平壌京遷都詔」が出されたのは『続日本紀』に拠れば「和銅元年二月十五日条」として書かれており、これは西暦で言うと「七〇八年」とされます。つまり「書紀編纂」がまさに行われつつあったその時期に「遷都詔」が出されているわけであり、これは『隋書』についての知識が「王権内」で共有化されていたことを示すものと思われます。当然「遷都詔」を書いた人たちと「雄略」の遺詔部分を書いた人たちが同一であったという可能性ももちろんあると思われます。そうであれば、このような『隋書』からの「剽窃」という行為が、『書紀』一般の「潤色」として「他の部分」にも及んでいたという可能性を念頭に置くべきであることは論を待たないものであり、「裴世清」についての記事も『隋書』を横に見て「それに合わせて書いた」と言うこともあり得べきこととなります。その場合、その潤色等の内容として『隋書』に合わせて年次を移動した、という可能性も考えられるわけであり、上に縷々行った論証はそのことを示すものでもあります。

(※)大正新脩大藏經 法苑珠林百卷/卷四十/舍利篇第三十七/慶舍利感應表「…高麗百濟新羅三國使者將還。各請一舍利於本國起塔供養。詔並許之。…」
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隋代七部楽と遣隋使

2020年03月07日 | 古代史
 「開皇二十年」記事の中に「倭国」の「国楽」について書かれた部分があります。
(再掲)
「…其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂。…」
 この「国楽」との関連が考えられるのが、「隋代七部楽」の制定です。その中には「雑楽」の中の一部として「倭国」の楽も入っています。
「…始『開皇初』定令置七部樂。一曰國伎、二曰淸商伎、三曰高麗伎、四曰天竺伎、五曰安國伎、六曰龜茲伎、七曰文康伎。又雜有疏勒・扶南・康國・百濟・突厥・新羅・『倭國』等伎。…。」(『隋書卷十五 志第十/音樂下/隋二/皇后房内歌辭』より)
 この「七部楽」はここに見るように「開皇の始め」に初めて制定されたというわけです。
 『隋書』を見ると「開皇九年」に以下の記事があるのが確認できます。
「十二月甲子,詔曰:「朕祗承天命,清蕩萬方。百王衰敝之後,兆庶澆浮之日,聖人遺訓,掃地?盡,制禮作樂,今也其時。朕情存古樂,深思雅道。鄭、衞淫聲,魚龍雜戲,樂府之?,盡以除之。今欲更調律呂,改張琴瑟。且妙術精微,非因教習,工人代掌,止傳糟粕,不足達神明之德,論天地之和。區域之間,奇才異藝,天知神授,何代無哉!蓋晦迹於非時,俟昌言於所好,宜可搜訪,速以奏聞,庶覩一藝之能,共就九成之業。」仍詔太常牛弘、通直散騎常侍許善心、祕書丞姚察、通直郎虞世基等議定作樂。…」
 ここでは「文帝」が「制禮作樂,今也其時。」と語っていることからもわかるように「楽」を定めるとしています。この時点は「南朝」を滅ぼし「中国」を統一した時点であり、ここで南朝の「楽」が「隋」にもたらされたものです。(この「南朝」の「楽」が「七部楽」の「二」にいう「淸商伎」と考えられているようです。)
 これを契機に「七部楽」を「儀礼」に使用する正式なものとして制定したものと見られるわけです。(※)
 この「七部楽」に採用された各「伎楽」は「勢力下」に置かれた地域の「楽」であり、それは「南朝」のように「征服」によってもたらされるケースや、「高麗」などの場合は「北魏」による「燕」などの東方勢力を征服したこととの関連が考えられる場合などがあります。「倭国」の「楽」の場合も明らかに「外交」によるものであったと思われ、いわゆる「朝貢」に伴うものであったと見るべきでしょう。
 これが、民間伝承のような形で伝わったとか、「百済」や「新羅」など半島の国を経由して伝わった、いわば「間接的」なものというような解釈はできないと思われます。このように「制度」として定められたと言うことは、いわば「フォーマル」なものであり、正式な「外交」の成果としてもたらされたものと考えるべきでしょう。それは「倭国」に限らず、各国からの「正式」な(公式な)ものとして「隋」にもたらされたことを推定させるものであり、そうであれば少なくともこの「開皇九年」という「隋初」段階(あるいはそれ以前)に「遣隋使」が送られていたことの証左とも言えるものです。
(前王朝である「北周」の史料には「倭国」が現れませんから、早くても「隋代」であるのは確かと推察できます。)
 従来からこの「隋代七部楽」の成立というものと「開皇二十年記事」に書かれた「国楽」というものの間に関係があるとは考えられていたものの、その場合この両者間に「年次」の「矛盾」が発生してしまう点についてはある意味「無視」され、この「開皇二十年記事」を「隋代」全体に亘る知識として理解して処理していたものです。
 しかし、この「開皇二十年記事」はその時点の「遣隋使」が「皇帝」からの下問に応えたものをまとめたものと思われ、少なくともその年次における「事実」が「主」たるものであるのは明らかであると思われます。そこには「国交開始」を示唆する記事があり、それに対し「隋代七部楽」の中に「倭」があることが問題となっていたわけです。上にみたように「七部楽」を含む「国楽」の成立は「高祖」の治世期間の初期のものと理解されるものですから、当然「倭国」から「国楽」が「隋」に奉納されたのも同様に「隋初」のこととならざるを得ないものであり、それはこの「開皇二十年記事」の「年次」には明確な「疑い」が生じざるを得ないことを表すものといえます。
 つまり、この記事についても「大業三年記事」と同様本来「国楽」を定める以前の「隋初」の時代の記事であったという可能性を考える必要があるということとなるでしょう。
 またそれは「大業三年記事」に「鼓角を鳴らして」の「歓迎」の儀式が書かれている事と関連していると思われます。つまり、この「鼓角を鳴らす」という「楽」は逆に「隋」から「倭国」へ取り込まれたものと考えられるわけです。
 そもそも「鼓吹」あるいは「鼓角を鳴らす」というものは「戦い」に関するものであり「日本」の戦国時代に「ホラ貝」を鳴らすことで自陣に対する指示などを伝達していたらしいことが知られていますが、その原型は「鼓吹」にあったと考えられ、『旧唐書』などにも「鼓吹」が「軍楽」であるという内容の記事が見られます。
『…景龍二年,皇后上言:「自妃主及五品以上母妻,并不因夫子封者,請自今遷葬之日,特給鼓吹,宮官亦準此。」侍御史唐紹上諫曰:「竊聞鼓吹之作,本為軍容,昔?帝?鹿有功,以為警衞。故?鼓曲有靈?吼、鵰鶚爭、石墜崖、壯士怒之類。自昔功臣備禮,適得用之。丈夫有四方之功,所以恩加寵錫。假如郊祀天地,誠是重儀,惟有宮懸,本無案架。故知軍樂所備,尚不洽於神祇;鉦鼓之音,豈得接於閨?。準式,公主王妃已下葬禮,惟有團扇、方扇、綵帷、錦障之色,加至鼓吹,?代未聞。…』(『舊唐書 志第八/音樂一』より)
『…(武徳)六年,薨。及將葬,詔加前後部羽葆鼓吹、大輅、麾幢、班劍四十人、虎賁甲卒。太常奏議,以禮,婦人無鼓吹。高祖曰:「鼓吹,軍樂也。往者公主於司竹舉兵以應義旗,親執金鼓,有克定之勳。周之文母,列於十亂,公主功參佐命,非常婦人之所匹也。何得無鼓吹。…」』(『舊唐書/列傳第八/柴紹 平陽公主 馬三寶』より)
 この二つの例ではいずれも周囲から「鼓吹」は「軍楽」であるから「婦人」の葬儀には使用できないとしており、また後の例では「高祖」はそれを承知している発言(高祖曰:「鼓吹,軍樂也。…」)をしています。このことから「裴世清」を迎えた「鼓吹」も「軍楽」としてのものであった、つまり「裴世清」を「軍」が出迎えたと考えられることとなるでしょう。
 そのような「楽制」の伝来があった時期は少なくとも「開皇二十年記事」の「俗」に関する記事として揚げられているものの中に「楽器」があり、そこには「…樂有五弦琴笛。…」とあるだけで「鼓」も「角(つのぶえ)」も書かれていない事から、この「鼓角」という「楽器」はこの「開皇二十年記事」以降に「倭国内」に流入したものと考えられること、またそれは「隋皇帝」からの「下賜」としてのものであったという可能性が高いことを示すものと思料されます。
 この「隋」で制定されたという「七部楽」は「煬帝」即位以降の「大業年中」に「九部楽」に改正されましたが、そこからは「倭国」の楽が(「新羅」や「百済」とともに)脱落しています。(「雑楽」そのものがなくなっている)
 これは明らかに「煬帝」に至る以前に「倭国」との間に「友好的」関係が破綻し、宮廷楽から除外されるに至る何らかの事象があったことによると考えられ、それは「天子」を標榜した「国書」が送られたこと、それに対し「使者」を派遣し「宣諭」し、「叱責」したという一連の流れが該当すると思われ、その意味からも「大業三年」という段階で「友好的内容」の国書が送られた可能性が低いことを想定させるものです。

(※)王小盾「中国楽部史における七部楽について」國學院大學北海道短期大学部紀要第二十七巻
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「大業三年記事」への疑い

2020年03月06日 | 古代史
 前の投稿で述べた「疑い」について以下にその徴証といえるものを示します。
『隋書俀国伝』に書かれた「倭国王」の言葉に「聞海西菩薩天子重興仏法」というのがあります。
「大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。…」(『隋書/列傳第四十六/東夷/俀国』より)
 ここで言う「菩薩天子」とは「菩薩戒」を受けた「天子」を言うと思われます。中国の天子には「菩薩戒」を受けた人物が複数おりますが、ここで該当するのは「隋」の「高祖」(文帝)ではないでしょうか。彼は「開皇五年」に「菩薩戒」を受けています。これに対し「煬帝」も「天台智顗」から「授戒」はしていますが、それは「即位」以前の「楊広」としてのものでしたから、厳密には「文帝」とは同じレベルでは語れないと思われます。さらに、「文帝」であれば「重興仏法」という言葉にも該当すると言えます。
 「北周」の「武帝」は「仏教」を嫌い、「仏教寺院」の破壊を命じるなど「廃仏毀釈」を行ったとされます。「文帝」は「北周」から「授禅」の後すぐに「仏教」の回復に乗り出しました。
 彼は「出家」を許可し、「寺院」の建築を認め、「経典」の出版を許すなどの事業を矢継ぎ早に行いました。重要なことはそこに「文帝」に直接関連することとして「重興仏法」という用語が明確に使用されていることです。
「…及年七歲告帝曰。兒當大貴從東國來。佛法當滅由兒興之。而尼沈靜寡言。時道成敗吉凶。莫不符驗。初在寺養帝。年十三方始還家。積三十餘歲略不出門。及周滅二教。尼隱皇家。內著法衣。戒行不改。帝後果自山東入為天子。『重興佛法』。皆如尼言。…」(大正新脩大藏經 史傳部二/二○六○ 續高僧傳/卷二十六/感通下正傳四十五 附見二人/隋京師大興善寺釋道密傳一)
 これによれば、「重興仏法」という用語が「文帝」と関連して使用されていることは明白です。
 また後の「唐」の「宣帝」についても「重興仏法」という用語が使用されています。
「釋日照。姓劉氏。岐下人也。…庵居二十載。屬會昌武宗毀教。照深入巖窟。飯栗飲流而延喘息。大中宣宗『重興佛法』。率徒六十許人。還就昂頭山舊基。… 」(大正新脩大藏經 史傳部二/二〇六一 宋高僧傳卷十二/習禪篇第三之五正傳二十人 附見四人/唐衡山昂頭峯日照傳)
 彼の場合は「武宗」により発せられた「廃仏令」(「会昌の廃仏」)を廃し、「仏教保護」を行ったとされます。これは「隋」の高祖と同様の事業であったものであり、「重興仏法」の語義が「一度廃れた仏法を再度興すこと」の意であることがこの例から読み取れます。
 これに対し「煬帝」に関連して「重興仏法」という用語が使用された例が確認できません。彼は確かに「仏法」を尊崇したと言われていますが、「文帝」や「唐の宣帝」のような宗教的、政治的状況にはなかったものであり、「重興仏法」という語の意義と彼の事業とは合致していないと言うべきです。このことから考えると、「倭国」からの使者が「煬帝」に対して「重興仏法」という用語を使用したとすると極めて不自然と言えるでしょう。
 さらに「倭国王」から「裴世清」への言葉の中に「大國維新之化」というものがあることにも注目されます。
「…其王與清相見大悅曰 我聞海西有『大隋禮義之國』、故遣朝貢。我夷人僻在海隅不聞禮義、是以稽留境内不即相見。今故清道飾館以待大使、冀聞『大國惟新之化』。…」
 ここで言う「維新」の語も「隋書」では「煬帝」に対して使用された例がなく、「高祖」に対してのものしか確認できません。
(以下「維新」の例)
「梁武帝本自諸生,博通前載,未及下車,意先風雅,爰詔凡百,各陳所聞。帝又自糾擿前違,裁成一代。周太祖發跡關、隴,躬安戎狄,羣臣請功成之樂,式遵周舊,依三材而命管,承六典而揮文。而下武之聲,豈姬人之唱,登歌之奏,協鮮卑之音,情動於中,亦人心不能已也。昔仲尼返魯,風雅斯正,所謂有其藝而無其時。『高祖受命惟新』,八州同貫,制氏全出於胡人,迎神猶帶於邊曲。…」(『隋書/志第八/音樂上』より)
「…『高祖受終,惟新朝政』,開皇三年,遂廢諸郡。洎于九載,廓定江表,尋以戶口滋多,析置州縣。煬帝嗣位,又平林邑,更置三州。既而併省諸州,尋即改州為郡,乃置司隸刺史,分部巡察。五年,平定吐谷渾,更置四郡。…」(『隋書/志第二十四/地理上』より)
 この「維新」という用語は上の例にもあるように「受命」と対になった観念であり、まさに「初代皇帝」についてのみ使用しうると言えるでしょう。また他には「梁の武帝」の例、「齋(南斉)の高帝」の例があり、いずれも新王朝の開祖としての使用例です。つまりこれが「煬帝」へのものであったとすると不審としかいえないわけです。(他に「唐」の「高宗」の使用例(即位の詔)もありますが、文脈上それは「高祖」あるいはそれを継承した「太宗」につながるものであり、自らの治世に対する発言ではありません。)
 さらに「大隋禮義之国」という表現も、「隋代」の中でも「煬帝」よりは「高祖」の時代にこそふさわしい表現であると思われます。なぜなら「禮制」は「北魏」以降「南朝」の制度を取り込んで体系化していったものですが、「北齊」である程度の完成をみた後、「隋」がさらに継承・発展させたものです。例えば「朝服制度」や「楽制」など多くの「禮制」が「隋代」にまとめられたとされていますが、それらは全て「高祖」によるものであったのです。
 また「禮義」とは「禮制」(儀礼など)を言うと思われるものの、またそれ以外の「道徳律」なども含んだものと思われ、「隋」時点ではさらに「刑法」と関連したものとして考えられていたようです。
「夫刑者,制死生之命,詳善惡之源,翦亂誅暴,禁人為非者也。聖王仰視法星,旁觀習坎,彌縫五氣,取則四時,莫不先春風以播恩,後秋霜而動憲。是以宣慈惠愛,導其萌芽,刑罰威怒,隨其肅殺。『仁恩以為情性,禮義以為綱紀,養化以為本,明刑以為助。』…」(『隋書/志第二十/刑法』より)
 ここでは「仁恩」と「養化」、「禮義」と「明刑」とが対句として使用されています。「養化」が「本」であり、「明刑」はその「補助」であるというわけですが、その「養化」の為には「仁恩」が必要であり、「明刑」が生きるためには「禮義」が「綱紀」とならなければならないというわけです。
 このような例から考えると、ここで「倭国王」が述べているのは「隋」には「綱紀」の基準として「刑法」がしっかり機能しており、その「綱紀」は「禮義」によって維持されているということではないでしょうか。その場合「念頭」に置かれているのは「開皇律令」というものの存在であったと思われます。
 「開皇律令」は「開皇」の始めに造られたものであり、「律令」そのものはそれ以前からあったものの、この「隋」時点において「法体系」として整備、網羅され、ひとつの「極致」を示したとされます。ただしそれも「禮義」が整っていてこそのものと思われ、その意味で「隋」を「禮義之国」と呼称したという可能性が考えられるものであり、その「禮義之国」を造ったのは「高祖」であるわけですから、これを「煬帝」に対するものとははなはだ言いにくいものと思われるわけです。
 「古田氏」は「大部写経」などの実績からこの「重興仏法」した天子を「煬帝」であるとして疑ってはいないようですが、上に見るように「文帝」を差し置いて「重興仏法」という用語を「煬帝」に使用したと理解するのはかなり困難であるように思われます。
 この点については、多元史論者以外でも従来から問題とはされていたようですが、その解釈としては「煬帝」にも「仏教」の保護者としていう面はあるということから「不可」ではないという程度のことであり、極めて恣意的な解釈でした。あるいは「文帝」同様の「仏教」の保護者であるという「賞賛」あるいは「追従」を含んだものというようなものや、まだ「文帝」が在位していると思っていたというようなものまであります。
 しかし、上に見るように「重興仏法」などの用語が「文帝」に即した使用例しかないこと考えると、その用語を「煬帝」に向けて発しても「賞賛」にはならないのではないでしょうか。それは「煬帝」にも、その言葉を直接耳にすることとなった「裴世清」にも(彼が「煬帝」から派遣されていたとすると)、「違和感」しか生まないものであったと思われます。
 また、「倭国年号」のうち「隋代」のものは全て「隋」の改元と同じ年次に改元されており、それは当時の「倭国王権」の「隋」への「傾倒」を示すものと思われますが、また改元等の情報の入手にも積極的であったことを示しものでもありますが、必要な情報は「百済」を通じて得ていたものと思われます。
 この当時「百済」は「隋」から「帯方郡公」という称号を与えられており、ちょうど「魏晋朝」において「倭国」が「帯方郡」を通じて「中国」と交流していたように「百済」を通じて「隋」の情報を得ていたとして不思議はありません。そうであれば「皇帝」の存否の情報などを「倭国王権」が持っていなかったというようなことは考えにくいと言え、この「重興仏法」という言葉は正確に「高祖」に向けて発せられたものと考えるしかないこととなるでしょう。
 この推測の傍証と言えるのは(一見関連が薄そうですが)「元史」に書かれた「日本」への使者派遣の記事です。
 「元」はいわゆる「元寇」と呼ばれる「文永の役」「弘安の役」の以前に日本「招慰」のためとして「使者」を派遣していますが、それが「趙良弼」という人物でした。彼が日本へ着くと(博多湾近隣の島に到着したと思われます)「大宰府」から人が来て「国書」を見せるように要求したのに対して、「趙良弼」は「倭国王」に直接会ってお渡しすると言ってはねつけたとされます。その時の彼の言葉が「元史」に残っています。
(元史/列傳 第四十六/趙良弼より) 「…隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎…」
 これによれば「裴清」(裴世清)は「隋の文帝」が派遣したと明確に書かれています。ここで「王郊迎成禮」とされているのが『隋書』の「倭王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毗 、從二百餘騎郊勞。」という部分に対応すると思われますから、彼が言う「裴世清」を派遣したというのは「大業三年記事」に対応するものと思われますから、年次に対する「疑い」が正当なものであることが言えます。(開皇二十年記事には「隋使」派遣の記事がなくまた倭国側の受け入れを記した記事も当然ながらありませんからこの記事との関連はないと思われることとなります。)
 ただしこの「元史」は「杜撰」というような評価があり、これを補筆・改定するために改めて「清代」に「新元史」が編纂されましたが、この部分はその「新元史」でもやはり「随文帝」と書かれており、修正はされていないようです。
 「趙良弼」や「元史」の編纂者が『隋書』を見ていなかったとは考えにくく、そうであれば「裴世清」を「文帝」が派遣したとは現在の『隋書』を見る限り理解することはできないものです。このことは、彼らは何か「別の史料」(これは不明ですが『隋書』編纂時に参考にされたものがその後宮廷の書庫に残っていたことが考えられ、「王劭」版「隋書」であったという可能性も考えられるところです)によってこのような知識を彼らの教養として身につけていたものではないでしょうか。
 以上のような思惟進行によれば、この『隋書俀国伝』記事については『本当に「大業三年」の記事であったのか』がもっとも疑われるポイントとなります。つまりこの「倭国王」の話した内容は「隋」の「高祖」の治世期間であれば該当するものと思われるのです。
(続く)
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「大業起居注」の亡失

2020年03月06日 | 古代史
以下は以前同内容で投稿したことがありますが、古田史学会報でこのところいくつか「遣隋使」関連の問題が議論されているのを見て別の視座もあるのではという思いから再度投稿するものです。

 『隋書俀国伝』には「大業三年」の事として「隋皇帝」が「文林郎裴世清」を派遣したことが書かれています。この記事は、その年次が『書紀』の「遣隋使」記事と一致しているため、従来から疑われたことがありません。「遣隋使」に関わる議論の立脚点として「史実」であるという認定がされていたようです。『推古紀』記事についてそれが「大業三年」記事と同一ではないという指摘をされた「古田氏」においても、その「大業三年」記事そのものについては言ってみれば「ノーマーク」であったわけです。
 おなじ『隋書』中にある「開皇二十年」記事は該当すると思われる記事が『書紀』にないこともあり、特に戦前はその存在は疑問視と言うより無視されていました。近年はこの「開皇二十年」記事についてもその存在を認める方向で研究されているようですが、この「大業三年」記事については『書紀』との食い違いがあったとしてもそれは『書紀』側の問題として考えられていたものであり、これについては問題視されることがありませんでした。しかし、他の資料(『通典』・『冊布元亀』)には「開皇二十年記事」と一括で書かれているなどの点が認められ、記事として確実性がやや劣ると見られているようです。それは「起居注」との関係からです。
 これらの「史書」の元ネタとも言うべき「宮廷内」における「皇帝」の言動を記した「起居注」については、「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという説があります。確かに『隋書経籍志』中にも「開皇起居注」はありますが、「大業起居注」は漏れています。
 また「隋」から受禅した段階では「秘府」(宮廷内書庫)にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。特に「大業年間」の資料の散逸が著しかったとされ、それは「隋代」から「唐初」にかけての人物である「杜宝」という人物が著した『大業雑記』の「序」に「『貞観修史』(註)が不完全だからこれを書いた」という意味のことが書かれていること、つまり『隋書』編纂が完了した段階においてすでに「大業年間」の記事の正確性などに疑問符がつけられていたことからも窺えます。それは『資治通鑑』の「大業年中」の記事に複数の資料(「趙毅」の『大業略記』、「杜儒童」の『隋季革命記』、「劉仁軌」の『河洛行年記』等)が参照されていることなどからもまた推察できることでもあります。
 さらに『隋書』の末尾に書かれた「跋文」からも同様のことが示唆されています。
「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。唐武德五年,起居舍人令狐德棻奏請修五代史。《五代謂梁、陳、齊、周、隋也。》十二月,詔中書令封德彝、舍人顏師古修隋史,緜歷數載,不就而罷。貞觀三年,續詔秘書監魏徵修隋史,左僕射房喬總監。徵又奏於中書省置秘書內省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。徵總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆徵所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,徵等詣闕上之。…」(『隋書/宋天聖二年隋書刊本原跋』 より)
 つまり『隋書』の原史料としては「王劭」が書いたものがあるもののそれは「高祖」(文帝)の治世期間である「開皇」と「仁寿」年間の記録しかないというわけです。そして、その後「唐」の「高祖」(李淵)により武徳年間に「顔師古」等に命じて「隋史」をまとめるよう「詔」が出されますが、結局それはできなかったとされます。理由は書かれていませんが最も考えられるのは「大業年間」以降の記録の亡失でしょう。
 『旧唐書』(「令狐徳菜伝」)によれば「武徳五年」(六二二)に「令狐徳菜」が「唐」の「高祖」に対し、「経籍」が多く亡失しているのを早く回復されるよう奏上し、それを受け入れた「高祖」により「宮廷」から散逸した諸書を「購募」した結果、数年のうちにそれらは「ほぼ元の状態に戻った」とされています。
「…時承喪亂之餘,經籍亡逸,德棻奏請購募遺書,重加錢帛,增置楷書,令繕寫。數年間,羣書略備。…」(『舊唐書/列傳第二十三/令狐德棻』より)
 しかしここでは「亡逸」とまでいわれているわけですからそれが数年の内に全て戻ったとも考えにくいものです。それを示すのは同じ『旧唐書』の「魏徴伝」です。
「…貞觀二年,遷秘書監,參預朝政。徵以喪亂之後,典章紛雜,奏引學者校定四部書。數年之間,秘府圖籍,粲然畢備。…」(『舊唐書/列傳第二十一/魏徵』より)
 ここでも「粲然畢備」とされており、それ以前に元に戻ってはいなかったことを示唆しています。また「魏徴」等の努力によって原状回復がなされたように書かれていますが、全ての史料を集めることができたかはかなり疑問であり、失われて戻らなかったものもかなりあったものと思われます。
 また、これに関しては「太宗」が「魏徴」に『隋書』の編纂について質問したことが記録にあるのが注意されます。
「太宗問侍臣:「隋大業起居註,今有在者否?」公對曰:「在者極少。」太宗曰:「起居註既無,何因今得成史。」公對曰:「隋家舊史,遺落甚多。比其撰?,皆是采訪,或是其子孫自通家傳參校,三人所傳者,従二人為實。」又問:「隋代誰作起居舍人?」公對曰:「『崔祖濬』『杜之松』『蔡允恭』『虞南』等臣毎見、『虞南』説『祖濬』作舎人時大欲記録但隋主意不在此毎須書手紙筆所司多不即供為此私將筆抄録非唯經亂零落當時亦不悉具。」(王方慶撰『魏鄭公諌録巻四対隋大業起居注条』より)
 つまり「太宗」が「隋の大業起居注はあるか」と聞くと魏徴は「ほとんど残っていない」と答えており、太宗が「起居注がなくてどのように『隋書』を編纂したのか」と問うと、魏徴は「隋の記録は遺落が激しかったので、『隋書』編纂に際しては、探訪して調査し、また子孫が家伝に通じていれば、三人の記録のうち二人が一致した場合にそれを事実として採用した」と答えているのです。
 結局、この問答からも『大業起居注』はそもそも不備であったか、あっても逸失のまま取り戻すことはできなかったものであり、せいぜい各家の家伝を参考資料とする事しかできなかったことを示すものです。(ただ「家伝」というのが誰のことを指すのか不明ですが、「起居舎人」のことを指すならば、彼等が自分の知り得たことを私的に書いていたとは思われず、使える史料があったは思われません。また「口伝」の類であるなら、およそ正確性に欠くものであり、正史に使用できるレベルとは言えなかったのではないでしょうか。そうであるなら「魏徴」の言葉は単なる「言い訳」であり、彼としても正確には答えられない部分もあったということではないかと思われる訳ですが、そもそも「太宗」がこのような質問をしたという時点で「太宗」自身が『隋書』の編纂の内情に疑いを持っていたことを示すものといえるでしょう。)
 これらのことから「大業三年記事」はその信憑性にかなり疑問符がつくといえるのではないでしょうか。
 では実際には「開皇年間」(及び仁寿年間)の記事しかなかった、あるいは「大業年間」記事はわずかしかなかったとするなら、この「大業三年記事」を含む多くの記事はいったい何を元に書かれたものでしょうか。
 これについては推測するしかないわけですが、「唐」の「高祖」以来の懸案であった「前史」修史事業が不首尾に終わるわけにはいかないのは確かであり(何しろ「皇帝」の命は絶対ですから)、「大業起居注」が欠落した中でどうしても「隋史」を書かざるを得なくなったという事情の中、やむをえず「開皇起居注」から記事を移動して「穴埋め」をしたという可能性(疑惑)が考えられるでしょう。その結果「開皇年間」に書かれるはずの記事が「大業年間」にみられるという「事象」が発生していると思われるわけです。
 つまりその多くが本来もっと「以前」のこととして記録されていたものではないかという疑いが生じることとなり、それはこの記事についても「隋」の「高祖」の治世期間のものであり、そこに書かれた「遣隋使」はまさに「遣隋使」だったという可能性を考えるべきということになると思われます。その徴候を以下に見てみます。
(続く〕
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