すでに考察したように「大業三年記事」はそれをかなり遡上する時期の記事を移動して書いていると考えられることとなりました。それは「鴻臚寺掌客」としての「裴世清」が、実態としては「隋」の高祖からの使者であると理解しなくてはならないことを意味することとなり、その場合「裴世清」の肩書きの問題を解く必要が出てきます。
『書紀』の「遣隋使」記事では「肩書き」(「隋皇帝」から「推古天皇」に送られたという詔書の記載による)では「鴻廬寺掌客」となっており、『隋書』の記載の「文林郎」とは食い違いを見せています。
「文林郎」は「大業年間」の「煬帝」の時代に「散官」ではなく「実務」を担当する者として現れます。また「隋」の「高祖」の時代には、当初なかった「文林郎」が「開皇年間」に新設されたことが『隋書百官志』に書かれています。
「…六年,尚書省二十四司,各置員外郎一人,以司其曹之籍帳。侍郎闕,則釐其曹事。吏部又別置朝議、通議、朝請、朝散、給事、承奉、儒林、『文林等八郎』,武騎、屯騎、驍騎、游騎、飛騎、旅騎、雲騎、羽騎八尉。其品則正六品以下,從九品以上。上階為郎,下階為尉。散官番直,常出使監檢。…」(隋書/志第二十三 百官下/隋)
ただしこれを見ると「秘書省」の一員としての存在ではないようであり、「煬帝」の時代の「文林郎」とはやや異なる立場ともいえます。
さらに『列伝』の中に「高祖」に意見する人物として「文林郎」の肩書きを持ったものが登場します。
「…時文林郎楊孝政上書諫曰:「皇太子為小人所誤,宜加訓誨,不宜廢黜。」上怒,撻其胸。尋而貝州長史裴肅表稱:「庶人罪黜已久,當克己自新,請封一小國。」高祖知勇之黜也,不允天下之情,乃?肅入朝,具陳廢立之意。…」(『隋書/列傳第十 文四子/房陵王勇』より)
これは皇太子であった「楊勇」を廃する決定を行った際の「仁寿年間」の出来事であり、この時点ですでに「文林郎」が存在しているという事実を反映しているものです。つまり「高祖」の時代に「文林郎」という職官がいたであろうと推察できるわけです。
これに対し「鴻臚寺掌客」というのは正式な外務官僚です。またこの両者は階級というべき「品(ほん)」が異なっているとされます。確かに「煬帝」治世下では「文林郎」は「従八品」であるのに対して「鴻臚寺掌客」は「正九品」ですが、上に見る「開皇年間」の「文林郎」は「従九品以上」であるのは確かですが、明確に規定されているわけではなく、必ず「上」とも言い難い存在です。これについては通常「兼務」などという解釈もされているようであり、そのため従来の解釈では、「倭国」への使節に任命された際に「鴻臚寺掌客」という「外務」に携わる「職掌」を併せて与えられたと見るわけですが、そのような場合元の職掌よりも上位の「冠位」に相当する職掌が与えられて然るべきであろうと思われ、そうなっていないのはやはり不審です。
「裴世清」は「倭国王」などと対面する際、自己紹介したでしょうし、それは書かれたものでなければ「正確」なものとはならないはずですから、そのような資料(書状)が「倭国側」に渡ったはずです。これが『書紀』中に出てくるものの参考資料となったものと考えられます。これが「兼務」であるとすると「冠位」の高い方が先に書かれ、また名乗られたと考えなければならないでしょう。そうであれば、名乗った冠位と職掌は「文林郎兼鴻櫨寺掌客」となるはずであり、その逆ではないでしょう。しかるに『書紀』の「国書」には「兼務」した職掌である(後に書かれた「冠位」の低い方の)「鴻臚寺掌客」だけが書かれたとしなければならなくなりますが、それは明らかに不合理であると思われます。
そもそも「外交使節」などに抜擢する場合、冠位を飾るのはよくある話ですが、本来の職位より低い冠位あるいは「同等」の冠位の職掌を充てたのでは「飾る」こととなりません。こう考えるとこの「倭国側資料」にある(しかも皇帝からの「詔」の文中に存在する)「鴻臚寺掌客」というものが「派遣」時点における彼の本来の「職掌」そのものであると考えざるを得ないこととなります。つまり「倭国」に「国書」を持参した際の「裴世清」は「文林郎」ではなかったと考えざるを得ません。この「鴻臚寺掌客」が彼の本来の職分であり、決して「文林郎」と兼務していた訳でもなく、また「文林郎」が正式の職掌でもなかったと推定するしかないこととなります。
そう考えると、元々「隋代初期」には「鴻臚寺掌客」であったものが次に来倭した時点では「文林郎」であったと考えるとスムースではないでしょうか。その場合「冠位」の矛盾は起きません。つまり「唐」の時代に来倭したとするより「隋代初期」に来倭し、その後再度倭国を訪れたと考える方が無理がないと言えるわけです。
この「鴻臚寺掌客」という官職についてみてみると、『隋書』には「鴻臚寺」という官職名が「隋」に始まるとされ、また「掌客」つまり「対応を担当する職掌」という意味の「典侍署」があったとされています。このことから「鴻臚寺掌客」という職名が「鴻臚寺典客署掌客」という正式な官職名の縮約であり、これは「隋」の始めに「高祖」により制定された官制にあるものであり(『隋書百官志下』)、その意味からは「隋代初期」という時期がもっともふさわしいともいえるでしょう。
また「裴氏族」の「系譜」が書かれた『裴氏家譜碑』(※2)によれば、「裴世清」は「貞観年間」には「江州刺史」として存命していたとされています。この「刺史」という官職はかなり「位階」が高く、「上州」であれば「三品」、「下州」であれば「四品」とされていますが、『裴氏家譜碑』によると「江州」は「下州」とされており「従四品上」の位階を得ていたようです。
さらに同碑によれば、彼は「武徳七年」(六二四年)以前に既に「駕部・主客二郎中」であったとも記されており、これはほぼ「五品」に相当し、さらに「貞観二年」(六二八年)に「都督」(旧「総管」)であったとも記されています。(これは「四品」)このような昇進過程から考えると、「初唐」段階で「九品」というのは明らかに低すぎると言えるでしょう。
しかし、上に推定したようにこの「鴻臚寺掌客」としての「来倭」が隋代であり「開皇の始め」という時期であったとすると、「初唐」の時期に降格したという想定はしなくて良いわけですから、「六〇八年」段階の「文林郎」(従八品)から、約三十年で二十階位以下の昇進でよいこととなります。これは一見かなりノーマルな昇進速度といえるようです。ただし、そうなると逆に「隋初」から「大業三年」までの昇進が異常に遅いこととなるという問題が発生しますが、これは『隋書』の年代が正確であるという前提ですから、『隋書』の年次に対する疑いを検討した現段階では「大業三年」という年次が実際にはかなり遡上するとみれば不自然とは言えなくなります。
ところで、この当時「隋王朝」の高官として「裴世矩」という人物がいました。(彼は後に「太宗」の名である「李世民」の「世」を諱として避け「裴矩」と称したもの)彼と「裴世清」は同族ではなかったようですが(共に「河東裴氏」とされるものの「裴矩」が「西眷裴氏族」とされるのに対して「裴世清」は「中眷裴氏族」とされる)、「世」の一字を共有しており、近しい関係にあったことが推定できます。このように名前に文字を共有する場合「兄弟」や少なくとも「同世代」である場合が多く、彼らの場合も「年齢」も近いことが推定されますが、「裴矩」は「貞観元年」(六二七年)に「八十歳」で死去していることが知られていますから、「裴世清」はそれよりやや若い程度ではなかったかと思われ、上にみる「六三八年」の「江州刺史」段階で既に八十歳近かったという推定も可能でしょう。そうであれば「開皇初」で二十代であったらしいことが推定されますが、それは上に行った推定とは基本的に矛盾しないものです。
ちなみに「裴世矩」は「隋」の「高祖」から気に入られ「重臣」として活躍しました。当時は「黄門待郎」という地位にありましたがその後「唐」に「王朝」が代わった際にも「民部尚書」という官職をあてがわれています。これは「位階」で見ると「昇進」となります。この間「隋」から「唐」へ王朝は代わっても双方の官僚は基本的には「共通」していますし、「考課」も変らず行なわれたものと見られます。もちろん古田氏の言うような「王朝交替」に伴う人事異動(左遷・昇進)はあったでしょうけれど、そもそもそのような影響を受けたのは、「政局」に影響が大きい「高位」の存在が対象となったものと思われ、下から数えた方が早いような下級官吏には縁遠い話ではなかったでしょうか。そうであれば「裴世清」もそれほど「唐」建国時点で大幅な昇進や逆に降格があったと云うことは考えにくいこととなるでしょう。
これらのことから考えて「裴世清」は「隋初」段階で「鴻臚寺掌客」であったものであり、その後同じ「開皇年間」に「文林郎」として再度「倭国」を訪れたと見るのが相当と思われるわけです。
(※1)榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」(『アリーナ 2008』、2008年3月)
(※2)奥村裕之「唐朝政権の形成と太宗の氏族政策 -金劉若虚撰「裴氏相公家譜之碑」所引の唐裴滔撰『裴氏家譜』を手掛かりに-」史學研究會編「史林」九十五巻第四号二〇一二年。これによれば、「金」(一一七一年頃)の時代に「裴氏」の後裔が「裴氏一族」の家譜を刻んだ「碑」(裴氏相公家譜之碑)を建てたとされ、その中に「裴世清」についての記述があります。
『書紀』の「遣隋使」記事では「肩書き」(「隋皇帝」から「推古天皇」に送られたという詔書の記載による)では「鴻廬寺掌客」となっており、『隋書』の記載の「文林郎」とは食い違いを見せています。
「文林郎」は「大業年間」の「煬帝」の時代に「散官」ではなく「実務」を担当する者として現れます。また「隋」の「高祖」の時代には、当初なかった「文林郎」が「開皇年間」に新設されたことが『隋書百官志』に書かれています。
「…六年,尚書省二十四司,各置員外郎一人,以司其曹之籍帳。侍郎闕,則釐其曹事。吏部又別置朝議、通議、朝請、朝散、給事、承奉、儒林、『文林等八郎』,武騎、屯騎、驍騎、游騎、飛騎、旅騎、雲騎、羽騎八尉。其品則正六品以下,從九品以上。上階為郎,下階為尉。散官番直,常出使監檢。…」(隋書/志第二十三 百官下/隋)
ただしこれを見ると「秘書省」の一員としての存在ではないようであり、「煬帝」の時代の「文林郎」とはやや異なる立場ともいえます。
さらに『列伝』の中に「高祖」に意見する人物として「文林郎」の肩書きを持ったものが登場します。
「…時文林郎楊孝政上書諫曰:「皇太子為小人所誤,宜加訓誨,不宜廢黜。」上怒,撻其胸。尋而貝州長史裴肅表稱:「庶人罪黜已久,當克己自新,請封一小國。」高祖知勇之黜也,不允天下之情,乃?肅入朝,具陳廢立之意。…」(『隋書/列傳第十 文四子/房陵王勇』より)
これは皇太子であった「楊勇」を廃する決定を行った際の「仁寿年間」の出来事であり、この時点ですでに「文林郎」が存在しているという事実を反映しているものです。つまり「高祖」の時代に「文林郎」という職官がいたであろうと推察できるわけです。
これに対し「鴻臚寺掌客」というのは正式な外務官僚です。またこの両者は階級というべき「品(ほん)」が異なっているとされます。確かに「煬帝」治世下では「文林郎」は「従八品」であるのに対して「鴻臚寺掌客」は「正九品」ですが、上に見る「開皇年間」の「文林郎」は「従九品以上」であるのは確かですが、明確に規定されているわけではなく、必ず「上」とも言い難い存在です。これについては通常「兼務」などという解釈もされているようであり、そのため従来の解釈では、「倭国」への使節に任命された際に「鴻臚寺掌客」という「外務」に携わる「職掌」を併せて与えられたと見るわけですが、そのような場合元の職掌よりも上位の「冠位」に相当する職掌が与えられて然るべきであろうと思われ、そうなっていないのはやはり不審です。
「裴世清」は「倭国王」などと対面する際、自己紹介したでしょうし、それは書かれたものでなければ「正確」なものとはならないはずですから、そのような資料(書状)が「倭国側」に渡ったはずです。これが『書紀』中に出てくるものの参考資料となったものと考えられます。これが「兼務」であるとすると「冠位」の高い方が先に書かれ、また名乗られたと考えなければならないでしょう。そうであれば、名乗った冠位と職掌は「文林郎兼鴻櫨寺掌客」となるはずであり、その逆ではないでしょう。しかるに『書紀』の「国書」には「兼務」した職掌である(後に書かれた「冠位」の低い方の)「鴻臚寺掌客」だけが書かれたとしなければならなくなりますが、それは明らかに不合理であると思われます。
そもそも「外交使節」などに抜擢する場合、冠位を飾るのはよくある話ですが、本来の職位より低い冠位あるいは「同等」の冠位の職掌を充てたのでは「飾る」こととなりません。こう考えるとこの「倭国側資料」にある(しかも皇帝からの「詔」の文中に存在する)「鴻臚寺掌客」というものが「派遣」時点における彼の本来の「職掌」そのものであると考えざるを得ないこととなります。つまり「倭国」に「国書」を持参した際の「裴世清」は「文林郎」ではなかったと考えざるを得ません。この「鴻臚寺掌客」が彼の本来の職分であり、決して「文林郎」と兼務していた訳でもなく、また「文林郎」が正式の職掌でもなかったと推定するしかないこととなります。
そう考えると、元々「隋代初期」には「鴻臚寺掌客」であったものが次に来倭した時点では「文林郎」であったと考えるとスムースではないでしょうか。その場合「冠位」の矛盾は起きません。つまり「唐」の時代に来倭したとするより「隋代初期」に来倭し、その後再度倭国を訪れたと考える方が無理がないと言えるわけです。
この「鴻臚寺掌客」という官職についてみてみると、『隋書』には「鴻臚寺」という官職名が「隋」に始まるとされ、また「掌客」つまり「対応を担当する職掌」という意味の「典侍署」があったとされています。このことから「鴻臚寺掌客」という職名が「鴻臚寺典客署掌客」という正式な官職名の縮約であり、これは「隋」の始めに「高祖」により制定された官制にあるものであり(『隋書百官志下』)、その意味からは「隋代初期」という時期がもっともふさわしいともいえるでしょう。
また「裴氏族」の「系譜」が書かれた『裴氏家譜碑』(※2)によれば、「裴世清」は「貞観年間」には「江州刺史」として存命していたとされています。この「刺史」という官職はかなり「位階」が高く、「上州」であれば「三品」、「下州」であれば「四品」とされていますが、『裴氏家譜碑』によると「江州」は「下州」とされており「従四品上」の位階を得ていたようです。
さらに同碑によれば、彼は「武徳七年」(六二四年)以前に既に「駕部・主客二郎中」であったとも記されており、これはほぼ「五品」に相当し、さらに「貞観二年」(六二八年)に「都督」(旧「総管」)であったとも記されています。(これは「四品」)このような昇進過程から考えると、「初唐」段階で「九品」というのは明らかに低すぎると言えるでしょう。
しかし、上に推定したようにこの「鴻臚寺掌客」としての「来倭」が隋代であり「開皇の始め」という時期であったとすると、「初唐」の時期に降格したという想定はしなくて良いわけですから、「六〇八年」段階の「文林郎」(従八品)から、約三十年で二十階位以下の昇進でよいこととなります。これは一見かなりノーマルな昇進速度といえるようです。ただし、そうなると逆に「隋初」から「大業三年」までの昇進が異常に遅いこととなるという問題が発生しますが、これは『隋書』の年代が正確であるという前提ですから、『隋書』の年次に対する疑いを検討した現段階では「大業三年」という年次が実際にはかなり遡上するとみれば不自然とは言えなくなります。
ところで、この当時「隋王朝」の高官として「裴世矩」という人物がいました。(彼は後に「太宗」の名である「李世民」の「世」を諱として避け「裴矩」と称したもの)彼と「裴世清」は同族ではなかったようですが(共に「河東裴氏」とされるものの「裴矩」が「西眷裴氏族」とされるのに対して「裴世清」は「中眷裴氏族」とされる)、「世」の一字を共有しており、近しい関係にあったことが推定できます。このように名前に文字を共有する場合「兄弟」や少なくとも「同世代」である場合が多く、彼らの場合も「年齢」も近いことが推定されますが、「裴矩」は「貞観元年」(六二七年)に「八十歳」で死去していることが知られていますから、「裴世清」はそれよりやや若い程度ではなかったかと思われ、上にみる「六三八年」の「江州刺史」段階で既に八十歳近かったという推定も可能でしょう。そうであれば「開皇初」で二十代であったらしいことが推定されますが、それは上に行った推定とは基本的に矛盾しないものです。
ちなみに「裴世矩」は「隋」の「高祖」から気に入られ「重臣」として活躍しました。当時は「黄門待郎」という地位にありましたがその後「唐」に「王朝」が代わった際にも「民部尚書」という官職をあてがわれています。これは「位階」で見ると「昇進」となります。この間「隋」から「唐」へ王朝は代わっても双方の官僚は基本的には「共通」していますし、「考課」も変らず行なわれたものと見られます。もちろん古田氏の言うような「王朝交替」に伴う人事異動(左遷・昇進)はあったでしょうけれど、そもそもそのような影響を受けたのは、「政局」に影響が大きい「高位」の存在が対象となったものと思われ、下から数えた方が早いような下級官吏には縁遠い話ではなかったでしょうか。そうであれば「裴世清」もそれほど「唐」建国時点で大幅な昇進や逆に降格があったと云うことは考えにくいこととなるでしょう。
これらのことから考えて「裴世清」は「隋初」段階で「鴻臚寺掌客」であったものであり、その後同じ「開皇年間」に「文林郎」として再度「倭国」を訪れたと見るのが相当と思われるわけです。
(※1)榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」(『アリーナ 2008』、2008年3月)
(※2)奥村裕之「唐朝政権の形成と太宗の氏族政策 -金劉若虚撰「裴氏相公家譜之碑」所引の唐裴滔撰『裴氏家譜』を手掛かりに-」史學研究會編「史林」九十五巻第四号二〇一二年。これによれば、「金」(一一七一年頃)の時代に「裴氏」の後裔が「裴氏一族」の家譜を刻んだ「碑」(裴氏相公家譜之碑)を建てたとされ、その中に「裴世清」についての記述があります。