古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「天智」と「左手無名指」(再度)

2024年02月23日 | 古代史
今回もかなり以前に「投稿」していたものを再度アップします。
どうしても以前のものが「埋もれてしまう」という問題があり、「検索」窓はあるものの自然な流れで目に入るというものでもないため、時折リマインドする必要があるのかなと思って改めて投稿しているものの一環です。

「天智」と「左手無名指」

 『今昔物語集』など複数の資料に「天智」が「左手無名指」を切り落としたという記述があります。

「『今昔物語』巻十一 天智天皇、建志賀寺語第二十九」
「…其時ニ、天皇□(底本の破損による欠字)□召テ宣(のたま)ハク、翁、然々(しかしか)」ナム云テ失ヌル。定(さだめ)テ知ヌ、此ノ所ハ止事無(やむごとな)キ霊所也ケリ。此ニ寺ヲ可建(たつべ)シト宣(のりたまひ)テ、宮ニ返ラセ給ヒヌ。
其明ル年ノ正月ニ、始メテ大ナル寺ヲ被起(たてら)レテ、丈六(じやうろく)ノ弥勒(みろく)ノ像ヲ安置シ奉ル。
供養ノ日ニ成(なり)テ、灯盧殿(とうろでん)ヲ起(た)テ、王自(みづか)ラ右ノ名無シ指(および)ヲ以テ御灯明ヲ挑(かかげ)給テ、其ノ指ヲ本(もと)ヨリ切テ石ノ筥(はこ)ニ入(いれ)テ、灯楼(とうろう)ノ土ノ下ニ埋(うづ)ミ給ヒツ。」

 これによれば「指」そのものを灯明とした後、それを「埋納」したという事と理解されます。
 また、この『今昔物語集』と同様の記述は『元享釈書』や『扶桑略記』などの仏教資料にも見られます。

『元亨釈書巻二十一』「天智皇帝の段」
「七年正月初三。帝即位。曷為緩。考也。帝創建福寺于志賀都。當平基趾得寶鐸。長五尺五寸。又得白石。長五寸。夜有光。帝喜奇瑞斬左手無名指。納殿前燈幢石壇中。…」

『扶桑略記』「天智天皇の段」
「七年戊辰正月十七日。於近江國志賀郡。建崇福寺。始令平地。掘出奇異寶鐸一口。高五尺五寸。又掘出奇好白石。長五寸。夜放光明。天皇殺左手無名指。納燈爐下唐石臼内。奉為二恩。…(已上同寺縁起より)」

 更に「九八四年」に「源為憲」が著した『三宝絵』の下巻の「僧宝の十」にも、次のようにあります。

「…天智天皇、寺をつくらむの御願あり。此の時に王城は近江の国大津の宮にあり。寺所を祈りてねがひ給へる夜の御夢に、法師来りて申さく、「乾(いぬい)の方(北西)にすぐれたる所あり。とく出でてみ給へ」と。…
あくる戊辰の年(六六八年)の正月に、はじめてつくらしめ給ふ。土ひきて山を平ぐるに、宝鐸を堀り出でたり。また白き石あり。夜光をはなつ。
御門いよいよつつしみたうとび給ひて、堂をつくり、仏をあらはし給ひつ。御門、左の方の無名指をきりて石のはこに入れて、とうろうの土のしたにうづみをき給ふ。
これ、て(掌)に灯火を捧げて、弥勒に奉り給ふ志を表はし給へるなり。『志賀の縁起』にみへたり。」

 これは上の『三宝絵』では「弥勒」と関連したものとしていますが、実際には『法華経』の「薬王菩薩本事品」に見える以下の内容を下敷きにしたものではないかと考えられているようです。

「…若有發心。欲得阿■多羅三貌三菩提者。能燃手指。乃至足一指。供養佛塔。勝以國城妻子。及三千大千國土。山林河池。諸珍寶物。而供養者。…」『法華経薬王菩薩本事品第二十三』
 
 これらから理解されることは、「(崇)福寺」を造るに際して土地を開削したところ、「寶鐸」と「白石」を掘り出したとされ、「鐸」という表現をしているところから見て「内部」に「舌状」のものが吊り下げられている形状を想定させますから、いわゆる「銅鐸」ではないかと考えられますが、それと共に掘り出された「白石」が「夜光る」と言うことから、「帝」は「奇瑞」であると喜び、「左手無名指」を「灯籠」代わりとしてその身を燃やした後、その指を「本から」「切り落として」、「灯籠」の土の下(あるいは「燈幢」つまり「燈籠」と「幢」(旗竿状のもの)を建てる「石壇」の中)に「納めた」というわけです。
 これについては『元享釈書』では「殿前」とされ、この「殿」という表現からは「創建」された「建福寺」ではなく「宮殿」の「殿前」ではないかと思料されるものであり(「寺院」には「堂」はあっても「殿」はないと考えられます)、「宮殿」(この場合「淡海宮殿」か)の「正殿」の前には「燈」(明かり)「幢」(旗)があり、それらが立てられている基礎部分の石壇の中に自らの「左手無名指」を切断して「納めた」と言うことであると推定されます。
 更に「鑑真」と共に来倭した「思託」の『延暦僧録』によると(これは逸文として『本朝高僧伝』に記載されているものです)によれば、「無名指を切り落として」それを「灯明」に入れて燃やしたとされています。また『今昔物語集』以外ではそれを「左手」としています。(「 鳩摩羅什」の訳による『大智度論』 (No. 1509 龍樹造 ) in Vol. 25 などでは「…即時薩陀波崙右手執利刀刺左臂出血。割右髀肉復欲破骨出髓。…」とあり、右手に刃物を持つのが通常とされているようです。)
 このようにその事情に複数の説があるようですが、いずれも「指を切り落とした」という一点は共通であり、その行動の特異性が際だっています。
 これは明らかに一種の「生け贄」を捧げる儀式であると考えられるとともに、それが複数の史料では「左手」の「無名指」とされているのはなぜかと言う事が疑問とせざるを得ません。
 「第四指」は現在日本では「薬指」と称されていますが、これは以前「薬師指」であったことの名残であるとされています。またその「薬師指」の由来は、「薬」を解く(かき混ぜる)指がこの指であるとされていたからのようですが、なぜ「第四指」がその役目を負っていたのでしょうか。それはこの指に「魔法」の力があるとされていたという説が有力です。
 第四指は古代には洋の「東西」を問わず「無名指」などと表現されていた事が明らかになっています。例えば「サンスクリット語」や「ラテン語」「ペルシャ語」「ロシア語」「ガリア語」等々で「無名指」と同等の表現がされています。それはこの指に「魔法の力がある」とされていたからであるという研究があります。(※1)
 それによれば、その「魔法の力」がある「指」が「無名」であるのは、「名前」を知られると効果がないと考えられたからであるとされ、それは古来「戒名」や「古代の天皇の「諱」(いみな)なども「本名」であり、生前はそれを「魔物」に知られないように「伏せて」あったものであって、死んで始めて明らかになるという考え方に通じます。
 また「中国」などでは「名前」については通常「字」で呼称されまた表記されていたとされます。死後略歴などを記す場合には「本名」を書き、その後に「字」を書いていたものですが、例えば「百済根軍墓誌」の場合を見ると「公諱軍、字温」と書かれています。「諱」である「軍」が本名であり、「字」とされる「温」は通称です。生前は「諱」が明らかになったり使用される事はなく、「字」が使用されますが、死後は「諱」が使用されるようになります。それは「本当の名前」が「鬼神」に知られると「災い」が起きるとされていたからであり、「名前」にはそのものの「本質」が現れていると考えられていたようです。このことから、「名前」を知られることを極力避けていたと考えられます。
 この「第四指」についても、備わっている「魔法」の力が、その名前が知られることにより「減ずる」こととなってしまうと考えられ、そのため「無名指」(つまり名前のない指)となったのだと考えられます。
 「薬師如来」像も「左手」に薬壺を持ち、右手の「薬指」だけを上げて前方に伸ばしている形で造形されています。このことからこれらを造物する際にすでに「第四指」に意味を持たせているのは明らかであり、このことから「第四指」が「薬師指」と称される原因となったものと考えられます。
 この「第四指」に「魔法の力」あるいは「霊力」を認める考え方は上に見るように全世界の各地に見られるものであり、特に「左手の薬指」は、「心臓」が「左」にあるように見える事から特に重視されたものと思われます。そして、その指に装着する装飾具も同様に「霊力」を保持していると考えられたものであり、「指輪」がこの「第四指」に装着するものとされていた事もそれが理由であったと思われます。中でも「結婚指輪」が典型的な例であり、この指につけられることにより、その指輪をつけてくれた相手だけを好きになる「魔法」がかけられることとなるというわけです。
 この「左手無名指」に関する世界的な共通性について考えてみると、「チェス」と似ていると感じられます。
 「チェス」の起源は「インド」にあり「チャトランガ」と呼ばれる(サンスクリット語)「四人制」の「博戯」(当初はさいころを使用していた)であったとされます。それが「西方」に伝わり「チェス」となり、「東方」に伝わったものが「将棋」(日本の場合)「象棋」(中国の場合)となったとされます。(日本将棋の場合途中に「タイ」の「マックルック」を経由するようですが)
 このように「インド起源」のものが東西に拡散していった例があるわけであり、「無名指」の場合も「サンスクリット語」に於いても「無名指」と呼ぶと言うことを考えると、「第四指」を「無名指」と呼び、「霊的力があると考える」ことの起源が「インド」にあり、「チェス」や「将棋」と同様、「東西」に広がったものという推測が出来ると思われます。
 その起源は紀元前後であったと思われますが、それが周囲に伝搬するにはやや時間がかかり、「チャトランガ」が「チェス」や「将棋」として伝搬したのと同様の時期として推定すると、日本には六-七世紀には到着していたと見られます。(※2)それはこの「各資料」に出てくる「倭国王」が『隋書俀国伝』の時期の人物であるという推定が不自然ではないことを示すものです。
 ちなみに「第四指」が「霊的力」があるとされたのは、家族や村で共同作業などの際に「非力」である、「要領が悪い」というようないわば「役立たず」の人間のできる事は「祈ること」だけであったと言うことが関係しているのではないかと推察されます。(「卑弥呼」が支持された点もこの付近にありそうです)というより当時にあって一番大事なことは「神」に祈りを捧げることであり、その役割は「実作業」において重要性を持たないタイプの人間が受け持っていたのではないかと思われ、それを「指」に置き換えて考えると「第四指」がそれに相当していたと言うことではなかったかと思われます。他の指より「可動範囲」も狭く、「他と独立して動けない」(腱がつながっているため)などハンディを背負っている指であり、そのことが「集団」における「祈祷」などを行うのが役割の人間と見立てられる理由となっていたのではないでしょうか。
 (このようなタイプの典型的なものが『倭人伝』に言う「持衰」ではなかったかと考えられます。彼は「航海術」にも長けておらず、「船」には「不要」「無用」の人間であったと思われますが、そのような人間だからこそ「一心不乱」に祈って始めて航海の安全が確保されるという当時の「常識」があったのではないかと考えられるものです)

※1ラースロー・マジャール氏「Laszlo A. Magyar『DIGITUS MEDICINALIS - THE ETYMOLOGY OF THE NAME」Actes du Congr. Intern. d'Hist. de Med. XXXII., Antwerpen, 1990. 175-179. 」
※2発表当時「将棋博物館館長」であった「木村義徳八段」の説

(以上の記事内容は2016/02/14が最終更新として投稿したものです)
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「利歌彌多仏利」と「無文銀銭」

2024年02月11日 | 古代史
「利歌彌多仏利」と「無文銀銭」

 すでに述べたように「岩船」によれば「百済」「高麗」「唐」から高価な品々を「購入」して倭国に持ってきたようですが、この際相手側に支払った代価についてはどのようなものだったでしょうか。
 「通常」はこれを「絹」や「玉石」類など「倭国」の名産と言えるものを提供したものと推測するわけですが、「貨幣」の代わりをするにはこれらの物品は「場所」を取る、「価格」が変動するなどの欠点があります。まして、それが価値としてどの程度ののものなのか「定量化」がされていたものかは不明ですし、また「船」に積んでいくことを考慮すると「荷物」はかさばらない方がいいわけであり、「銭貨」であればコンパクトになるという利点もあり、この時点で「唐」などから「財宝」を入手するのに「貨幣」を使用したとしても不思議ではありません。
 当時すでに「漢」の「貨幣」である「五銖銭」がある程度流通していたと考えられ、「貨幣」の機能や価値などについては「王権」でもまた「民間」でも認識していたものと考えられます。(「五銖銭」は「弥生」、「古墳」時代を通じ特に西日本に多く出土することが確認されています)
 そして、「倭国王権」がこの「五銖銭」と互換性を持たせるべく使用していたものが「無文銀銭」であったと考えられます。
(ただし「無文銀銭」の原型は「新羅」からの「献上品」ではなかったかと推定しています。「献上」された時点ですでに「貨幣」として使用できる形状をしていたとみられ、それを倭国王権が高額貨幣として使用していたと見ています)
 「無文銀銭」とは表面にほとんど文字らしいものが書かれておらず、わずかに模様のようなものが時折確認される程度のもので、平均重量が約十g(弱)であり、これは「唐」時代に制定された重量制度の「一両」の約四分の一に非常に近いものです。
 ただし、重量調節用に「銀の小片」がくっついているのがかなり多くあり、別基準で当初製造された後に、修正された形跡があります。この重量調節用と思われる小片を取り除くと重量は平均で「6.7g」ほどとなり、「前漢」、「後漢」を通じて使われた重量単位の「銖」のちょうど十倍ほどとなるため、(つまり「五銖銭」の二倍の重さです)両者の間には密接な関係があるものと考えられます。
 つまり「無文銀銭」は元々「五銖銭」との交換とか換算とかを考慮していたものと推察されるものです。
 この「無文銀銭」については「貨幣」かどうかで現在も議論があるようです。その形もやや不揃いであり、中央の穴も「無造作」な開け方であって、「中国貨幣」の伝統である「円形方孔」となっていないようですし、銀の塊を「叩いて延ばした」ようにも見えますし、銀の「延べ板」を裁断加工して作られたとも考えられます。これらのことは「鋳型」から造ったものではないように見え、「大量生産」という貨幣の概念から外れていると推測されていたものです。しかも「無文」であり、誰が発行したものか不明という事が「貨幣」の資格を疑わせるものなのでしょう。
 しかし、『書紀』には「天武紀」に「銀銭使用禁止令」というのが出ています。
 『書紀』には「天武紀」(六八三年の項)に「銀銭使用禁止令」がいったん出され、すぐ(三日後)引っ込めたことが書かれています。

「(天武十二年)夏四月戊午朔壬申詔曰自今以後必用銅錢莫用銀錢」
「(同年同月) 乙亥詔曰用銀莫止」

 このように明確に「銀銭」の使用停止が書かれています。「銀銭」とあるのですから、「銀」で出来た「貨幣」を指しているわけで、銅銭以前に(この「銅銭」は「富本銭」と思料されますが)「無文銀銭」が貨幣として使用されていた何よりの証拠と言えるでしょう。
 ただし、出土する場所と状況から「無文銀銭」からは或る事実が知られています。それは地層などから「ある程度古い」と判定される「無文銀銭」には「小片」が付いているものが多く、「新しい」と判定されるものには「小片」がないものが多い(ただし、「小片」がなくても「10g弱」ある)、というものです。
 つまり、このことから「無文銀銭」には「三つ」のバージョンがあるように考えられる事となります。
「一番目」は「小片」が付いているものについて、その「小片」が元々なかったと考えた場合の「6.7g」タイプ。
「二番目」はそれに「小片」がついている「10g」のタイプ。
さらに「三番目」として「小片」なしで「10g」あるタイプ。
 これら各タイプの「無文銀銭」の存在は、「五銖銭」から「開元通宝」へ、という「漢代」より「隋」「唐」までの中国の貨幣の変遷に、見事に合致していると考えられます。
 「五銖銭」に対しては上の「一番目」のタイプが対応していると考えられますし、「小片」がついたタイプは「開元通宝」の五枚と「無文銀銭」二枚が同重量となり(あるいは十枚と四枚)、「換算」が容易になっています。さらに「三つ目」のタイプはそのままで「開元通宝」と「二対五」の重量比になっています。
 いずれも当時流通していた中国の銭貨との互換性、換算性を重視して造られていると考えられ、それはそのまま「無文銀銭」の製造の「時点」を示唆するものではないでしょうか。
 つまり「一番目」のタイプについては、「唐初」(六二一年)の「開元通宝」鋳造「以前」の時期(隋代以前)の製造と考えられ、これが「本来」の「無文銀銭」の姿であると思料するものです。「二番目」のタイプはその「開元通宝」鋳造直後の「初唐」の時代であることを示唆するものと考えられます。つまり、「五銖銭」から「開元通寶」へと「互換」対象貨幣を「修正」するために「小片」を貼り付けて「緊急対応した」という風情が感じられるものです。通説では、この状態が「無文銀銭」の「本来」の姿という解説が良く見受けられますが、「小片」がついた状態が「ノーマル」な形とは「正常」な感覚ではとても思えません。
 「三番目」はその後「正式」に「開元通宝」に対応したものと推定されるわけであり、これは「初唐」からかなり下った時期が想定されます。
 そして、発見される「無文銀銭」の多くに「小片」がついている、という事は「初唐」以降には余り製造されなかったかと考えられるものであり、それは「唐」との関係悪化という時代背景を裏付けるものと思料され、「小片」が付加されたタイプについては、その製造時期の「下限」は遅くとも「六三一年」(唐使「高表仁」との争い以降国交が途絶した時点)の「以前」であることを推察させるものです。少なくとも「銀」の入手ルートの点から考えて、半島の「新羅」と関係が悪化し、また「百済」が滅亡する時点以降は「銀」の入手は明らかに困難となったと考えられ、「六六〇年以前」に倭国に入ったものがほとんどであると考えられます。
 そして「小片」がないタイプについては、その出土する地点の状況から見て、「八世紀」に入ってからのものではないかと推量され、「平城京」完成時点付近かと考えられるものです。(これについてはどのような経緯で作製されたのか解明されておりません。今後の課題です)
 この「銀」の産地から見た時代背景としても、「国内」には「初唐」時点付近ではこの当時見あたらず、半島からの入手であったと考えられ、「新羅」「百済」を通じて「銀」を入手していたものと考えられます。(「高句麗」に「銀山」という城があったことが「三国史記」にも書かれており、「銀」の産地としては「高句麗」からの入手という考え方も有力であると考えられますが、この点についてはまだ不明の部分があります)
 後の「和同銀銭」については、含有されている「鉛」の成分分析により「朝鮮半島産」ではないかと推定されており、この「和同銀銭」が「無文銀銭」を鋳つぶしたものという可能性が考えられるため、「無文銀銭」についても「朝鮮半島産」である可能性が高いことが実証されたものと考えられます。
 ちなみに「飛鳥池遺跡」からは「切断された」「無文銀銭」が発見されており、これは「和同銀銭」鋳造の準備のために「加工」をしていたものと見られます。「和同銀銭」の初期タイプで重量がかなり重いグループの場合、その重さは「無文銀銭」の「小片」を取り去った場合の重さに等しい3.0-6.9gの範囲にあり、このことから「和同銀銭」は「無文銀銭」を切断し必要な重量に調整した後「溶解」させて「型」に流し込んで作製していたのではないかと推察されます。  
 この「無文銀銭」は、「岩船」に書かれたような「商業的」「経済的」イベントに直結する意味での貨幣製造であったものではないかと推察され、「岩船」に書かれている事から推定して、「隋」と「交易」をするという事もその目的の一つとして「遣隋使」を送り、「高額」な品々を入手してそれを国内に売りさばこうとしているわけですが、このとき「唐」に支払うべく製造されたものが「無文銀銭」ではなかったかと考えられるところです。
 「無文銀銭」に関する従来の説の中にもこれを「海外貿易や大取引に用いられた高額貨幣」とする考え方もあり(注三)、このような「市」の際の物資購入などがその典型であったと考えられます。
 「倭国王権」(利歌彌多仏利)はこの「交易」に際して、「遣隋使」からの知識として「中国」(「隋」)ではまだ「五銖銭」を使用していると知り、「無文銀銭」にそれとの互換性があることを承知して、これを購入に充てたものではないかと思料します。
 これらのことから考えて、この「無文銀銭」(上に挙げた一番のバリエ-ション)が「新羅」から献上されたのは「隋代」と思料され、この「岩船」で言う「住吉の浦」に「市」を開く際に利用されたと考えられるわけであり、その後「唐」の時代に移ると「開元通寶」が造られたため、すでに製造していた当初タイプの処理に困った倭国王権は「小片」を貼り付けて「重量調整」したものと推定されます。この事は「無文銀銭」がまさに「秤量貨幣」(重さで価値を決める)であったことを如実に示すものと考えられます。
 「無文銀銭」が発見されているのはほぼ「近畿」に限定されています。最初に「無文銀銭」が発見されたのは「摂津天王寺真寶院」という「字地名」の場所からであり、しかも一〇〇枚とも言われる大量のものでした。それ以後も「一九四〇年」になってから「六六八年創建」と伝えられる近江「崇福寺」(志我山寺)の塔心礎から出土するなど「近畿」とその周辺に「集中的」に出土しています。
 もしこれが「近畿」から遠いところで鋳造されたのなら(たとえば「筑紫」など)、「近畿」だけではなく、もっと「九州」を中心に広範囲に発見されてしかるべきでしょう。そうではないのですから、「無文銀銭」は発見地を含む地域である「近畿」で製造されたと考えるのが正しいと思われます。
 最初に発見され、また大量であったのが「難波天王寺村」であることは、この地に「鋳銭司」があったことを推定させますが、そもそも「難波宮」には「大蔵」があり、通常「鋳銭司」は「大蔵」の配下にあったものですから、この地に「鋳銭司」があるのも当然といえ、「無文銀銭」の「小片」の付着などの作業がここで行われたことを推定させます。
 この「天王寺」周辺は、その「天王寺」が「阿毎多利思北孤」の創建に関わる寺院と考えられるものであり、それ以降「九州倭国王朝」の直轄的地域であったと考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」製造が「倭国王権」の意志として行われたものであることを示唆しているものと考えられます。
 そもそも、このような「銭貨」の発行は(特に古代においては)「国家統治権」を「象徴する行為」と考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」発行が「王権」の意志として行われたと考えるのは当然であると思われます。
 「難波」は前述したように「利歌彌多仏利」の拠点とも言うべき場所であったと推察されますので、「君」とは「利歌彌多仏利」であり、彼が「隋」などと「交易」を行うために市を開いたものと思料され、その際に利用・加工したものが「無文銀銭」であったと推量します。
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謡曲「岩船」と「利歌彌多仏利」

2024年02月11日 | 古代史
これもかなり以前に書いたものですが、これもまた若干のアップデートをしたものを投稿します。

「謡曲」「岩船」と「利歌彌多仏利」

 「謡曲」(能)に「岩船」という作品があります。この作品は「めでたさ」を詠ったものであり、通常の評価としては「ストーリー」らしいものもなく、「前半」と「後半」のつながりもやや唐突であり、作品としての完成度はそれほど高くないが、正月など「嘉祥」としては詠われるもののようです。
 この作品の舞台背景となっているのは「摂津国住吉の浦」であり、話の展開としては「天の探女(さぐめ)」が「如意寶珠」を「君」に捧げる為にやってきます。その後「龍神」が「宝船」を守護して「難波」の岸に乗り付けるというものです。
 以下「岩船」の主要な部分を抜き出しました。

「(中略)不思議やなこれなる市人を見れば。姿は唐人なるが。声は大和詞なり。又銀盤に玉をすゑて持ちたり。そも御身はいかなる人ぞ。さん候かゝる御代ぞと仰ぎ参りたり。又是なる玉は私に持ちたる宝なれども。余りにめでたき御代なれば。龍女が宝珠とも思し召され候へ。これは君に捧物にて候。ありがたし/\。それ治まれる御代の験には。賢人も山より出で。聖人も君に仕ふと云へり。然れば御身は誰なれば。かゝる宝を捧ぐるやらん。委しく奏聞申すべし。あらむつかしと問ひ給ふや。唐土合浦の玉とても。宝珠の外に其名は無し。これも津守の浦の玉。心の如しと思しめせ。心の如しと聞ゆるは。さては名におふ如意寶珠を。我が君にさゝげ奉るか。運ぶ宝や高麗百済。唐船も西の海。檍が原の波間より。現れ出でし住吉の。神も守りの。道すぐに。こゝに御幸を住吉の。神と君とは行合の。目のあたりあらたなる。君の光ぞめでたき。」
(中略)久方の。天の探女が岩船を。とめし神代の。幾久し。我はまた下界に住んで。神を敬ひ君を守る。秋津島根の。龍神なり。或は神代の嘉例をうつし。又は治まる御代に出でて。宝の御船を守護し奉り勅もをもしや勅もをもしや此岩船。宝をよする波の鼓。拍子を揃へてえいや/\えいさらえいさ。引けや岩船。天の探女か。波の腰鼓。ていたうの拍子を打つなりやさゞら波経めぐりて住吉の松の風吹きよせよえいさ。えいさらえいさと。おすや唐艪の/\潮の満ちくる浪に乗つて。八大龍王は海上に飛行し御船の綱手を手にくりからまき。汐にひかれ波に乗つて。長居もめでたき住吉の岸に。宝の御船を着け納め。数も数万の捧物。運び入るゝや心の如く。金銀珠玉は降り満ちて。山の如くに津守の浦に。君を守りの神は千代まで栄ふる御代とぞ。なりにける。」

 ところで、「謡曲」とは本来「能」そのものですが、その「能」のうち「シテ・ワキ・地謡(じうたい)」などの部分を、詞章全体を一人で謡う形式のものを言います。「能」は「室町時代」に「観阿弥」「世阿弥」父子によってそれまでの「猿楽」を集大成し「申楽」となりますが、「世阿弥」の「風姿花伝」によれぱ「聖徳太子」の時代に「秦河勝」に命じて造らせたものが「申楽」というものの発祥であるとされています。
 また、現存する「謡曲」は多くは「室町時代」付近に作られたものと考えられているものの、内容などから古来からの形を残したものも多いと推測され、そのようなものを「合理的」に理解する事により、古代史解明の一助となるものと考えられるものです。
 すでに同様の趣旨で優れた研究がなされているようです。(注)
 この「岩船」の中の「君」とは誰のことでしょうか。もちろんこの謡曲に詠われている内容が「史実」であるとは断定は出来ませんが、また全くの架空の話とも思えず、「モデル」となるような「天皇」(倭国王)がいたものと思料します。「話」の中にはそのヒントとなるものがいくつか確認できます。
 ひとつは「天の探女」が「如意寶珠」を捧げるために来ると云うこと、さらに「君」は「高麗」「百済」「唐」と交易を行おうとして「摂津難波」に「市」を設けることとしたこと、あるいは「龍神」が「宝船」を「守護」して、運んでくることなどです。
 まず、「如意寶珠」についてですが、すでに見たように元々「法華経」「提婆達多品」の説話に出てくるものであり、また「宇佐八幡宮」に伝わる「八幡宇佐宮御託宣集」の中にも出てくる事も前述しました。
 この「如意寶珠」については「海中」の「大魚」(「摩竭(まかつ)魚」)の脳中にあるとする説話・伝承もあり、実は「云魚眼精也」という「隋書俀国伝」の記事とも符合するようです。
 このように「九州」(宇佐)をその中心とした「如意宝珠信仰」が「倭国」の「俗」に広がっていたと考えられ、これが「法華経」が伝来した時点で「融合」した結果、急速に仏教(法華経)の一般化が進んだものと考えられるものです。 
 当時倭国の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」(「隋書俀国伝」による)と書かれているように、まだ倭国古来の「神道」形式の信仰が国内では主要なものであったものであり、これと「如意寶珠」が「習合」しているものと推察されます。
 そして、ここでいう「巫覡」が「宇佐」の神官である、という可能性もあるでしょう。それであれば、(「宇佐」にあったという)「如意寶珠」を「俗」として「一般民衆」が信仰しているとする「隋書俀国伝」の伝える事と「合致」するものと推量されます。
 この事から「天の探女」が「如意寶珠」を「奉る」と云う筋書きは、「九州」の「宇佐」から「巫女」が「君」の所にやってくることを意味しているのではないかと推測されます。
 またこの「岩船」で出てくる「龍神」とは「法華経」の「提婆達多品」に出てくる「八歳の竜女」の父親とされる「娑竭羅龍王」の投影と考えられ、「神話」に云う「海神」と同じ事を意味し、「海人族」との深い関わりを示すものと考えられます。
 このことから、この「岩船」の背景となっている時代としては、「提婆達多品」が付加された「法華経」が伝来した時期と考えられる「六世紀末」から「七世紀の初め」がもっとも有力と考えられるものです。
 また、「唐」などと「交易」をする、というストーリーから考えて、少なくとも「隋」「唐」と平和的な関係が構築されていた期間に限定されますから、「遣隋使」を派遣した「五八〇年代」以降「宣諭事件」を起こした「六世紀末(六〇〇年か)」までか、その後「唐」が成立して以降「倭京」都城が完成した「六一八年」、さらには「六四〇年」の「遣唐使派遣」などの時期までの範囲が対象と考えられます。
 「唐」との関係は「唐使高表仁」と「倭国王子」の間に「紛争」が起きそれ以降「六四八年」までは「国交が断絶」していましたし、それ以降もどう見てもスムースな関係では有りませんでしたから、明らかに「六四〇年以前」であると考えられるものです。
 そして、可能性のあるこれらのどの時代であったとしても、その該当する「君」としては『隋書俀国伝』に「倭国王」「阿毎多利思北孤」の「太子」と書かれた「利歌彌多仏利」その人であると見るのがもっとも適当と考えられます。
 『二中歴』によれば「利歌彌多仏利」を示すと考えられる「聖徳」という人物が「難波」に「天王寺」を造っており、彼は「難波」に深く関係したと考えられる人物ですから、「摂津住吉」に「市」を設けたとしても不思議ではないものと思料します。
  そして、その「市」に関係して使用された考えられるのが「無文銀銭」です。

(注)「新庄智恵子」氏の「謡曲の中の九州王朝」や「正木裕」氏の各論考など。
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「潮満瓊及潮干瓊」と「如意宝珠」について

2024年02月11日 | 古代史
 この記事はかなり以前に書いたものですが、内容を若干アップデートして再度投稿します。

「潮満瓊及潮干瓊」と「如意宝珠」について

 『書紀』の「神代紀」には「山幸彦」と「海幸彦」の「弓矢」と「釣り針」の交換に関する話に引き続き「山幸彦」が「海神」の「宮」に行って歓待され、その後帰還する際に「潮の満ち干」を自在にコントロールすることが出来る「瓊」を、「海神」(の娘)からもらう場面が描かれています。(本文及び「一書の二」及び「三」)
 以下『書紀』当該部分を示します。

「…已而彦火火出見尊因娶海神女豐玉姫。仍留住海宮。已經三年。彼處雖復安樂。猶有憶郷之情。故時復太息。豐玉姫聞之謂其父曰。天孫悽然數歎。蓋懷土之憂乎。海神乃延彦火火出見尊從容語曰。天孫若欲還郷者。吾當奉送。便授所得釣鈎。因誨之曰。以此鈎與汝兄時。則陰呼此鈎曰貧鈎。然後與之。復授潮滿瓊及潮涸瓊而誨之曰。漬潮滿瓊者則潮忽滿。以此沒溺汝兄。若兄悔而祈者。還漬潮涸瓊則潮自涸。以此救之。如此逼惱。則汝兄自伏。…」

 また、「古事記」の「上巻」(神代巻)においても同様に「海神」(綿津見大神)より「釣り針」を返してもらう段で、「兄に返すとき『呪い』の言葉と所作(後ろ手に渡すなど)をするよう」教えられるとともに「鹽盈珠」と「鹽乾珠」を渡されます。
 このようにいずれの神話でも「海神」から「瓊」(珠)を受け取ることとなるわけですが、この「瓊」を「海神」が所持していた、という事や、その瓊が「潮の満ち干」を自在にコントロールすることが出来るものであったことなどが当然ながら重要です。
 『書紀』の「一書の一」及び「四」では「潮滿瓊及潮涸瓊」は出てこないかわりに「鉤」(釣り針)を兄に返すとき「呪(まじな)い」の言葉と所作(「後ろに投げ捨てる」や「後ろ手」に渡すなど)だけをするように教えることとなっています。このような「呪術的」方法はある意味「原始的」であり、「倭国古来」のものであることを推察させるものです。それに対し「潮滿瓊及潮涸瓊」について言えば「呪い」の言葉もありませんし、所作も必要ないようです。これはある意味「近代的」であり、この「神話」の由来が「新しい」と云うことが知られるものと推察されます。つまり、「一書の一」及び「四」の「潮滿瓊及潮涸瓊」がない形の方が本来型に近いのではないかと考えられ、このようなものは「古いタイプ」の説話に属すると考えられます。
 このような「古いタイプ」の説話(神話)はある意味「普遍的」であり、同じようなタイプの神話・伝承の類は主に「南太平洋」の諸国に残されているとされています。
 もちろん日本の「神話」の中には、古来より「口承」で伝えられた「昔語り」様の伝承の類なども含まれていると思われますが、一部については「後代」に「新しく」造られた、或いは新しい「知識」「情報」により「変改」されたものもあったのではないかと考えられ、そのようなものの中に「海神」から「潮滿瓊及潮涸瓊」を渡されるようなタイプの神話が有ったと推測します。
 つまり、古来より伝えられてきた「純粋」な「神話」が底流にあり、それを「アレンジ」してこの「潮滿瓊及潮涸瓊」が出てくるストーリーが「後から」造られたと考えられるものであり、このような「新しい」と考えられるストーリーに強く関係していると思われるのが「賢愚経」や「大方便仏報恩経」という仏教の経典(これらはいわゆる「律」の経典であり、「小乗仏教」の経典です)に出てくる「説話」です。
 そこには「善の兄王子と悪の弟王子」という兄弟の存在、「善の王子が衆生のために如意寶珠を取りに行く」話、「善の王子が龍宮で如意寶珠を手に入れる」等々「山幸彦神話」に類似した点が数多くあります。これらの経典はかなり早い時期に「北魏」などで漢訳されており、「南北朝期」(五-六世紀)には「中国国内」でかなり著名であったものです。
 これらの経典が倭国にも早期に伝来していたという可能性もあると思われます。それを示すのが「隋書俀国伝」の記事です。
 そこでは「倭国」の「俗」(民衆)の「風俗」を書いた部分に、「如意寶珠」信仰が「倭国内」で行なわれていたことが示されています。
「隋書俀国伝」
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如鶏卵、夜則有光、云魚眼精也。」

 そこには「如意寶珠」があるとされており、またその「前段」では「阿蘇山」について語られています。これらは相互に関連した事物であると考えられ、「如意寶珠」に対する信仰と「阿蘇山」及びそれに対する「畏敬」というものが「関連」した事象として語られていると考えられますが、「阿蘇山」はもちろん「九州」(肥後)に存在するものですから、「如意寶珠」に対する信仰も「肥後」中心のものと推量できます。
 また、「如意寶珠」は「宇佐八幡宮」に伝わる「八幡宇佐宮御託宣集」の中にも出てきます。

「八幡宇佐宮御託宣集」
「彦山権現、衆生に利する為、教到四年甲寅〔第二九代、安閑天皇元年也〕に摩訶陀國より如意寶珠を持ちて日本国に渡り、當山般若石屋に納められる。」

 これによれば「如意寶珠」は「宇佐」にあったものとされています。
 さらに、『香椎宮縁起』から引用した文章が、『八幡宇佐宮御託宣集』にありますが、それによれば「善紀元年壬寅年」に「大唐」から「八幡大菩薩〔大帯姫也〕」が日本に「還り給いて」、「筑前國香椎に住み居り給う。」とあります。また別の文書『八幡宇佐宮繋三』によれば「文武天皇元年壬辰(ママ)大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ」とあり、「大菩薩」が「如意宝珠」を求めている事が記されています。
 これは「如意宝珠」が原初的な形で一旦倭国内に入り、「如意寶珠」信仰が始まって後、かなり時間が経過してから、「法華経」の伝来に伴い再度「脚光」を浴びるような事態が起こったことを示すのではないかと考えられるものです。このように「九州島」の中では「如意寶珠信仰」が「倭国」の「俗」として広がっていたと考えられます。
 では、その「如意寶珠」に関わる「伝承」は何時の時点で「俗」にもたらされたものなのでしょう。
 この「如意寶珠」伝承の「原型」は、インド起源の「ナーガ」神の持つ「珠」に由来するものとされています。この「ナーガ」神というものは本来は「蛇神」であったものですが、「龍王」と「漢訳」されたために中国(特に北方系部族)において、古来からの想像上の動物である「龍」と同一視されることとなり、「仏」を守護する「天龍八部衆」(「八大龍王」)という形で仏教に取り込まれたと考えられています。つまり「龍王」が登場する「説話」の多くは「北魏」など「北朝」に由来するものと考えられ、「如意寶珠」についても「北朝」からの伝来を想定しなければならないものと考えられます。
 「隋書俀国伝」では当時倭国の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」とされていますから、まだ倭国古来の「神道」形式の信仰が国内では主要なものであったものであり、これと「如意寶珠」についての信仰が「習合」しているものと推察されます。
 そして、ここでいう「巫覡」が「宇佐」の神官である、という可能性もあるでしょう。それであれば、(「宇佐」にあったという)「如意寶珠」を「俗」として「一般民衆」が信仰しているとする「隋書俀国伝」の伝える事と「合致」することになります。
 この「「隋書俀国伝」に書かれた「如意寶珠」に対する信仰は、「開皇年中」に派遣された「遣隋使」の「発言中」のものと推察され、これは「六世紀末」時点における「倭国」の「俗」における「信仰」の状況を示すものです。そして、それとほぼ同時(五九二年か)に「厳島神社」などにおいて「宗像三女神」などをモチーフとして「大菩薩」の「垂迹」が説かれており、これらと同種の現象として「祷祭」の「仏教化」というものも進行していたものと推察されるものです。
 そこ(阿蘇山)で行われている「祷祭」が「山」の人々の信仰に関わるものであることは明白と考えられますが、一方「如意寶珠」は上で見たように「海」に縁が深いものであり、「海」の人々の信仰と深い関係があったものと思慮されます。
 この事は「山」の人々に受け入れられる前に、海の人々(海人族)にまず受け入れられ、その後「山」の人々が受け入れていった過程を表わすものと考えられます。この「如意寶珠」受容のプロセスは「神話」の「海幸彦」「山幸彦」の説話を彷彿とさせるものです。つまり、「山幸彦」(彦火火出見尊)が「兄」である「海幸彦」と「持ち場」を入れ替え、海に行きそこで「海神」より「干満の珠」を受け取り、それを操って「山」にいる「海幸彦」を支配下に置く、というストーリーが表す「実態」が「隋書俀国伝」に示されていると考えられ、この事は「神話」の祖型というものが「隋書倭国伝」付近で形成されたことを示唆するものであると考えられます。
 「倭国」への「法華経」の伝来は『扶桑略記』に引用されている「日吉山薬恒法師法華験記」によると以下の通りとなっています。

「藥恒法花驗記云。敏達天皇六年丁酉。百濟國獻二經論二百餘卷一。此論中。法華同來。」

 つまり、「敏達天皇六年(五七七年)に「百済」から「経論二百巻」が招来されたがその中に「法華経」の経典があった、という事のようです。
 また「二中歴」の年代歴の「端政」の項には以下のようにあります。

「端政五己酉」(自唐法華経始渡)

 とあり、「端正」年間(推定五八九年~五九三年)に「法華経」が伝来したことを記しているようです。
 この二つの例はその伝来元が「中国」(隋)と「百済」というように異なり(「二中歴」には「唐」とありますが、「二中歴」では「中国」は全て「唐」と表記されており、この場合は「隋」のことを指すと考えられます)、別の話と考えられますが、いずれにしろ、「六世紀」の終わり頃に「法華経」がこの国に伝来したのは事実と推量されます。
 ところで、「法華経」は「鳩摩羅什」により「四〇六年」に「漢訳」されており、それは「妙法蓮華経」というものでした。そして、その時点では「提婆達多品」及び「普門品偈頌」は脱落していたと考えられます。そしてそれがそのまま「倭国」に伝来したものと見られ、それを示すように「聖徳太子」の撰と通常言われている「法華義疏」には「提婆達多品」は存在していないようです。
 その後「七世紀初め」の「隋」「唐」時代に「提婆達多品」等が加えられ、「八巻二十八品」となったとされています。(「天台大師)「智顗」が五八七年、金陵(南京)光宅寺で講義したものが『妙法蓮華経文句』(法華文句)であり、その中に「提婆達多品」について言及した部分があるようであり、彼の時代に付加されたのではないかとされているようです)
 「阿毎多利思北孤」を感動させることとなった「法華経」は、上で見たようにその「伝来」の時期から考えて、「提婆達多品」等は含んでいなかったものとみられますが、この「提婆達多品」の中に「如意寶珠」に関わることが書かれているのです。
 つまり、「隋書俀国伝」で「俗」のものとして書かれた「如意寶珠信仰」は「法華経」とは直接関連しないものであり、この時点では受容された「法華経」は「如意寶珠」とは関係ないものとして「王権」により受容されたものと見られることとなります。つまり、「俗」は「小乗仏教」としての「如意寶珠」信仰を、「王」は「大乗」としての「法華経」(阿弥陀信仰)というようにこの時点では「別種」の仏教がそれぞれの階層により受容されていたと考えられるものです。
 「小乗」と「大乗」の違いは端的に言えば「自力」なのか「他力」なのかであり、「大乗」経典に言う「救われるには『他力』が必要」であって、「自分が誰かの『他力』になる」ことによって「広く衆生を救う」という「大乗」の考えは「一般人」よりも「国王」など「統治」の座にある人間にこそ受容される余地があったものと考えられます。このため「阿毎多利思北孤」は「大乗の経典である「法華経」は受け入れたものの、「俗」の多くが信仰していた「如意寶珠信仰」は受け入れていなかったものと見られます。しかし、その後この二つの信仰が「合体」するときが来ます。それは「遣隋使」が「提婆達多品」が補綴された新しい「法華経」をもたらした時点であったものです。
 ここで新たにもたらされた「法華経」の教典中には「提婆達多品」があり、その中には「八歳の龍女の成仏説話」というものがあります。
 この中では「文殊師利菩薩」が「娑竭羅龍王」の宮に行き、そこで「法華経」を説いたところ、「龍王」の「八歳の娘」(竜女)が悟りを開いた、という場面で「宝珠」が出てきます。そこでは「竜女」から「釈迦」に「宝珠」が贈呈されており、この「宝珠」は「価直は三千大千世界なり」とされています。

「提婆達多品第十二」(「法華経」坂本幸雄・岩本裕訳注 岩波文庫より)
「…文殊師利の言わく、有り。娑竭羅龍王の女は年始めて八歳なり。智慧は利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の説きし所の甚深の秘蔵を悉く能く受持し、深く禅定に入りて、諸法を了達し、刹那の頃(あいだ)に、菩提心を発して、不退転を得たり。辯才は無碍にして、衆生を慈念すること猶赤子(しゃくし)の如し。功徳を具足して、心に念じ口に演ぶることは微妙・広大にして慈悲・仁譲あり。志意(こころね)は和雅にして、能く菩提に至れりと。智積菩薩の言わく、我、釈迦如来を見たてまつれば、無量劫に於て難行し苦行し、功を積み徳を累ねて、菩薩の道を求むること、未だ曾て止息したまわず。三千大千世界を観るに、乃至、芥子の如き許りも、是れ菩薩の身命を捨てし処に非ることあることなし。衆生の為の故なり。然して後、乃ち菩提の道を成ずることを得たまえり。此の女の、須臾の頃に於て、便ち正覚を成ずることを信じぜざるなりと。言論未だ訖らざる時、龍王の女、忽ちに前に現れて、頭面に礼敬したてまつり、却(しりぞ)いて一面に住し、偈を以て讃めて曰く 深く罪福の相を達して あまねく十方を照したもう 微妙の浄き法身は 相を具せること三十二 八十種好を以て 用いて法身を荘厳せり 天・人の戴仰(あがめあおぐ)所にして 龍神も咸く恭敬し 一切衆生の類にして 宗奉(たっと)ばざるものなし 又聞きて菩提を成ずること 唯仏のみ当に證知したもうべし。 我は大乗の教を闡(ひら)きて 苦の衆生を度脱(すく)わん 爾の時、舎利弗は、龍女に語りて言わく、汝久しからずして無上道を得たりと謂(おも)えるも、是の事信じ難し。所以はいかん、女身は垢穢(くえ)にして是れ法器に非ず。云何んぞ能く、無上菩提を得ん。仏道は懸曠(はるか)にして、無量劫を経て、勤苦して行を積み、具さに諸度を修して、然して後、乃ち成ずるなり。又、女人の身には猶五つの障(さわり)あり。一には梵天王と作ることを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何ぞ女身、速かに成仏することを得んと。爾の時、龍女に一つの寶珠あり、価直は三千大千世界なり。持って以て仏に上(たてまつ)る。仏は即ち之を受けたもう。龍女は、智積菩薩と尊者舎利弗に謂いて言わく、我寶珠を献るに、世尊は納受したもう。是の事疾(すみやか)なるや不やと。答えて言わく、甚だ疾なり。女の言わく、汝が神力を以て我が成仏を観よ。復此れよりも速かならんと。当時の衆会は、皆龍女の忽然の間に変じて男子となり、菩薩の行を具して、即ち南方の無垢世界に往き、宝蓮華に坐して等正覚を成じ、三十二相・八十種好ありて、普く十方の一切衆生の為に、妙法を演説するを見たり。爾の時、娑婆世界の菩薩と声聞と天・龍の八部と人と非人とは、皆遥かに彼の龍女の成仏して、普く時の会の人・天の為に法を説くを見、心大いに歓喜して悉く遥かに敬礼せり。…」

 この「寶珠」説話を含む「提婆達多品」が添付された「法華経」は「阿毎多利思北孤」の「太子」であった「利歌彌多仏利」により「受容」されたものと思われますが、この「説話」が「如意寶珠」信仰の中心であった「九州島」の人々、特に「海人族」にとって受け入れやすいものであったことは明らかです。彼らにしてみれば「自分たち」の「信仰」を「我が君」が受け入れてくださったと考えても不思議ではありません。そして、それは「利歌彌多仏利」にとって「統治行為」を拡大するのに、非常に有用な「ツール」としても利用可能であったこともまた事実でしょう。少なくとも、この時点以降「如意寶珠」に関わる「小乗的伝承」も「俗」から取り込まれ、それは「海神」から「潮滿瓊及潮涸瓊」を貰う話となって、「神話」として形成・成立していく道筋が整った事を示すと考えられます。
 ところで、上で見たように「神話」の中には仏教の影響が確認されますが、その様なものが『書紀』の「神話」に取り込まれた時点については「諸説」があるようです。一般的には『書紀』や「古事記」編纂の際にはその時点における「最新」の史料が使用されたと考えられ、「同時代性」のあるものも存在していたと考えられますが、この「海幸彦山幸彦神話」に見られるような「如意寶珠」伝承は、それが「神話」に取り込まれるに当たっては、「提婆達多品」が添付された「法華経」の伝来との関連を考慮すべきものと考えられ、この「神話」成立を「後代の潤色」と考えるよりは、その「法華経伝来」時点におけるものと考えるのが自然であり、また可能性が強いものと思料されるものです。
 「王権の「神話」に「法華経」経典が反映していると言うことは、(少なくとも)その「神話」形成の時点というものが「法華経(提婆達多品が添付された妙法蓮華経)」の渡来以降であることを示すものですが、そう考えると従来の説の多くは「神話」そのものが「八世紀」に入ってから『書紀』編纂時点で「取り込まれた」ものとする立場であるようですから、「法華経」受容時点からずいぶん長い年月が経過していることとなってしまいます。(一〇〇年以上)
 それは明らかに不自然であり、そう考えるよりは、「提婆達多品が添付された妙法蓮華経」を「王権」が受容した段階で、これらの「神話」あるいはその素地となるものが形成され、その際に「現実」(「俗」との関係など)を反映したものが取り入れられたという考え方の方が有力ではないかと考えます。つまり、「山幸彦」が「潮滿瓊及潮涸瓊」を授けられるという「神話」の内容は、「倭国王権」による「俗」がその中心であった「如意寶珠」に対する信仰の「受容」という「現実」とそのまま重なっていると想定されるものです。
 この時期は「利歌彌多仏利」による「六十六国分国」という作業が行なわれた時期でもあると推察され、これが「法華経」の経典に基づく「三十三」という数字にその根拠を持つ作業であったことも指摘されており、それらの作業との時期的な整合性も高いものと思料します。
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『倭人伝』(21)

2024年02月10日 | 古代史
さらに「戸」と「家」から「軍事」について検討します。

「戸」と「家」について(3)

 以前「古田氏」は「一大率」に対する理解について、「一大国」の「軍」を示すものという見解が示されていました。
 その当否を考える上で重要であると考えられるのは、「一大国」が「家」表記であることです。『倭人伝』の中では「不彌国」と共に「家」表記がされており、この意味を考える必要があると思われます。 
 「倭王権」による民衆の支配と把握については、各国ごとにやや強度が異なるものであったという可能性はありますが、少なくともこの「邪馬壹国」への「主線行程」とも云える国々についてはそのような差はなかったのではないかと思われます。なぜならこれらには「官」が派遣されているからです。「派遣」された「官」の第一の仕事は「戸籍」の作成ではなかったかと思われますから、「戸籍」がなかったというようなことは想定しにくいこととなります。
 つまり、「家」で表記されている国である「一大国」と「不彌国」についても「戸籍」は存在していたと考えられ、『倭人伝』で表記の差が現れているのは、単に「戸籍」に関する情報が「魏使」に提示されたかされなかったかの違いであると考えられます。つまり、「一大国」及び「不彌国」については「魏使」に対して「戸籍」に関する資料、情報を提示しなかったと言うことが推定されることとなるでしょう。そして、その理由については詳細は不明ですが、推測すると「戸籍」というものが多分に「軍事的情報」を含んでいるからではないでしょうか。
 『三國志』(特に魏書)における「家」の出現例を見ていくと、「軍事」と関係しているという可能性が窺えます。

「三國志/魏書 卷三 魏書三 明帝 曹叡 紀第三/太和元年」
「太和元年…十二月,封后父毛嘉為列侯。新城太守孟達反,詔驃騎將軍司馬宣王討之。…魏略曰:達以延康元年率部曲四千餘家歸魏。」

 『三國志』中では「家」は通常の「家」(いえ)という場合の使用例が圧倒的ですが、「数量」の単位として現れる場合は(ここでは「四千餘家」という表現がされている)特定の場合に限られるようです。
 上の例では「部曲」として書かれていますが、この「部曲」は「部隊」を構成する単位を示す用語であり、ここでは直接的に「兵隊」を意味するものとして「家」が使用されています。
 また「以下」の例では「流入した」者達が「家」で表され、彼等は「部曲」(兵隊)となっており、そのため「軍事力」ばかりがあって「生産力」がないという意味のことがいわれています。

「三國志/魏書 卷二十一 王衛二劉傅傳第二十一/衞覬」
「衞覬字伯儒,河東安邑人也。少夙成,以才學稱。太祖辟為司空掾屬,除茂陵令、尚書郎。太祖征袁紹,而劉表為紹援,關中諸將又中立。益州牧劉璋與表有隙,覬以治書侍御史使益州,令璋下兵以綴表軍。至長安,道路不通,覬不得進,遂留鎮關中。時四方大有還民,關中諸將多引為部曲,覬書與荀彧曰:「關中膏腴之地,頃遭荒亂,人民流入荊州者十萬餘家,聞本土安寧,皆企望思歸。而歸者無以自業,諸將各競招懷,以為部曲。郡縣貧弱,不能與爭,兵家遂彊。」

 他にも多数の例がありますが、それらはいずれも「家」と「軍隊」の間に強い関係を窺わせるものです。
 そもそも「魏」の「曹操」は、「屯田」を配置しそこからの収穫物を全て自家のものとしていました。これは「地方統治」の方法として「兵士」に開墾させ、糧食を確保させると共に一旦急あれば「武器」を取って戦うという体制を築いたものです。そのために配置された軍人は「兵戸」という専用の「戸制」に登録されていたものであり、それらに属する者達は「家」で数えられていたものです。 
 また以下の例は「冢守」(墓守)について「家」で表示している例です。

「三國志/魏書卷九 魏書九 諸夏侯曹傳第九/曹仁」

「…仁少時不脩行檢,及長為將,嚴整奉法令,常置科於左右,案以從事。?陵侯彰北征烏丸,文帝在東宮,為書戒彰曰:「為將奉法,不當如征南邪!」及即王位,拜仁車騎將軍,都督荊揚、益州諸軍事,進封陳侯,增邑二千,并前三千五百?。追賜仁父熾諡曰陳穆侯,置十家。後召還屯宛。孫權遣將陳邵據襄陽,詔仁討之。仁與徐晃攻破邵,遂入襄陽,使將軍高遷等徙漢南附化民於漢北,文帝遣使即拜仁大將軍。又詔仁移屯臨潁,遷大司馬,復督諸軍據烏江,還屯合肥。?初四年薨,諡曰忠侯。…」

 ここでは「曹仁」について「封戸」を「三千五百戸」に増やすとされているのに対して、彼の父の「墓」(冢)の「守冢」について「十家」とされています。このように「守戸」や「陵戸」というような人達については「通常」の「戸制」に登録はされませんでした。(後の「隋唐」でも同様であり、それを踏襲したと思われる『大宝令』などにもそれは継承されています)
 これらの例から考えて、「魏」の「通常の戸籍」ではない戸籍に登録されている場合「家」を使用するものと思われ、それは「夷蛮」の国において「戸制」が十分整備されていない場合や、「魏」とは異なる戸制の場合にも適用されると見られます。(「呉」や「蜀」がこの場合でしょうか)
 「軍団」は兵士の集団であり、その兵士は住民から徴発するわけですから、住民に対する「居住」の状況(年齢、性別などの諸情報)が把握されなければ「兵士」として徴発することができないのは明らかです。
 どこにどれだけ「兵士」になりうる人間がいるのかを把握できなければ「常備軍」も「臨時」の軍編成もできるものではありません。そう考えると、「一大国」と「不彌国」の両方が「家」表示であるのは、その両国の「戸籍」がほとんど「兵戸」であったからではないかということが考えられます。
 ただし、「兵戸」であることを「倭」側の官(これは「一大率」か)が「魏使」に告げたかどうかは不明です。それは即座に「軍事情報」とも言えますから、秘密にしたということも考えられますし、「他国」からの「流民」などについては「家」で表記するというルールらしいものもあったようですから、それを「装った」という可能性もあります。それは上の「一大国」の記事においても、特記すべき事として軍関係の表示が全く無いことからも窺えるものです。
 もし「一大國」「家」が「兵戸」に基づくとしたら、「一大国」には「軍事」に関する何らかの表象があったはずと思われますから、必ず「魏使」はそれを明記したことでしょう。(軍事情報は最優先事項でしょうから)
 それが書かれていないと言うことは、「家」の正体を「倭」の側は明らかにしなかったという可能性が高いと思料します。つまり「倭王権」は「戸籍」の開示をしなかったばかりか、国内(島内)の「軍事情報」を意図的に「隠した」のではないでしょうか。
 「魏使」を案内するにもそのような施設を見せないように迂回させたものと考えられます。(『倭人伝』の距離表示が「壱岐」と「對馬」については「半周読法」である理由もそこにあるのかも知れません。つまり、反対側の「半周」には軍事基地等があったという可能性もあると考えられます)そして、それは「不彌国」についても同様であったと推測できます。
 「不彌国」は「邪馬壹国」の至近にあったと考えられますから、「首都」を防衛するものかあるいは「王権」そのものを防衛する役割があったと見られ、やはり軍事的拠点であったと考えるべきではないでしょうか。それは「首都」の近傍にしては少ない「家」の数からもいえると思われます。そのことは「不彌国」を構成する人達はほとんどが「兵士」であったことを推測させるものであり、通常の「国」の構成とは全く異なっていたと考えられることとなります。
 これらのことを考えると、「一大国」には「軍事拠点」があったと推定されることとなり、「一大率」という名称はそれが「一大国」の軍事力の前線基地として機能していたことを示すものであったという「古田氏」の推定が正しいことを示すと思われます。
 (「壱岐」の「原の辻遺跡」からは「鉄・銅・骨」などの各種「鏃」や「短甲」「投弾」「烽火跡」など「軍事」に関係するものが多く出土しています。また「港湾施設」と思われる遺跡が出土し、そこには「堤防」と考えられる遺構に「敷きソダ工法」が使われ、「水城」などと同様の建設手法であることが確認されています。その意味でもこの「壱岐」という島が軍事に特化した地域であったらしいことが推測されています。)
 既に検討したように「一大率」は海外からの使者などについては「対馬国」以降「末廬国」の「唐津」へ誘導しそこで「外交文書」その他貢献物などの確認等の行為を行った後「伊都国」にあった「宿舎」(迎賓館も含むか)へと案内していたものであり、「対馬国」以降「一大率」の監督下に入ったものと見られることとなります。「壱岐」(一大国)はその「対馬」と「末廬国」などの中間地点にあり、それは人員の輸送という点で利便性があったことを示すものであり、それらの事から「一大国」と「一大率」には重要な関係があるのは確実と思われ、「伊都国」に展開している首都防衛のための防衛線として「防人・斥候」的役割をする部隊の「本体」が「一大国」にいたことを示すものであり、これが「一大率」の真の本拠地であったという可能性も考えられるところです。
 また同じ軍事情報でも「伊都国」に「一大率」が存在しているということが「秘密」とされていないのは、「伊都国」に「郡使」が「常駐」するという環境の結果であると考えられます。
 「伊都国」は「千余戸」という少ない戸数が記録されており、そのことからも「一般民家」の少ない「公的エリア」であったことが推定され、「軍団」についてもほぼ「露出」しているような状態であったのではないでしょうか。つまり「隠しようがなかった」というような事情によって「一大率」についての情報が記載されると言うこととなったものと思われます。
 「実際」に「戸」と「家」との間の違い(差)はどれほどであったかというと、それは「戸」が示されない場合に「家」で表示していると言うことの中に既に現れているといえるでしょう。つまり「家」で「戸」数は代替できる場合が多いと「魏使」が考えていた証左であると考えられ、「家」はほぼ「戸」と等しいと考えられていたのではないかと思われます。後の「養老律令」や『令集解』に示されている「古記」がもとづくと思われる「大宝律令」でも「戸」と「家」はほぼ同義で使用されています。たとえば『令集解』の「戸令」の条では「戸謂。一家為一戸也。」とあり、明確に「戸」と「家」が同義であることを示しています。
 このように「大宝律令」でも(多分それ以前の古律令においても)その母体は隋・唐の律令にあるのは明らかですから(この点後に触れます)、「戸」と「家」についての関係も隋・唐に淵源すると思われますが、その隋・唐の律令はその時点で目新しく造られたものではなく、究極的には(秦)漢魏晋時代の律令につながっています。その意味で魏の使者が使用した「戸」と「家」の意義と大きくは異ならないはずであり、基本的な制度あるいは構造として、「戸」の主たる(あるいは全的な)構成要素は父母兄弟(とその婚姻者)という自然発生的な「家」というものであったとおもわれるわけです。
 ただし、この二つが常に等しいということではなかったと思われ、それは『倭人伝』でも「…有屋室、父母兄弟臥息異處。…」とあり、「家」の実態が「父母兄弟」が基本的単位であることを示していますが、同じく『倭人伝』には「其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。」とあり、これら「四五婦」や「二三婦」が一つ屋根の下に暮らしていたとも考えられませんから、彼等が一つの『家』を形成してはいないと思われ、この時点ですでに「戸」と「家」が異なる場合もあったことが推定できます。さらに「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。」と書かれていることから、「妻子」というのが「家」であり、それを含む複数の「家」で構成される「門戸」というものが存在していたことを推定させますが、この「門戸」が『倭人伝』の中に多く見られる「戸」と同義であると見るのは間違いではないでしょう。
 いずれにしても「戸」というものがいわば制度としての形而上的存在であり、外からそれと分かるものではなかったのは確かであり、魏使が「戸」を把握できなかった場合「家」で代用せざるを得なかったというのもまた確かでしょう。
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