古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「シリウスの謎」(一) ―「瓊瓊杵尊」と「シリウス」―

2024年03月04日 | 古代史
以前会報へ投稿した(二〇一六年四月一日送付)もののアップデート版です。

「シリウスの謎」(一) ―「瓊瓊杵尊」と「シリウス」―

「要旨」
 「天孫降臨神話」の解析から「猿田彦」等の「登場人物」と「天空の星座」(星)との対応が考えられる事。その場合「天孫降臨神話」の主役である「瓊瓊杵尊」に対応する「星」も存在するものと見られ、「おおいぬ座」のα星「シリウス」が最も措定できること。ただし、「火」や「瓊瓊杵」という表現が「赤い色」を示すことと「シリウス」の色が「白い」ことと整合していないとみられること、過去において「シリウス」が「赤かった」という記録があること。以上を考察します。

Ⅰ.「星座」と「神話」の対応について
 『日本書紀』(以下『書紀』と記す)の神話の中に「天鈿女」と「猿田彦」の話が出てきます。天下りの前に地上界を調べに来た「天鈿女」の前に「猿田彦」が立ちふさがり問答する場面があり、この場面は従来解釈が難解な場面でした。それは話の展開と関係ない描写があるように思えるからです。たとえば、「雨の鈿女が胸をあらわにむき出して、腰紐を臍の下まで押し下げてあざ笑った。」というような描写です。
「…已而且降之間。先驅者還白。有一神。居『天八達之衢。其鼻長七咫。背長七尺餘。當言七尋。且口尻明耀。眠如八咫鏡而?然似赤酸醤也。』即遣從神往問。時有八十萬神。皆不得目勝相問。故特勅天鈿女曰。汝是目勝於人者。宜往問之。『天鈿女乃露其胸乳。抑裳帶於臍下。而笑?向立。』…」(『日本書紀巻第二神代下第九段の一書」』より)
 ここには「猿田彦」の顔などの描写が異常に詳しく出ており、唐突な印象を受けます。この部分やその後に続く「天八達之衢」とか「天鈿女乃露其胸乳。抑裳帶於臍下。而笑?向立。」というような妙に具体的な描写が何を意味するものか今までは不明でした。
 しかし、長崎大学の勝俣隆氏の研究(註一)ではこれらの部分については「天空の星座をなぞったもの」という解釈が行われており、有力と思われます。それによれば「猿田彦」の描写の部分は「牡牛座」の「ヒアデス星団」付近のことであり、「且口尻明耀。眠如八咫鏡而?然似赤酸醤也。」という部分の中で「口尻明耀」とされ「似赤酸醤」と書かれているのが「牡牛座」α星の「アルデバラン」のことと考えられるようです。「アルデバラン」は「赤色巨星」であり、その赤い色は「似赤酸醤」とされる色合いとも矛盾がなく、また冬の星座を代表するともいえる星であり、かなり目立ちますから、「神話」に取り入れられたとして不自然ではありません。この「ヒアデス星団」は大きく広がった明るい「散開星団」であり、「牡牛座」において「牡牛」の「顔」の部分を形成しています。肉眼でもその中に多数の星が数えられるほどであり、太古の人々にもなじみの星達であったと考えられます。
 さらに、勝俣氏も指摘されていますが(註二)、この「猿田彦」が「牡牛座」であるということからの連想として「天鈿女」の部分は「オリオン座」のことではないかと考えられます。上に見るように「天鈿女」と「猿田彦」は「向かい合って」立っていることとなりますが、「オリオン座」と「牡牛座」も向かい合っている形になっています。「ギリシャ神話」でも「突進する雄牛」とそれを迎え撃つ「オリオン」という見立てになっており、この星々の配列から「互いに向かい合う」という姿を想像するのはそれほど難しくありません。
 また「天鈿女」は「汝是目勝於人者」と「瓊瓊杵」から言われており、それは「天鈿女」の「目」が「猿田彦」の「赤酸醤(ほうずき)」のように輝く光に負けない光と色であることを意味すると思われ、これは「オリオン座」のα星「ベテルギウス」を指すものとみて間違いないでしょう。「ベテルギウス」も「アルデバラン」も共に「赤色超巨星」に分類される星ですが、「ベテルギウス」の方が「アルデバラン」よりも明るく、それが「瓊瓊杵の言葉」に反映していると考えられます。
 このように配列に特徴のある星達(星座)があることにインスパイアされて「天上」から下りてくる「天鈿女」とそれを迎える「猿田彦」というストーリーが組み立てられたと考えられるわけです。

Ⅱ.「瓊瓊杵尊」の星は何か
 上のように解析すると、他の登場人物も天空の星との対応があると考えるのが自然です。勝俣氏も神話世界の登場人物の多くが天上の星と対応しているとされていますが、肝心の「瓊瓊杵尊」に対応する星については触れられていません。しかし「瓊瓊杵尊」はこの「天孫降臨神話」の中心人物であり、彼を抜きにして神話は語れないわけですから、彼の表象としての「星」も存在して当然と思われるわけです。
 「瓊瓊杵尊」は「天鈿女」に案内されて来たとされ、その前方に立ちふさがるように「猿田彦」がいるとされているわけですから、「瓊瓊杵」は星座で言うと「牡牛座」から見て「オリオン座」の向こう側にいるはずであり、「火(ほ)」の「瓊瓊杵尊」という名にふさわしく明るく輝く星であると考えると、該当するのは「おおいぬ座」のα星「シリウス」である可能性が高いでしょう。
 「全天第一」の「輝星」である「シリウス」は周囲を圧するように明るく輝き、その姿は神々しいほどです。また「おおいぬ座」の「おおいぬ」は「オリオン」が引き連れていたお供の犬(「猟犬」)であるとされていますから、「オリオン座」のすぐ背後に位置しており、「天鈿女」と「瓊瓊杵」の位置関係によく似ているともいえます。しかも「瓊瓊杵」は「皇孫」であり、特別な存在ですからその投影である「星」も他と一線を画するような存在でなければならないと思われます。さらにそれが「オリオン」の至近になければならないとすると「シリウス」以外には候補として見あたらないのが現実です。
 この星が「瓊瓊杵尊」として「神格化」されていたとしても全く不思議はないと考えられます。ただし、問題がないわけではありません。それは「色」の表現です。
「瓊瓊杵尊」には「火」(ほ)という美称が付けられています。この「火」は「赤」いという意味があります。これは「穂」に通じるという説もありますが、「穂」の色はいわゆる「黄金色」であり、もし古代米であったなら「赤米」であってその色はやはり「赤」であったと思われますから、少なくとも「白」や「青白」ではないと思われます。
 また、当時の技術では「火」の温度として「白色」になるほどの高温は作れなかったであろうと思われ、人工的に作る「火」はすなわち「赤」であったと思われます。
 語源的にも、「あかるい」という語の語源は「火」の色を示すものであり、「赤」という色のイメージからできた言葉ではないかと思われ、今も日本人が太陽を描くと「赤」に塗るなど太陽に「赤」というイメージを持っているのは「火」が赤いことからの類推と思われます。そう考えると「シリウス」に対して「火」という美称が使用されていることは、「赤」と「白」というように「色」が整合しない不審があることとなります。「太陽」はともかく星の場合色はよくわかりますから、合わない色を形容として使用するとは考えられません。
 また「瓊瓊杵」という名前に使われている「瓊」という文字は『説文解字(巻二)』(註三)では「瓊 赤玉也」とされており、そうであれば「火瓊瓊杵」とは「燃えるような赤い宝石」という形容を持つ名前となってしまいますから、「赤」のイメージがさらに強まることとなります。
 しかし前項で行った「神話」と「天空」の星との関係の解析からは「シリウス」が最も「火瓊瓊杵尊」に該当する可能性が高いとみたわけですが、「シリウス」は天文学的には「主系列」に属し、色としては「白」あるいは「青白」とされています。上で見たように「猿田彦」や「天鈿女」などの場合そこに見られる特徴と「星」の色などは正確に整合しているわけですから、この「シリウス」の例はかなり不審といえるわけです。ところが古代において「シリウス」が「赤かった」という記録が複数あるのです。

Ⅲ.シリウスについての古記録
 天文学者であり、「古天文学」という分野のパイオニアでもあった斉藤国治氏の『星の古記録』(岩波書店一九八二年)には、各種の古い記録に「シリウス」についてその色を「赤」と表現する記事があると書かれています。また海外でも同様にこの「シリウス」の「色」について議論が行われています。たとえば、二〇一一年に出された「Journal of Astronomical History and Heritage」(註四)でも同様の事が議論されています。
 それらによれば、エジプト、ギリシャそしてローマの古代の記録などに直接的あるいは間接的な表現として「シリウス」が「赤い」という意味のことが書かれているとされます。(註五)
 たとえば紀元前エジプトのプトレマイオス(トレミー)は「アルマゲスト」という天文書の中でシリウスについて「firely red」つまり「燃えるような赤」という意味の形容をしており、さらに同様の「赤い星」として、「アルクトゥルス」(うしかい座α星)「アルデバラン」(牡牛座α星)「ポルックス」(双子座α星)「アンタレス」(さそり座α星)「ベテルギウス」(オリオン座α星)という現在でも「赤い星」の代表ともいえるこれらの星の同列のものとして「シリウス」を挙げているのです。しかし他の赤い星の例に挙げられているものは確かに現代でも変わらず赤いわけですから、シリウスの例だけが不審であることとなります。(これが単に明るい星だけを挙げたものでないことは「カペラ」「プロキオン」「ベガ」など「明るくて白い星」が除かれていることでもわかります。)
 また「シリウス」の語源は「ギリシャ語」で「焼き焦がすもの」の意とされますから「火」に関係していると思われ、「赤色」のイメージが強い名前と言えます。
 たとえば古代ローマでは、炎暑の季節が来るとその原因を「シリウス」と太陽が一緒に出ているからだとして(註六)、「シリウス」を「赤犬」と称し、「生け贄」として実際に「赤い犬」を捧げたとされています。(註七)これも実際に「シリウス」と「赤」という色について関係があったからとも考えられます。
 さらにエジプトにおける「オシリス」神話では「シリウス」は犬の頭を持った冥土の神「アヌビス」とされていたようですが、壁画等を見ると「アヌビス」の頭は「黒褐色」あるいは「赤褐色」で表されており、「白」や「青白」のイメージとは程遠いと思われます。
 
Ⅳ.「シリウス」と「朱鳥」
 「シリウス」について「赤かった」という記録がヨーロッパでも日本でもあったと考えられるならば、当然中国の史料にもそれを示唆するものがなければならないはずです。たとえば「天狼星」という呼称もされていましたが、それは「シリウス」の「青白い」色を狼の目の色になぞらえたという解釈もされているようですが、実際の狼の目の色はアンバーあるいは赤銅色であり、青白はほぼ存在しないとされます。つまりかえって「赤」系統ともいえる色と関係のある命名ともいえるものなのです。
 また「司馬遷」の『史記』にシリウスが色を変えると思われる記述があるのが注目されますが、(註八)「シリウス」と中国史料の関係という意味においては「四神」の一つである「朱鳥」との関連を考えるべきかもしれません。
 「朱鳥」についての記録には以下のようなものがあります。
「…東方木也,其星倉龍也。西方金也,其星白虎也。『南方火也,其星朱鳥也。』北方水也,其星玄武也。天有四星之精,降生四獸之體。…」(「論衡」物勢篇第十四 王充)
「…南方火也,其帝炎帝,其佐朱明,執衡而治夏。其神為惑,其獸朱鳥,其音,其日丙丁。…」(「淮南子/天文訓」より)
 これらを見てもわかるように「天帝」を守護するとされる「四神」のうち「朱鳥」は「南方」にあり、色は「朱」つまり「赤」、季節は「夏」、また「火」を象徴するともされます。そのことは「炎暑の原因」とされることなど、「シリウス」についての伝承とよく重なるといえるでしょう。またこの「朱鳥」の起源は「殷周代」まで遡上するとされますから、時代的にも齟齬しません。後に別の星(コル・ヒドラ)が「朱鳥」の星であるとされるようになるのは「シリウス」が今のように「白い星」となって以降のことではなかったでしょうか。つまり、その色が「朱鳥」の名に似つかわしくなくなった時点以降、「うみへび座」のα星「コル・ヒドラ」(別名「アルファルド」)が「朱鳥」とされるようになったものと推測します。
 確かに「コル・ヒドラ」は「赤色巨星」に分類される星であり、「赤い星」と言い得ますが、また「シリウス」と「コル・ヒドラ」は天球上でそれほど離れてはいないことも重要な点です。
 「おおいぬ座」の一部は「うみへび座」と境界を接しており、また「シリウス」と「コル・ヒドラ」は天球上の離角で四十度ほど離れているものの、春の夜空を見上げると同じ視野の中に入ってきます。このことからいわば「シリウス」の代役を務めることとなったものではないでしょうか。それにしては「コル・ヒドラ」がそれほど明るい星ではないことは致命的です。周囲に明るい星がないため目立つといえるかもしれませんが、「天帝」を守護するという重要な役割を担う「四神」の表象の一つとするにはかなり弱いといえるでしょう。(2等級です)これが「朱鳥」として積極的に支持される理由はほぼ感じられなく、「シリウス」の減光と「白色化」よって急きょ選ばれることとなったというような消極的選定理由が隠れているようにみえます。
 いずれにしても「紀元前後」付近以降の「シリウス」については「白色」であったとみられるものの、(註九)それが紀元前をかなり遡上する時点でも同様であったかは未詳とせざるを得ないわけです。しかし「シリウス」は天文学的には「主系列」の星に分類されており、安定した状態にある星とされており、大幅な変光とか色変化というようなことが想像しにくいのは事実です。ただし鍵を握っているのは「シリウス」の「伴星」です。

「註」
一.勝俣隆『星座で読み解く日本神話』(大修館書店 二〇〇〇年六月)の第十二章によります。(同内容の議論を勝俣氏は『星の手帖』四十四号(一九八九年五月)でも試みています。)
二.同上資料の第十四章によります。
三.『説文解字』とは『後漢」の「許慎」の作であり、漢字を五百四十の部首に分け、その成り立ちを解説し、字の本義を記したものとされます。
四.Efstratios Theodossiou, Vassilios N. Manimanis,Milan S. Dimitrijevi and Peter Z. Mantarakis『SIRIUS IN ANCIENT GREEK AND ROMAN LITERATURE: FROM THE ORPHIC ARGONAUTICS TO THE ASTRONOMICAL TABLES OF GEORGIOS CHRYSOCOCCA』(Journal of Astronomical History and Heritage, 14(3),2011)。同様の議論は他にも各種確認できます。
五.たとえば紀元前から紀元後にまたがって活躍したローマの政治家で哲学者の「セネカ」(Seneca Lucius Annaeus)はその著書『自然研究』(『Natural Questions』の中で「…the redness of the Dog Star is deeper, that of Mars milder, that of Jupiter nothing at all…」と記しています。(一九七一年にThomas H. Corcoran により訳されたものを参考にしています。The Loeb classical library 450、457)、さらに紀元前三世紀に活躍したギリシャの詩人「アラトス」(Aratos)の書いた『現象』(『Phaenomena』)を訳した「ローマ」の政治家「キケロ」(Cicero)や「司令官」であった「ゲルマニクス・カエサル」(Germanicus Caesar)は、「アラトス」が「シリウス」について表現した「poikilos」という語を「with ruddy Light fervidly glows」つまり「燃えるような赤」と表現したり、「シリウス」のことを「vomits flame」つまり「炎を吐き出している」と表現しています。(ただし、今回参考にしたのは一九二一年にA.W.Mairにより訳されたものです。The Loeb Classical Library No.129)
六.現在でも欧米圏などでは夏の一番暑い時期を「the Dog days」と称しており、この場合の「dog」とは「The Dog Star」つまり「おおいぬ座のアルファ星シリウス」のことなのです。すでにそこに「シリウス」が現れる理由も不明となっているようですがこれは「古代ローマ」の農耕儀式の記憶が残っているものと思われます。
七.「古代ローマ」の風習であった「ロビガリア」(Robigalia)。「作物」が旱魃(水不足)などで生育が不順とならないように「ロビゴ」(Robigo)という「神」に「生贄」を捧げるとされていますが、それが「赤犬」であったものです。この「ロビガリア」の起源は伝説では「紀元前七五〇年付近」の王である「Numa Pompilius」が定めたとされています。その儀式では四月二十五日に「赤犬」を「生贄」にすることで「ロビゴ」という女神を祭り、「小麦」が「赤カビ」「赤いシミ」が発生するような「病気」やそれを誘発する「旱魃」に遭わないようにするためのものであったとされます。
八.「參為白虎。…其東有大星曰狼。狼角變色,多盜賊。…」(『史記/卷二十七 天官書第五』より)
 「參」(これはオリオン座とされます)の東側に「大星」(明るい星)があり、「狼」というとされます。これは「シリウス」を意味すると思われますが、さらに「狼」の「角」(これが何を意味するか不明ですが)は色を変えるとされ、そのようなときは盗賊が増えるとされています。この記事はやや曖昧ですが、シリウスが時に色を変えるとされているようにも受け取ることが出来そうです。
九.Jiang Xiao-yuan「The colour of Sirius as recorded in ancient Chinese texts」(CHINESE ASTRONOMY AND ASTROPHYSICS, 1993)でも、紀元前後以降中国の記録では「シリウス」について「白い」というものしか見あたらないとされています。
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鎮懐石の寸法と重量(続き)

2024年03月02日 | 古代史
以下は前回からの続きです。
 
 この「基準尺」については、『万葉集』の他『風土記』にも現れています。
(以下の読み下しは『秋本吉郎校注「日本古典文学大系 風土記」岩波書店』によります)

「筑紫の風土記に曰く、逸覩(いと)の縣、子饗(こふ)の原に石兩顆(りょうか)あり。一は片長一尺二寸、周は一尺八寸、一は長一尺一寸、周一尺八寸。色白くして、圓(まろ)きこと磨(みがき)成せるが如し。俗傳へて云う、息長足比賣命、新羅を伐(う)たんと欲し、軍を閲(けみ)するの際、懷娠(かいしん)漸(ようや)く動く。時に兩石を取りて裙腰(もこし)に插(さ)し著(つ)け、遂に新羅を襲う。凱旋の日、芋?野に至りて、太子誕生す。此の因縁有りて芋?野と曰う。産(うむ)を謂いて芋?野と為すは、風俗の言詞のみ。俗間の婦人、忽然(こつぜん)として娠動(しんどう)すれば、裙腰に石を插(さしはさ)み、厭(まじな)ひて時を延べしむ。蓋(けだ)し此に由るか」

 ここにも「寸法表示」があり、それは『万葉集』の表記とほぼ一致していますから、(重量表示はないものの)原資料が共通していることが推定されます。つまり『風土記』や『万葉集』には「周・魏晋」の古制が表れているわけであり、その『風土記』編纂が「八世紀」であるという点を捉え、「魏晋朝」の「古制」が「八世紀」段階においても(筑紫付近では)使用されていたと見なす古田氏などの考え方もありますが(※)、当然そうとは考えにくいこととなります。それは、上の『万葉集』の「序詞」が一見「山上憶良」が実見した「大きさ」や「距離」であったと見なせるようですが、実際にはそうではなく、既に成立していた「記載」からの「引用」であったという可能性が強いと思われるからです。
 それはこの歌の「左注」に現れていると思われます。そこには「右事傳言那珂伊知郷蓑嶋人建部牛麻呂是也」とあり、この「序詞」の部分は「山上憶良」ではなく「地元」の人とされる「建部牛麻呂」によるというわけですが、そこでは「傳言」という表現がされています。つまり「建部牛麻呂」はこの「神功皇后」に関わる伝承を口伝によって継承していたものであり、それはこの「序詞」に書かれた全体がそのような性格のものであったという可能性が高いものと思料します。
 つまりここに書かれた記事の全体が「建部牛麻呂」が伝承し来たったものであったとすると、そこに現れている「単位」についても「伝承」の中のものであり、「山上憶良」達が生きていた時代のものではなかったという可能性があるでしょう。
 そもそもこの「鎮懐石」が奉られていた「鎮懐石八幡神社」は、かなり古式ゆかしい神社と考えられ、「鎮懐石」はそこで「ご神体」と崇められていたわけですから、そのようなものを「山上憶良」など外部のものが手にとって眺めたり、まして、その寸法を測ったり、重量を測定するなどと言うことが可能であったとは考えられません。それは「建部牛麻呂」にあっても同様であったと思われ、いくら地元の人間であったとしてもやはり「ご神体」について直接測定などができたとは思えませんから、これは「建部牛麻呂」の語った内容全体が彼の経験したことではなくあくまでも「傳言」であったということを示していると思われ、それを「山上憶良」が聞き取りしたものであると見られるのです。つまり「山上憶良」は彼から聞き取りしたものに基づいてこの「鎮懐石」について歌を歌ったという可能性が考えられるわけです。
 このような「神社」に伝わる伝承というものの淵源はかなり古いと考えられますから、これが「神社」に伝わっていた資料に基づくとすると、「八世紀」をはるかに遡る時期に書かれた可能性が高いものと思料されます。これらの数字が「神功皇后」につながる伝承として伝えられてきたことを考えると、少なくとも「六世紀」以前までは遡上するという可能性が高いでしょう。そのことはこれらの歌が書かれている『万葉集』そのものの成立時期にも関わりますが、「はるくさ木簡」の出現により、「和歌」が造られるようになった時代というのが従来の想定よりはるかに遡上することとなったと思われますから、『万葉集』の成立時期も同様に早まると推定されます。
 「はるくさ木簡」とは「前期難波宮」造営「以前」の谷を埋めた層から発見された木簡であり、つまり「前期難波宮」を造営することを前提した埋め立てではなく、「それ以前」の埋め立てによるとされ「廃棄処理」のために埋められたという想定さえされているもので、これが書かれる時代には既に多くの人達により「万葉仮名」を用いて「和歌」が書かれていたことを示すものであり、それを「まとめた」ものとしての「原・万葉集」とでも言うべきものがこの時代に一旦成立していたと考えて不自然ではないといえるでしょう。
 またそれは、いわゆる「縣(県)風土記」の存在からも言えると思われます。この「縣(県)風土記」については「国県制」が成立した時点における「編纂」と推定されるものであり、例えば『常陸国風土記』において「古老」が「今」として語る場面がありますが、そこでは「縣(県)」が「今」の制度として語られており、明らかに「七世紀初め」の「利歌彌多仏利」の改革の時点における用語であったものと推量されます。
 それは「筑波」という「郡」に関する記事であり、この「郡」は「八世紀時点」の「郡」と考えられます。そして「古老」が言う「筑波の縣は古、紀國と謂ひき」という言い方は、「今は」「筑波の縣」だが「古は」「紀國」という意味と理解されますから、古老の生きている時代には「縣」が(後の郡の代わりに)使用されていたこととなります。
 つまり「郡」の時代ではない時代に「古老」は生きているわけであり、それは(評制ではなく)「県制」が施行されていた時代であるとすると、「六世紀末」から「七世紀初頭」付近という時期が相当することとなるでしょう。
 そのような内容を含んでいる『風土記』が「八世紀」になって「新日本国王権」による「新・風土記」編纂という事業の際に「再利用」されたものである可能性が高いものと思われます。
 「元明」の『風土記』撰進の詔の内容は「各地の風俗」「名産」「山河の名前の由来」などを「国司」がまとめて報告せよというものであり、当然その「由来」や「伝承」が「古くからのもの」であるのは当然であると思われます。そのようなものを既にまとめたものが手元にあり、また利用できるのであれば、それを取り込んで「報告書」として書くのもまた当然とも言えるでしょう。
 このようにして、一度作られていた『風土記』が再度「換骨奪胎」され、『新・風土記』に転用されたものであり、そうであればそこに現れる「里制」などが「古制」によって表記されているのは当然と言え、「鎮懐石」伝承も既にその段階で書かれていたと考える事ができると思われます。つまりこの「伝承」はそれ以前の時代に属するものと推察されるものであり、そこに使用されている「度量衡」についてもかなり以前の倭国(特に北部九州)の状況を示すものではないかと推量されます。
 上に見るように『筑紫風土記』には「古制」であるところの「寸法」と「重量」が表記に使用されていたわけですが、また「縣(県)」が現在の制度として使用されているようにも見えます。(さらに「短里」も見える)これらは関連しているものでありいわば「セット」と思われますから、「八世紀」段階で「縣(県)」という行政制度については明らかに使用されていなかったとみられることから、「寸法」「重量」などの「古制」についても「八世紀」という段階ではすでに使用されなくなっていたと見るべきこととなるでしょう。つまり、いずれも「八世紀段階」の真実ではなく、それをかなり遡上する時期のものであって、「周代」以前の「古制」が「八世紀」に至ってなお使用されていたとは言えないということになると思われます。
 「倭国」は「隋」と通交して以降「隋制」を多く取り入れたものであり、その中に「単位系」の導入と旧来の単位系の棄却ないしは変更というものがあったと見るべきであり、『万葉集』と『風土記』に見る「古制」はその始源がその「隋制」導入以前のものであることを示すものであって、「六世紀末」付近が最も想定できるでしょう。
 この「周代」以前と推測される「古制」は、「阿毎多利思北孤」の改革により「改定」され、命脈が尽きることとなったのではないでしょうか。
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「鎮懐石」の寸法と重量について

2024年03月02日 | 古代史
この記事の中心部分は会報に2013年2月に投稿したもので(未採用です)、それを増補したものを改めて以下に書きます。

「鎮懐石」の寸法と重量について

 以下は『万葉集』の中の「八一七番歌」で言及している「鎮懐石」の大きさの形容に使用されている基準尺が、「周以前」の「古制」によるという可能性について述べるものです。
 『万葉集』の中に「短里」が存在しているという指摘が、「古田氏」の研究(※)によってなされています。

(以下「万葉集八一七番歌」を示します。ただし読み下しは『伊藤博校注『万葉集』「新編国歌大観」準拠版』によります)
「筑前国(つくしのみちのくに)怡土(いと)郡深江村子負(こふ)の原に、海に臨(のぞ)める丘の上に二つの石有り。大きなるは長(たけ)一尺二寸六分、囲(かく)み一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さきは長一尺一寸、囲み一尺八寸、重さ十六斤十両。ともに楕円(まろ)く、状(かたち)鶏子(とりのこ)の如し。その美好(うるは)しきこと、勝(あ)げて論(い)ふベからず。いはゆる径尺(けいせき)の璧(たま)これなり。…深江の駅家(うまや)を去ること二十里ばかり、路の頭(ほとり)に近く在り。公私の往来に、馬より下りて跪拝せずといふことなし。…」
  
 「山上憶良」の作とも、「建部牛麻呂」の作とも云われるこの歌には、「序詞」がつけられており、その中に「短里」と思しき表現が出てくるとされているのです。
 この「鎮懐石」が祭られていたという「丘」は以前「鎮懐石八幡宮」が鎮座していたという「深江町」の高台を指すと考えられますが、上の「序詞」の表現からも「古代官道」沿いにあったと考えられ、「駅舎」からの距離表示は正確であると思われます。
 ここに出てくる「深江駅家」というのは現在の「糸島市二丈深江」にあったものとされており、また「鎮懐石八幡宮」は同様に「深江町内」にあったと見られるわけですから、それらの距離は、ほんの目と鼻の先と云うこととなり、「二十里ばかり」というのが「長里」で理解できるものではないことは明白です。
 このように「里」という「測地系」の単位に関して、それが「短里」であるとすると、同様に「短里系」のシステムの「一環」として理解すべきではないかと考えられるのが、この歌の「序詞」に書かれている「鎮懐石」のサイズと重量です。 
 ここでは大きさとしては二つの石のうち「大きい方」が「径一尺二寸六分」、「囲一尺八寸」とされています。また「楕円」という表現や「状(かたち)鶏子の如し」という表現からも、「半長径」が「六寸三分」、「半短径」が「二寸九分」程度の「楕円体」にほど近い形状と理解できます。もちろん理想的な「楕円体」であるはずもありませんが、表現からはかなり「滑らか」な印象を受けますから、「角張ったところ」がないということと考えられ、そうであれば「楕円体」からの「ズレ」もさほど大きくはないと見られ、楕円体からのズレ(体積)はそう多くはないと思料されます。 ここに記されている「寸法」から推定される「重量」と、「重量」として記載されているものの比較をすることで、「尺」としてどのような長さがこの「鎮懐石」に使用されているのかが推定できると思われます。つまり「体積」を算出してそれに「比重」を掛けることで得られる「推定重量」と、実際の重量として書かれているものと比較するわけです。
 大抵の「岩石」の比重はせいぜい「3」程度であり、(これを「璧」という形容から、「軟玉」と考えても比重はほぼ同様です)ここではこれを適用することとします。(ここで楕円体の体積[S]は[S=4/3πabc」(ただしa:長半径、b:短半径1、c:短半径2であらわされ、このばあいb=cです)と表されるものとします。なおa=b=cの場合は球の体積に一致します。) 
 中国の度量衡は時代を経て変遷を重ねてきましたが、「斤」「両」に関して言うと、「殷・商」時代以降「南朝(陳・梁)」まで「一両」が「13.8グラム」程度、「一斤」はその「16倍」の「220グラム」程度で大きく変化はなかったと見られているようです。それが「北朝」では「一両」が27.5グラム程度、「一斤」は「440グラム」程度とほぼ「倍」になります。更に「隋代」になると「一両」が「41.3グラム」程度、「一斤」は「661グラム」程度と更に増加し、「南朝系」の3倍程度までになりますが、同時に「南朝」の重量基準とほぼ等しい「一両」が「13.8グラム」程度、「一斤」「220グラム」程度という基準も併せて使用するようになります。これはもちろん「隋」に至って「南朝」を併合し、中国を統一した国家が誕生したためであり、旧「南朝」地域の人々の便宜を考慮したものでしょう。その後「唐」に至ってこの「旧南朝」系度量衡は姿を消したものと考えられています。
 以下「寸法」と「重量」の変遷を書き出します。

時代
66141.329.62.96
661/22041.3/13.829.62.96
北朝(北魏)44027.529.62.96
南朝22013.824.52.45
魏晋22013.819.71.97
漢・新22013.823.12.31
22013.819.71.97
殷・商22013.817.21.72

 これらを参考に各時代の基準を適用してみます。
 以下寸法からの「推定重量」と重量表示からの「重量」の表(ただし「大きい方の石」の場合)
(寸法から重量を推定した場合、ただし比重を「3」とする。また「半長径」は六寸三分、「半短径」は約三寸として算出)

時代(隋・唐)(南朝)(漢・新)(周・魏晋)(殷・商)
基準尺(cm)29.624.523.119.717.2
半長径の実長(m)0.1860.1540.1460.1240.108
半短径の実長(m)0.0880.0730.0680.0580.051
体積(m3)0.006030.003440.002830.00175
0.00118
推定重量(kg)18.1010.318.485.243.53

「重量表示」(十八斤五両)から推定した重量)
 (隋・唐)(南朝)(漢・新)(周・魏晋)(殷・商)
「斤」の重量単位(g)661220220220220
十八(斤)の重量(A)118983960396039603960
「両」の重量単位(g)41.313.813.813.813.8
五(両)の重量(B)206.569696969
実重量(A+B)(kg)12.184.044.044.044.04

 上の表の「周」の時代の「尺」の長さは、「中国」における各地の発掘などによる「柱間寸法」など多数の例から帰納した平均値を使用しています(注)
また、「魏晋」時代の「尺度」については後の「南朝」にそのまま引き継がれたということから「南朝」と同じという説と、「周」の古制に則っていたという説と二通りあるようですが、ここでは「周」とほぼ同じであったという考え方をしています。
 上の表で見るように「寸法」から計算した推定重量と重量としての表示からの帰結がもっとも整合するのは「(周・魏晋)」以前であり、「殷・商」時代に使用されていたと推定される「17.2センチメートル」、重量を「一両」が13.8グラム、「一斤」は「220グラム」という値を採用したときに最も近くなります。(小さいほうの石も同様の結果となります)
 この場合であれば大きさもそれほどではなくなり、またかなり軽量化されますから、「腰に挿し挟む」などと言うこともそれほど荒唐無稽のことではなくなります。
 少なくとも、「周」以前の「尺」によらなければ、「実重量」と「推定重量」にはかなりの乖離が発生してしまうこととなりますから、この結果はこの二つの「鎮懐石」の大きさと重量の表記が(少なくとも)「周制」以後のものではないことが強く推定できるでしょう。
(誤差もありますから断定はできませんが、逆算すると、大小二つの石の「推定重量」と「実重量」の双方がほぼ一致するのは一尺が18.2センチメートル付近と考えられ、「十世紀B.C.」付近に「周」が始まる「直前」の時期に「基準寸法」がやや「伸長」したと考えられ、そのような時期の基準尺が相当すると思われます。)
 上の計算は、「古田氏」が指摘したように「里制」におけるものと同様、同時に表れる「寸法」や「重量」も「周代」以前と推察される「古制」に拠っていた事を強く示唆するものといえるのではないでしょうか。

(※)古田武彦「九州における短里」(『シンポジウム 邪馬壹国から九州王朝へ』所収 新泉社 古田武彦編 一九八七年)
邪馬壹国から九州王朝へ

(注)
岩田重雄「中国・朝鮮・日本の長さ標準 -( 第1報)300B.C.-A.D.1700」計量史研究 16(1)一九九四年十二月 および「中国・朝鮮・日本の長さ標準 -(第2報)5000-300B.C.」計量史研究17(1)一九九五年十二月


「参考資料」
伊藤博校注『万葉集』角川文庫
古田武彦「よみがえる卑弥呼」駸々堂
新井宏『「考工記」の尺度について』計量史研究19(1)一九九七年十二月

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「日本神話」と星の世界

2024年03月02日 | 古代史・天体
これかなり以前会報へ投稿したものですが、未採用となっているものです。
(投稿日付は二〇一二年十一月八日)

「日本神話」と星の世界

 今回は「記紀」の神話の中に「星」や「星座」が表されているという説についてご紹介します。この研究はかなり以前に出ているのですが、管見する限り「引用」等されておらず、おおかた「星」など縁のない人たちには「実感」のない説なのではないかと思われます。ここで、改めてご紹介して、また違った観点からの「神話解釈」を提供したいと思います。
 「記紀」の神話の中に「天の鈿女」と「猿田彦」の話が出てきます。天下りの前に地上界を調べに来た「雨の鈿女」の前に「猿田彦」が立ちふさがり問答する場面があります。この場面は従来解釈が難解な場面でした。それは話の展開と関係ない描写があるように思えるからです。たとえば、「雨の鈿女が胸をあらわにむき出して、腰紐を臍の下まで押し下げてあざ笑った。」というような描写です。

『書紀』「巻第二神代下第九段」の「一書」(読み下しは「岩波日本古典文学大系新装版」によります)
 「…已而且降之間。先驅者還白さく「一の神有りて、天八達之衢に居り。其鼻の長さ七咫(あた)、背(そびら)の長さ七尺(さか)餘り。當に七尋と言ふべし。且(ま)た口尻(わき)明り耀(て)れり。眼は八咫の鏡の如くして?然(てりかがやける)こと赤酸醤(あかかがち)に似たり」とまうす。即ち從(みとも)の神遣して往きて問わしむ。時に八十萬の神たち有り。皆目(ま)勝ちて相い問ふこと得ず。故(かれ)特(こと)に天鈿女勅(みことのり)して曰はく、「汝は是、人に目勝ちたる者(かみ)なり。往きて問ふべし。」のたまふ。天鈿女乃ち其の胸乳(むなち)を露(あらわ)にかきいでて、裳帶(もひも)を臍(ほそ)の下(しも)に抑(おしたれ)て、笑?(あざわら)ひて向きて立つ。是時に、衢の神問ひて曰はく「天鈿女、汝爲(かくす)るは何の故(ゆえ)ぞ。對へて曰はく「天照大神之子所幸(いでます)道路(みち)に、如此(か)く居ること誰ぞ。敢へて問ふ。」といふ。衢の神對へて曰はく。「天照大神之子今降行(いでます)と聞く。故(このゆゑ)に迎へ奉りて相待つ。吾が名は是れ猿田彦大神。」時に天鈿女復た問ひて曰はく。「汝將(はた)我に先(さきだ)ちて行かむ。將抑(はた)我や汝に先(さきだち)て行かむ。」對へて曰はく。「吾先ちて啓(みちひらき)て行かむ。」天鈿女復た問ふて曰はく。「汝は何處(いずこ)に到りまさむぞや。皇孫何處(いずこ)に到りまさむぞや。」對へて曰はく。「天神之子は則ち當に筑紫の日向の高千穗の?觸(くじふる)峯(たけ)に到りますべし。吾は伊勢の狹長田の五十鈴の川上に到るべし。」といふ。因りて曰はく、我を發顯(あらは)しつるは汝也。故汝我を送りて致りませ。」といふ。天鈿女詣(もうで)還りて報(かへりごと)状(まう)す。皇孫、於是、天磐座を脱離(おしはなち)て、天八重雲を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、天降ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)如くに、皇孫則ち筑紫の日向の高千穗の?觸之峯に到します。其猿田彦神は、則ち伊勢の狹長田の五十鈴の川上に到る。即天鈿女命猿田彦神の所乞(こはし)隨(まにま)に遂に以侍送(あひおくる)。…」

 ここには「猿田彦」の顔などの描写が異常に詳しく出ており、唐突な印象を受けます。この部分やその後に続く「天八達之衢」とか「天鈿女乃露其胸乳。抑裳帶於臍下。而笑?向立。」というような妙に具体的な描写が何を意味するものか今までは「不明」とされていました。
 しかし、これらの部分については「天空の星座をなぞったもの」という解釈により合理的な解釈が施されることとなったのです。
 それは長崎大学の「勝俣隆氏」の研究です。(勝俣隆「星座で読み解く日本神話」大修館書店)
 それによれば、「猿田彦」の描写の部分は「牡牛座」の「ヒアデス星団」付近のことであるとされています。この「ヒアデス星団」は大きく広がった明るい「散開星団」であり、「牡牛座」の「顔の部分」を形成しています。肉眼でもその「星団」の中に多数の星が数えられるほどであり、むかしの人々にはなじみの星達であったと考えられます。
 「猿田彦」の形容として「其鼻長七咫。背長七尺餘。當言七尋。且口尻明耀。眠如八咫鏡而?然似赤酸醤也。」という部分について見てみると、「鼻」と称されているのが「V字型」をした「星団」の中心部から下方に続く星の列を結んだものであり、「口尻明耀」とされているのがその下で星が密集して輝いているところを指すと考えられます。また「似赤酸醤(ほうずき)」と書かれているのが「牡牛座」α星の「アルデバラン」のことと考えられるようです。「アルデバラン」は「赤色巨星」であり、その赤く大きく輝く姿は「冬の星座」の中ではかなり目立つ星です。
 そして、この「猿田彦」が「牡牛座」であるとすることからの「連想」としてそれに向かい合っているとされる「天鈿女」の部分は「オリオン座」のことではないかと考えられ、「臍の下」まで押し下げられた「腰紐」というのが「オリオン大星雲」(M42)だとされています。
 「オリオン座」のいわゆる「三つ星」のすぐ下に縦に「ぼうっ」と輝く「オリオン大星雲」はかなり空の明るいところでも容易に認められるものであり、またこの「オリオン座」と「牡牛座」は「向かい合っている」形になっています。「ギリシャ神話」でも「突進する雄牛」とそれを迎え撃つ「オリオン」という見立てになっていますが、このように「互いに向かい合った」姿を星の配列から想像するのはそれほど難しくありません。
 このように特徴のある星達(星座)が「向かい合っている」ように見えることから、この「天上」から下りてくる「天鈿女」とそれを迎える「猿田彦」と言うことに話が組み立てられたものと考えられます。それを示すように「天鈿女」は「汝是目勝於人者」と「瓊瓊杵」から言われており、それは「天鈿女」の「目」が「猿田彦」の「赤酸醤(ほうずき)」のように輝く「光」(星)に負けない光と色であることを推定させるものです。これは「オリオン座」のα星「ベテルギウス」を意味すると考えられます。「ベテルギウス」の方が「アルデバラン」よりも明るくて、同じように赤く輝く星ですから、それが「瓊瓊杵の言葉」に反映していると考えられます。
 その他にも、上の「神話」の記事の中に「猿田彦」のいた場所として「天八達之衢」という名称が出てきます。
 ここに出てくる「衢」(ちまた)というのは「交差点」を示す言葉であり、「天上世界」とこの世界を繋ぐところが「天八達之衢」であり、その「通路」となっているのが「星」であり、またその集まりである「星団」であるとされています。
 その様なものが実際に「オリオン」と「ヒアデス」の至近になければなりませんが、それが同じ「牡牛座」に存在する「プレアデス星団」がそうであると思われます。
 この「プレアデス星団」は「すばる」と言われ「語義」としては「集まっている」或いは「統率する」という意味であるとされていますが、各地域では「むつらぼし」を始め多くの呼び名がありますが、普通の視力では「肉眼」では少なくとも「六個」程度の星が集まっているように見えるとされています。このようなものを「天八達之衢」と呼んだと考えるのはあり得る話です。
 「西欧」では「ギリシャ神話」に基づき「セブンシスターズ」と呼び習わされていますが、名前がついているのは「九つ」あります。それは「両親」+「七人姉妹」の構成となっているためで、星図で確認すると、一番暗い星は「アステローペ」の5.77等の様です。このように基本的には、天空の状態や本人の視力などにより左右される程度の見え方であり、特に明るい六コ以外はその神話の構成上「九」になったり、あるいは「八」という数字に意味を持たせて「八衢」としていたというようなことかもしれません。
 そのほかにもこの「オリオン座」の三ツ星が「住吉三神」を意味するとも考えられているようです。この「オリオン座」の三つ星は「天の赤道」上に位置しており、「真東」から昇り「真西」へ沈みます。この「天の赤道」はその土地の緯度の分だけ傾いていますから、特に緯度が低い「南」の地方では「三つ星」は「垂直」に近い角度で「昇り」また「沈み」ます。この事はこの「三つ星」が一つずつ地平線(水平線)から昇ってくることを示しており、最初に昇ってくる星を「上筒男」、次が「中筒男」、最後が「底筒男」であると推定されています。
 ここで「筒」というのが「星」であるとされていますが、(万葉集などにも「夕星」の読みとしては「ゆふつづ」とされています。)『古事記』の観念では「星」とは「天上世界」とこの私たちの世界を隔てる「壁」に空いた「孔」のようなものと考えられていたようです。たとえば「天若彦」の下りを見てみると、以下のような表現が目につきます。

「…故爾鳴女、自天降到、居天若日子之門湯津楓上而、言委曲如天神之詔命。爾天佐具賣、此三字以音。聞此鳥言而、語天若日子言、此鳥者、其鳴音甚惡。故、可射殺云進、?天若日子、持天神所賜天之波士弓、天之加久矢、射殺其雉。爾其矢、自雉胸通而、逆射上、逮坐天安河之河原、天照大御神、高木神之御所。是高木神者、高御??日神之別名。故、高木神、取其矢見者、血著其矢羽。於是高木神、告之此矢者、所賜天若日子之矢、?示諸神等詔者、或天若日子、不誤命、爲射惡神之矢之至者、不中天若日子。或有邪心者、天若日子、於此矢麻賀禮。此三字以音。云而、取其矢、『自其矢穴衝返下者』、中天若日子寢朝床之高胸坂以死。此還矢之本也。亦其雉不還。故於今諺曰雉之頓使是也。」

 ここでは「穴」から矢を「返下」したとされていますから、地上から射た矢が天上世界に届いた際に、「天上」とこの世界を隔てる「壁」に「穴」を空けたことを示しています。つまり、この「壁」はその様な性質があると考えられていたわけです。そして、この「穴」を「星」として認識していたものです。これが理由で「星」のことを「つつ」(筒)というものと考えられます。つまりこの「穴」は「筒」状のものであるというわけです。「古星図」などでも「星」は「○」で表示される例が多いのですが、それは「筒」つまり「円柱」の端面の形状を示すものだからだと思われます。
 「住吉三神」は「神功皇后」の「新羅征伐」の際に「水先案内」を務めますが、これが「三つ星」であれば先にも述べたように「東西」が正確に把握できるものであり、航海の「アテ星」(目標とする星)としては最適であったと思われます。(航海の「アテ星」としては「オリオン座」の「三つ星」や「北極星」或いは「北斗七星」がよく使われたようです)
 また、この事は「新羅征伐」の航海が「昼」だけではなく「夜」も行われた事を示していると考えられ、「夜襲」をかけたという可能性を示唆します。「満潮」であれば「海岸」近くまで大型船が行ける可能性が高く、「月夜」を待って「夜襲」したとも思えます。(「斉明紀」には「新羅」を直接攻めることを示唆する記事があり、この時も実際には「夜襲」ではなかったかと推測されます)
 これらの「星」と「神話」をつなげる数々の例は、実際に夜空を眺めたり「三つ星」が水平線から昇ってくるところを見ると「実感」できると思われ、これらのことは「夜空」の星をしばしば見上げる人々がいて、彼等により作り出された物語であると考えられますが、「星」や「月」は「航海」の上で非常に重要な道案内役であって、これらを題材にして神話、民話を形作るのは「海人族」であるという可能性が非常に高いものと考えられます。その意味では『隋書』に記載された「阿毎多利思北孤」の「政治体制」を示すものとされる「天を兄とし日を弟とする」という表記や「未明」には「天」が主役であり、「日の出」以降は「日」が主役であるという意味からも、「夜」に主たる存在があり、「昼間」はそれに従属するものという考え方が確認され、「海人族」の思想に重なるものと推察されます。つまり「阿毎多利思北孤」とその太子「利歌彌多仏利」等「倭国王権」の主体は「海人族」である可能性は高く、それは「阿毎」つまり「あま」という「姓」にも現れています。「あま」は「大海人皇子」の例を待つまでもなく「海人」を意味する語であり、それを「姓」にしている「多利思北孤」達の出自もやはり「海人族」であることを示すものと思われるわけです。とすれば彼らの時代と推察される「記紀」の成立という時点において「海人族」からの情報が多く盛り込まれている可能性が高いのは当然と思われ、古代史の中での「海人族」の重要な役どころが窺われます。
 その後も「海の正倉院」と呼ばれることとなった「沖ノ島」(玄界灘に浮かぶ島)などには近畿の王朝からの貢納が続けられることとなりますが、この場所は「海人族」(阿曇族や宗像族)の信仰の中心となった島なのです。この島には「宗像三女神」のうちの「一女神」が祭神として祭られており、対岸の「陸地」に「他の二神」が祭られていて、一体となって「信仰」を広く集めていたものです。
 『書紀』の国生み神話でも「天照大神」や「素戔嗚尊」よりも先に「宗像三女神」が生まれています。また、「住吉三神」も同様に生まれており、『書紀』に海人族が持ち来たった神話が大量に注入されていることがわかります。
 また『丹後国風土記』には「浦島太郎伝説」の一つである「浦嶼子」伝説が語られており、その中に「昴」(すばる)と「畢」(あめふり)が出てきます。

 「…女娘、「君、且(しま)し此處に立ちませ」と曰ひて、門を開きて内に入りき。即ち七たりの竪子(わらは)來て、相語りて「是は龜比賣の夫(をひと)なり」と曰ひき。亦、八たりの竪子來て、相語りて「是は龜比賣の夫なり」と曰ひき。茲(ここ)に、女娘が名の龜比賣なることを知りき。乃(すなは)ち女娘出て來ければ、嶼子、竪子等が事を語るに、女娘の曰ひけらく、「其の七たりの竪子は昴星(すばる)なり。其の八たりの竪子は畢星(あめふり)なり。君、な恠(あやし)みそ」といひて、即ち前立ちて引導(みちび)き、内に進み入りき。…」

 ここで言う「昴」は上で見たように「プレアデス星団」ですが「畢」(あめふり)というのは「ヒアデス星団」を言い、上の「猿田彦」の顔の部分を指して言われています。これらは「中国」から伝来した説話と思われますが、このように「星」に関する話は「神話」「伝承」などに多く登場し、古代の人々と「星」の関わりが深いことを示すものです。その様な事を想定の範囲の中において「神話」を理解するというアプローチも必要なのではないでしょうか。

(※)「日本神話の星」『星の手帖』四十四号(一九八九年年五月)及び、勝俣隆「星座で読み解く日本神話」大修館書店(二〇〇〇年六月)
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