以下さらに続きます。
「聖徳太子」が書いたとされる「十七条憲法」は、「統治する側」の立場の人間に対して、国家統治の「心構え」「行なうべき事」「守るべき事」などを列挙したものです。また、「憲法」という用語でも分かるように「最高法規」として存在していたものでもあります。
また、これは「倭国」で(我が国で)始めて作られたものであり、後の「弘仁格式」の「序」にも「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」と書かれており、「国家制法」つまり、国が「法」を定めることがこの時から始まったとされる記念碑的なものであったことが読み取れます。このような画期的なものが、その後「顧みられない」とか「無視」されたと言うことは考えられず、歴代の「王権」はこれを重視せざるを得なかったのではないかと思料されます。
この「憲法」は「聖徳太子」が自ら起草したとされていますが、「聖徳太子」というのは『隋書俀国伝』に登場する「阿毎多利思北孤」とその「太子」のイメージを重ねて出来た「架空の人物」と考えられ、ここでも彼等の治績を「剽窃」していると考えられます。
「森博達氏」によるとこの「憲法」は「倭臭」つまり、日本人が「不正確」な「慣用的」用法により書いたと思われる部分と、本格的な漢文(正格漢文)とに分かれているとされています。「正格漢文」の部分である「一、五、八、九、十一、十六条」の計六箇条について、後代のものと推定する根拠はなく、これは「当初」からのものと考えられるものでしょう。つまり、この部分(以下の条項)がこの時定められた「憲法」の「原型」であったのではないでしょうか。
一曰。以和爲貴。無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。詣於論事。則事理自通。何事不成。
五曰絶餮棄欲明辨訴訟。其百姓之訟。一日千事。一日尚爾。况乎累歳。頃治訟者。得利爲常。見賄聽?。便有財之訟。如石投水。乏者之訴。似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。
八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡鹽。終日難盡。是以遲朝不逮于急。早退必事不盡。
九曰。信是義本。毎事有信。其善惡成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣無信。萬事悉敗。
十一曰。明察功過。賞罸必當。日者賞不在功。罸不在罪。執事群卿。宜明賞罸。
十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。從春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。
このことは、この「十七条憲法」というものの「原型」が「六箇条」からなるものであったらしい事が推定されることとなるわけですが、これは「北周」の「大統十年」(五四四年)に出された「六条詔書」というものの影響があるのではないでしょうか。
この「六条詔書」というものは、「清心」「敦教化」「尽地利」「擢賢良」「恤獄訟」「均賦役」という項目を「地方官吏」に対して実行するよう命令したとされるものです。
この「六条詔書」はその項目名でわかるように一種の地方官僚に対する倫理規定であったと考えられ、「宰相」であった「宇文泰」はこれを各人に「誦習」させたと言われており、「地方統治」の重要なものとして位置付けていたことが分かります。
「七世紀初め」という時間帯において、「倭国」はその支配領域を「東国」に広げ「我姫(あづま)」地域に対する「行政制度再編成」を含め、諸改革を進めていたと考えられますが、このようなことを背景として「倭国」では「北周」に習い、「官人」に対して、新しく「倭国」の版図に組み込まれた地域への統治に対する基本姿勢として打ち出したものが「憲法」の意義であったものではないでしょうか。
この時「北周」からそのようなことを学んだ可能性があると考えるのは、「筑紫都城」が『周礼考工記』から「都城の理想形」としてのレイアウトを採用したと考えられる事からも言えることです。
「北周」はその国号に「周」という名称が使用されていることから分かるように、古の「周」に復帰することを望み、『周礼』によって制度等を整備することを選んだものです。「倭国」でも「短里制」や「官吏」などの制度に「周」の(あるいはそれ以前)古制を採用していたと思われますから、「北周」の制度等にも違和感はなかったと思われます。もちろん「南朝」を「唯一の皇帝の国」として考えていたことは変わらないものの、「北周」の制度に影響された部分もかなりあるものと推量します。(もちろん「百済」等半島諸国を経由した間接的なものではあったと思われますが)
また、「六箇条」で当初成立していたはずの「憲法」が「十七条」に拡大されたことと、「聖徳太子」の筆になると云う考え方もある『維摩経義疏』との間に関連があることが指摘されています。
この『維摩経義疏』では「十七」という数字が特別の位置に置かれているようであり、その中では「就第一正明万善是浄土因中凡有十七事」という文章があるように「万善」が即座に「十七」という数字に「直結」しています。
これは「陰陽」というものに関係しているようであり、「易経」によれば「陽」が奇数で最大数が「九」、「陰」が偶数で最大値が「八」とされ、合計の「十七」が重要とされ、これが『維摩経義疏』に取り込まれ、更にそこから「憲法」に取り込まれたという可能性があります。
この『維摩経義疏』を含む『三経義疏』は、「森博達氏」の研究により明らかにされた『書紀』の中の「倭臭漢文」(いわゆる「β群」)とほぼ同じ傾向の「倭臭」が看取されており、その意味からも『推古紀』ではなくもっと後の時代の「編集」であることが想定されます。それは、その『三経義疏』の「編集」時期が「憲法」の当初部分に「条文」を付加して「十七箇条」に改めた時期と接近しているという可能性を推測させるものです。
この時条文を書き加えたと考えられる人物は、この『維摩経義疏』を深く読み込んでいたものと思われ、強く影響されて「憲法六条」に更に「十一箇条」を書き加え、「十七条」としたのではないでしょうか。
ところで、『扶桑略記』や近年発見された『日本帝皇年代記』には「内大臣鎌子」が「元興寺呉僧福亮」から『維摩経』の「講説」を受けたことが記されています。
「(斉明)三年丁巳(六五七年)。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎會。是則維摩会始也。
…
同年 中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。…」(『扶桑略記』)
「戊午(白雉)七(六五八年) 鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経/智通・智達入唐、謁玄奘三蔵學唯識」(『日本帝皇年代記』)
また同様の趣旨を示す「太政官符」も出ています。
「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事/右得皇后宮識觧稱。始興之本。従白鳳年。迄干淡海天朝。内大臣割取家財。爲講説資。伏願。永世万代勿令断絶。…」(『類従三代格』「太政官符謹奏」天平九年(七三七年)三月十日)
ここでは「内大臣」(鎌子)が「講説」を受けるために「私財」を投じていたことが窺えます。このことから「内大臣鎌子」が「維摩経」に強く感化されたと考えて間違いないと思われますが、彼は「天智」と一心同体とも言われていたわけですから、「天智」も同様に「維摩経」に影響されていたと見ることは可能と思われ、「憲法」が「十七条」に拡大される事情も「天智」と「維摩経」との関連で考えて不自然ではないこととなるでしょう。
さらにここで出てくる「福亮法師」という人物が「聖徳太子」と関連があると考えられていることも上の推定と関連して重要です。彼は「法起寺塔露盤銘」に彼の名前が出て来ますが、そこでも「聖徳太子」との関連が考えられる記述があるなど、「聖徳太子」に深く関わる人物と考えられています。
「上宮太子聖徳皇壬午年(旁朱)推古天皇三十二月二十二日、臨崩之時、於山代兄王敕御愿旨、此山本宮殿宇即処専為作寺、及(入カ)大倭国田十二町、近江国田三十町。至于戊戌年旁朱舒明天皇十年『福亮僧正』、聖徳御分敬造弥勒像一躯、構立金堂。至于乙酉年旁朱白鳳十四惠施僧正、将竟御愿、構立堂塔。而丙午年三月、露盤営作。」「法起寺塔露盤銘文」
彼を通じて「天智」と「聖徳太子」との間に関係があることが推測され、「聖徳太子」の制定による「憲法」を「天智」が「十七条」に拡大したという推定も可能と思われます。そして、それを行った「天智」は『二中歴』では「東院」と呼称されていたという可能性があります。
「白鳳二三辛酉 対馬採銀観世音寺東院造」
この表記は同じ『二中歴』の「天王寺」記事の場合と比較すると、同じ文章構造であることが分かります。
「倭京五戊寅 二年難波天王寺聖徳造」
このふたつの記事の比較から、「聖徳」という人物(これは「利歌彌多仏利」か)に「対応」するのが「東院」という名称であり、この事は「東院」が「聖徳」同様、個人名であり、また「聖徳」が「利歌彌多仏利」の「法号」である可能性が指摘されていることから、この「東院」についても同様である可能性が高いものと思料します。
この「院」という「称号」が「出家」した「天子」や「天皇」を指す用語と考えられることも「東院」が「法号」であることを傍証しているようです。
また、「観世音寺」創建に関しては、『書紀』など多くの資料が「天智」の発願としているところから考えて、この「東院」とは「天智」を指すものと考えざるをえません。さらに「東」という語の使用例から考えて「東宮」つまり「太子」あるいは「皇太子」としての存在と関連している可能性は高いと思われます。つまり「太子」の状態で出家した人物という意味を指すものでないかと見られるのです。
「不改常典」として出された「憲法」に対して「書き加え」を行うというようなことは「一介の官吏」にできることではなく、必ず「倭国王」ないし「皇太子」的存在の人物の手によるものと考えるべきであり、その意味でもこの「条項拡大」が「東院」すなわち「東宮」の位置にあって出家した人物の事業であったことが強く推定されるものです。(これを一般に「天智」と見ているもの)
「内大臣」の『維摩経』受講などを見ても「天智政権」として深く仏教に帰依していたものと考えられ、「観世音寺」を創建するという事情もそのあたりにあると思料されるものであり、そう考えると『維摩経義疏』などを「天智」自身が「参考」にしたというのは蓋然性の高い想定であると思われます。
それを示すと思われる記事が『藤氏家伝』にあります。
「(摂政)七年…
先此、帝令大臣撰述礼儀。刊定律令。通天人之性、作朝廷之訓。大臣与時賢人、損益旧章、略為条例。一崇敬愛之道、同止奸邪之路。理慎折獄、徳洽好生。至於周之三典、漢之九篇。無以加焉。」(『藤氏家伝』)
この文章はまず「撰述礼儀」といい、また「刊定律令」とも言っています。「刊定律令」とは「近江令」のことをいうと一般に推定されていますが、その前の「撰述礼儀」というものについては、これが「礼儀」に関することですから「律令」とは異なると思われ、そこに書かれた「天人之性」「朝廷之訓」という言い方からも、「自分」も含めた朝廷の官人達の「行動規範」を示したものと考えられます。
後半に書かれている「周之三典、漢之九篇」とは、「周礼」の「軽中重の三典」及び「漢の高祖」の定めた「九章律」を指すと考えられますから、これについては「律令」を意味すると考えられますが、他の文言は「律令」と言うよりむしろ「礼儀」に関わるものと考えられ、「統治」するもののあるべき「道徳」を示したものであり、「十七条憲法」につながる内容を含んでいると考えられるものです。
つまり、『書紀』編纂者の認識としては『書紀』に書かれているような形の「十七条憲法」を作り上げたのは「天智」であり、「近江朝廷」の事というものであったという事となります。
以上のことから「不改常典」と「十七条憲法」とは同一であり、「新日本国王権」にとって「ゆるがせにできない」性質のものであって、皇位継承にあたってそれが「言及」されるのは、それが「国家統治」の根本を示すものであり、それを継承することが「禅譲」の条件であったからと見られることとなります。
また、これは「倭国」で(我が国で)始めて作られたものであり、後の「弘仁格式」の「序」にも「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」と書かれており、「国家制法」つまり、国が「法」を定めることがこの時から始まったとされる記念碑的なものであったことが読み取れます。このような画期的なものが、その後「顧みられない」とか「無視」されたと言うことは考えられず、歴代の「王権」はこれを重視せざるを得なかったのではないかと思料されます。
この「憲法」は「聖徳太子」が自ら起草したとされていますが、「聖徳太子」というのは『隋書俀国伝』に登場する「阿毎多利思北孤」とその「太子」のイメージを重ねて出来た「架空の人物」と考えられ、ここでも彼等の治績を「剽窃」していると考えられます。
「森博達氏」によるとこの「憲法」は「倭臭」つまり、日本人が「不正確」な「慣用的」用法により書いたと思われる部分と、本格的な漢文(正格漢文)とに分かれているとされています。「正格漢文」の部分である「一、五、八、九、十一、十六条」の計六箇条について、後代のものと推定する根拠はなく、これは「当初」からのものと考えられるものでしょう。つまり、この部分(以下の条項)がこの時定められた「憲法」の「原型」であったのではないでしょうか。
一曰。以和爲貴。無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。詣於論事。則事理自通。何事不成。
五曰絶餮棄欲明辨訴訟。其百姓之訟。一日千事。一日尚爾。况乎累歳。頃治訟者。得利爲常。見賄聽?。便有財之訟。如石投水。乏者之訴。似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。
八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡鹽。終日難盡。是以遲朝不逮于急。早退必事不盡。
九曰。信是義本。毎事有信。其善惡成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣無信。萬事悉敗。
十一曰。明察功過。賞罸必當。日者賞不在功。罸不在罪。執事群卿。宜明賞罸。
十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。從春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。
このことは、この「十七条憲法」というものの「原型」が「六箇条」からなるものであったらしい事が推定されることとなるわけですが、これは「北周」の「大統十年」(五四四年)に出された「六条詔書」というものの影響があるのではないでしょうか。
この「六条詔書」というものは、「清心」「敦教化」「尽地利」「擢賢良」「恤獄訟」「均賦役」という項目を「地方官吏」に対して実行するよう命令したとされるものです。
この「六条詔書」はその項目名でわかるように一種の地方官僚に対する倫理規定であったと考えられ、「宰相」であった「宇文泰」はこれを各人に「誦習」させたと言われており、「地方統治」の重要なものとして位置付けていたことが分かります。
「七世紀初め」という時間帯において、「倭国」はその支配領域を「東国」に広げ「我姫(あづま)」地域に対する「行政制度再編成」を含め、諸改革を進めていたと考えられますが、このようなことを背景として「倭国」では「北周」に習い、「官人」に対して、新しく「倭国」の版図に組み込まれた地域への統治に対する基本姿勢として打ち出したものが「憲法」の意義であったものではないでしょうか。
この時「北周」からそのようなことを学んだ可能性があると考えるのは、「筑紫都城」が『周礼考工記』から「都城の理想形」としてのレイアウトを採用したと考えられる事からも言えることです。
「北周」はその国号に「周」という名称が使用されていることから分かるように、古の「周」に復帰することを望み、『周礼』によって制度等を整備することを選んだものです。「倭国」でも「短里制」や「官吏」などの制度に「周」の(あるいはそれ以前)古制を採用していたと思われますから、「北周」の制度等にも違和感はなかったと思われます。もちろん「南朝」を「唯一の皇帝の国」として考えていたことは変わらないものの、「北周」の制度に影響された部分もかなりあるものと推量します。(もちろん「百済」等半島諸国を経由した間接的なものではあったと思われますが)
また、「六箇条」で当初成立していたはずの「憲法」が「十七条」に拡大されたことと、「聖徳太子」の筆になると云う考え方もある『維摩経義疏』との間に関連があることが指摘されています。
この『維摩経義疏』では「十七」という数字が特別の位置に置かれているようであり、その中では「就第一正明万善是浄土因中凡有十七事」という文章があるように「万善」が即座に「十七」という数字に「直結」しています。
これは「陰陽」というものに関係しているようであり、「易経」によれば「陽」が奇数で最大数が「九」、「陰」が偶数で最大値が「八」とされ、合計の「十七」が重要とされ、これが『維摩経義疏』に取り込まれ、更にそこから「憲法」に取り込まれたという可能性があります。
この『維摩経義疏』を含む『三経義疏』は、「森博達氏」の研究により明らかにされた『書紀』の中の「倭臭漢文」(いわゆる「β群」)とほぼ同じ傾向の「倭臭」が看取されており、その意味からも『推古紀』ではなくもっと後の時代の「編集」であることが想定されます。それは、その『三経義疏』の「編集」時期が「憲法」の当初部分に「条文」を付加して「十七箇条」に改めた時期と接近しているという可能性を推測させるものです。
この時条文を書き加えたと考えられる人物は、この『維摩経義疏』を深く読み込んでいたものと思われ、強く影響されて「憲法六条」に更に「十一箇条」を書き加え、「十七条」としたのではないでしょうか。
ところで、『扶桑略記』や近年発見された『日本帝皇年代記』には「内大臣鎌子」が「元興寺呉僧福亮」から『維摩経』の「講説」を受けたことが記されています。
「(斉明)三年丁巳(六五七年)。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎會。是則維摩会始也。
…
同年 中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。…」(『扶桑略記』)
「戊午(白雉)七(六五八年) 鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経/智通・智達入唐、謁玄奘三蔵學唯識」(『日本帝皇年代記』)
また同様の趣旨を示す「太政官符」も出ています。
「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事/右得皇后宮識觧稱。始興之本。従白鳳年。迄干淡海天朝。内大臣割取家財。爲講説資。伏願。永世万代勿令断絶。…」(『類従三代格』「太政官符謹奏」天平九年(七三七年)三月十日)
ここでは「内大臣」(鎌子)が「講説」を受けるために「私財」を投じていたことが窺えます。このことから「内大臣鎌子」が「維摩経」に強く感化されたと考えて間違いないと思われますが、彼は「天智」と一心同体とも言われていたわけですから、「天智」も同様に「維摩経」に影響されていたと見ることは可能と思われ、「憲法」が「十七条」に拡大される事情も「天智」と「維摩経」との関連で考えて不自然ではないこととなるでしょう。
さらにここで出てくる「福亮法師」という人物が「聖徳太子」と関連があると考えられていることも上の推定と関連して重要です。彼は「法起寺塔露盤銘」に彼の名前が出て来ますが、そこでも「聖徳太子」との関連が考えられる記述があるなど、「聖徳太子」に深く関わる人物と考えられています。
「上宮太子聖徳皇壬午年(旁朱)推古天皇三十二月二十二日、臨崩之時、於山代兄王敕御愿旨、此山本宮殿宇即処専為作寺、及(入カ)大倭国田十二町、近江国田三十町。至于戊戌年旁朱舒明天皇十年『福亮僧正』、聖徳御分敬造弥勒像一躯、構立金堂。至于乙酉年旁朱白鳳十四惠施僧正、将竟御愿、構立堂塔。而丙午年三月、露盤営作。」「法起寺塔露盤銘文」
彼を通じて「天智」と「聖徳太子」との間に関係があることが推測され、「聖徳太子」の制定による「憲法」を「天智」が「十七条」に拡大したという推定も可能と思われます。そして、それを行った「天智」は『二中歴』では「東院」と呼称されていたという可能性があります。
「白鳳二三辛酉 対馬採銀観世音寺東院造」
この表記は同じ『二中歴』の「天王寺」記事の場合と比較すると、同じ文章構造であることが分かります。
「倭京五戊寅 二年難波天王寺聖徳造」
このふたつの記事の比較から、「聖徳」という人物(これは「利歌彌多仏利」か)に「対応」するのが「東院」という名称であり、この事は「東院」が「聖徳」同様、個人名であり、また「聖徳」が「利歌彌多仏利」の「法号」である可能性が指摘されていることから、この「東院」についても同様である可能性が高いものと思料します。
この「院」という「称号」が「出家」した「天子」や「天皇」を指す用語と考えられることも「東院」が「法号」であることを傍証しているようです。
また、「観世音寺」創建に関しては、『書紀』など多くの資料が「天智」の発願としているところから考えて、この「東院」とは「天智」を指すものと考えざるをえません。さらに「東」という語の使用例から考えて「東宮」つまり「太子」あるいは「皇太子」としての存在と関連している可能性は高いと思われます。つまり「太子」の状態で出家した人物という意味を指すものでないかと見られるのです。
「不改常典」として出された「憲法」に対して「書き加え」を行うというようなことは「一介の官吏」にできることではなく、必ず「倭国王」ないし「皇太子」的存在の人物の手によるものと考えるべきであり、その意味でもこの「条項拡大」が「東院」すなわち「東宮」の位置にあって出家した人物の事業であったことが強く推定されるものです。(これを一般に「天智」と見ているもの)
「内大臣」の『維摩経』受講などを見ても「天智政権」として深く仏教に帰依していたものと考えられ、「観世音寺」を創建するという事情もそのあたりにあると思料されるものであり、そう考えると『維摩経義疏』などを「天智」自身が「参考」にしたというのは蓋然性の高い想定であると思われます。
それを示すと思われる記事が『藤氏家伝』にあります。
「(摂政)七年…
先此、帝令大臣撰述礼儀。刊定律令。通天人之性、作朝廷之訓。大臣与時賢人、損益旧章、略為条例。一崇敬愛之道、同止奸邪之路。理慎折獄、徳洽好生。至於周之三典、漢之九篇。無以加焉。」(『藤氏家伝』)
この文章はまず「撰述礼儀」といい、また「刊定律令」とも言っています。「刊定律令」とは「近江令」のことをいうと一般に推定されていますが、その前の「撰述礼儀」というものについては、これが「礼儀」に関することですから「律令」とは異なると思われ、そこに書かれた「天人之性」「朝廷之訓」という言い方からも、「自分」も含めた朝廷の官人達の「行動規範」を示したものと考えられます。
後半に書かれている「周之三典、漢之九篇」とは、「周礼」の「軽中重の三典」及び「漢の高祖」の定めた「九章律」を指すと考えられますから、これについては「律令」を意味すると考えられますが、他の文言は「律令」と言うよりむしろ「礼儀」に関わるものと考えられ、「統治」するもののあるべき「道徳」を示したものであり、「十七条憲法」につながる内容を含んでいると考えられるものです。
つまり、『書紀』編纂者の認識としては『書紀』に書かれているような形の「十七条憲法」を作り上げたのは「天智」であり、「近江朝廷」の事というものであったという事となります。
以上のことから「不改常典」と「十七条憲法」とは同一であり、「新日本国王権」にとって「ゆるがせにできない」性質のものであって、皇位継承にあたってそれが「言及」されるのは、それが「国家統治」の根本を示すものであり、それを継承することが「禅譲」の条件であったからと見られることとなります。