古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「不改常典」とは ―「十七条憲法」と維摩経と「天智」

2024年03月08日 | 古代史
 以下さらに続きます。

 「聖徳太子」が書いたとされる「十七条憲法」は、「統治する側」の立場の人間に対して、国家統治の「心構え」「行なうべき事」「守るべき事」などを列挙したものです。また、「憲法」という用語でも分かるように「最高法規」として存在していたものでもあります。
 また、これは「倭国」で(我が国で)始めて作られたものであり、後の「弘仁格式」の「序」にも「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」と書かれており、「国家制法」つまり、国が「法」を定めることがこの時から始まったとされる記念碑的なものであったことが読み取れます。このような画期的なものが、その後「顧みられない」とか「無視」されたと言うことは考えられず、歴代の「王権」はこれを重視せざるを得なかったのではないかと思料されます。
 この「憲法」は「聖徳太子」が自ら起草したとされていますが、「聖徳太子」というのは『隋書俀国伝』に登場する「阿毎多利思北孤」とその「太子」のイメージを重ねて出来た「架空の人物」と考えられ、ここでも彼等の治績を「剽窃」していると考えられます。
 「森博達氏」によるとこの「憲法」は「倭臭」つまり、日本人が「不正確」な「慣用的」用法により書いたと思われる部分と、本格的な漢文(正格漢文)とに分かれているとされています。「正格漢文」の部分である「一、五、八、九、十一、十六条」の計六箇条について、後代のものと推定する根拠はなく、これは「当初」からのものと考えられるものでしょう。つまり、この部分(以下の条項)がこの時定められた「憲法」の「原型」であったのではないでしょうか。

一曰。以和爲貴。無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。詣於論事。則事理自通。何事不成。
五曰絶餮棄欲明辨訴訟。其百姓之訟。一日千事。一日尚爾。况乎累歳。頃治訟者。得利爲常。見賄聽?。便有財之訟。如石投水。乏者之訴。似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。
八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡鹽。終日難盡。是以遲朝不逮于急。早退必事不盡。
九曰。信是義本。毎事有信。其善惡成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣無信。萬事悉敗。
十一曰。明察功過。賞罸必當。日者賞不在功。罸不在罪。執事群卿。宜明賞罸。
十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。從春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。

 このことは、この「十七条憲法」というものの「原型」が「六箇条」からなるものであったらしい事が推定されることとなるわけですが、これは「北周」の「大統十年」(五四四年)に出された「六条詔書」というものの影響があるのではないでしょうか。
 この「六条詔書」というものは、「清心」「敦教化」「尽地利」「擢賢良」「恤獄訟」「均賦役」という項目を「地方官吏」に対して実行するよう命令したとされるものです。
 この「六条詔書」はその項目名でわかるように一種の地方官僚に対する倫理規定であったと考えられ、「宰相」であった「宇文泰」はこれを各人に「誦習」させたと言われており、「地方統治」の重要なものとして位置付けていたことが分かります。
 「七世紀初め」という時間帯において、「倭国」はその支配領域を「東国」に広げ「我姫(あづま)」地域に対する「行政制度再編成」を含め、諸改革を進めていたと考えられますが、このようなことを背景として「倭国」では「北周」に習い、「官人」に対して、新しく「倭国」の版図に組み込まれた地域への統治に対する基本姿勢として打ち出したものが「憲法」の意義であったものではないでしょうか。
 この時「北周」からそのようなことを学んだ可能性があると考えるのは、「筑紫都城」が『周礼考工記』から「都城の理想形」としてのレイアウトを採用したと考えられる事からも言えることです。
 「北周」はその国号に「周」という名称が使用されていることから分かるように、古の「周」に復帰することを望み、『周礼』によって制度等を整備することを選んだものです。「倭国」でも「短里制」や「官吏」などの制度に「周」の(あるいはそれ以前)古制を採用していたと思われますから、「北周」の制度等にも違和感はなかったと思われます。もちろん「南朝」を「唯一の皇帝の国」として考えていたことは変わらないものの、「北周」の制度に影響された部分もかなりあるものと推量します。(もちろん「百済」等半島諸国を経由した間接的なものではあったと思われますが)
 また、「六箇条」で当初成立していたはずの「憲法」が「十七条」に拡大されたことと、「聖徳太子」の筆になると云う考え方もある『維摩経義疏』との間に関連があることが指摘されています。
 この『維摩経義疏』では「十七」という数字が特別の位置に置かれているようであり、その中では「就第一正明万善是浄土因中凡有十七事」という文章があるように「万善」が即座に「十七」という数字に「直結」しています。
 これは「陰陽」というものに関係しているようであり、「易経」によれば「陽」が奇数で最大数が「九」、「陰」が偶数で最大値が「八」とされ、合計の「十七」が重要とされ、これが『維摩経義疏』に取り込まれ、更にそこから「憲法」に取り込まれたという可能性があります。
 この『維摩経義疏』を含む『三経義疏』は、「森博達氏」の研究により明らかにされた『書紀』の中の「倭臭漢文」(いわゆる「β群」)とほぼ同じ傾向の「倭臭」が看取されており、その意味からも『推古紀』ではなくもっと後の時代の「編集」であることが想定されます。それは、その『三経義疏』の「編集」時期が「憲法」の当初部分に「条文」を付加して「十七箇条」に改めた時期と接近しているという可能性を推測させるものです。
 この時条文を書き加えたと考えられる人物は、この『維摩経義疏』を深く読み込んでいたものと思われ、強く影響されて「憲法六条」に更に「十一箇条」を書き加え、「十七条」としたのではないでしょうか。
 ところで、『扶桑略記』や近年発見された『日本帝皇年代記』には「内大臣鎌子」が「元興寺呉僧福亮」から『維摩経』の「講説」を受けたことが記されています。

「(斉明)三年丁巳(六五七年)。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎會。是則維摩会始也。

同年 中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。…」(『扶桑略記』)

「戊午(白雉)七(六五八年) 鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経/智通・智達入唐、謁玄奘三蔵學唯識」(『日本帝皇年代記』)

 また同様の趣旨を示す「太政官符」も出ています。

「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事/右得皇后宮識觧稱。始興之本。従白鳳年。迄干淡海天朝。内大臣割取家財。爲講説資。伏願。永世万代勿令断絶。…」(『類従三代格』「太政官符謹奏」天平九年(七三七年)三月十日)

 ここでは「内大臣」(鎌子)が「講説」を受けるために「私財」を投じていたことが窺えます。このことから「内大臣鎌子」が「維摩経」に強く感化されたと考えて間違いないと思われますが、彼は「天智」と一心同体とも言われていたわけですから、「天智」も同様に「維摩経」に影響されていたと見ることは可能と思われ、「憲法」が「十七条」に拡大される事情も「天智」と「維摩経」との関連で考えて不自然ではないこととなるでしょう。
 さらにここで出てくる「福亮法師」という人物が「聖徳太子」と関連があると考えられていることも上の推定と関連して重要です。彼は「法起寺塔露盤銘」に彼の名前が出て来ますが、そこでも「聖徳太子」との関連が考えられる記述があるなど、「聖徳太子」に深く関わる人物と考えられています。

「上宮太子聖徳皇壬午年(旁朱)推古天皇三十二月二十二日、臨崩之時、於山代兄王敕御愿旨、此山本宮殿宇即処専為作寺、及(入カ)大倭国田十二町、近江国田三十町。至于戊戌年旁朱舒明天皇十年『福亮僧正』、聖徳御分敬造弥勒像一躯、構立金堂。至于乙酉年旁朱白鳳十四惠施僧正、将竟御愿、構立堂塔。而丙午年三月、露盤営作。」「法起寺塔露盤銘文」

 彼を通じて「天智」と「聖徳太子」との間に関係があることが推測され、「聖徳太子」の制定による「憲法」を「天智」が「十七条」に拡大したという推定も可能と思われます。そして、それを行った「天智」は『二中歴』では「東院」と呼称されていたという可能性があります。

「白鳳二三辛酉 対馬採銀観世音寺東院造」

 この表記は同じ『二中歴』の「天王寺」記事の場合と比較すると、同じ文章構造であることが分かります。

「倭京五戊寅 二年難波天王寺聖徳造」

 このふたつの記事の比較から、「聖徳」という人物(これは「利歌彌多仏利」か)に「対応」するのが「東院」という名称であり、この事は「東院」が「聖徳」同様、個人名であり、また「聖徳」が「利歌彌多仏利」の「法号」である可能性が指摘されていることから、この「東院」についても同様である可能性が高いものと思料します。
 この「院」という「称号」が「出家」した「天子」や「天皇」を指す用語と考えられることも「東院」が「法号」であることを傍証しているようです。
 また、「観世音寺」創建に関しては、『書紀』など多くの資料が「天智」の発願としているところから考えて、この「東院」とは「天智」を指すものと考えざるをえません。さらに「東」という語の使用例から考えて「東宮」つまり「太子」あるいは「皇太子」としての存在と関連している可能性は高いと思われます。つまり「太子」の状態で出家した人物という意味を指すものでないかと見られるのです。
 「不改常典」として出された「憲法」に対して「書き加え」を行うというようなことは「一介の官吏」にできることではなく、必ず「倭国王」ないし「皇太子」的存在の人物の手によるものと考えるべきであり、その意味でもこの「条項拡大」が「東院」すなわち「東宮」の位置にあって出家した人物の事業であったことが強く推定されるものです。(これを一般に「天智」と見ているもの)
 「内大臣」の『維摩経』受講などを見ても「天智政権」として深く仏教に帰依していたものと考えられ、「観世音寺」を創建するという事情もそのあたりにあると思料されるものであり、そう考えると『維摩経義疏』などを「天智」自身が「参考」にしたというのは蓋然性の高い想定であると思われます。
 それを示すと思われる記事が『藤氏家伝』にあります。

「(摂政)七年…
先此、帝令大臣撰述礼儀。刊定律令。通天人之性、作朝廷之訓。大臣与時賢人、損益旧章、略為条例。一崇敬愛之道、同止奸邪之路。理慎折獄、徳洽好生。至於周之三典、漢之九篇。無以加焉。」(『藤氏家伝』)

 この文章はまず「撰述礼儀」といい、また「刊定律令」とも言っています。「刊定律令」とは「近江令」のことをいうと一般に推定されていますが、その前の「撰述礼儀」というものについては、これが「礼儀」に関することですから「律令」とは異なると思われ、そこに書かれた「天人之性」「朝廷之訓」という言い方からも、「自分」も含めた朝廷の官人達の「行動規範」を示したものと考えられます。
 後半に書かれている「周之三典、漢之九篇」とは、「周礼」の「軽中重の三典」及び「漢の高祖」の定めた「九章律」を指すと考えられますから、これについては「律令」を意味すると考えられますが、他の文言は「律令」と言うよりむしろ「礼儀」に関わるものと考えられ、「統治」するもののあるべき「道徳」を示したものであり、「十七条憲法」につながる内容を含んでいると考えられるものです。
 つまり、『書紀』編纂者の認識としては『書紀』に書かれているような形の「十七条憲法」を作り上げたのは「天智」であり、「近江朝廷」の事というものであったという事となります。
 以上のことから「不改常典」と「十七条憲法」とは同一であり、「新日本国王権」にとって「ゆるがせにできない」性質のものであって、皇位継承にあたってそれが「言及」されるのは、それが「国家統治」の根本を示すものであり、それを継承することが「禅譲」の条件であったからと見られることとなります。
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「不改常典」とは ―「十七条憲法」とは

2024年03月07日 | 古代史
 さらに続きです。

「聖徳太子」が書いたとされる「十七条憲法」は、「憲法」という用語でも分かるように「最高法規」として作られました。
 また、この「憲法」の内容は「統治」の側である「王侯貴族及び官僚」に対する「心得」的条項がほとんどであり、「統治の根本」を記したものです。これはまさに「食国法」というべきものでしょう。
 また、これは「倭国」で(我が国で)始めて作られたものであり、後の「弘仁格式」の「序」にも「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」と書かれており、「国家制法」つまり、国が「法」を定めることがこの時から始まったとされる記念碑的なものであったことが読み取れます。
 またそれは「憲法」という用語でも分かるように「法」であり、しかも「容易に」「変改等」してはいけないものでした。
 つまり、「不改常典」に対して使用されている「天地共長日月共遠不改常典止立賜敷賜覇留法」という言い方は、「憲法」という用語がそもそも持っている「神聖性」「不可侵性」に「直線的に」つながっているものであり、これらのことから「十七条憲法」は「不改常典」という用語が使用されるにまさに「ふさわしい」ものと考えられるのです。
 また、このような「統治する立場の者」としての「行動原理」を「守り」「受け継ぎ」「進める」事を「即位」の際に「誓う」とすると、それは当然ともいうべきものです。
 ところで、『書紀』によると「十七条憲法」の制定は「推古十二年」(六〇四年)のこととされています。

「推古十二年(六〇四年)夏四月丙寅朔戊辰条」「皇太子親肇作憲法十七條。…」(推古紀)

 『推古紀』の「裴世清」来倭記事についてはすでに実際の年次より二十年程度の年次移動があると考察していますが、この記事についても同様に(というよりそのしわ寄せとして)年次移動されているものと思われ、実際には『隋書』(開皇年間の前半)のことではなかったかと考えられます。つまり実際には『隋書俀国伝』に云う「阿毎多利思北孤」に相当する人物によって造られまた施行されたものと考えられ、ここではそれが「聖徳太子」という人物に投影されていると推定できます。
 彼(阿毎多利思北孤)に対するその後の「倭国王権」の「傾倒」は今考えるよりもはるかに強かったものではなかったでしょうか。それが後に「聖徳太子信仰」として形をとって現れることとなる根本の理由なのではないかと思われます。そう考えると、その彼が作り上げた「憲法」を「変える」というようなことは、彼の直系の後継者達は考えもしなかったろうとも思われます。つまり、「阿毎多利思北孤」以降の倭国王は「即位の儀式」の一環で「十七条憲法」を遵守することを誓い、表明することを行っていたのではないでしょうか。この『続日本紀』の記事はそれを表しているものと考えられます。 
 これはたとえば、(唐突かも知れませんが)現代「米国」における「大統領就任式」の際に「合衆国憲法の名の下に」行われる「誓いの儀式(就任宣誓)」を彷彿とさせるものです。
 「合衆国憲法」は「合衆国」における最高法規でありまた「大統領」として「遵守」し「行うべき」根本法規でもあります。「新大統領」はその就任の式典において、これに対して「遵守」を「誓う」事で「新大統領」として「承認」されるわけです。ここにおける「合衆国憲法」というものが、単なる「大統領継承法」でないことは明らかです。
 また、現代の「日本国憲法」においても「内閣」は「最高法規」である「憲法」を遵守することを(その「憲法」の規定の中で)義務として負っているのです。
 このようなことは当時の「倭国」においても事情としては全く同じであったのではないかと思われ、新しく「倭国王」となった際には「阿毎多利思北孤」が造った国家統治の「根本法規」である「十七条憲法」を遵守することを誓うことで「即位」が成立していたものと推察します。
 また、このように「即位」の段階で「不改常典」という形で「憲法」が顔を出すのはその「第一条」で「以和爲貴。無忤爲宗。」と書かれていることと関係していると考えられます。つまり「無忤」(逆らわない)という言葉は、「皇位継承」の際にこそ重要な意味を持っていたからであると思われ、「和」という言葉は「日嗣ぎ」を「話し合い」で決めると言うことが強く求められていたことを示しているのではないでしょうか。(この点に関しては、「石井公成氏」の『「憲法十七条」が想定している争乱』印度学仏教学研究第四十一巻第一号平成四年十二月でも同様の指摘、つまり「十七条憲法」の存在意義が特に皇位継承の際に有効であると考えられるという点について言及されています。)
 またすでにこの「不改常典」について「皇位継承」の際のものと言うよりは「公法」としての意識からのものという解釈もされており、その場合「公」意識が高揚される「七世紀初め」の時代、特にそれが「十七条憲法」において顕著であることと整合するとも言えるでしょう。
 「十七条憲法」の中では「公」という用語がしきりに使用され、「公私」の区別をつけることが重要視されていました。そこでは「公務」「公事」「公賦」など、「公」の語が頻用されており、「公」の概念を前提として多用されていると思われます。また、以下の『推古紀』の「天皇記及び國記」記事においても「公民」という用語が現れるようにこの時期「国家」(公)と「公民」つまり全ての「民」は「公民」であり、国家に属するという観念が生まれていたことが窺えます。

「推古天皇二十八年(六二〇年)是歳条」「皇太子。嶋大臣共議之録天皇記及國記。臣連伴造國造百八十部并公民等本記。」

 このように『推古紀』段階においては「公」と「法」の両立と一体性が主張されたものと考えられますが、このような記事群は「公」つまり「国家」の権限を重大に考え、間接的権力者の存在を許容しない姿勢の表れと見られますが、そのような「直接統治」という統治体制と「公」の観念は連動していることが推定され、その「公」の絶対性を保証しているのが「法」であり、その極致である「最高法規」が「十七条憲法」であるということと思われます。
 このように「六世紀終わり」から「七世紀初め」という時点において、「公」と「国家」と「法」という「三位一体」の概念が創出されたものと見られますが、「不改常典」の使用例において「法に随う」という表現によって間接的に「法」が「天皇」の上にあるという観念が現れているのは注目すべきです。このことは「十七条憲法」において「公」の観念が打ち出されていることの間には深い関係があると考えます。
 この「不改常典」と「十七条憲法」の「類似」と言うことに関しては「大山誠一氏」がその論(注)の中で言及されており、そこでは以下のような表現がされています。

「…十七条憲法と不改常典が、同じ理念のもとに作成されたと考えることを、もはや躊躇する必要はないであろう。…」

 このように「不改常典」と「十七条憲法」の中心的思想が共通している事が指摘されています。ただし、彼の場合「聖徳太子架空説」を唱えており、「八世紀」に入ってから「藤原不比等」により「不改常典」も「十七条憲法」も「捏造」されたという立場で語られていますからその点「注意」が必要です。
 彼の場合「聖徳太子」は「八世紀」の「書紀編纂者」の「捏造」というスタンスであるわけであり、これは「近畿王権」中に適当な人物が該当しなかったことの裏返しであるわけですから、その流れで「十七条憲法」も捏造としているわけです。ただし、「不改常典」と「十七条憲法」はほぼ同時期に「発生」したとされ、それらに「共通点」があるとするわけですが、その点については注目すべきでしょう。
 彼によればこの「両者」はどちらも「王権確立」に深く寄与するために(「藤原不比等」により)書かれたものであり、それが「明示」されるのにもっともふさわしい場は、その「権力継承」の場である「即位」の儀式の時であったというのです。
 この「思惟進行」は特にその「結論部分」が非常に重要であると考えられ、「十七条憲法」が「本来」「権力交代」の場面で出されたものではないかという推測は、『推古紀』に書かれた「十七条憲法」が出されたのが「冠位制定」直後であったことからも窺えます。つまり本来「冠位制定」は新王即位に伴う機構改定の一部であったと考えられますから、この時点で「新倭国王」が即位していたことが窺えるものであり、それに併せて布告されたものではなかったでしょうか。
 ただし、大山氏の考えとは裏腹に「聖徳太子」と「十七条憲法」は「実在」であったと思われ、それは決して「捏造」されたものではなかったと考えられます。そして、それは『隋書俀国伝』に「倭国王」として登場する「阿毎多利思北孤」(及びその太子「利歌彌多仏利」)がそれに該当する人物であったと見られることとなるでしょう。つまり、「大山説」はその点で誤解があり、また限界があると言えます。「実体」は「七世紀初め」の方にこそあると推察されるものです。
 さらに、以下の文章が『続日本紀』に出てきます。

「冬十月…
辛丑。詔曰。開闢已來。法令尚矣。君臣定位。運有所属。■于中古。雖由行。未彰綱目。降至近江之世。弛張悉備。迄於藤原之朝。頗有増損。由行無改。以爲恒法。」『続紀』養老三年(七一九)十月十七日

 この『続日本紀』の文章からは「近江朝」以前には「法令」がなかった、あるいは「書かれたもの」としては存在していなかったと云うことを示していると思われますが、このことが確かならば『書紀』の「十七条憲法」という存在と矛盾します。『書紀』では明らかに(書かれたものとして)「憲法」が制定されたことを示しますが、『続日本紀』では「近江之世」に至って「悉く」「備わった」としています。
 さらに上に見たように『弘仁格式』(以下のもの)では「十七条憲法」について「法」の始まりであるとされ、それ以前には「法令未彰」であったとされていますから、これらの食い違いは明確です。
 この食い違いは「近江之世」という表記が示す時代の認識についてかなり早い段階から「混乱」があることを示すものですが、推測としては実際にはもっと早い時期を示すことを示唆するものであり、「推古朝」として私たちが認識している六世紀末から七世紀初めであることを強く推定させるものです。
 ところで『令集解』(官位令)には以下のような問答が書かれています。

「…問。律令誰先誰後。答。令有律語〈仮如。獄令云。犯罪応入議請者。皆申太政官。応議者。大納言以上判事等。集官議定。雖非六議。本罪合議。処断有疑者。亦衆議量定是〉。律有令語〈仮令。雑律違令笞五十。注云。行路巷術。賎避貴之類是〉。以此案之耳。謂共制。但就書義論。令者教未然事。律者責違犯之然。則略可謂令先萌也。『又上宮太子并近江朝廷。唯制令而不制律。』以斯言也。亦令先萌也〈跡同〉。…」

 つまり「律令」の「律」と「令」のどちらが優先するのかというような問に対し「上宮太子と近江朝廷」では「令」があったが「律」がなかったとされ、「令」が優先する意義が回答として書かれています。この事自体も重要ですが、ここに「上宮太子」と「近江朝廷」が並列的に書かれている事もまた意味があると思われます。従来これは「近江令」の存在証明的扱いをされているようですが、それと同時に「上宮太子」の「令」と「近江朝廷」の「令」(というより「上宮太子」の朝廷と「近江朝廷」との間)とがすでに「混乱」しており、すでに「不分明」であったことを示すものではないでしょうか。
 さらに『続日本紀』には「藤原仲麻呂」の上表文があり、そこでも以下のような表現がされています。

「天平宝字元年(七五七年)閏八月壬戌十七」「紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。臣聞。旌功不朽。有國之通規。思孝無窮。承家之大業。緬尋古記。淡海大津宮御宇皇帝。天縱聖君。聡明睿主。孝正制度。創立章程。于時。功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣。襃勵壹匡宇内之績。世世不絶。傳至于今。…」

 この中でも「淡海大津宮御宇皇帝」の治績として「孝正制度。創立章程。」とされ、これは「官位制」(の「改正」)と「憲法」の制定を指すと考えるべきでしょう。

 『懐風藻』の中では「聖徳太子」の業績として「設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章」とされており、それは「冠位制定」と「匍匐礼」などの朝廷内礼儀を定めたことを指していると思われますが、「十七条憲法」の制定に当たる事績が書かれていないようです。
 この「十七条憲法」の制定という記事は、『書紀』では「冠位」制定と「朝礼」制定の間に挟まるように書かれていますから、あたかも同一人物が制定したように受け取られることを想定して書かれていると思われます。しかし、実際には上に見るように彼によるものではなく「近江(淡海)帝」に関わるものであったものと考えられるものです。
 この『懐風藻』の記事が『書紀』にいう「天智」ではないと考えられるのはその治世期間についての形容からも言えると思われます。そこでは「三階平煥、四海殷昌。旒纊無為,巖廊多暇。」つまり「瑞兆」とされる「三台星座」(北斗を意味する)が明るく輝き、国家は繁栄し、政治は無為でも構わない状態であったとされ、またそのため朝廷に暇が多くできたというような表現が続きますが、これが『書紀』にいう「天智」の治世を意味するとした場合、はなはだ違和感のあるものです。何と云っても「天智朝」には「百済」をめぐる情勢が急展開し、倭国からも大量の軍勢を派遣しあげくに敗北するという大事変があったものです。にも関わらずそれに全く触れないで「三階平煥、四海殷昌」というような「美辞麗句」だけ並べているのはいかにも空々しく、はなはだ不自然であると思われます。
 つまりこの「淡海帝」を『書紀』の「天智」のこととするにはその「表現」が該当せず、かえって「六世紀末」の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」に整合する内容であると思われるのです。
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「不改常典」とは ―古田氏の見解について(再度)

2024年03月07日 | 古代史
 以下前回の続きです。

 この「不改常典」に対する理解について、古田武彦氏はその著書(『よみがえる卑弥呼』所収「日本国の創建」)の中で、「皇位継承法」とは認めがたいとして、以下のように言及されています。

「…いわば、歴代の天皇中、天智ほど「己が皇位継承に関する意思」、その本意が無残に裏切られた天皇は、他にこれを発見することがほとんど困難なのである。このような「万人周知の事実」をかえりみず、いきなり、何の屈折もなく、「天智天皇の初め賜い、定め賜うた皇位継承法によって、わたし(新天皇)は即位する」などと、公的の即位の場において宣言しうるであろうか。わたしには、考えがたい。…」
 
 このように述べられ、「皇位継承法」の類ではないことを強調されたあと更に「不改常典」の正体について考える場合には「三つの条件」があるとされました。ひとつは「統治の根本」を記すものであること、ふたつめにはそれが、『書紀』内に「特筆大書」されているものであること、もうひとつが「天智朝」のものであることとされています。
 古田氏が言われるように「不改常典」というものは「万人周知」のものでなければならないのは確かです。「宣命」を聞いた「誰もが」それが意味するところを即座に了解できるものでなければならないものだからです。そうでなければ「大義名分」を保有していることが証明できないばかりか、「権威の根源」が不明となり、「即位」の有効性にも関わるものとなってしまいます。
 またこれが「律令」に類するものではないことも理解できます。「律令」は(その中に「官人」に対する規定等を含むものの)基本としては「統治する側」ではなく「統治される側」に対して行うべき、守るべき条項を列挙したものであり、性格が全く異なると考えられるからです。
 この意味では「旧来説」(皇位継承法とみなすものや「近江令」とする説)のほとんどが条件を満たしていないこととなります。
 しかし「古田氏」自身は最終的には「天智朝」に出された「冠位法度之事」であるという見解に到達されたようです。しかし、「冠位法度」は確かに「国家」を統治するに必要なものではありますが、「国家統治」の「根本」と言うものとは少なからず性格が異なっていると考えられます。なぜならそれらは「変改」しうるものだからです。その時代に応じて「改定」され得るものであっては、「永遠に変えてはいけない基本法」とは言えないと思われます。
 現に「天智朝」で出された「冠位」や「法度」のほとんどは(あるいは全部)、「八世紀」以降までそれが生き続けたと言う事実はありません。例えば「冠位」は「七世紀の初め」の「聖徳太子」の時代に定められたとされるものを初めとして、何回か改定されています。「八世紀」には「八世紀」の新しい「冠位法度」が存在していたわけであり、時代の進展に応じて変化し、改められるのがそれらの宿命でもあります。そのように変化流転する中でも「永遠に変わらない」ものが「不改常典」なのであり、これが単なる「制度」や「令」の類ではないことは明らかであると思われます。
 こうしてみると『書紀』における「天智朝」にその様なものを見いだすのは不可能なのではないでしょうか。議論が混乱している最大の原因は『天智紀』にその様なものは「そもそも存在しなかった」からではないかと考えられるのです。つまり『書紀』における「天智朝」と限定する限り、それと「整合する」どのような徴証も見られないわけであり、(そのため議論が百出しているわけですが)「近江令」などの存在も不確かで、内容の稀薄なものに依拠するしかないとすると、この「不改常典」の際に必ず出てくる「近江(淡海)大津宮御宇倭根子天皇」という表記に対する従来の理解が正しいのかということが根本的な疑問として浮かび上がります。つまりこれは本当に『書紀』における「天智」を指すものなのかということです。
 この「近江(淡海)大津宮御宇倭根子天皇」という表記については古田氏はその著書『古代の霧の中から』の「近江宮と韓伝」という章において、「天智」とは異なるという主張をされています。つまり『書紀』においては「近江」に「都」を置いた天皇は複数あり、その中で「天智」の場合はただ「近江宮」という表現が行なわれており、それ以前の天皇とは異なっているとされたのです。これに従えばこの『続日本紀』の例も「天智」ではないという可能性を含んでいると思われます。
 古田氏によれば『書紀』編纂終了の「七二〇年時点」における「王朝関係者」の意識として「近江大津宮」というのは「景行」や「仲哀」達の都であったとするものであり、「天智」に対してその称号は使用しにくい性質のものであったとするのですが、これは『書紀』編纂者だけではなく『続日本紀』の編纂担当した人達についても同様のことが言えるのではないでしょうか。なぜなら『書紀』(というよりその原型ともいうべき『日本紀』)と『続日本紀』の前半部分(聖武紀)までについては、その編纂者も編纂時期も同一であったという可能性が考えられるからであり、そうであれば『続日本紀』においても「近江大津宮」という表現は「天智」ではない別の「倭国王」を指すという可能性があると思われます。少なくともこの「近江大津宮御宇天皇」という表記が「天智」を指すものではないと考えることは不可能ではないと思われるわけです。
 また、古田氏はその「磐井の乱」に関する研究の中で、「磐井の乱はなかった」という立場を表明されましたが、それに対して「会員」の飯田・今井両氏から「反論」が提出されました。それに対する再反論の形で書かれた「批判のルール 飯田・今井氏に答える」(古田史学会報六十四号 二〇〇四年十月十二日)の中で、「磐井の乱」の存在を否定する論理として『「書紀にあるから正しい」と言いえぬこと、津田批判以来、歴史学の通念だ。』とされ『古事記』『筑後国風土記』などとの「整合性」を問題にされると共に、「考古学的痕跡」の有無についても言及され、『イ、神籠石 ロ、土器 ハ、その他(金属器等)いずれを検討しても、「六世紀前半」に一大変動のあった証跡がない。』と結論されたのです。
 ここで語られていることは、『書紀』や『続日本紀』など「正史」と言われる「記録」に書かれているものであっても、それだけでは正しいとは言えず、「他文献」との整合性や考古学的痕跡などとの合致などにより裏打ちされることがその資料的価値を保持する上で重要であることを語っていると思われます。
 逆に言うと『書紀』や『続日本紀』に書かれている事であっても、他史料や木簡あるいは石碑などの金石文との不一致が存在する場合、その記事内容については「疑って」かかるべきものであることを示すものであり、その資料に準拠して議論を展開することは困難な状況となることを示しています。
 たとえば『書紀』の「郡制」表記の場合を想定すると分かりやすいと思われます。『書紀』には徹頭徹尾「郡」としてしか出てこないわけですが、「木簡」及び「金石文」には「評」が出現し、その結果「郡」という表記は『書紀』という「正史」に書かれているにも関わらず、その表記の持っている価値は地に落ちました。『書紀』に「郡」とあるから…というような論理進行で議論を進めることは不可能となったのです。
 つまりいくら「史料」に「天智」を意味すると思える表記があったとしてもそれを担保するどのような史料も木簡も発見もされず、存在もしていないとすると、疑うべきはその「天智」という「理解」の方ではないかと考えるのは少しも不自然ではありません。
 また、「不改常典」に関する古田氏の提示した条件のうち前二つは、『続日本紀』の「複数」の「詔」から考察して帰納されたものであり、論理的な性格を有しています。しかし、「天智朝」である、という事は、単に史料にそう書いてあるというだけの「表面的」な事であって、「論理性」を有しているとはいえない事項です。つまり一種「書き換え」が可能な事項に部類すると思われるものです。
 これらのことを踏まえると、「近江大津宮御宇天皇」という表記についてもそれが『書紀』における「天智」を指すと即断できるものではないことがわかると思われます。その場合「天智」以外の代の記事中に「不改常典」と思しきものを探すべきこととなりますが、そうすると答えは割合「容易」に出ると思われます。つまり「国家の統治に関する根本法規」であり、「『書紀』内」に書かれていて、誰でもが容易に想起しうるものというと(実は)ただひとつしかないと思われます。それは「十七条憲法」です。
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「不改常典」とは(再度)

2024年03月07日 | 古代史
 以下は以前会報に投稿したものですが、古賀会長から『続日本紀』の記述と整合しないというコメントがあり、そのまま没となったものです。
 しかし当方は『続日本紀』記事を絶対不可侵のものとは考えておりませんので、現時点でも変わらず論旨を有効と考えています。
 ここに改めて掲載いたします。

 「文武朝廷」以降の八世紀の「日本国」朝廷では「即位」の儀の際に「詔」を出し、その中で「不改常典」というものが持ち出され、それを遵守するということが「宣命」として出されています。
 たとえば「元明即位」の際の詔には、「持統」から「文武」への「譲位」の際に「天智」が定めた「『不改常典』を「受け」「行なう」として即位したように書かれており、自分もその「天智」の定めた「法」を同様に「傾けず」「動かさず」行なうというように宣言しているのです。

「元明の即位の際の詔」
「慶雲四年(七〇七年)秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。…是者關母威岐『近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長日月共遠不改常典止立賜敷賜覇留法乎』受賜坐而行賜事止衆被賜而。恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣。…此食國天下之政事者平長將在止奈母所念坐。『又天地之共長遠不改常典』止立賜覇留食國法母。傾事無久動事无久渡將去止奈母所念行左久止詔命衆聞宣。…」

 また「元正」が「聖武」に「譲位」する際にも同様の記述があります。

「聖武」の即位の際の「元正」の詔
「神亀元年(七二四年)二月甲午。受禪即位於大極殿。大赦天下。詔曰。現神大八洲所知倭根子天皇詔旨止勅大命乎親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣。…依此而是平城大宮尓現御神止坐而大八嶋國所知而靈龜元年尓此乃天日嗣高御座之業食國天下之政乎朕尓授賜讓賜而教賜詔賜都良久。挂畏『淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典止立賜敷賜閇留隨法』後遂者我子尓佐太加尓牟倶佐加尓無過事授賜止負賜詔賜比志尓依弖今授賜牟止所念坐間尓…」

 さらに「桓武天皇」の即位の詔勅にも、「不改常典」という用語は使用されていないものの、「近江大津乃宮尓御宇之天皇」が「初め賜い」「定め賜える」「法」と云う形で出てきます。

「天應元年(七八一年)三月庚申朔。癸夘。天皇御大極殿。詔曰。明神止大八洲所知天皇詔旨良麻止宣勅親王諸王百官人等天下公民衆聞食宣。挂畏現神坐倭根子天皇我皇此天日嗣高座之業乎掛畏『近江大津乃宮尓御宇之天皇乃初賜比定賜部流法』隨尓被賜弖仕奉止仰賜比授賜閉婆頂尓受賜利恐美受賜利懼進母不知尓退母不知尓恐美坐久止宣天皇勅衆聞食宣。然皇坐弖天下治賜君者賢人乃能臣乎得弖之天下乎婆平久安久治物尓在良之止奈母聞行須。故是以大命坐宣久。朕雖拙劣親王始弖王臣等乃相穴奈比奉利相扶奉牟事依弖之此之仰賜比授賜夫食國天下之政者平久安久仕奉倍之止奈母所念行。是以無■欺之心以忠明之誠天皇朝廷乃立賜部流食國天下之政者衆助仕奉止宣天皇勅衆聞食宣。」

 「不改常典」については既に多くの研究があり、また多くの説が出されています。しかし未だ衆目の一致するものがありません。それらを詳述する事はしませんが、代表的な考え方として「皇位継承法」である、というもの及び「国家統治」に関するものである、という大きく分けて二つあるとされています。
 例えば、これらの用例が全て「即位」に関するものであることから、「不改常典」とは「皇位継承」に関わるものとされ、「皇位継承法」のようなものではないかというのが一番「有力」な説でした。しかし、上の「詔」の文章の中では、「元明」によると「天地之共長遠不改常典止立賜覇留食國法」とされていますから、つまりは「食國法」であり、また「元正」の言葉では「天日嗣高御座之業食國天下之政」に関わるとされています。
 「食國法」や「天日嗣高御座之業」、「食國天下之政」などは皆同じ内容を指すものであり、たとえば「天日嗣高御座之業」とは『天皇位に即いたものとしての「行なうべき」、「守るべき」「国家統治」のありかた』ということを意味すると考えられ、このことから、これは「統治する側」から見た「統治」における「基本法」のようなものを示すものではないかと考えられます。(そのような種類の反論も既に行なわれているようです)
 上の文章中の他の部分でも、この「不改常典」は、「不改」つまり「変えてはいけない」ものであり、「常典」つまり「いつも変わらないルール」として、「近江大津宮御宇天皇」が、「立て給い、敷き給える『法』」とされています。
 つまりそれは「法」なのであり、ただ、その「法」は「天地共長日月共遠不改常典」あるいは「万世尓不改常典」というように「永遠に」「変えてはいけないもの」とされているわけです。これは当然「法」一般を指すのではなく、特にここでいう「法」に限った表現と言えるものです。
 また「元明」の詔に出てくる二回の「不改常典」を別のものとする説も出ています。しかし文脈から考えても、どちらも「同じ」事を別の表現をしているだけであり、初めのものは「持統」が継承してきた、という文脈で現れ、後のものはそれを自分が継承するという中で出てきたものですから、同じ内容を指すと考えるのが自然です。
 また、重要なことはこれらの例では決して「不改常典」に「基づいて」即位するといっている訳ではありません。これはかなり誤解されています。文章からは「即位」の根拠として「不改常典」があると言っている訳ではないことがわかります。
 「元明」の宣命に最も明らかですが、母である「持統」が「受」け「行」ってきた「近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長日月共遠不改常典止立賜敷賜覇留法」を、我が子(つまり文武)に「授けた」という趣旨であり、さらに「元正」の詔でも、「淡海大津宮御宇倭根子天皇」が作り、施行した「不改常典」というものを「母」である「元明」から自分(元正)が「受け」て「行なう」ということ、つまり「継承」したとされ、さらにこれを「聖武」へとまた「授ける」(継承する)という宣言であるわけです。これらの例から帰納して、「不改常典」とは「国の統治の根本精神」を云い、「永遠に変えてはいけない基本法」のようなものであるという理解が最も妥当なものでしょう。そのようなものを新天皇が継承するということが、その即位の正当性と正統性を担保するものであるということです。だとすればこれは「皇位継承法」とは似ても似つかないものです。もちろん「直系相続」を決めたものというような「穿った」ものでないことも明確です。
 つまり、あくまでも代々重視し尊重されて来た「不改常典」という「法典」を、以降の代にも継承させ、それに基づき統治を行なっていく趣旨であり、「倭国王」足る者の「遵守義務」を記したものとしか理解できないものです。それは柴田博子氏の議論(※)でも「…この「天智天皇の法」にしたがって統治することが、新天皇の統治の内容を正当化するのではなかろうか…」とされているように新天皇の権威の依拠する点の確認行為として「不改常典」の継承が挙げられていると理解すべきでしょう。
 ただし柴田氏がその論の中でいうように「食国法」がその後「即位宣命」から消えること、「立太子宣命」にだけ現われることなどを考えると、「食国法」そのものは「国家統治」に関する「法」ではあるものの「普通名詞」的なものであり、特定の「法」だけを示すものではないことが推定され、「不改常典」に特定すべきものというわけではなく、「淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典止立賜敷賜閇留隨法」だけが「食国法」の中でも最も重視すべきであるという趣旨と思われます。

(※)柴田博子「立太子宣命に見える「食国法」 ―天皇と「法」との関係において―」(門脇禎二編『日本古代国家の展開(上巻)』所収 一九九五年十一月 思文閣出版)
 (続く)
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「シリウス」の謎(二) ―「弥生時代への移行」と「シリウス」―

2024年03月04日 | 古代史
前稿に続き以前の投稿のアップデート版となります。

「シリウス」の謎(二) ―「弥生時代への移行」と「シリウス」―

「要旨」
「ローマ」に伝わる伝承から「シリウス」がかなり増光していたと見られること。「縄文時代」から「弥生時代」への移行は全地球的気候変動にその原因があると考えられること、その時期として紀元前八世紀が措定できること。その原因は「シリウス」の新星爆発に伴う「宇宙線」の増加である可能性が考えられること。同様の理由によりこの時期に放射性炭素(C14)が増加したと見られること。以上を考察します。

Ⅰ.「シリウス」は「昼間」見えていた?
 「シリウス」には「白色矮星」の伴星(連星系で質量の小さい星をいう)を持っています。この「白色矮星」はその前身は「赤色巨星」であったとされます。(註一)
 シリウスが赤かったという記録とこの伴星の元の姿が「赤色巨星」であることは関係しているのではないかと誰しも考えることで、その立場で諸説が建てられているようです。しかし「赤色巨星」から「白色矮星」への進化には十万年から百万年単位で時間がかかるとされ、紀元前付近から現代までというたかだか三千年程度の時間スケールでは無理とされているようです。ただし、「シリウス」から「伴星」である「白色矮星」に向かって「質量」が移動した結果、それが「伴星」の表面付近で核融合反応を起こして「増光」につながったとする考え方もあるようであり(註二)(それは「伴星」から「X線」が出ているとする「観測」(註三)と整合しています(ただし「軟X線」です)。
 さらにこの「シリウス」の増光に関しては「桜井天体」という存在との関連が考えられます。「桜井天体」とは一九九六年に日本のアマチュア天文家の「桜井幸夫」氏が発見したもので「いて座」の天体です。この「桜井天体」は「最後のヘリウムフラッシュの可能性がある天体」として知られ、「白色矮星」が「ヘリウム殻フラッシュ」という現象を起こした結果、膨張して「赤色巨星」になったものと考えられているようです。このような現象は「白色矮星」の段階で起こるものであり、一時的に「赤色巨星」になった後最終的には元の「白色矮星」に戻るとされており、その期間として二〇〇年以上かかるとされています。シリウスの場合「増光」以前から「赤色」であったとされていますから、「白色矮星」から一度「赤色巨星」へと「戻った」のはかなり遡る時期であったと思われ、それが再度「白色矮星」へと「進化」する際に「新星爆発」的現象を起こしたものと考えられます。
 現在このような天体は(増光中ということ)数個しか確認されていないようですが、単独で存在する場合はその周囲に「星間塵」などを放出・形成しますが、「シリウス」は「主星」がすぐ側におり(増光段階では「伴星」というべきか)、「増光」後発生する「星周塵」などは「主星」が吸収してしまうためいわば「跡」が残らないとも言えそうです。そのようなイベントが紀元前八世紀付近に起きていたという可能性もあると思われます。そのような場合「伴星」が大きく増光することとなり、「火星より赤い」といわれるような状態となったというストーリーも考えられるわけです。それを示唆するのが後述する「ロビガリア」という「古代ローマ」における「赤犬」を生贄にしたという儀式です。それによれば『炎暑の原因として「シリウス」と太陽が一緒に出ているから』とされていたようですが、しかし「シリウス」といえど「星」なのですから、その出番は夜であるはずです。それを踏まえると不審の残る表現と言えるでしょう。「シリウス」は「太陽」と共に昇る(これを「ヘリアカルライジング」という)とされますが、通常であればその直後視界から消えるわけですから、「共に昇るから」と言う理由だけからは夏の暑さを「シリウス」に帰することはできないでしょう。太陽がなければ見えているはずといってもそれは他の星も全く同様ですから、特にそれがシリウスの場合にだけ展開される論理とはできないはずです。これは実際に太陽とシリウスが同時に見えていたとき初めて有効な表現ではないでしょうか。つまり、太陽とシリウスが両方とも同時に見えて初めて夏の暑い理由を(あるいは責任を)「シリウス」という存在に帰することができるわけです。つまり「シリウス」が「昼間でも見えていた」時期があったと考えられるわけです。(註四)(註五)
(ちなみに「シリウス」が「赤かった」という古記録を「歳差」(註六)を理由とする考え方もあります。確かに「紀元前二〇〇〇年」付近ではりゅう座アルファ星が天の北極付近にいたらしいことが推論されており、この時点では「シリウス」は「赤道」からかなり南方に下がった位置にあったこととなります。このことから「大気」の影響により「赤い」という記録につながったというわけですが、そのような位置にある星が暑さの原因となったという伝承が成立するというのははなはだ考えにくく、このような伝承が形成されるにはもっと「シリウス」の高度が高いことがその前提にあるのは明らかであり、そのためにはその成立の上限として紀元前もせいぜい数百年のことと考えなくなくてはなりませんが、それもまた古記録と整合するものです。)
 もしそのような時期に「シリウス」の「伴星」において「桜井天体」として「赤色巨星」化していたとすると相当な増光となると同時にその「赤色」はかなり強い印象を多くの人に与えたと思われ(註七)、さらにその後再度「白色矮星」へと進化する過程でいわゆる「新星爆発」現象を起こしたとすするとかなり「増光」したものと思われ、一般的にはこのような際には絶対等級でマイナス10等級程度にもなる例もあるとされますから、昼間見えたとして不思議ではありません。
 歴史上「昼間星が見えた」という記録はいくつか見られますが、それはいずれも遠距離にある「超新星」の例です。しかしそのようなスケールの大きいものではなく「新星爆発」現象を起こした程度でもそれが近傍の星であれば同様に昼間でも見える事となるのは当然です。
 昼間でも見えるためには最低でも「マイナス4等級」つまり金星の最大光輝程度の明るさが必要と思われますが、現在はシリウス伴星は8.7等級とされており、これが当時も同じでそこから増光したとすると12~13等級の増光となりますが、これは新星爆発の際の増光としてはまだ少ない方であり、それよりもっと明るくなったとしても不自然ではありません。

Ⅱ.「縄文」から「弥生」への移行と「シリウス」 
 結局「紀元前」のかなり早い時期にシリウスの新星爆発とそれに伴う増光があったと見たわけですが、これと関係があるのではないかと考えられるのが、「縄文」と「弥生」の画期となった地球寒冷化です。
 すでに国立民俗博物館の報告(註八)により「縄文」から「弥生」への以降は従来考えられていたよりもかなり遡上する時期であったことが明らかとされています。これは「放射性炭素年代測定法」によって算出したものですが、すでに国際的に標準とされる較正年代が公表されており、「歴博」はこれを元に弥生時代の始まりを紀元前一〇世紀としたわけですが、海洋リザーバー効果等の「蓄積効果」により海洋に至近の地域では年代測定に誤差が含まれることが推定されており、この量は地域によって異なり、日本のような周囲を海に囲まれた地域はかなりその効果が強いという見方もあります。「歴博」の発表はこの地域差に対する検討がやや欠如していた可能性が指摘されており、この点を考慮すると二〇〇~二五〇年程度新しくなるという考えが主流と思われます。つまり「弥生時代」の開始年代としてはほぼ「紀元前八世紀」というものが措定されるわけですが、さらに熊本大学の甲元眞之氏を代表とする「考古学資料に基づく「寒冷化」現象把握のための基礎的研究」(註九)によれば、「乾燥化」「寒冷化」に伴う砂丘・砂堤・砂地の形成状況を分析することで寒冷化の時期を特定することができるとされ、結論として「…すなわち紀元前750年をピークとする寒冷化現象は、オリエントや西ヨーロッパでも確認され、中国では軍都山の墓地の切り込み層位や、香港周辺地域の「間歇層」と対応し、西周末期の寒冷化に比定できる。北部九州ではこの時期に形成された砂丘の下部からは縄文時代晩期終末の黒川式土器が、砂丘の上層からは弥生時代初頭の夜臼1式土器が検出されることから、弥生時代の始まりは寒冷乾燥化した状況で成立したものであり、その時期はほぼ紀元前8世紀終わり頃と推定される。…」とされ、縄文から弥生への移行は全地球的気候変動がその背景にあったとし、それは(「歴博」が指摘した時代とはやや異なるものの)「紀元前七五〇年前後」という時期であったとされています。さらに多くの諸氏によりいろいろな切り口から「弥生」への移行時期について研究されていますが、多く議論が七~九世紀付近にそのターニングポイントがあることを結論として示しており、このように多くの論者が全く別の方法でアプローチして算出した値がある程度の範囲に収まるという実態は、全地球的気候変動がこの時期起きていたことを間違いなく示すものと思われますが、その「原因」となるものについては深く考慮された形跡がありません。(註十)
 通常寒冷化のもっとも大きな要因は地球が外部から受ける輻射熱の減少であると思われ、火山の噴火による大気中のエアロゾルの増加が最も考えやすいものです。しかし、基本的に火山噴火のエアロゾルはかなり大きなサイズのものが多く、成層圏まで到達したとしてもその多くが早々に落下していったものと思われます。つまり火山による影響はよほど大規模で連続的噴火でない限り短期的であり、時代の画期となるほどの大規模で長期的なものの原因とはなりにくいと思われます。
 これについては、すでに述べたように背景として「シリウス」の「新星爆発」があったことが窺われますが、それは古代ローマの儀式からもいえるものです。

Ⅲ.「ロビガリア」と気候変動
 「古代ローマ」の風習であった「ロビガリア」(Robigalia)では、「作物」が旱魃(水不足)などで生育が不順とならないように「ロビゴ」(Robigo)という「神」に「生贄」を捧げるとされていますが、それが「赤犬」であったものです。
 この「ロビガリア」の起源は伝説では「紀元前七五〇年付近」の王である「Numa Pompilius」が定めたとされています。(註十一)それは四月二十五日に「赤犬」を「生贄」にすることで「ロビゴ」という女神を祭り、「小麦」が「赤カビ」「赤いシミ」が発生するような「病気」やそれを誘発する「旱魃」に遭わないようにするためのものであったとされます。(この地域では「寒冷化」ではないことに注意)
 これについては紀元前四十七年の生まれとされる詩人「Ovid」の『Fasti』という詩集の中では「司祭」に対して「なぜ四月二十五日に赤犬を生贄にするのか」という問いが発せられ、それに対し「司祭」は「シリウスは犬星と呼ばれ太陽と共に上ることと関係している」として、「それと炎暑が同時に起きるから」と答えています。(註十二)このことからこの伝承の当初から「赤犬」は「シリウス」に対して捧げられていたと考えられ「ロビゴ」とは「シリウス」の農耕神としての側面の名前ではなかったかと考えられることとなります。つまりこの「気候変動」が発生したと考えられる年次付近でこの儀式も発生しているわけであり、多くの人々が「シリウス」と「旱魃」など気候変動との関連を疑ったものと思われるわけです。
 さらにこの「シリウス」という名称については他の多くの星と違い「アラビア起源」ではなく「ギリシャ起源」とされており、またその契機は「ヘシオドス」(Hesiod)に始まると見られ、その時期としては紀元前八〇〇年頃とされています。
 「ホメロス」などは「シリウス」について「秋の星」(Autumnnstar)あるいは「オリオンの犬」(Orion's dog)とだけ記していますが、「ヘシオドス」は彼の生きた時代より一〇〇年前である「紀元前八世紀」のことを記した時点以降「Serios」(シリウス)つまり「燃える星」という形容をするようになります。(註十三)それはやはりその時点付近で「シリウス」の増光という現象が発生したと見られることと関連していると思われるわけです。
 また「バビロン」発掘で得られた楔形文字が書かれた「粘土板」の中に「カレンダー」があり、その研究が欧米では進んでいるようです。それによればカレンダーを作るためのデータベースといえる「日記」(ダイアリー)が確認されており、その最古の記録が「紀元前六五二年」とされていますが、そもそもカレンダーの作成のための観測が始められ、記録がとられるようになったのは「Nabuna sir」(ナブナシル)王の治世初年である「紀元前七四三年」であることが推定されており、この年次以降データの蓄積が開始されたものとみられています。そしてこのカレンダーは新バビロニア帝国の祖「Nabopolassar(ナボポラッサル)紀元」として開始されたものと思われています。
 この「紀元」は「紀元前七四七年」を起点としているとされ、彼の時代から遡って起点が設定されており、バビロンの地に君臨した各代の王について数えられたとされます。しかも、そのデータの中身としては月の運行と惑星に関するデータとともに「シリウス」に関する観測が存在しており、当時「シリウス」が注目される事情があったことが強く推定できます。
 この気候変動と「シリウス」が当初から関連づけて考えられていたとみられることから、「シリウス」に何らかの異常があったという可能性があり、仮に「新星爆発」があったとすると大量の高エネルギー粒子が飛来したと思われ、それによる影響があったと見るべきこととなるでしょう。
 このように紀元前八世紀半ばという時期にローマにおいて気候変動(この場合は「温暖化」)が発生したと考えられる訳ですが、一般に気候変動は「極域振動」と呼ばれる極から赤道にかけての気圧分布パターンの変化がその原因であるケースがほとんどであり(それは「極域」と「赤道域」の温度差に起因するものとされますが)、このときもローマ付近ではそれ以前よりも高温となったと言うことが推察されます。(彫刻やレリーフなどでローマやギリシャの人々が薄手の服装をしているように見えるのはこの当時の気温がかなり上昇していたことを推測させるものです)
 この「紀元前八世紀付近」に全地球的な気候変動があったというのは「ギリシャ」や「ローマ」で人々が移動や植民を多く行った時期がまさにその時期であったことからもいえることです。
 例えば「ギリシャ」で「ポリス」という小国家群が成立するのもこの時期ですし、それは「山間」など川沿いの地が選ばれそこに集落の連合体のようなものが形成されたとされますが、これは気候変動による集落間の土地や収穫物の奪い合いや各部族間同士の抗争という危機的状況が生み出した防御的制度と言えるでしょう。それを示すように核となる領域である都市部分は城壁の中に形成されていました。それらの都市の中心はアテネの場合は「アクロポリス」と呼ばれ「神殿」であると同時に「砦」でもあったものです。
 またギリシャではこの時期に「墓」の数が急増することが知られており、さらに廃棄される井戸や深く掘られた井戸が多数に上ることも指摘されるなど「干ばつ」が深刻な影響をたらしていたことが考えられ、食糧不足や疫病の流行などの要因がこの時期に集中することが指摘されています。(註十四)その中ではそれまで多くは見られなかった「神域」や「神殿」が設けられ、多くの供物が奉納されるようになるとされます。また「雨乞い」のための「壺」を「供物」とする例が「七三五年」以降激増することも知られています。それまでの四倍ほどに急増するわけですが、一〇〇年ほど経つと元へ戻ってしまうことも明らかとなっています。これについて安永信二氏は「すなわち神と人との関係が,前8世紀を境として大きく変わったのである。」と指摘していますが (※3)、「ローマ」における「ロビガリア」と同様「干ばつ」による農作物の不作を「神」に祈ることで回避しようとするものであり、「宗教的」な存在に寄り縋ることを多くの人々が望んだことを示しています。

Ⅳ.気候変動と「シリウス」
 現在気候変動について提唱されている説の中には「宇宙線による大気電離が,大気中のエアロゾル形成を促進し,雲核生成やそれに基づく雲量変化をもたらし,地球気候の変動に影響する」というものがあり(註十五)、通常は「銀河宇宙線」(銀河系中心からの宇宙線)あるいは「太陽宇宙線」がその主役とされていますが、「シリウス」が「新星爆発」を起こしたとすると、そのとき放たれた「高エネルギー宇宙線」が至近距離にある太陽系に(ほぼ減衰なく)向かってきたと思われるわけです。
 すでに新星が宇宙線の発生源となりうるという研究が出ており(註十六)、その意味では「シリウス」が新星爆発を起こしたとすると、近距離でもあり、大量に宇宙線が太陽系に飛来したと見られることとなります。このように太陽系に向けて高エネルギー宇宙線(特にシリウス起源のもの)が侵入したとするとそれにより高層大気に多くのエアロゾルが形成された可能性が考えられ、それが気候変動の要因となったものと推定できるでしょう。
 大気中のちりがエアロゾルとなり雲核となるという過程はすでに知られていますが、従来の観測と簡易計算によるシミュレーションでは生成される雲量が大きく食い違うことが知られていたようです。それがどのような理由によるか不明であったのですが、JAXAのサイトト(http://www.jaxa.jp/press/2018/03/20180313_aerosol_j.html)によればスーパーコンピューター「京」により精細計算を長期間のスパンで行ったところ、観測に近い結果となったということのようです。それによれば全地球的に雲量が増加するのではなく、特に海洋あるいは低緯度地域においては逆に雲量が減少するという結果となったというのです。これはかなり興味深い結果といえます。
 このスーパーコンピュータによる解析結果では極域付近で雲量増加するエリアが広くあるように見られ、逆に低緯度地域では雲量低下となるわけですから、明らかに両地域の日照量の差は通常の場合より増大することとなります(そもそも宇宙線量は荷電粒子であるため地球磁場にトラップされ極域で多く降り注ぐこととなります)。
 宇宙線がエアロゾル生成の有力な要因として考えられていることを踏まえると、「京」によるシミュレーションによっても雲量が極域で増大するという可能性が高く、この結果は明らかに「極域振動」に対して「外乱」として作用するものと思います。その場合特に中緯度地域でジェット気流の蛇行が起き、広い地域で気候変動が起きたことが推定できます。
 太陽フレアのように割と頻繁に起こる小爆発の場合、太陽から飛来する宇宙線の速度は光速のせいぜい20~30%程度ですが、新星爆発のようなイベントの場合光速に匹敵するほどのものも飛来すると思われ、「シリウス」は太陽から近距離(8.6光年)に存在しているわけですから、「シリウス」でそのような爆発が起きたとすると、気候変動に対する影響は増光とさほど変わらない時期から起き始めたと推定出来ます。そう考えると、多くの人々はシリウスの増光と気候変動を関連して考えたとしても不思議ではなく、「ロビガリア」のような儀式が発生する一因となったものと考えられます。もしこの考えが正しければ、高エネルギー宇宙線の影響が別の面で現われる可能性が高いと思われます。それは放射性炭素(C14)の生成量の増加です。
 この時代の寒冷化が大気中のエアロゾル増加によるものであり、それが火山などの地球起源のものであるなら、C14の生成量の変化には結びつかないと思われます。この紀元前八世紀付近におけるC14の生成量はどうだったのでしょうか。
 シリウスの新星爆発により発生した宇宙線が地球に飛来し上層大気にエアロゾルを大量に生成するという影響を与えたとすると、同様の影響としてこの時大量のC14を生成したとも考えられるわけです。そう考えると、大気中のC14の生成率は紀元前のある時期それまでと全く異なる値を示したと考えられるわけですが、それは「年輪年代」と比較較正した「国際較正曲線」をみると明らかとなります。(はずです。)
 上の考え方によれば紀元前八世紀付近で(主に年輪年代法による)暦年代と放射性炭素年代とでかなりの乖離が発生することが予想されます。そもそも大気中のC14の量が一定でかつ植物などがいつも一定の代謝を行うならば、年輪年代法と炭素年代法は一対一で対応し、その交点群は傾き一定の直線となるはずですが、実際には直線からずれが生じる年代があります。そして、まさに紀元前八世紀付近でかなり長期に亘って「傾き」が変化するのがみてとれます(急峻になる)。
 曲線を見てみると2800BPから2700BPまでの値が年輪年代よりもC14年代の方がかなり新しいと出ています。これはこの時期C14が大量に生成されたためそれを取り込んだ遺物も大量のC14を残しているからと考えられるわけです。
 通常はこのようなC14の生成率の変化は太陽活動と関係があり、活動低下期(マウンダー極小期のような)に太陽磁場の弱体化によって外部からの宇宙線が太陽系の内部に侵入しやすくなることで起きると思われていますが、宇宙線の飛来する量そのものの増加と言うことも充分考えられる訳です。
 その場合にその飛来源として従来は「遠方」の超新星爆発を措定していたわけですが、新星爆発現象の方が宇宙では普遍的であり、頻度も桁違いに多いのですから、それが飛来源と見ることもできるわけです。
 このようなことが実際に起きたことを示唆するのがいわゆる「二四〇〇年問題」です。
 「二四〇〇年問題」というのは、弥生時代と思われる2400BP付近より以前の時期において、放射性炭素の残存量が実年代(暦年代)に関わらず一定となる現象です。つまり2700BP付近から2400BP付近までにおいて放射性炭素測定の結果はほぼ一定となり、そのことから、この期間においては放射性炭素による年代測定が非常に困難となっているとされるものです。
 このようなことが起きる原因はもっぱら「海洋リザーバー効果」によるとされます。つまり「海洋」に蓄えられた二酸化炭素が大気中に放出されることで、大気中の放射性炭素の量が増加してしまい、それがちょうど半減期による崩壊量を打ち消した状態となっているというのです。もしそれが正しければ、海洋中から大気に放出される炭素(というより二酸化炭素)の量が異常に増えたか、量は増えていないがその中に含まれる放射性炭素の割合が多かったのかのいずれかであることとなります。
 海洋からの放出量が異常に増加するというイベントがあったと見るには実際にはその根拠が曖昧です。深海からの上昇流が表面に現われた段階で海面から放出されたとするとその流れのサイクルが異常に速くなったか、気温が異常に高くなり、それにより蒸発が盛んになった結果大気中の二酸化炭素も増加したというようなことを考えなければなりません。しかし現在の研究では紀元前に大きな気温上昇とそれに伴う海進現象があったとは考えられていません。このことは気温上昇などによる大量の二酸化探査の大気中への放出という現象の可能性を否定するものです。そうとすればこの時期海洋に蓄積された二酸化炭素の中に大量の放射性炭素が含まれていたと見なさざるを得ないこととなります。通常この「リザーバー効果」というもののタイムラグとして400年間程度が推定されていますから、その意味からもその大量の放射性炭素の由来として最も考えられるのは、すでに述べた「シリウス」の新星爆発に淵源する放射線による大量の放射性炭素の生成という現象です。
 BP2800付近でシリウスからの宇宙線増加という現象があり、それはその時点の植物など光合成を行う際に取り込まれた二酸化炭素にも影響を与えたと思われると同時に、海洋に取り込まれた二酸化炭素にも同様に大量の放射性炭素が含まれていたことを推定させるものです。そして、それから数百年の間大気中に高い濃度の放射性炭素が含まれた二酸化炭素を放出し続けたとすると、まさに「二四〇〇年問題」に現われる現象となったと見ることができるでしょう。
 
(註)
一.ただしその質量は太陽の質量を基準に考えて、その1.4倍を超えないとされます。それを超えた場合は爆発後「中性子星」になるとされます。
二.NASAのX線望遠鏡衛星である「チャンドラ」が撮影した映像では「シリウスA」よりも、伴星である「シリウスB」の方が明るく映っており、これはシリウスAからもたらされたガスがシリウスBに吸い込まれる際に加速され、その摩擦で何百万度にも熱せられているためであるとされます。また同様の現象は「紫外領域」でも確認されています。
三.同様の議論は既に一九八六年に科学雑誌「Nature」に掲載された「The Historical Record For Sirius:evidence for a white-dwarf thermonuclear runaway?」(Frederick c.bruhweiler, yoji kondo & Edward M.Sion)でも議論されています。そこでは連星系の一方から定期的に質量がもう一方の星にもたらされた結果その表面付近で核融合反応が強く起き、ある周期で増光するというものであり、広い意味で「シリウス」もそうではないかと考えられるわけです。ただし、質量の移動が非常にゆっくりとしたタイプとは思われます。
四.このことは「赤い宝石」たとえば「ルビー」や「ガーネット」などが珍重された理由もそれが「シリウス」という昼間も見えた「赤い」星に由来するからともいえるのではないでしょうか。
五.ただし「シリウス」は高所で空気の薄いきれいなところで「太陽」と離角が大きいときには現在でも見えるとされていますから、当時昼間見ることはそれほど困難ではなかったともいえそうです。それが平地で太陽の近くでも見えるというところが重要であったものでしょう。
六.地球の自転軸が月や太陽の影響により二万六千年の周期で「みそすり運動」をすること。
七. 中国で「天狼星」という呼称が「シリウス」に対して行われますが、それは「シリウス」の青白く輝くその印象が「狼」の「眼」をイメージするとされていることからのネーミングと思われていますが、そもそも「狼」の「眼」の色は基本「アンバー」(赤銅色)であり、けっして「青」や「白」ではありません。このことは「天狼」という名称そのものが「シリウス」の色を表していると思われ、「天狼」という呼称がされ始めた時点では「シリウス」の色は「赤」かったということを示していると思われます。
八.二〇〇三年五月十九日に「国立歴史民俗博物館」より記者会見という形で発表されたもの。その後各種の論文・報告が行われています。
九.「科学研究費助成データベース」研究課題番号:17652074 2005年度~2006年度によります。
十.山本直人「縄文時代晩期における気候変動と土器型式の変化」名古屋大学文学部研究論集(史学)が詳しい
十一智. Varro『On Agriculture』translated by William Davis Hooper(1935)(THE LOEB CLASSICAL LIBRARY 283)
十二.Ovid『Ovid's Fasti』translated by James George Frazer(1935)(THE LOEB CLASSICAL LIBRARY 283)
十三.Hesiod『The Homeric Hymns & Homerica (Theogony).』Translated by H.G.Evelyn-White.(1914)(THE LOEB CLASSICAL LIBRARY )
十四. Camp,Jr.John.McK.“ A Drought in the Late Eighth Century B.C.”(『Hesperia:The Journal of the American School of Classical Studies at Athens 』vol.48(1979)Page397-411)
十五.増田公明「宇宙線による微粒子形成」名古屋大学太陽地球環境研究所(J. Plasma Fusion Res. Vol.90,№2 「2014」)など。
十六.武井大、北本俊二 (立教大学)、辻本匡弘 (JAXA)、高橋弘充 (広島大学)、向井浩二 (NASA)、Jan-Uwe Ness(ESA)、Jeremy J. Drake(SAO)「新星は新たな宇宙線の起源か?」(アメリカ天文学会研究報告誌( Takei et al.2009,ApJL,697,54 )ここでは「新星爆発」によっても高エネルギー粒子が大量に生成されることを解明しています。
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