本多静六 初の林学博士 久喜市
「本多静六」の名を聞いてすぐピンと来る人は、全国ではもちろん、生まれ故郷の埼玉県でも決して多くはない。
初めて知ったのはもう何十年前のことだろう。日比谷公園のレストラン「松本楼」のテラスの前に立つイチョウの古木――「本多静六の首賭けイチョウ」だった。
71歳までの勤務先の本社が大手町や銀座だったので、日比谷公園は勤務中のずる休みの場所だった。この楼では何度もカレーやコーヒーを楽しんだ。
現在の日比谷交差点にあったこのイチョウは、1901(明治34)年の道路拡張で伐採されようとしたのを、この公園の設計者だった静六が、「私の首を賭けても移させて」と「活着は不可能」と反対する東京市議会議長の星亨(ほしとおる)に懇願、今の場所まで450m移動させた話に、その名はちなむ。
行きつけのさいたま市中央図書館で図書館友の会と共催で「永遠の森づくりと本多静六」と題する講演会があるとのことで、予約して出かけた。
講師が、母方の曾孫で、細胞生物学の専門家として知られる遠山益(すすむ)氏(お茶の水女子大学名誉教授)というからなおさらである。
300冊以上の本を書き、「東大教授で億万長者」だったマルチ人間の静六は、04年頃から著作権が切れたのを幸いに、「蓄財」や「人生成功の指南役」としての本が10冊ほど復刻されていて、その道で読んだ人が多いかもしれない。
その二つには何の関係もなかった私にとっては、静六は、我が国初めての「林学博士」であり、日本の「都市公園の父」である。静六が初めて手掛けたのが、練兵場だった日比谷公園の設計だった。
遠山氏によると、公園の設計は赤レンガの東京駅などの設計で知られる辰野金吾博士が引き受けていた。建築家ではあっても造園学は知らず、困っていた博士は、当時、東京府の水道水源林の造成に関与していた静六に出会い、ヨーロッパの公園を見てきた静六にこの仕事を押し付けた。
静六も公園の設計はやったことはなかったの、1903(明治36)年に完成すると、各新聞とも「洋風都市公園の第1号」と絶賛、静六は造園学者として、日本の著名な公園のほとんどを占める70~80の公園の設計・改良を手掛けることになる。
私も全国の公園の多くを見て回った。さいたま市の大宮公園、埼玉県秩父市の羊山公園、会津若松市の鶴が城公園、水戸市の偕楽園、群馬県の敷島公園、長野県小諸市の懐古園、福岡市の大濠公園・・・などに静六が携わっていることを知ると、静六の手のひらを回っていただけだと悟った。
巨樹も好きで、いろいろ見て回った。静六にも「大日本老樹名木誌」の著書がある。人間にも巨樹としか呼びようのない大人物がいるものだ。静六もその一人。畏れ多くも静六と呼び捨てにしたのは、煩雑さを避けるためだ。
埼玉県の現在の久喜市菖蒲町の豪農折原氏の生まれながら、東京帝国大学農科大学の学生時代、彰義隊の首領(頭取)だった本多晋の婿養子になり、本多姓になった。
久喜市の菖蒲総合支所5階に記念館があり、関わった全国の公園70か所の写真や所在地、日比谷公園と青森県野辺地町の鉄道防雪林の400分の1模型などが展示されている。
記念館は、15年度に本田家から新たに資料約1100点が寄贈されたのを機に改装され、厳選された約15点が新たに展示され、19年1月新装オープンした。
静六が1902年(明治35年)に小笠原群島視察で発見した桑の巨木の標本も登場した。高さ約2m25cm、幅約95cm、厚さ約4cmの一枚板で、「日本最大の桑の木」と伝えられてきた。
妻で、日本で4人目の女性医師となった銓子(せんこ)と幕末の彰義隊の幹部だった義父の晋(すすむ)の資料も加わった。