本多静六 その生涯
遠山益氏の話を続けよう。
静六は1866(慶応2)年、現在の埼玉県久喜市菖蒲町の豪農、折原家の8人兄弟の6番目に生まれた。家は名主で、田畑は12町あったが、9歳の時父が脳出血で急逝。このため折原家は没落、中学校にも行けず、農業を手伝った。
14歳で東京・四谷の島村泰氏(元岩槻藩塾長)の書生になり、島村氏の勧めで、17歳で東京の官費の「東京山林学校」に入学した。
最初の試験には落第、悲観して古井戸に飛び込んだ。途中でひっかかり、「同じように投身した塙保己一は盲目ながら、6百余巻の『群書類従』などを書いた」という祖父の言葉を思い出し、這い出して、一命を取り留めた。
入学出来たと言っても、中学を出ていないので、52人中50番、ビリから2番目の成績だった。「東京山林学校」は駒場農学校と合併し、「東京農林学校」となり、さらに「東京帝国大学農科大学」と改称した。
代数や幾何は落第点をとっていたが、天性の努力家で、卒業時には優等生で恩賜の銀時計をもらった。
在学中、大学の先生の仲介で、元彰義隊頭取、本多晋の娘、詮子と結婚。婿養子になり、姓が本多と変わる。学生結婚である。
24歳で卒業すると、ドイツへ私費留学した。賊軍の元彰義隊に十分な金があるはずはなく、横浜からマルセイユまでの船旅は、3等船室だった。
機関室の上でエンジンの音で眠れず、南京虫やダニに悩まされた。食事は最悪。それに船酔いが加わり、40日間地獄のような苦しみだった。
入学したのはドイツのドレスデン郊外のターラント山林学校。同じ年、ミュンヘン大学へ入学。25歳で大学から「ドクトルエコノミー」の博士号を取得した。
「エコノミー」の名がついているのは、ドイツでは森林を経済財と考え、林学は農学部ではなく、経済学部に属し、経済学や財政学も勉強させられたからだ。これが、後の蓄財に役だったのは言うまでもない。
1892(明治25)年、西欧を視察した後、帰国、「東京帝国大学農科大学助教授」となる。25歳だった。静六の祝賀会をしてくれたのが、同じ埼玉県の深谷市出身で、当時、JRの前身である日本鉄道の社長も務めていた渋沢栄一だった。
鉄道が東北の地吹雪に悩まされていた渋沢のために、26歳で我が国初の鉄道防雪林の設置に加わる。20代半ばで国家的事業に参画したわけだ。渋沢との交遊は終生続いた。
第1号防雪林の名残は今でも、青森県野辺地周辺のJR東北線に残っている。当時、育った林は駅で製材し、枕木や駅舎の建設に使った。駅に製材担当助役がいたという。静六の「ドクトルエコノミー」の勉強が実を結んだのである。
28歳で東京専門学校(現早大)の講師にもなるが、静六らの提案で千葉県清澄に我が国初の大学演習林ができた。この演習林の製材は、学校の先生の退職金に充てられた。造林の経済効果である。
32歳で「森林植物帯論」で我が国初の「林学博士」。33歳で東京府森林調査嘱託になり、府の奥多摩の水道林造成に関係する。同じ年、「東京帝国大学農科大学教授」に就任、34歳で日比谷公園設計調査委員となり、「造園学者」への道を開くことになる。
驚くのは20代の若さで、「我が国初」の仕事をいくつもこなし、新しい分野に挑戦していく意欲である。日比谷公園が開園したのは1903(明治36)年。日露戦争が始まる1年前だ。「阪の上の雲」時代の雰囲気が、静六の履歴からひしひしと伝わってくる。 (写真は秩父の森林科学館前にある銅像)
遠山益氏の話を続けよう。
静六は1866(慶応2)年、現在の埼玉県久喜市菖蒲町の豪農、折原家の8人兄弟の6番目に生まれた。家は名主で、田畑は12町あったが、9歳の時父が脳出血で急逝。このため折原家は没落、中学校にも行けず、農業を手伝った。
14歳で東京・四谷の島村泰氏(元岩槻藩塾長)の書生になり、島村氏の勧めで、17歳で東京の官費の「東京山林学校」に入学した。
最初の試験には落第、悲観して古井戸に飛び込んだ。途中でひっかかり、「同じように投身した塙保己一は盲目ながら、6百余巻の『群書類従』などを書いた」という祖父の言葉を思い出し、這い出して、一命を取り留めた。
入学出来たと言っても、中学を出ていないので、52人中50番、ビリから2番目の成績だった。「東京山林学校」は駒場農学校と合併し、「東京農林学校」となり、さらに「東京帝国大学農科大学」と改称した。
代数や幾何は落第点をとっていたが、天性の努力家で、卒業時には優等生で恩賜の銀時計をもらった。
在学中、大学の先生の仲介で、元彰義隊頭取、本多晋の娘、詮子と結婚。婿養子になり、姓が本多と変わる。学生結婚である。
24歳で卒業すると、ドイツへ私費留学した。賊軍の元彰義隊に十分な金があるはずはなく、横浜からマルセイユまでの船旅は、3等船室だった。
機関室の上でエンジンの音で眠れず、南京虫やダニに悩まされた。食事は最悪。それに船酔いが加わり、40日間地獄のような苦しみだった。
入学したのはドイツのドレスデン郊外のターラント山林学校。同じ年、ミュンヘン大学へ入学。25歳で大学から「ドクトルエコノミー」の博士号を取得した。
「エコノミー」の名がついているのは、ドイツでは森林を経済財と考え、林学は農学部ではなく、経済学部に属し、経済学や財政学も勉強させられたからだ。これが、後の蓄財に役だったのは言うまでもない。
1892(明治25)年、西欧を視察した後、帰国、「東京帝国大学農科大学助教授」となる。25歳だった。静六の祝賀会をしてくれたのが、同じ埼玉県の深谷市出身で、当時、JRの前身である日本鉄道の社長も務めていた渋沢栄一だった。
鉄道が東北の地吹雪に悩まされていた渋沢のために、26歳で我が国初の鉄道防雪林の設置に加わる。20代半ばで国家的事業に参画したわけだ。渋沢との交遊は終生続いた。
第1号防雪林の名残は今でも、青森県野辺地周辺のJR東北線に残っている。当時、育った林は駅で製材し、枕木や駅舎の建設に使った。駅に製材担当助役がいたという。静六の「ドクトルエコノミー」の勉強が実を結んだのである。
28歳で東京専門学校(現早大)の講師にもなるが、静六らの提案で千葉県清澄に我が国初の大学演習林ができた。この演習林の製材は、学校の先生の退職金に充てられた。造林の経済効果である。
32歳で「森林植物帯論」で我が国初の「林学博士」。33歳で東京府森林調査嘱託になり、府の奥多摩の水道林造成に関係する。同じ年、「東京帝国大学農科大学教授」に就任、34歳で日比谷公園設計調査委員となり、「造園学者」への道を開くことになる。
驚くのは20代の若さで、「我が国初」の仕事をいくつもこなし、新しい分野に挑戦していく意欲である。日比谷公園が開園したのは1903(明治36)年。日露戦争が始まる1年前だ。「阪の上の雲」時代の雰囲気が、静六の履歴からひしひしと伝わってくる。 (写真は秩父の森林科学館前にある銅像)