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秩父事件 軍隊編成と軍律

2011年02月15日 17時08分56秒 | 現代 秩父事件・・・
秩父事件 軍隊編成と軍律

一万人に上る農民らが参加した秩父事件のことが気になり始めたのは、学生時代、埼玉県を代表する盆踊り唄「秩父音頭」を初めて聞いた頃だった。当時のうたごえ運動では、ロシア民謡とともに日本の民謡もよく歌われ、「秩父音頭」は人気の曲の一つだった。

あれから半世紀も経って、この事件のことが気にかかって、この一年、秩父一帯を何度も訪ねた。「農民ロケット」で知られる秩父市下吉田の椋神社に出かけたのも、この神社が自由民権運動の影響下で起きたこの農民蜂起の集結地だったからだった。

埼玉県下では、江戸末期、いくつかの農民一揆が起きている。秩父事件が従来の一揆と違っているのは、板垣退助が結成した自由党の党員を中核として、はっきりとした運動目標を掲げ、明確な軍隊編成を持ち、単なる打ち壊しとは一線を画する軍律を持っていたことである。

埼玉西部の秩父地方は約1千平方kmで、埼玉の面積の四分の一を占める広大さ。平坦な埼玉の中心部とはまるきり様相を異にする。山また山、田んぼは無いところが多く、畑は傾斜地にへばりついている。明治10年代の耕地率は全面積の18%。全国最低の部類だった。

それでも、蚕の餌になる桑は傾斜地でも栽培できるので、秩父地方は、江戸時代から良質の秩父絹と札所34か所観音で知られた。明治維新後、秩父絹に変わって、日本の最大の輸出品となった生糸の生産に依存していいた。

明治8年に人口6万2千の秩父は、1882(明治15)年後半までは好景気だった。

ところが、明治14年以降の松方正義・大蔵卿(大蔵大臣)のデフレ政策に加えて、世界的な不況で、明治17年には生糸の輸出が3割以上減り、生糸価格は半分以下に暴落した。

設備投資を高利貸しに借りていた農民には身代限り(破産)が多数出た。高利貸しは法外な利息をむさぼり、利息分を先取りされるうえ、三か月ごとに証書を書き換えさせられるので、一年経つと元利合計が元金の2.5倍を超すほどだった。

このような経済的疲弊を背景に、明治16年末から、自由党員らを中心に「秩父困民党」が結成され、高利貸しに対する負債の延期を求める運動が始まった。農民の間で「金もないのも苦にしやさんな いまにお金も自由党」という歌がはやった。

明治17年2月には自由党左派の過激派大井憲太郎が秩父にやってきて、自由党の拠点になっていた。しかし、その自由党は、政府の厳しい弾圧のため党勢が縮小、困民党の蜂起二日前に大阪で解党式を挙げていたのは皮肉な話である。自由党は結党三年で終息した。

17年には、養蚕は六分作の不作に加え、生糸価格は絶望的な安値だった。困民党は①高利貸しに迫って、負債はすべて10年間据え置き、40か年賦にする②学校費を省くため三年間休校するよう県庁に迫る③雑税の減少を内務省に請願する④村費の減少を村当局に迫る――の4つを運動目標として、当面の目標を高利貸しへの要求に置いた。

代表は、郡役所や大宮郷(現秩父市)警察署に高利貸しを説得してくれるよう平和的に請願したが、却下。「個別に折衝せよ」というのが警察の回答だった。高利貸しに一斉にその実行を申し入れたが、相手にされなかった。

合法的な請願ではラチがあかなくなった農民たちは17年11月1日夜、下吉田村(現秩父市下吉田)の椋神社に集結した。総数3千人とも千数百人とも言われる。境内で約70人の役割表が発表され、総理に田代栄助、副総理に加藤織平、会計長に井上伝蔵、参謀長に菊池貫平などが任命された。

参謀長のほか、大隊長、小隊長、軍用金集方、弾薬方、銃砲隊長、伝令使もいる軍隊編成で、同時に、軍律五か条も参謀長から伝えられた。

①私に金円を略奪②女色を犯す③酒宴をなす④私の遺恨をもって放火その他の乱暴をなす⑤指揮官の命令に違反――するものは斬る、というものだった。この軍律は厳しく守られた。

秩父事件が明治のこの時代の農民一揆と異質視されるのは、軍隊編成を持っていたことと、この軍律の存在である。

困民党集団は、まず小鹿野に向かい、翌2日、現秩父市に入った。警察、治安裁判所を破壊、午後1時頃、郡役所に本営を設けた。

秩父市では高利貸しは3軒焼き討ちされ、9軒は打ち壊しを受けた。

軍用金集方の井出為吉は金持ちから金を集め、その受領書に「革命本部」「革命党本部」と記した。これは新聞にも報道され、「これまでの農民一揆とは違う」と衝撃を与えた。

駆り出しもあって、この集団は雪だるまのように増えていった。秩父市に集まった農民の数について、裁判所の判事は「万をもって数う」と述べている

こうなっては、警察の手に負えないので、警官や役人は姿を消し、大宮郷は「無政の郷」になった。文字どおりの三日天下に終わったとはいえ、「秩父コミューン」が現出したのである。(埼玉県史・通史などによる)