ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

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武州世直し一揆

2011年03月10日 18時01分49秒 | 近世

武州世直し一揆

埼玉県は地理的に、生糸の貿易港だった横浜、幕府のお膝元江戸にも近かったので、横浜や江戸で起きていることがすぐ波及する。秩父事件は、横浜から輸出される生糸の値段が、世界不況や政府のデフレ政策で暴落したのがきっかけだった。

「明和の中山道伝馬騒動」(1764年)から102年後の1866(慶応2)年、今度は埼玉県域の中山道以西の村々と上州、八王子までを巻き込んだ幕末期最大の農民一揆「武州一揆」が発生したのも、ペリーの来航(1853)による安政の開港と対外貿易、第二次長州征伐で米や油、綿の値段が4倍前後に高騰、たまりかねた農民が打ち壊しに立ち上がったものだった。

一方、輸出品の養蚕・製茶などに関係した農家には巨利を得たものもあり、血洗島村(現深谷市)の渋沢栄一の叔父に当たる宗助は、この年に付近の農家六軒と共同出資して、奥州蚕種(蚕のたまご)を仕入れ、横浜で売却、約千両の純利を得たという。

このような貧富の格差の拡大に対し、「世直し」「世均し(ならし)」のスローガンを掲げ、「杓子と椀、箸」の図柄を持つ「世直し大明神」などの幟(のぼり)の下に貧農が結集したのである。

この年は天候不順で、蚕や作物が不作になったことが加わり6月13日、秩父郡上名栗村の農民たちが、二人の首謀者らを中心に上名栗の正覚寺に集まり米の値下げを要求して一揆が始まった。麓の飯能では穀物屋四軒が打ち壊された。この後、一揆勢はいくつかに分かれ、駆り出しに応じて同時多発的に蜂起が各地で起きた。

対象になったのは、豪農、豪商、米屋、質屋、横浜での生糸取引で儲けた浜商人(生糸仲買人)。米や金の施し、質草の無償返還を要求、応じなければ宅や蔵を打ち壊すことが多かった。

最初、中心になったのは約30人といわれるが、雪だるま的に増え、所沢では3万人に増えていた。参加したのは合わせて10万人ともいわれる。埼玉県で15、群馬県で2郡の202村を巻き込み、520軒の豪農、役所が打ち壊された。

農民たちの武器は、鉈、鋸、鍬、斧、まさかり、鎌など農民が日常使用する道具類で、刀や槍、鉄砲などの武器は原則禁止。一揆中の行動規律は厳しく、金品の奪取、婦女子への暴行は禁止されていた。後の秩父事件の軍律に似ている。

15日以降、幕府側は鎮圧に転じた。中山道を北上した一揆の一派は、現高崎市の岩鼻代官所を目指した。18日、群馬の新町宿を襲ったところを、代官所と高崎藩の連合軍に弾圧され、死傷者26、逮捕者300~400人を出して壊滅、一揆は約一週間で終わった。

逮捕者は全部で4千人に上り、首謀者の上名栗村(現在の飯能市)の大工島田紋次郎は死刑、おけ職人新井豊五郎は島流しになった。

百年余を経ているものの、伝馬騒動と武州一揆は、お上に農民が集団で立ち向かうという反抗精神で相通ずるものがあり、その気骨は秩父事件に受け継がれているようにみえる。