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盆栽のたどった物語 大宮盆栽美術館

2013年11月19日 16時16分37秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物



17年4月末に第8回世界盆栽大会の開催が決まったさいたま市の大宮盆栽美術館で「<盆栽>の物語ー盆栽のたどった歴史」と題する企画展が開かれているというので、13年11月中旬の日曜日に見学に出かけた。

今度の大会で主役を務めることになる大宮盆栽村は、1923(大正12)年の関東大震災で被害を受けた東京都文京区千駄木周辺の盆栽業者が、盆栽に適した関東ローム層の赤玉土(あかだまつち)に魅かれて移住して来たことまではよく知られている。

それ以前に盆栽がどのような歴史をたどったのかを知りたかったためだ。

入り口に、さる11月4日、来館者が20万人に達したという掲示があった。10年3月開館だから3年半余かかっている。

企画展示室に入ると、物語の始まりは8世紀の中国で1300年前の壁画にさかのぼるとある。日本の文化の起源のほとんどは中国なので、今さら驚くことはない。

驚いたのは、その壁画が「李賢という王子のために築かれた墓の内部にあった」という説明だ。

中国の歴史の面白さの一つに悪女物語がある。李賢と言えば、「中国三大悪女」の一人に数えられる即天武后(そくてんぶこう)の第2子。即天武后は唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周王朝を建てた悪名高い中国唯一の女帝である。

李賢は聡明で、学者を集めて「漢書」に注釈をつけた際、漢の高祖劉邦の妻、呂后(りょこう)が天下を奪った史実を書き入れた。則天武后はこれを自分に対する当てこすりと受け取り、李賢が31歳の時、自殺に追い込んだ(人を使って殺させたとも)。呂后は三大悪女の中の初代悪女である。

李賢の墓は陝西省乾県にある高宗の稜の近くにある。

壁画の中で従者が両手で持つ盆の上に石のような塊が二つ載せられていて、それぞれ植物が勢いよく伸びている。(写真)

これが盆栽についての最も古い証拠の一つだというのである。

当時は何と呼ばれたか明らかではないが、中国では今では「盆景」と呼ばれている。

山水の景色を二次元化したのが「山水画」なら、盆の上で三次元に縮小したのを「盆景」というわけだから、盆の上で栽培する「盆栽」よりももっと芸術的な感じがする。

これが日本に伝わったのは平安時代の末頃。山水の景色を愛でる高尚な趣味として公家や武家に歓迎され、最も古いのは春日神社の由来を語る鎌倉時代を代表する絵巻物「春日権現験記」などに見られる。

室町時代には「盆山」と呼ばれていたようで、「盆栽」の語が生まれるのは江戸後期以降のことである。

「盆栽」という言葉とともに現代の盆栽の基礎が築かれたのは明治時代になってからで、内閣総理大臣を務めた早稲田大学の創設者・大隈重信は代表的な盆栽愛好家だった。

邸宅には盆栽置き場があり、写真帳には屋敷の盆栽を飾った写真も残されている。

盆栽をたしなむことが政財界人のステータスシンボルになり、太平洋戦争後の吉田茂首相も好きだったのは記憶に新しい。

面白いのは、盆栽が女性の教養の一つとして奨励されたことで、女性の生活の中の教養やしきたりを学ぶ「女礼式」の教養の一項目に盆栽が取り入れられていた。

盆栽は単なる園芸趣味ではなく、絵画や彫刻同様、造形芸術であると主張する「盆栽芸術運動」が起きたのは昭和の1930年代。盆栽専門誌「盆栽」の発行人の小林憲雄(としお)が、その先頭に立った。

この運動は、上野に建設された旧東京府美術館で1934年に開かれた「国風盆栽展」で実を結んだ。この展覧会は今でも毎年開かれている。

また、忘れてはならないのは、世界ではロンドンの王立植物園やワシントンの国立植物園に盆栽コレクション、韓国ソウルには韓国盆栽研究所の盆栽博物館がある。

もう一つは、日本でも盆栽の生産量が一番多いのは香川県で、高松市の鬼無町には「盆栽通り」、国分寺町には日本で唯一の「盆栽神社」があって、国内外に盆栽愛好者は多いーーという事実である。