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ゼロ戦のエンジンの音 所沢航空発祥記念館

2013年07月06日 11時07分56秒 | 名所・観光


2012年12月1日(土)。この日は私にとって「ゼロ戦の日」だった。
所沢航空発祥記念館でゼロ戦のエンジンの音が聞けるというのだから、前日からいくぶん興奮していた。

記念館では世界で唯一飛行可能なゼロ戦を、12年12月から米国の航空博物館から借用して展示した。

機体が老朽化しつつあるので、大事をとって今回は空を飛ばせず、エンジンをふかしてプロペラの回転音を聞かせるだけにとどめた。

戦争時代に子どもだった者にとって

♪ エンジンの音轟々(ごうごう)と
  隼は征(い)く雲の果て ♪

で始まる軍歌「加藤隼戦闘隊」の歌詞とリズムは耳に染み付いている。

「隼」は、陸軍の、ゼロ戦は「零式艦上戦闘機」の名前どおり海軍の戦闘機だった。

陸軍と海軍の違いはあれ、同じ戦闘機のエンジンの音だから大差はあるまいと、「隼」の歌を口ずさみながら所沢に向かった。

記念館に近い西武新宿線の航空公園駅に降りると、館に向かう高年の男性の姿が目立った。午前11時過ぎ館に着くと、すでに長い行列が出来ていて、当日券は全て売り切れていた。

この日は、午前11時、午後1時半、午後2時50分の3回、10分間観客の前でエンジンを始動させる(プロペラを回す)予定で、420人ずつ館に隣接したシート囲いの特設会場で見学させることになっていた。

午後1時半以降の券なら手に入るだろうと、タカをくくっていたのが裏目に出たのだった。

そのまま引き返すのは残念なので、シート囲いの外にいるガードマンに聞くと、「エンジンの音だけなら、聞こえますよ。感動しましたね」とのこと。

それならと時間をつぶして、午後1時半に来て見ると、周囲は人で一杯。録音機材を手にしている人も多かった。

うなぎ屋でうなぎは食べず、匂いをかぐ落語みたいな話である。

終戦直前、大阪から鹿児島県の隼人町に疎開していた。現在の鹿児島空港が特攻機の基地になっていて、小学校に通う頃、必ず編隊を組んで南に向かっていった。

ゼロ戦も特攻機にも使われたというから、あの中にこの音が混じっていたのだろうか。

低く重いエンジンの響きを聞きながら、まさに感慨無量だった。

このゼロ戦は、「52型」。「栄21型」と呼ばれるエンジンを積んでいる。1943年の三菱重工業製。

44年にサイパン島の飛行場で米軍に無傷の状態で捕獲され、57年に米カリフォルニア州の民間航空博物館「プレーンズ・オブ・フェーム」に移管された。

エンジンは一部の部品が交換されているものの、ほぼ原型どおりで、飛行可能なゼロ戦は世界でもこの1機だけ。今でも年間15~20時間飛んでいるという。

日本には17年ぶり3回目の里帰りで、78年には埼玉県桶川飛行場、95年には茨城県龍ヶ崎飛行場などで飛んでいる。

1943年製だからすでに69年。70歳に近い。日本同様、ゼロ戦も年老いたのである。

今回空を飛ばず、地上でエンジンの音を聞かせるだけにしたのは、この高齢のためであろう。

記念館では、「エンジンの老朽化で、エンジンの音を聞けるのは、これが最後になるかもしれない」という。

このエンジンの音は、日本への告別の調べだったのかもしれない。

その後、音なしで見るだけの入場券もあることが分かり、撮ったのがこの写真。

小型でいかにも軽快そう。だが、防護性能を犠牲にして、格闘性能と長距離飛行に特化して各国の戦闘機と渡り合ったあげく、米軍機に歯が立たなくなると特攻機で終わったゼロ戦の哀れな末路を思い出して、気は重かった。

全部で約1万機余作られたこのゼロ戦、人気が高く、展示は13年3月末までの予定が8月末まで延期された。入場者は約14万人に上った。


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