
1945(昭和20)年、父親の勤務先だった大阪市に住んでいたので、夜間空襲は日常茶飯事だった。防空壕から帰ってみると、社宅の防火壁の裏の住宅群が、みごとに焼け落ちてなくなっていたこともあった。
どこまでも続く焼け落ちた市街地に石の灯篭だけが、間隔を置いてポツンポツンと立っていた荒涼とした光景を今でも思い出す。当時、小さな裏庭にも、灯篭が立っていたのだろうか。
8月15日の終戦記念日前後に、最近決まって、埼玉新聞や全国紙の埼玉版に熊谷大空襲関連の記事が載る。丹念に切り抜いてきた。
その切り抜きや、埼玉県史や熊谷市史、熊谷市立図書館の労作「熊谷空襲の記録と回想」、「熊谷空襲 昭和20年8月14日夜のこと」(鯨井邦彦編著)をめくると、その惨事が如実に分かる。
初めて熊谷を訪れた時、中心部を流れる川の名が「星川」と聞いて、風流な名前だと感じいったものだ。「星渓園」(写真)を源泉とする清流だ。
「星川通りには、約2mの間隔で焼夷弾が突き刺さっており、立ち並んだ家々が炎に包まれていた」(当時21歳の藤間豊子さん=朝日新聞)。水をなくしたこの川に水を求める遺体が折り重なっていたという。
まもなく終戦の8月15日になろうとする14日午後11時30分頃から15日午前2時頃までB29型爆撃機約80機の焼夷弾による無差別じゅうたん爆撃で、当時の人口6万(現在10万)の中で死者266人、星川などの中心部では100人近くの死者が出た。負傷者約3千人、被災戸数は全戸数の4割の3600超、被災者は全人口の28%の1万5390人(死者、負傷者を含む)。市街地の74%が焼けた。
この最後の空襲では、神奈川県小田原、群馬県大田、伊勢崎、高崎、桐生各市、前橋市の一部なども対象になった。地方は違うが、油田と製油所のあった秋田市土崎や、山口県岩国市、海軍工廠のあった同県光市も爆撃された。
埼玉県内で空襲による最大の被害となり、熊谷市は県内唯一の「戦災指定都市」になった。軍用機製造の「中島飛行機(群馬県太田市)」の子会社や下請け工場が標的にされたらしい。
15日午後5時頃に火はようやく消えたが、数日にわたって火はくすぶり続けた。
星川のすぐ近くの弁天町に住んでいた作家森村誠一さんは、当時12歳で自宅を焼かれ、故郷を失った。
「熊谷の空襲は、翌日の終戦に吸収されて、ほとんど知られていない。だが、すでにポツダム宣言の受諾が決定された後に我らが町の熊谷が焼かれたという事実は決して忘れてはなるまい。熊谷市は、太平洋戦争における最後の犠牲であり、まったく無意味な葬り去られた犠牲の羊(スケープゴート)であったのである」
と、森村氏は『市民がつづる熊谷戦災の記録』に寄稿している。
「透き通った水の中に、死体が累々と横たわっていた」。この体験が氏が作家を志す「原体験」になった(毎日新聞)。
爆撃に参加したB29の航空士の一人は、
「我々は攻撃目標に向かっているというのに、ニューヨークではVJDAY(Victory Japan Day)を祝っているとラジオで聞く。」
という手書きノートを、熊谷市に兄弟がいるカナダ在住の日本人に手渡している(読売新聞)。
なぜ熊谷が空襲の対象になったのか。埼玉県の県庁所在地に間違えられた(明治の初期3年間熊谷県の県庁所在地だった)とか、熊谷陸軍飛行学校で特攻隊員が養成されていたことなどが挙げられている。
民間人への無差別爆撃は、戦時国際法に違反することは明らかだ。
毎年8月16日に星川通りでは死者を悼んで灯籠流しが行われる。
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