新古今和歌集の部屋

八雲御抄 正義部 歌合子細(中) 蔵書

八雲抄巻第一 正義部

 

 

 

 

 

 

一 同さまにて、あらぬ事、たとへば、「よそなれど杉のむら

立しるければ君がすみかの程ぞしらるゝ」是は哥

合ならねど、經信、後拾遺問答難之。しるければといふと

しらるゝとは、文字異なり、或為難、或不難、哥合に不

難事も有、又難事も有。撰集には皆多以入之云々。

かぞふれば空なる星もしる物を

なにをつらさの数にをかまし

これは、計と数と也。高陽院哥合に通俊が

月かげを昼かとぞみる秋の夜を

ながき春日とおもひなしつゝ

勝畢。是昼与日也。

一 さもとおぼゆる難。「ひとへつゝ八重山吹はひらけ

なん」といへるを、小野宮「さては、八重山吹にてはある

べからず」と云。如此難也。又、長元哥合に、山の海となる

事承暦匡房「わたつ海の苗代水になる」といへる、是等

は、餘の事歟。如此事不可勝計。尤々可難之。縦◯有

本哥過法事は、可為難歟。

一 さしもなき難。天德哥合、無水藤浪。万葉に齊々。む

ばたまをぬばたまと也。両説也。亭子院哥合に伊勢、

「いそのかみふるの社の桜花こぞ見しはなの色やのこ

れる」思去年捨今年云々。思去年も不捨今年なり。

非難歟。長元に「せき入るみづ」ふかき難とも聞えず。根合

にたつといふ事、頼通童名也。匡房非難云々。誠沙汰外

事也。此外、仲実難露結餘り事なり。兼昌「恋せじと」を

俊頼難は、いかゝせん。長元、赤染、「猶とこなつ」又同。已上事中

難也。 鴬の春となく虚言云々。此事尤無其謂。哥作法

也。後撰「かりこそなきて秋とつぐなれ」。又「おぎきをの秋と

つげつる」などいへり。これとても景氣も、尤不為難なり。

一 同事の詞かはりたるは、尤可為病。 良牟与礼牟、

京極御息所哥合、勝。 介礼与介留、徽子女御哥合、中務

持。良志与奈利、寛和哥合、惟成為持。 或、不為病ども、

是等は病なり。准之多。山与峯、亭子院哥合勅判、「山峯

またがりたり」と云々。俊頼、基俊共謂病。清輔不為病。山与

高根、同事也。或、不病ども、これらは病也。准之多。高陽院

哥合、通俊「をしなべて山の白雪つもれどもしるきはこし
                 初五文字
のたかねなりけり」。又、同哥合顕綱 と終二句「と山には」とい

ひて「をちのたかね」といへり。これ非強難共持也。匂与

香、顕房哥合勝。獨与人、法性寺関白哥合に、時昌が「霜

がれにわれひとりとや白菊のいろをかへても人に見す

らむ」といへる。俊頼曰、「獨与人未事切」、基俊不難、仲実為

難。今案が随事、是は非病。獨といへる心、人にあらざるな

り。古今の「ひとりのみながむる宿のつまなれば人を忍ぶ

の草ぞおひける」といへるは、病也。又西住法師が「やどごと

にながむる人はあまたあれどそらには月ぞひとりす

みける」是も有難負歟。但、非深咎歟。月与月、年

と月日、吉水僧正「なが月もいく有明に成ぬらん浅茅

の月のいとゞさび行」是も同詞の心かはりたり也。可為病

歟。聲と音と病也。三条院大嘗會に、輔親詠之。聲

と音と、貞文家哥合、躬恒為持。代与年、是をば皆為病

也。三十講哥合勝「年をへてすむべき君がやどなれば

池の水さへにごるよもなし」是は、誠に不病。君が代はな

どいひて、末にちとせなどいひたるは、可入病也。この事、常

にある也。又「とまらぬ春の谷風にまだうちとけぬ」此二

の「ぬ」は病歟。然而天德勝畢。頼宗「せめて命のおしけれ

ば」といひて、「祈るなりけり」といふ病也。後日、頼宗改哉云々。

「そらと雲井と」など不病。道経作哥を、俊頼為徑病。通

俊曰、「雖有病歌合哥不勝。被定持例」云々。

 

 

※読めない部分は、国文研鵜飼文庫を参照した。

※よそながら 不明。

※かぞふれば 後拾遺和歌集 巻第十四 恋歌四 長能
かぞふれば空なる星もしるものを何をつらさの数におかまし

※月かげを 高陽院七番歌合 月 一番右持 通俊の卿
月見れば昼かとぞおもふ秋の夜をながきはるびとおもひなしつつ

※ひとへつゝ 天暦四年内裏歌合 八番款冬 右負 平兼盛
ひとへづつ八重山吹は開けなむほどへて匂ふ花とたのまむ
判 右歌、やへ山吹のひとへづつひらけんは、ひとへなる山吹にてこそはあらめ。心はあるににたれども、やへさかずはほいなくやあらん。又、下句のはて、上句のはてと同じ文字有。

※山の海 長元八年賀陽院水閣歌合 九番祝 左負 能因
君が代はしら雲かかる筑波嶺の峰のつづきの海となるまで
判 海も山になる、山も海にならばあしかりなん。海は海、山は山にてあらんこそよからめ。いまいましとて、左負けぬ。

※わたつ海の 承暦二年内裏後番歌合 十四番祝 右持 大江匡房
君が代はゆくへも知らぬわたつ海の苗代水になりかはるまで
判 右歌は、長元の歌合にも、山の海とならん、あぢきなしと定めたり。これも心似たり。

※無水藤浪 天徳四年内裏歌合 九番藤浪 左負 藤原朝忠
紫に匂ふふちなみうちはへて松にぞ千代の色はかはれる
判 左歌、水なくて藤浪といふ詞、古き歌に、をり/\あり。されど、たづぬる人なければ、とゞまれるなるべし。歌合にはいかゞあらむ。ことに寄せぬあるまじ。いはれなし。なを、水・池・岸などぞ寄すべかりける。歌がら清気なり。。。右方人申云「左歌の藤波、水に寄らず。如何」と愁申。事理可然。仍以右為勝。

※むばたま 天徳四年内裏歌合 十六番恋 右負 中務
むはたまの夜の夢だにまさしくは我がおもふことを人にみせはや
判 右歌、「むば玉」と書けり。夜といふことは、ぬばたまとぞいふかし。うば玉は同じやううなれど、書きあやまちたるなめれば、そのよし奏すれば、「あやまちあらむには、いかで」と仰せことあれば、以左為勝。

※いそのかみ 亭子院歌合 春 二月十首 左負 季方
石上布留の山辺の桜花こぞ見し花の色やのこれる
判 左、こぞをのみ恋ひて、今年の心なしとて、まく。

※せき入るつ 不明。ただし 長元八年賀陽院水閣歌合に
千代をへてすむといふみつをせきれつつ池の心にまかせつるかな

※根合にたつ 不明。田鶴は、藤原頼通の幼名。

※恋せじと 元永元年十月二日内大臣家歌合 七番左負 源兼昌
こひせじとおもひなるせに寄る波の(以下欠落)
判 俊云、いづれもいづれもをかし。但、前歌は初五文字ををかしたれば、うち聞くに思ひ出でられぬ。古人もかやうの詞さるべしとこそ申されければ、おとるべきや。

※猶とこなつ 長元八年賀陽院水閣歌合 五番瞿麦 右負 赤染衛門
庭のおもにからの錦をおるものはなほとこなつの花にざりける
判 猶とこなつのとあるをわろしとてまくるなり

※かりこそなきて 後撰和歌集巻第七 秋歌下 よみ人知らず 358
物思ふと月日のゆくもしらざりつ雁こそ鳴きて秋とつげつれ

※おぎき葉の 後撰和歌集巻第五 秋歌上 よみ人知らず 220
いとどしく物思ふやとの荻の葉に秋とつげつる風のわびしさ

※京極御息所哥合、勝 不明。延喜二十一年、宇多法皇が京極御息所と春日社を御幸した際、藤原忠房が歌を献じ、帰京してから女房たちに返歌させ、歌合形式とした。 

※徽子女御哥合、中務持 不明。

※寛和哥合、惟成為持 寛和元年内裏歌合 野左 負 惟成
いつしかもゆきてやはみむあきののの花のしたひもとけもしぬらむ

※山峯 亭子院歌合 春二月十首 右 貫之
ざくら咲きぬるときは常よりものしら雲たちまさりけり
判 左は「らむ」といふこと二つあり。右は「山ざくらまたげり」とて持になりぬ(二十巻本)

※をしなべて 高陽院七番歌合 雪 一番右持 通俊の卿
おしなべてのしら雪つもれともしるきはこしのたかねなりけり

※と山には…をちのたかね 高陽院七番歌合 雪 三番右勝 
と山にの下も散りはててをちの高根に雪ふりにけり
千載和歌集、七病の胸尾病にも例示

※匂与香、顕房哥合勝 六条右大臣家歌合 花橘 右持 ちかもと 
我が宿の花橘の匂ふには香(か)をたづねつつ来ぬ人ぞなき

※霜がれに 元永元年十月二日内大臣家歌合 残菊 十一番 右両判持
霜がれにわれひとりとや白菊の色をかへてもひとにみすらむ
判 俊云、後歌は、我ひとりとやいへる、心ゆきても聞えず。人人やまひといふ事に事きる。持とや申すべからん。

※ひとりのみ 古今和歌集巻第十五 恋歌五 貞登 769
独のみながめふる屋の妻なれば人を忍ぶの草ぞおひける

※やどごとに 不明。

※なが月も 新古今和歌集巻第五 秋歌下 暮秋の心を 前大僧正慈円
長月もいくありあけになりぬらむ浅茅ののいとどさびゆく

よみ:ながつきもいくありあけになりぬらむあさじのつきのいとどさびゆく 隠

意味:秋の長月もあと何回有明を迎えると終わるのだろう。月が、庭の荒れた浅茅を照らして、寒々とした寂しい色になっていく。

備考:四季雑各二十首都合百首。慈鎮和尚自歌合。自歌合では、月は霜となっている。有明は、十五日以降の月。

※三条院大嘗會に、輔親 不明。三条天皇 大嘗会 長和元年(1013年)11月22日。

※貞文家哥合、躬恒為持 左兵衛佐定文歌合 仲秋 右持 凡河内躬恒 
人知れぬをや鳴くらむ秋萩の花咲くまでに鹿のこゑせぬ

※年をへて 賀陽院水閣歌合 三番池水 右勝 藤原公任或本四条中納言

※とまらぬ春の 天徳四年内裏歌合 二番鴬 左勝 源順 拾遺和歌集
氷だにとまら春の谷風にまたうちとけ鴬の声

※せめて命の 賀陽院水閣歌合 十番恋 春宮大夫(頼宗)
逢ふまではせめて命の惜しければ恋こそ人のいのりなりけり
後拾遺 逢ふまでとせめて命の惜しけれは恋こそ人のいのりなりけれ

※そらと雲井と 不明。通俊(1047ー1099年)は、道経とは一世代前の歌人。基俊の間違いではないか。俊頼、基俊が判者で、道経が出詠したものには、元永元年(1118年)十月二日内大臣家歌合があるが、該当する歌は無い。

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