1 はじめに
山科郷古図は、鎌倉時代に作成されたものとされ、水戸藩の徳川光國の彰考舘が大日本史作成の為に収集したものである。
彰考舘は、昭和20年8月の空襲で焼け、古図自体は灰燼となってしまったが、それを写したものが残っており、その内容を伝えている。
山科郷古図(図1(コピー)参照)は、宇治郡を東西南北の縦横の線で条里に分けており、その東部は音羽山系をただ「山」とのみ記載されている。しかし、虫食いを免れた二条九里に小さく「戸山」と地名が残っている。その日野周辺の位置から「戸山」は、方丈記に記載された「外山」であると考えて良い。
そこで、方丈庵の位置を山科郷古図から推察する事とする。
2 山科郷古図に記載された地名
山科郷古図(図2(コピー拡大図)参照)によると、四条九里に「法界寺」が記載されている日野は、「山館北」となっており、法界寺の北西に「日野中納言山庄」とも記載されている事からここに日野家の山荘があった事が窺える。宇治市史の宇治川の東畔によると山舘とは日野中納言山庄を指すとしている。
三条十二里には、「醍醐寺」と下醍醐とおぼしき記載が有るが、その山頂に有る上醍醐の記載は無い。隣の三条十三里には「延喜御陵」とあり、これは醍醐天皇陵を指す。しかし、三条十一里にあるはずの醍醐寺の子院であり、源師行の八角円堂や法然の弟子重源が建てた栢杜堂の醍醐寺栢杜遺跡があったはずだが記載はない。
五条十三里には、「勧修寺」の記載もある。又、同地に「南院」と記載がされているが、同場所にあるはずの花山院(元慶寺)が無いことから、鎌倉時代には南院と呼ばれていたかも知れない。
日野周辺では、御蔵山は、五條九里で奉岡と呼ばれていた事が古図で分かる。その奉岡と市邊東里の間に、藤原道長が建立した「浄妙寺」があり、今の宇治市木幡赤塚の木幡小学校周辺であることが、発掘調査で明らかになっている。
3 山科郷古図と現在の距離による縮尺の推計
測量技術などほとんど無い時代の古図でしかもオリジナルは焼失してしまって模写しかないことではあるが、本図には現代の地図にも採用されている条里で区分されており、おおよその距離が推定される。主な地点の現在の距離(国土地理院地図による)と古図(コピー)での距離を比較すると表1の通りとなる。
縮尺として法界寺~醍醐寺、醍醐寺から醍醐天皇陵、醍醐天皇陵から勧修寺の距離から縮尺を平均から求めると、約20,700倍。その値から一条は684m、日野中納言山庄の位置を推定すると法界寺から394m、その位置から戸山は1,037mの場所と推定される。
4 日野中納言山庄の場所の伝承
日野醍醐の地元の伝承を集めたふるさと醍醐によると、日野山荘跡は、「法界寺東北山麓に日野中納言資長の山荘があり、村人は御所山と呼んでいる。」とある。山科郷古図によると北西の方角となるが、「田中町地域を南方に従貫する小流に轟橋があり、昔、日野山荘の垂門があったと伝えられている。」とあり、日野田中町は法界寺の北北西にあることから、山科郷古図と整合する。なお、山荘といっても貴族の屋敷であり、御殿と称されるくらいであるから、その敷地は広大な物だったとも推察される。又日野家も何十世代も日野を所領としており、山荘を新たに山麓に建てて住まいしたことも考えられる。一概に伝承が間違いとも言えない。
5 外山(戸山)の位置の推定
日野田中町を日野中納言山庄と推察して、これから東に1073mの場所に標高234m日野北山がある。これを戸山だとすれば、山科郷古図と整合する。近隣には、醍醐外山街道町、醍醐南端山町という地名も残っている。 日野北山が外山と推定すればその山麓に、方丈の庵跡があったと考えられる。
栢杜遺跡から見た日野北山参考
日本荘園絵図聚影二 近畿一(山城) 東京大学史料編纂所編纂 東京大学出版会
三四 山城国宇治郡山科地方図(写)東京大学史料編纂所
宇治市史5 宇治市東部の生活と環境 宇治市
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復刻ふるさと醍醐 京都市醍醐小学校育友会視聴覚委員会編国土地理院地図 国土地理院