まづいそがれ候ける御心ざしあらはれ候て、集賜はりて候事かへす/”\うれしうよろこび見候て、いたづら事と覺え候つる長きためしの命も、三たびまでみ候ぬる歌にとりては、あえものゝ方にめでたく候けると覺え候。
さて此御撰集のことがらは、たゞ有のまゝに、おそれをはゞからで詞をまぜ飾ること候はず申し候はゞ、目に及び候にとりては第一とこそ覺え候へ。
その故は、三代集はことたかく世もあがり、昔遠く隔り候て、詞の及ぶことにさふらふまじければ、さしおき候ぬ。其のち後拾遺は、よき歌餘りこぼれて候ける世なれど、撰びたてられたるやうげすしく候。金葉、詞花、きやう/\なるやうに候。千載おちしづまり、誠に勅撰がらはめでたく候。序なども候へども、何とやらむ大やうに覺え候。歌もいたう整ひたるらむとも覺え候はず候。
新古今又春の花、秋の紅葉を一つにこきまぜて、鳳池の秋月、梁苑の雪の夜とかや歌ひし心地して、御手づからなる詞遣まで、めづらしくけだかうおもしろく、京極殿のかんな序など、心詞及びがたく候程よりは、亂れたる所も候やうに候。
新勅撰はかくれごと候はず候。中納言入道殿ならぬ人のして候はゝ取りてみたくだにさふらはざりしものにて候。さばかりめでたく候御所たちの一人もいらせおはしまさず。其事となき院ばかり御製とて候事、目もくれたる心地こそし候しか。歌よく候らめど、御つま點あはされたるはいまださむとおぼしめしけるとて、入道殿のえり出させ給ふ歌七十首とかや聞き候し。かた腹いたやとうち覺え候き。
是は皇太后宮大夫俊成の孫にて、定家の子にてえり出させ給ひたる歌のめでたき次第、書きまじへられてさふらふ。その世をしらぬふる人の、時々うちまじりてさふらふまじはりおき所、おどろかるゝげもなくめでたし。かゝるあまる所なくたらぬ方なく、左へも傾かず、右へもたわまず、姿うつくしき女房のつま袖かさなり、御衣の姿、裳のすそまで、鬢ひたひ髪のかゝり、裾のそぎめうつくしう、裳の腰ひかれたるまで、あなうつくしやと覺えたるを、南殿の櫻盛りにたてなめて見る心地し候て、歌も上臈しくもけだかく、なつかしうたをやかにもかけたるかたなく覺え候。本より詞の花の色匂こそ父にはすこし劣りておはしませど、歌の魂は勝りておはしますと申し候つること、あらはれて撰じ出させ給ひて候勅撰、いのちいきてみ候ぬる事返す/”\うれしく候。天暦四年とかや、後撰の後にて序の候はぬしもよく候。いかなれば、序に申す所かた腹いたきことどもいでき候へば、それに又後鳥羽院の御孫、土御門院の御子にてわたらせおはします院の、御覽じさだめられ候と承り候へば、ちやわんのものになりをかきて候やうに、清くうつくしう忝くあふぎて信もおこりて覺え候。歌の事とく申度事多候にこそ。見參もしたく候へ。
よのつねはまたれし人も此の春や軒端の梅もかこたれもせむ
色々に咲き候へど、にくい氣してうとき人はなど折りても申し候ぬ。かやうにそゝろごといくらも/\申したく候。そらもおそろしくて天地四方の人々をつゝましく覺え候ヘど、思ひ候ことかたはし書きちらして候。よみとかれぬものにことよせて、とく/\煙にまぜさせおはしませ。命候てかゝる御ことをみきゝまゐらせ候ぬる、かつ/\阿彌陀佛の御むかへの近づき候とたのもしく候。
雲の色のうすむらさきにひかりさす西のむかひの追風や吹く
秋風にみだれし露にぬれわかできえなましかばと思ふさへにぞ
淺ましく候。今は思ひおかるゝうらみも候はず。我君の御代を見まゐらせ候ぬれば、
空靑くあふぎし月日そのまゝにくもらざりけるかげのうれしさ
又々びんごとに申しまゐらせ候。のこりおほく候。
此文者續後撰之時、越部禅尼俊成卿女消息。先年書置之處爲權家被借失之間、誂或仁令書寫訖。
○越部禅尼
俊成卿女 鎌倉時代の歌人。祖父俊成の養女となる。源通具の妻で後に出家し、嵯峨禅尼、越部禅尼と呼ばれた。
○集賜はりて
続後撰和歌集 後嵯峨上皇の命により編纂された10番目の勅撰和歌集。撰者は藤原為家。
○三代集
古今和歌集 勅撰和歌集の第一。905年(一説905年下命、913-14年成立) 醍醐天皇の勅命。紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の四名の撰者。
後撰和歌集 勅撰和歌集の第二。951年下命、957-959年成立 村上天皇の勅命。大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城の四名の撰者。
拾遺和歌集 勅撰和歌集の第三。1005-07年 花山院の親撰。。藤原公任撰の拾遺抄を参考とした説が有力。
○後拾遺
後拾遺和歌集 勅撰和歌集の第四。白河天皇の勅命により、撰者は藤原通俊。承保二年(1075年)奉勅、応徳3年(1086年)9月16日完成。同年10月奏覧。
○金葉、詞花
金葉和歌集 勅撰和歌集の第五。1126年三奏本成立。白河院の勅命により、源俊頼が撰者となった。三度やり直しをした。
詞花和歌集(1151年頃 崇徳院の勅命により、藤原顕輔が撰者。
○千載
千載和歌集 1188年成立。後白河院の勅命により、藤原俊成が撰者。
○京極殿
藤原良経(1169~1206)関白九条兼実の子。後京極殿と呼ばれた。新古今和歌集に関与。六百番歌合などを主催した。
○かんな序
新古今和歌集 仮名序。藤原良経が、後鳥羽院の立場になって作成。元久二年(1205年)三月二十九日。
○ 新勅撰
新勅撰和歌集 1235年成立 後堀河天皇の勅命により、撰者は、藤原定家。
○中納言入道殿
藤原定家朝臣(1162~1241年)ていかとも読む藤原俊成の子で京極中納言とも呼ばれ新古今和歌集、新勅撰和歌集の選者小倉百人一首の撰者。古典の書写校訂にも力を注いだ。
○皇太后宮大夫俊成の孫にて、定家の子
藤原 為家 (1198年~1275年)鎌倉時代中期の公家・歌人。父は藤原定家。官位は正二位・権大納言。別称は中院禅師・冷泉禅門・民部卿入道。
○皇太后宮大夫俊成
藤原俊成(1114~1204)しゅんぜいとも。法号は釈阿。千載和歌集の撰者で定家の父。