1 はじめに
源氏物語花宴で、源氏が朧月夜と出会うシーンで、恐れおののく朧月夜に源氏が歌った、
深き夜のあはれを知るもいる月の朧げならぬ契りとぞ思ふ
について、この「いる月」を多くの解説本が「入る月」と表記している。
この「入る月」について違和感を覚えたので、これについて考えてみる。
2 花宴における時系列
先ず、花宴の冒頭に「如月の二十日余り、南殿の桜の宴」とあり、紫宸殿で花見の宴が旧暦二月の二十日後に開催されたと言うのが分かる。
そして、「月いとあかうさし出で」頃までに、上達部、后、春宮が帰ったとなっている。静かになって、「上の人々もうち休み」、「人は皆寝たるべし」と言う頃、弘徽殿細殿に忍び入り、「朧月夜に似るものぞなき」と誦す朧月夜と出会った。
そして事が終わって、「ほどなく明けゆけば、心あわただし」となり、相手の素性を聞こうとしても「人々起き騒ぎ、上の御局に参りちがふ気色」となって扇を交換して、弘徽殿細殿を源氏は出て行った。
以上が物語の時系列である。
3 各解説本の「いる月」
青表紙本系の大島本では「入月の」とあり、北村季吟の湖月抄でも九条植通の孟津抄を引用し、「下の句、入方の折節、月もさやかなる」として、古来「入る月」との認識しており、これから現代の各解説本では、「入る月」としている。
具体的には、新日本古典文学体系(鈴木日出男 校註)では、「『入る月』は西に傾く現在の月」としている。新潮日本古典集成(石田穣二 校注)では、「『入る月の』は、眼前の光景を言い」としている。日本古典文学全集(阿部秋生他 校注)では、「入り方の明るい月の風情を」と歌の訳を記して入る。
4 如月の二十日余りと暦
旧暦であるので、月齢を元に、桜の咲く4月の暦を国立天文台のホームページで京都を調べてみると表1の通りである。もちろん旧暦なので、この西暦の日付は毎年異なる。
この桜も当然ソメイヨシノではない。古事談 巻六 一 南殿の桜・橘の樹の事によれば、「南殿桜樹者本是梅樹也。桓武天皇遷都之時所被植也。而及承和年中枯失。仍仁明天皇被改植也。其後天徳四年(九月廿三日)内裏焼失。仍造内裏之時所被移重明親王式部卿家桜木也(件樹木吉野山桜)」と、吉野山桜を移植したとあり、これはウィーべ・カウテルト※1によれば、「960 年寝殿前に植えられた吉野の桜とは山桜であったと思われる。」とある。ヤマザクラは、ソメイヨシノの開花より遅く、八重桜よりは早いが、自生の種なので開花は一斉ではなく、ばらつきがある。
表1 2021年4月の月の暦(京都)
4月1日 2日 3日 4日 5日 6日 7日
旧暦 如月廿日 廿一日 廿二日 廿三日 廿四日 廿五日 廿六日
月齢 18.7 19.7 20.7 21.7 22.7 23.7 24.7
月出 🌙21:17 🌙22:30 🌙23:41 0:47 1:46 2:36 3:18
南中 2:42 3:40 4:39 5:39 6:38 7:34 8:26
月入 8:00 8:44 9:34 10:31 11:32 12:36 13:39
日出 5:44 5:43 5:41 5:40 5:39 5:37 5:36
注:月の動きをみる為、🌙印は前日。月齢は正午。
これを4月4日(旧暦廿三日、月齢21.7日)の時系列で見ると、真夜中の0時47分までには上達部などは帰り、源氏は宮中をほっつき歩き、朧月夜と出会い、5時40分の日の出前には別れた事となり、その5時39分には、月は南中にあった事となる。
出会って歌を読んだ時に、西に傾く「入る月」とは言える状況ではない。
5 「いる月」考察
「入る月」でないとすれば、「いる」にはどう言う意味があるだろうか。
下弦の半月を「弦月(弓張月)」と呼ぶ。月齢は21.15日で、ちょうど「二十日余り」の月となる。
又、朧月夜との出会いの一月後、右大臣邸での藤花宴での再会の時、源氏は、推し量って、
梓弓いるさの山に惑ふかなほの見し月の影や見ゆると
返しに朧月夜は、
心いる方ならませば弓張の月なき空に迷はましやは
と二人の出会いをイメージさせる弓張月を贈答している。もちろん両歌の「いる」は、「射る」である。
なお、右大臣の藤花宴は、弓の結(けち)なのでと、集成では、「今日の催しの弓の結にちなむ」と訳す向きも有るが、源氏にとっては、「右大臣家の関係者」、「扇」、「朧月夜」しか手掛かりが無いのに、弓の結の相聞を贈るはずも無い。
「弓張」から「射る月」と表現したと考えれば、符合しない「入る月」より適当であると思われる。
国立天文台 今日のほしぞら 京都(京都府)2021年04月04日(日) 5時00分00秒 より
参考文献
サクラの文化史および分類学的研究について 平成 18 年度日本造園学会賞受賞者業績要旨 Wybe KUITERT