父の渡り給ひたりし、山なりの嶋見わたひて、渡らまほ
しく思はれけれ共、波風むかふてかなはねば、ちかう及び給
はずながめやり給ふに、我ちゝはいづくにか、しづみ給ひけんと、お
きよりよづる白波ににも、とはまほしうぞ思はれける。濱のま
さごも父の御こつやらんとなつかしうて、涙に袖はしほれ
つゝ、しほくむあまの衣ならねど、かはくまなくぞみえ
られける。なぎさに一夜とうりうし、夜もすがら經よみ
念仏してゆびのさきにて、はまのまさごに仏のすがたを
かきあらはし、明ければ、僧をしやうじ、ざぜんくどくさな
がらしやうりやうにとゑかうして、都へ歸りのぼられ
けん。心のうち、をしはかられてあはれなり。其比主上は
鳥羽院にてまし/\けるが、御ゆうをのみむねとせさせ
おはします。せいたうは一かう、きやうのつぼねのまゝなり
ければ、人のうれへなげきもやまず。ごわうけんかくをこのみ
じがば、天下にきずをかうぶる輩たへずぞわうさいよう
をあひせしかば、宮中にうゑてしする女おほかりき。かみの
このむ事に、下はしたがふならひなれば、世のあやうき有
さまをみては、心有人の、なげきかなしまぬはなかりけり。中
にも二の宮と申は、せいたうをもつはらとせさせ給ひて、御
がくもんおこたらせ給はねばもんがくはおそろしきひじ
りにて、いろうまじき事をのみいろひ給へり。いかにもて
此君と、くらゐに付奉らばやと、思はれけれ共、頼朝の卿の
おはしける程は、思ひもたゝれず。かくてげんきう十年、正
月十三日、頼朝の卿、年五十三にて、うせ給ひしかば、もん
がくやがてむほんをこされけるが、たちまちにもれ聞えて
もんがくばうのしゆく所、二条ゐのくまなる所に、くはん人
共あまたつけられて、八十にあまつて、からめとられて
是程におひのなみに立て、けふあすをしらぬ身を、たと
ひちよつかんなればとて、都のほとりにもをかずして、いる
平家物語巻第十二
付 六代切られの事
付 六代切られの事
父の渡り給ひたりし、山なりの嶋見渡ひて、渡らまほしく思はれけれども、波風向かふて叶はねば、近う及び給はず眺めやり給ふに、我が父はいづくにか、沈み給ひけんと、沖より寄づる白波ににも、とはまほしうぞ思はれける。浜の砂(まさご)も父の御骨やらんと懐かしうて、涙に袖は萎れつつ、汐汲む海士の衣ならねど、乾く間無くぞ見えられける。渚に一夜逗留し、夜もすがら経読み念仏して、指の先にて、浜の砂に仏の姿を書き表し、明ければ、僧を請じ、作善功徳さながら聖霊にと廻向して、都へ帰り上られけん。心の内、推し量られて哀れなり。
その比、主上は鳥羽院にて、ましましけるが、御遊をのみ旨とせさせ御座します。政道(せいたう)は一向、卿の局のままなりければ、人の憂へ歎きも止まず。呉王、剣客を好みじがば、天下に疵を蒙る輩絶へず。楚王、細腰を愛せしかば、宮中に飢ゑて死する女多かりき。上(かみ)の好む事に、下は従ふ習ひなれば、世の危うき有樣を見ては、心有る人の、歎き悲しまぬは無かりけり。中にも二の宮と申すは、政道をもつはらとせさせ給ひて、御学問怠らせ給はねば、文覚は恐ろしき聖にて、いろうまじき事をのみ、いろひ給へり。如何に以て、この君と、位に付け奉らばやと、思はれけれども、頼朝の卿の御座しける程は、思ひも立たれず。かくて建久十年、正月十三日、頼朝の卿、年五十三にて、失せ給ひしかば、文覚やがて謀反起こされけるが、忽ちに洩れ聞えて、文覚房の宿所、二条猪熊なる所に、官人ども数多付けられて、八十に余つて、絡め捕られて、
「この程に老ひの波に立て、今日明日を知らぬ身を、例ひ勅勘なればとて、都の辺にも置かずして、いる
※主上は鳥羽院に→主上は後鳥羽院に
※卿の局 後鳥羽天皇の乳母、藤原兼子。