行物なれば、中/\めづらしくあはれにき
こゆ。松風もいとよくもてはやすふきあは
せたるふえの音に、月もかよひてすめる心
孟大尼君の事也
ちすれば、いよ/\めでられて、よゐまどひ
大尼の詞
もせずおきゐたり。をうなはむかしはあづま
ことをこそはこともなくひき侍しかど、今
常世やうにはかはるべしと也 孟僧都の
の世には、かはりにたるにやあらん。この僧都
ねんぶつ
のきゝにくし念仏より外のあだわざなせ
そとはしたなめられしかば、何かはとてひき
侍らぬなり。さるはいとよくなることも侍り
孟大尼也
といひつゞけていとひかまほしと思たれば
いと忍びやかにうちわらひて、いとあやし
頭注
をうなは 細嫗の字也。
老婆の稱也。我はむかし
は和琴をよくひきしと也。
ごくらく
きことをせいし聞え給ける僧都かな。極楽と
いふなる所には、ぼさつなどもみなかゝること
をして、天人などもまひあそぶこそたう
つみ
とかなれ。をこなひまぎれ罪うべきことか
細大尼の氣
は。今夜きゝ侍らばやとすかせば、いとよ
にあひたる也 大尼詞
しと思て、いでとのもりのくぞ。あづまとり
てといふにも、しはぶきはたえず。人々゙はみ
ぐるしとおもへど、そうづをさへ、うらめしげ
にうれへていひきかすれば、いとおしくて
其分にてひかせたる也 大尼の和琴を也 笛の調
まかせたり。とりよせて、たゞいまの笛の音
子をもきゝあへずと也
をも尋ねず。たゞをのがこゝろをやりて、
孟前の調子をもしらでひく也
あづまのしらべを、つまさはやかにしらぶ。
頭注
とのもりのくぞ 細との
もりの君といふなり。
哢主殿のくぞ也。女の名
に官をよぶ事のこ
と也。
たゞいまの笛のねをも尋ず
三 笛は盤渉調なりしを
それにもかままはず大尼君の
和琴をば心のまゝにしら
ぶるなり。
こと物はこゑめつるを
抄笛も琴もあはせざる
頭注
と此和琴にめづると大尼
の思ふなり。
みなことものはこゑやめつるをこれをのみ
めでたると思て、たけふぢちり/\たり
たななどかきかへし、はやりかにひきたる
中将の詞
こと葉゙ども、わりなくふるめきたり。いと
哢唱哥の事也
おかしういまの世にきこえぬことばこそは
大尼
ひき給けれとほむればみゝほの/"\しく、
中将のほめらるゝ事をとひきく也 大尼の詞也
かたはらなるひとにとひきゝて、いまやうの
わかきひとは、かやうのことをぞこのまれざ
孟手習の事也
りける。爰に月ごろものし給める姫君゙、か
たちはけうらにものし給めれど、もはらか
かるあだわざなどし給はず、むもれてなん
孟大尼也
ものし給はめると、我かしこにうちあざわら
頭注
たけふちり/\
細琴の音をしやうがに
する也。たけふぢちり
/\たり唱歌也。√笛の
音の春おもしろくきこゆ
るは花ちりたりとふ
けばなりけり。花是
は笛の唱歌を和琴に
うつして尼公のひきたる
なり。
いまやうのわかき人は
孟當時の人はと大尼公
のつもりていふ也。
ひてかたるを、あま君゙などはかたはらいたし
中将の也
とおぼす。これにことみなさめてかへり給
程も、山おろし吹て聞えくるふえの音、いと
おかしう聞えて、おきあかしたり。つとめて
細中将の文の詞
よべはかた/"\心みだれ侍しかば、いそぎま
かで侍りし
中将 ふえ
わすられぬむかしのことも笛竹のつら
細手習君をいひなびか
きふしにもねぞなかれける。なをすこし覚し
し給へと也 細吾身の忍びが
ししるばかりをしへなせ給へ。忍ばれぬべ
うきと也
くはすき/"\しきまでも、なにかはとある
細尼君也
を、いとゞわびたるは、なみだとゞめがたけなる
氣色にて、かき給ふ。
頭注
かた/"\心みだれ
師むかしの事今の手習
の事などにこゝろみだ
るゝなり。
わすれぬ 細面白きうた
なり。孟文選に、笛には思
旧の賦あれば也。師ことを
ふくませたり。昔のことは
北方のこと也。つらき
ふしとは手習の君の事
なり。
しのばれぬべくはすき/"\し
きまでも何かは 堪忍なるべ
き思ひならばかやうにすき/"\
しきまで何かはいひよらん。しの
びがたき故にこそ申せと也。
行く物なれば、中々珍しく哀れに聞こゆ。松風も、いとよくもて囃
す。吹き合せたる笛の音に、月も通ひて澄める心地すれば、いよい
よ愛でられて、宵惑ひもせず起き居たり。
「嫗は昔は吾妻琴をこそは、こともなく弾き侍りしかど、今の世に
は、変はりにたるにやあらん。この僧都の聞き難し念仏より、外の
徒業なせそと、はしたなめられしかば、何かはとて弾き侍らぬなり。
然るは、いとよく鳴る琴も侍り」と言ひ続けて、いと弾かまほしと
思したれば、いと忍びやかに打笑ひて、
「いとあやしき事を制し、聞こえ給ける僧都かな。極楽といふなる
所には、菩薩なども皆かかる事をして、天人なども舞ひ遊ぶこそ尊
かンなれ。行ひ紛れ罪得べき事かは。今夜聞き侍らばや」とすかせ
ば、いとよしと思ひて、
「いで主殿(とのもり)のくぞ。吾妻取りて」と言ふにも、咳きは
絶えず。人々は見苦しと思へど、僧都をさへ、恨めしげに憂へて、
言ひ聞かすれば、愛おしくて任せたり。取り寄せて、只今の笛の音
をも尋ねず。ただ己が心をやりて、吾妻の調べを、爪(つま)爽や
かに調ぶ。皆異物は声止めつるを、これをのみ愛でたると思ひて、
「たけふぢちりちりたりたな」など掻き返し、流行かに弾きたる言
葉ども、わりなく古めきたり。
「いとおかしう、今の世に聞こえぬ言葉こそは、弾き給ひけれ」と
褒むれば、耳ほのぼのしく、傍らなる人に問ひ聞きて、
「今樣の若き人は、かやうの事をぞ好まれざりける。ここに月頃物
し給ふめる姫君、形はけうらに物し給ふめれど、専らかかる徒業な
どし給はず、埋もれてなん物し給はめる」と、我かしこに打あざ笑
ひて語るを、尼君などは、片腹痛しと思す。これに事皆醒めて帰り
ひて語るを、尼君などは、片腹痛しと思す。これに事皆醒めて帰り
給ふ程も、山下ろし吹きて聞え來る笛の音、いとおかしう聞こえて、
起き明かしたり。
つとめて、
昨夜(よべ)は、方々心乱れ侍りしかば、急ぎまかで侍りし、
中将
忘られぬ昔のことも笛竹の辛きふしにも音ぞなかれける
中将
忘られぬ昔のことも笛竹の辛きふしにも音ぞなかれける
猶少し覚しし知るばかりをしへなせ給へ。忍ばれぬべくはすき
ずきしきまでも、何かは
とあるを、いとど侘びたるは、涙止め難けなる氣色にて、書き給ふ。
※√笛の音の春おもしろく~
後拾遺集雑六 俳諧歌
題不知 よみ人不知
ふえのねの春おもしろくきこゆるは花ちりたりとふけばなりけり
※孟文選に、笛には思旧の賦あれば也
文選 賦 哀傷
思舊賦并序 思旧賦并に序
向子期
余與嵇康呂安居止接近。 余嵇康呂安と居止接近せり。
其人竝有不羇之才。 その人竝びに不羇の才有り。
然嵇志遠而疏、呂心曠而放。 然れども嵇は志遠くして疏、呂は心曠くして放なり。
其後各以事見法。 その後各おの事を以て法せらる。
嵇博綜技藝、于絲竹特妙。 嵇は博く技芸を綜べ、糸竹において特に妙なり。
臨當就命、願視日影、索琴而彈之。当に命に就くべきに臨み、日影を願視し、琴を索めてこれを弾ず。
余逝將西邁、經其舊盧。 余、逝て将に西に邁かんとし、その旧盧を経。
于時日薄虞淵、寒冰凄然。 時に日は虞淵に薄(せま)り、寒氷凄然たり。
鄰人有吹笛者、發聲寥亮。 隣人に笛を吹く者有りて、声を発すること寥亮たり。
追思曩昔遊宴之好、感音而歎。 曩昔(だうせき)の遊宴の好を追思し、音に感じて
歎く、故作賦云。
故作賦云。 故に賦を作りて云ふ。
將命適于遠京兮、遂旋反而北徂。 命を将(う)けて遠京に適(ゆ)き、遂に旋り反り
て北へ徂く。
濟黄河以汎舟兮、經山陽之舊居。 黄河を済(わた)り以て舟を汎(うか)べ、山陽の
旧居を経(ふ)。
瞻曠野之蕭條兮、息余駕乎城隅。 曠野の蕭条たるを瞻(み)、余が駕を城隅に
息(いこ)はす。
践二子之遺跡兮、歴窮巷之空廬。 二子の遺跡を践(ふ)み、窮巷の空廬を歴(ふ)。
歎黍離之愍周兮、悲麦秀于殷墟。 黍離の周を愍(あは)れむを歎き、麦秀を殷墟に
悲しむ。
惟古昔以懐今兮、心徘徊以踌躇。 古昔を惟ひて以て今を懐ひ、心徘徊して以て踌躇す。
棟宇存而弗毀兮、形神逝其焉如。 棟宇存して毀(やぶ)れず、形神逝きて其れ
焉(いづ)くにか如(ゆ)ける。
昔李斯之受罪兮、歎黄犬而長吟。 昔李斯の罪を受くるや、黄犬を歎きて長く吟す。
悼嵇生之永辭兮、顧日影而彈琴。 嵇生の永く辞するを悼み、日影を顧みて琴を弾ず。
托運遇于領會兮、寄餘命于寸陰。 運遇を領会に托し、余命を寸陰に寄す。
聽鳴笛之慷慨兮、妙聲絶而復尋。 鳴笛の慷慨を聴くに、妙声絶えて復た尋(つ)ぐ。
停駕言其將邁兮、遂援翰而寫心。 駕を停めて言(われ)それ将に邁かんとし、遂に
翰(ふで)を援(とり)りて心を写す。
和歌
中将
忘られぬ昔のことも笛竹の辛きふしにも音ぞなかれける
よみ:わすられぬむかしのこともふえたけのつらきふしにもねぞなかれける
意味:忘られ無い亡き妻の事も、大尼君の吾妻琴の音に連れて、浮舟の冷淡な態度でも、私の横笛の音は泣かずにはいられませんでした。
備考:事と琴の掛詞。節は竹の縁語で、笛竹の~はふしの序詞。
略語
※奥入 源氏奥入 藤原伊行
※孟 孟律抄 九条禅閣植通
※河 河海抄 四辻左大臣善成
※細 細流抄 西三条右大臣公条
※花 花鳥余情 一条禅閣兼良
※哢 哢花抄 牡丹花肖柏
※和 和秘抄 一条禅閣兼良
※明 明星抄 西三条右大臣公条
※珉 珉江入楚の一説 西三条実澄の説
※師 師(簑形如庵)の説
※拾 源注拾遺